![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
< 怪奇城閑話 | |||||
|
「Meigaを探せ!」シリーズはもとの勤め先のメール・マガジン『三重県立美術館ニュース』に、当時の編集長の発案で何度か掲載されたコーナーで、絵画なり美術の名画(?)が映った映画の名画(?)を紹介するという趣旨でした。『まぐまぐ!』のサイトに掲載されていたのですが、「2019年4月15日より無料バックナンバーの公開を停止しております」とのことでリンク切れになったので、当方が書いた分をここに載せておきます。 なお第6回『生きた屍の城』はこの作品の頁を作ったのでそちらに、第4回『12モンキーズ』とシリーズ外の番外篇として『吸血鬼ドラキュラ神戸に現わる』および『富江 最終章 - 禁断の果実 -』にはモローの絵が映ったので、「ギュスターヴ・モロー研究序説」(1985) [14]への「おまけ」および「追補」・「追補 2」として続けて載せてありました。モローの《出現》をなぞった絵柄が見られたアニメ『アンデッドガール・マーダーファルス』第1回についても、同じく「追補 3」に挙げました。 |
タイトル 登場する美術品等 |
公開/製作年 | ||||
第2回 | リンダリンダリンダ 佐伯祐三《立てる自画像》(1924) |
2005 | 2008/10/10 | ||
第3回 | 1999年の夏休み 池田龍雄の作品 |
1988 | 2008/10/24 | ||
第4回 | 12モンキーズ モロー《ユピテルとセメレー》(1894-95) ブリューゲル《死の勝利》(1562-63) アルバート・ビアスタット《ヨセミテ渓谷》(1864) フラ・カルネヴァーレに帰属《理想都市》(ボルティモア)(1480-84頃) 他 |
1995 | 2008/11/14 | ||
第6回 | 生きた屍の城 ボマルツォの庭園 |
1964 | 2008/12/12 | ||
第7回 | THEビッグオー 第17回「Leviathan」 ブレイク《ヨブ記》(1825)より第15図「ベヘモトとレヴィアタン」 |
1999/2003 | 2011/12/09 | ||
|
|||||
番外篇 | 吸血鬼ドラキュラ神戸に現わる~悪魔は女を美しくする パニーニ《シルヴィオ・ヴァレンティ・ゴンザガ枢機卿の蒐集品がある画廊室内》(1749) モロー《レーダー》(水彩、MGM.418) オースティン・スペア《焰、フーガ、肉》(1954) ゴヤ《妖術(呪文、魔法/魔女たち)》(1797-98) 『立昇る曙』(1410年代)より《両性具有者》 アルチンボルド《冬》(ウィーン)(1563) ヴィールツ《早すぎた埋葬》(1854) ブレイク《ネブカドネザル》(1804-05頃) カラヴァッジョ《メドゥーサの首》(1598-99) 他 |
1979 | 2018/12/20 | ||
番外篇 | 富江 最終章 - 禁断の果実 - ソードマ《聖セバスティアヌスの殉教》(1525) マンテーニャ《聖セバスティアヌス》(ウィーン)(1459頃) グイド・レーニ《聖セバスティアヌス》(カピトリーノ)(1615-16頃) モロー《若者と死》(1865、油彩、あるいは1881頃、水彩) |
2002 | 2021/9/3 | ||
番外篇 | アンデッドガール・マーダーファルス 第1話 モロー《出現》(1876、など) |
2023 | 2023/9/6 |
『血ぬられた墓標』(1960)の頁に「追補」として『没後40年 マリオ・バーヴァ大回顧 第Ⅰ期』 および同『第Ⅱ期』について記した中で、 ・『フォー・タイムズ・ザット・ナイト』(1969)で、男性主人公の部屋、女性主人公とその母親の部屋に、現代美術が何点も飾られていること、 ・『ファイブ・バンボーレ』(1970)で、舞台となる孤島の別荘に ミロや カンディンスキー 他が飾られていたこと (追補:→「怪奇城の画廊(幕間)」の頁で触れました)、 ・『ロイ・コルト&ウィンチェスター・ジャック』(1970)で、 モネの《日傘をさす婦人》(1886、オルセー美術館、左向きヴァージョン) らしき絵が映ったことに触れました。 この他、「古城と怪奇映画など」の各作品頁の随処、「怪奇城閑話」中の「怪奇城の画廊」中篇・幕間・後篇・完結篇などで挙げたもの以外に思い浮かぶのは;
・『悪魔の手』(1943、監督:モーリス・トゥルヌール)は、ネルヴァルの短篇「魔法の手」(1832)が原作とのことですが(オープニング・クレジットでは記されなかったようです)、タイトル・ロール(映画では la main de diable、原作では la main enchantée。原作初出の際は la main de gloire で、魔術の小道具「栄光の手」を指す)の働き方以外は、まったく別のお話になっています。もっとも、原作自体、恐怖を狙ったものではなく、滑稽味のある さて、17世紀だった原作の舞台は映画製作とおそらく同時代に移され、服飾商だった主人公は画家になりました。その作品もちらちら映ります。当初は写実的な画風だったようですが、ある出来事が起こって以来、いわゆる幻想的なものが主軸となります。事後の最初の作品は、古城風の建物に、長く引きのばされた人物のシルエットがからむというものでした(約30分)。そんな中、自宅だかホテルだか、机の向こうの壁にかなり大きな絵が掛かっていました(約43分)。中央部分は ゴヤの《サトゥルヌス》(1820-23年、プラド美術館) をそのまま写し、左右と足下に風景らしき眺めを付け足すというものでした。 また画廊での個展の場面では、観客の声として、日本語字幕によると 「シュルレアリスムの新境地だ」(約38分) という台詞がありました。 この映画のフランスでの公開は1943年4月21日、シュルレアリスムの領袖アンドレ・ブルトンは、ニューヨークに亡命していた頃です。画廊の観客のように美術界と接点のある者はともかく、当時の映画の観客にとって、この台詞はどんな風に受けとられたのでしょうか? なお、本作の監督は、『キャット・ピープル』(1942)や『私はゾンビと歩いた!』(1943)のジャック・トゥルヌール(ターナー)の父親とのことです。 (2023/06/30追補) ・『秘密の儀式』(1968、監督:ジョゼフ・ロージー)の主な舞台となる屋敷は、ロンドンのデベナム邸 Debenham House で撮影されたとのことで、建物の外観はあまり映らないのですが、屋内の空間と装飾はけっこう印象的です。絵の類もいろいろ掛かっていますが、その中で一点、アップで捉えられ、登場人物たちの話題にもなったのが、 ブレイク、《アダムを創造するエロヒム》(1795/c.1805)、モノクロ版 でした(約26分)。本筋に関わっているのかどうかはよくわからないのですが、描かれたエロヒムの髭の話が出てくるので、もしかすると、当初髭もじゃで登場するある人物と結びつくと、見なすことはできるものかどうか。また登場人物の一人はこの絵だか描かれた人物だかを指して、「ムーンドッグ」と呼びます。"moon dog"は「幻月」を意味し、またたまたま少し前に知人に教えてもらった Moondog というニューヨークの路上音楽家がいましたが(同題の1枚目 Moondog (1956)はとても面白かった)、いずれも関係はなさそうです。 (2022/07/13頃追補) ・『ガンファイターの最後』(1969、監督:アラン・スミシー名義、実際はまずロバート・トッテン、途中でドン・シーゲルに交替したとのことです)はリチャード・ウィドマーク主演の西部劇で、ウィドマークといえば大塚周夫の吹替の声とセットで思い浮かびます。結末の後味にはう~んと感じてしまいましたが、ともあれ、舞台となる町の酒場の二階、吹抜歩廊の壁に レンブラントの《ダナエー》(→こちらに画像とデータの頁) が飾ってありました(約46分前後)。歩廊の先の部屋は建物の角にあるようで、通りに面しているのですが、その時点では使われていない物置状態でした。なお他にも何点か絵が映りましたが、そちらは今のところ不明。 (2022/06/02頃追補) ・『新・ガンヒルの決斗』(1971、監督:ヘンリー・ハサウェイ)で、刑期を終えて出所した主人公が最初に立ち寄る酒場兼ホテル、そのカウンターの向かいの壁には裸婦を描いた絵がかかっているのですが、この裸婦の特徴あるポーズは、 アングルの二点ある《奴隷のいるオダリスク》(1839、フォッグ美術館、ケンブリッジ、および1842、ウォルターズ美術館、ボルティモア) に由来するものでした。ただし背景は違っており、楽器を奏でる奴隷も描かれていません。オダリスクも、乳房に白い布を巻き、太腿に引っかかっていた布が腰まで引きあげられていました。なおこの酒場の、入口の左右の赤い壁にも裸婦を描いたらしき絵が一点ずつかけられていましたが、こちらはわかりませんでした。 (2022/06/04頃追補) ・西部劇といえば、『ワイルド・ワイルド・ウエスト』(1999、監督:バリー・ソネンフェルド)のやはり始めの方に出てくる酒場兼ホテルで、カウンターの、こちらは奥の壁に ゴヤの《裸のマハ》(1797-1800、プラド美術館) がかかっていました。ずいぶん大きく見えます。なおこちらの酒場兼ホテルは、三階分はある多角形の吹抜を擁する豪勢なものでした。 ・『処女の生血』(1974)と対をなす『悪魔のはらわた(フレッシュ・フォー・フランケンシュタイン)』(1973、監督:ポール・モリセイ)では、 クリムトの《接吻》(1908-09)の紋様部分を抽出して横倒しにしたかのような壁面装飾、 デルフォイ(デルフィ)考古博物館のブロンズ彫像《デルポイ(デルフィ)の御者》、さらに フランツ・フォン・シュトゥックの《サロメ》(1906)、《誘惑》(1891)および《楽園の番人》(1889) などが映りました。 (2022/03/01頃追補) ・ピーター・セラーズ主演版『ゼンダ城の虜』(1979、監督:リチャード・クワイン→こちらも参照:『ゼンダ城の虜』(1937)の頁の Cf.)の始めの方で、 ベラスケス《鏡を見るウェヌス》(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)、 ジョルジョーネ《眠れるウェヌス》(ドレスデン、アルテ・マイスター絵画館)に アルバート・ムーア《夏の一夜》(1890、リヴァプール、ウォーカー・アート・ギャラリー) の複製を飾った部屋が出てきました。 ・ジョン・カーペンターの『ザ・フォッグ』(1980)で、約27分前後、道路から長い階段を下りた先にある灯台でラジオ局を営むスティーヴィー(エイドリアン・バーボー)、その自宅の寝室の壁に、 ジョージ・フレデリック・ワッツの《希望》(1886、テイト・ブリテン;他のヴァージョンあり) の小さな額絵が飾ってありました。右上にまた別の額絵が掛けてありましたが、こちらは今のところ不明。 ・『ワックス・ワーク』(1988、監督:アンソニー・ヒコックス)は、→こちら(『ドラキュラとせむし女』(1945)の頁の「おまけ」)で触れたように、蠟人形館の各コーナーに飾られた場面を、作中作という形で再現するという映画です。その枠に当たるプロローグ部分で、裕福そうな主人公の家に、他のいくつかの絵とともに、 ヴァン・ダイク《狩猟の際の英国王チャールズ一世》(1635頃、ルーヴル美術館) が飾られていました(約3分)。また作中作の内、サド侯爵のエピソードで、 クールベ、《女と鸚鵡》(1866、メトロポリタン美術館) が奥の壁に掛かっていました(約1時間17分)。 ・ジェレミー・ブレットがホームズ役をつとめたTVシリーズ『シャーロック・ホームズの冒険』の第26話(第4シリーズ)『バスカビル家の犬』(1988/8/31、監督:ブライアン・ミルズ)で、主な舞台となるバスカヴィル館をはじめとして、建物内のあちこちに絵がかかっているさまが見られます。肖像画や風景画が多く、それらにもネタがあるのでしょうが、例によって今のところ不明です。ただ約30分のところで、上向きのカメラが左から右へ、上下しつつ首を振ってきて、右端で停止すると、なぜか ラファエッロの《椅子の聖母》(1514(?)、フィレンツェのピッティ宮) の複製がありました。原画はゴンブリッチが「それ自体で完全な傑作」の一つに挙げた作品にほかなりません (エルンスト・H・ゴンブリッチ、岡田温司・水野千依訳、『規範と形式 - ルネサンス美術研究 -』、中央公論美術出版、1999、「第6章 ラファエッロの《椅子の聖母》」、p.190)。 クライマックスの前、約1時間24分あたりでも、同じようなパンの果てにこの絵が映ります。もしかすると同じショットを用いたのでしょうか。ともあれパンの最後、カメラが止まった時点でクロース=アップされる《椅子の聖母》は、いかにも意味ありげなのですが、どんな意味か、あるいはそもそも何か意味が込められているのか、見当がつきませんでした。加えて、周囲に比べてこの絵がいささか場違いなような気もしたのですが、これは当方の見識不足のなせるわざなのかもしれません。 (2022/02/24頃追補) ・ 『ルナシー』(2005、監督:ヤン・シュヴァンクマイエル)では、 ドラクロワの《民衆を率いる自由の女神》(1830、ルーヴル美術館) が活人画として上演される場面がありました。 ・『ステイ』(2005、監督:マーク・フォースター)は不条理ものめいた筋立ての映画ですが、主要登場人物三人の内、一応の主役であるサム(ユアン・マクレガー)は精神科医ですが、その恋人ライラ(ナオミ・ワッツ)は画家兼教師、サムの患者ヘンリー(ライアン・ゴズリング*)は画学生と、美術がらみの比重が小さくありません。ちらっとではありますが、二人それぞれの作品も見られます。 さて、約22分のところで、 フューズリの《三人の魔女》(1783、チューリッヒ、クンストハウス) が画面右上に大きく映ります。左下に講師がいて、絵はスライドらしい。続いて ゴヤの《1808年5月3日、マドリードにて》(1814、マドリード、プラド美術館)、 マネの《死せる闘牛士》(1864、ワシントン、ナショナル・ギャラリー・オヴ・アート) に切り替わる。講義だったようです。 他方この映画では、何階分にも及ぶ階段が登場する場面が三度ありました; 一度目は約34分、近代的なビルで、踏面が半透明な青でした。 二度目は約1時間7分、狭い螺旋階段で、張りぼてめいた部分もある。一度途切れてすぐ再登場します。 三度目は約1時間19分、集合住宅の回り階段でした。 いずれの場面でもカメラは上になり下になり、ぐるぐるするのでした。二度目と三度目では、『惨殺の古城』(1965→こちら)や『呪いの館』(1966→そちらなど)など同様、真上からの眺めが回転します。なので「怪奇城の階段」の頁中の→あちらにも挙げておきましょう。 * ユニヴァーサル作品を始めとする映画の怪物たちを複数登場させようという映画の一つ『フランケンシュタインと僕』(1996、監督:ロバート・ティンネル)に子役の一人として出演していたそうです。この映画については→あちらで触れました:『ドラキュラとせむし女』(1945)の頁の「おまけ」 (2023/01/14追補) ・『ベビー・ルーム』(2006、監督:アレックス・デ・ラ・イグレシア)は日本では「スパニッシュ・ホラー・プロジェクト」、スペインでは Películas para no dormir (眠らないための映画)という、TV映画6本からなるシリーズの一つです。古い家屋を舞台に、交わるはずのなかった二つの世界が交わるという点では、やはりスペインのスタッフを主体とする『アザーズ』(2001、監督:アレハンドロ・アメナーバル)に、その現象が科学 - 本作では量子力学の多世界解釈 - によってSF的に説明される点では、同じくスペイン語圏ベネズエラの『マザーハウス 恐怖の使者』(2013、監督:アレハンドロ・イダルゴ)と比べることができるかもしれません。 とまれ、幼児の様子を見るためのモニターにだけ映る眺めとして、約53分、 ウィリアム・ブレイクの《大きな赤い龍と太陽を着た女》(1803-05年頃、ブルックリン美術館) がモノクロで映ります。モニターを見ながら主人公がある部屋に入ると、モニターに映った側の世界になっていました。そこにはたくさんの建築模型が置いてあって、舞台の家の模型も見つかる。またテーブルにはバラで ピラネージの《牢獄 第4図》(第2版、1761年)および《牢獄 第5図》(第1版、1749-50年頃) が、その脇にあった分厚い本は、たまたま手もとにあったのですが、 Luigi Ficacci, Piranesi. The Complete Etchings, Taschen, 2000 でした(約54分)。ピラネージがらみで→こちらでも触れました:「怪奇城の図書室」の頁 部屋を出て階段をおります。壁には何点も絵がかかっているのですが、図柄がわかったのは、 ベックリーンの《死の島》第1ヴァージョン(1880、バーゼル美術館) だけでした(約56分)。 (2023/02/25追補) 追補の2(2023/06/02);《死の島》の左、少し上にかかっているのは、 ブレイク、《獣たちに名前をつけるアダム》(1810、ポロック・ハウス、グラスゴー) でした。あわせて→そちらにも挙げておきます:《死の島》(第3ヴァージョン、1883)の頁の「おまけ」)。 ・人工知能を扱った、しかしゴシック・ロマンスでもある『エクス・マキナ』(2014、監督:アレックス・ガーランド)で、 ポロックの《ナンバー5、1948》(1948)と クリムトの《マルガレーテ・ストンボロー=ヴィトゲンシュタインの肖像》(1905) が登場した点は、ネットを検索するとあちこちで指摘されていました。 ・『劇場版 零 ゼロ』(2014、監督:安里麻里)の舞台は全寮制の女子学園で、学園長室の机の奥の壁に、 ジョン・エヴァレット・ミレーの《オフィーリア》(1851-52→こちらに作品の頁) が掛かっています。けっこう大きく見え、おそらく76.2×111.8cmという原寸大の複製ではないかと思われます。本篇中何度か映り、さらにこの絵に基づく活人画めいた場面も見られます。またこの学園では「オフィーリアの歌」という曲が、機会あれば歌われます。歌詞の一番は森鴎外らの訳詩集『於母影』(1889/明治22)によるとのことです。原作の 大塚英志、『零~ゼロ~ 女の子だけがかかる呪い』(角川ホラー文庫 お5-21)、角川書店、2014 と映画版では大枠は一致するものの、話の展開の具体的な細部にはけっこう違いがあるのですが、上記の諸点は変わりませんでした。なお映画版については、 リンジー・ネルソン、吉田育未訳、「Jホラーにおけるいくつものジェンダー化された空間(gendered spaces) 映画『劇場版 零 ゼロ』の〝女子だけの世界〟」、『ユリイカ』、no.794、2022.9:「特集 Jホラーの現在 - 伝播する映画の恐怖」、pp.189-195 藤原萌+宮本法明、「Jホラーの現在をめぐる作品ガイド」中の『劇場版 零 ゼロ』の項、同上、p.336 なども参照ください。 →こちらの2にも挙げておきます:「〈怪奇〉と〈ホラー〉など、若干の用語について」の頁 (2022/09/20頃追補) ・サラ・ウォ-ターズの『荊の城』(2002)を原作とする『お嬢さん』(2016、監督:パク・チャヌク)には、 藤島武二《大王岬に打ち寄せる怒濤》(1932) の、二点ある内の三重県立美術館版が映りました。もとの勤め先の所蔵品ではあり、個人的にはとても感慨深いことではありました。→こちらで取りあげました:「怪奇城の図書室」の頁の「8. 『お嬢さま』(2016)より」の項 ・実際に起きた事件を題材にしたという『乙女の祈り』(1994、監督:ピーター・ジャクソン)を連想させなくもないかもしれない『サラブレッド』(2018、監督:コリー・フィンリー)は、豪勢なお屋敷を主な舞台にしており、とりわけ冒頭、対応を待つ訪問者が、玄関附近をうろうろ見て回る場面では、間取りがいかにも入り組んでいそうに見え、好感度を上昇させずにいませんでした。少し後には、幅が狭い二階(?)中廊下からあまり広くはない階段を降りていくという、垂涎措くあたわざる場面が出てくるのですが、その際階段室の壁になぜか、 フォンテーヌブロー派、《ガブリエル・デストレとその妹(双子のウェヌス)》(1594頃、ルーヴル美術館) がかけてありました(約28分)。豪勢なお屋敷なのであちこち美術品だらけです。これもネタのありそうな、ローマか何かの廃墟を描いたらしき風景画とかが見受けられるのは、むしろ自然なのでしょう。主が剣道を嗜んでいる写真も映ったので、日本刀が飾ってあるのも、一応説明はつく。むしろフォンテーヌブロー派の入浴図の方こそ、唐突でもあれば意味ありげとも感じられはしないでしょうか。もっとも、先述の『バスカビル家の犬』(1988)におけるラファエッロの《椅子の聖母》の存在は何とも見当がつきませんでしたが、こちらは二人のヒロインの関係に呼応しているのだと、深読みすることはできなくはないかもしれません。正解かどうかは決めるべくもないのですが。 (2022/05/01頃追補) ・上掲の『秘密の儀式』(1969)や『ベビー・ルーム』(2006)双方で、ウィリアム・ブレイクの作品が見られました。「怪奇城の画廊(完結篇)」の頁で触れたように(→こちら)、今のところネタは割れていないのですが、『たたり』(1963)にはブレイク風(?)の画面が登場しました。 さて、『セイント・モード/狂信』(2019、監督:ローズ・グラス)では、「ペイリー著『ウィリアム・ブレイク』」という画集が出てきます。最初は主人公が住みこみで看護する女主人の本棚にちらっと背表紙が映り(約9分)、次いで主から主人公へ贈られ、ぱらぱら頁が繰られる(約25分)。 《天使たちに守られる墓の中のキリスト》(1805頃、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館) など、ブレイクの作品が何点も画面をかすめます。画集は後ほどもう一度登場します(約57分)。ちょきちょき切り抜かれ、最後の展開を導きます。 この映画はジャンル分けのしにくいもので、もしかするとポランスキーの『反撥』(1965)あたりと比較できるのかもしれませんが、『反撥』は冒頭で脱落したので、これはいささかいい加減な思いつきでしかありません。こじつけめきますが、見ようによっては『秘密の儀式』や『たたり』とつなげることもできなくはないかもしれない。海に面したイギリスの寒々とした街の景色は、『ビザンチウム』(2012、監督:ニール・ジョーダン)を連想させなくもありません(『ベビー・ルーム』のところで触れたベックリーン《死の島》ゆかり(?)ということで、→そちらで挙げました:《死の島》(第3ヴァージョン、1883)の頁の「おまけ」)。ただし[ IMDb ]に記されたロケ地は別々でした。 ともあれブレイクの画集は本作品中でけっこう重要な役割を与えられていると見てよいでしょう。画集は実在するもので、 Morton D. Paley, William Blake, 1978 のようです(未見)。ブレイクについては→「ロココ、啓蒙主義など(18世紀)」の頁の「ブレイク」の項も参照。 (2023/03/20追補) ・近未来SF『AI崩壊』(2020、監督:入江悠)の始めの方(約10分前後)、シンガポールの場面で主人公たちの家の奥の壁に、 マティスの《生きる喜び》(1905-06、バーンズ・コレクション) がでかでかとかかっていました。 マティスといえば、映画ではありませんが、「北欧、ケルト、スラヴなど」の頁の「おまけ」で触れた(→こちら) 原作:ニール・ゲイマン、作画:サム・キース、マイク・ドリンゲンバーグ、J.H.ウィリアムズⅢ、彩色:ダニエル・ヴァッゾ、レタリング:トッド・クライン、カバーアート:デイヴ・マッキーン、海法紀光訳、『サンドマン1 前奏曲と夜想曲』、インターブックス、2023 収録の最終話「翼のはためき」で、ある登場人物が住む部屋の壁に、 マティスの《ダンス》(1909、ニューヨーク近代美術館) の小さな複製が飾ってありました(頁付けなし、最終話の扉を1として14ページ目、上から1段目左のコマ、次のページやはり上から1段目左のコマおよび2段目のコマ)。とりたてて意味がありそうでもありませんが、色づけされているせいもあってか、妙に目立つような気がします。ちなみに1番目のコマにはモノクロで人物写真らしきもの、3番目のコマではやはりモノクロで髑髏を大きく描いた額絵が描きこんでありました。左前景に配されているせいもあって後者もずいぶん目立ちます。とすると、本篇の内容からして髑髏に死、《ダンス》に生命を割り当てることができそうですが、どうなのでしょうか? ・『ヒットマンズ・ワイフズ・ボディガード』(2021、監督:パトリック・ヒューズ)は同じ監督による『ヒットマンズ・ボディガード』(2017、未見)の続篇で、前作ではおそらく、サミュエル・L・ジャクソン扮する殺し屋に関わってひどい目に遭ったライアン・レイノルズ扮する身辺警備員が、今回はサルマ・ハエック扮する殺し屋の妻(前作にも出ていたとのこと)もからんできて、さらにひどい目に遭うというお話です。 さて、アントニオ・バンデラス扮する悪玉の屋敷で三人が捕らえられた時(約1時間10分)、大広間の壁にかかっていたのは、ぼやけてではありますが、 アングルの《ユピテルとテティス》(1811→こちらに作品の頁) ではないかと思われます。クライマックスの舞台である船でも、やはりぼやけた状態なのですが、同じ絵らしきもの、ただし衣の部分の色を変え、しかも、さらに色を変えたもう一点も合わせて見えました(約1時間36分)。筋に関係があるとは考えにくいのではありますまいか。 (2023/06/20追補) ・『ウェイ・ダウン』(2021)の監督ジャウメ・パラゲロは、『ネイムレス/無名恐怖』(1999、未見)を皮切りに、『ダークネス』(2002)だの『機械仕掛けの小児病棟』(2005)だの、上の『ベビー・ルーム』(2006)のところで触れた「スパニッシュ・ホラー・プロジェクト」シリーズで『悪魔の管理人』(2006)、さらに『REC/レック』(2007)に『REC/レック2」』(2009)、『REC/レック4 ワールド・エンド』(2014)などホラー系をさかんに手がけてきましたが、本作はいわゆる泥棒映画です。ケイパー映画という呼び方もあるそうです。銃撃戦や格闘、カー・チェイスもなければ人が死んだりもせず、目標に向かって一つ一つ段取りを踏みつつ、予期せぬ状況の変化に対応していくという、泥棒映画の本分をまっとうした作品です。 それでいて、マドリードのスペイン銀行の地下にあるという、70~80年前に作られ、「工学の奇跡 miracle engineering 」と呼ばれる難攻不落の大金庫室は やたら広い空間の中央で、やたら深い壕だか凹みに囲まれていたりするのでした。この金庫には巨大な絡繰が組みこまれています。 さて、2010年7月10日、サッカーの ゴヤ、《ミゲル・フェルナンデス・ドゥラーン・イ・ロペス・デ・テヘーダ、トローサ侯爵 Miguel Fernández Durán y López de Tejeda, II marqués de Tolosa 》、1786年頃、油彩 ・キャンヴァス、113 x 77 cm もう一点、別の部屋にあったのが(約42分); ゴヤ、《ホセー・デ・トーロ=サンブラーノ・イ・ウレータ José de Toro-Zambrano y Ureta 》、1785年、油彩 ・キャンヴァス、112 x 68 cm 双方実際にスペイン銀行 Banco de España が所蔵するものです。ウェブサイト Fundación Goya en Aragón の Catálogo Online (→こちらから→こちらの2、そしてこちらの3)や Colección Banco de España (→そちらから→そちらの2、そしてそちらの3)を参照ください。 前者の場面では、調査のふりをして紫外線ライトを画面のすぐ手前で上下させたりしていましたが、実物の前でやるにはいささか危なっかしい。複製を用いたのでしょうか? なお、連想しただけの『魂のジュリエッタ』(1965)で挙げたフード姿の人物像は別にしても(→あちら)、『キャット・ピープル』(1942→あちらの2)および『キャットピープルの呪い』(1944→あちらの3)、『たたり』(1963→あちらの4)、それに「Meigaを探せ!」番外篇での『吸血鬼ドラキュラ神戸に現わる』(1979→あちらの5)に、上掲の『悪魔の手』(1943)、『ワイルド・ワイルド・ウェスト』(1999)、『ステイ』(2005)と、ゴヤにもけっこう出くわしました。ゴヤ自身が登場する映画については下掲の 岡田温司、『映画と芸術と生と スクリーンのなかの画家たち』、2018、、pp.180-196:「Ⅶ 政治と色事 ゴヤの場合」 を参照ください。 またやはり近年の作品で、『ゴヤ・マーダー』(2019、監督:ヘラルド・エレーノ)がありました。原題は El asesino de los caprichos で、『ロス・カプリチョスの暗殺者』という意味です。版画集《 と、以上は氷山の一角にもならない、たまたま目に留まった数例でしかありません。いずれは頁を作れればと思うものの、いつになるやら知れたものではないので、とりあえず文字通り、備忘録としてメモしておきましょう(2021/03/10)。 映画と美術の関係について、「怪奇城の外濠」の頁の「i. 映画と建築など」に 岡田温志、『映画は絵画のように 静止・運動・時間』、2015 「キリスト教(古代および東方正教会)」の頁の「おまけ」に 岡田温司、『映画とキリスト』、2017 岡田温司、『映画と黙示録』、2019 を挙げましたが、さらに、 岡田温司、『映画と芸術と生と スクリーンのなかの画家たち』、筑摩書房、2018 序 - 実像と虚像のあいだで/三人の「ゴッホ」 耳切りと自殺はどう描かれたのか/解放された「レンブラント」 民衆の画家か、ナルシシストか、肉体派か/モダニズムとその脱構築 ポロック、ウォーホル、バスキア/よみがえる女流アーティストたち カミーユ、アルテミジア、フリーダ/ベル・エポックの画家たち ロートレック、モディリアーニ、ゴーガン/性と暴力 カラヴァッジョ、ベーコン/政治と色事 ゴヤの場合/アール・ブリュットの画家たち/名画誕生の秘密 フェルメール、ブリューゲル、ジェリコー、レンブラント/異色のビオピック イコン画家ルブリョフ、表現主義者ムンク、装飾家クリムトなど、 296ページ。 →こちら(「怪奇城の画廊(中篇)」の頁の「プロローグ」)や、すぐ上の『ウェイ・ダウン』(2021)のところ(→こちらの2)でも挙げました 岡田温司、『イタリア芸術のプリズム 画家と作家と監督たち』、平凡社、2020 ピランデッロと初期映画/フェリーニとカトリシズム/パゾリーニと伝統のアヴァンギャルド/アントニオーニとイメージの迷宮/ベルトリッチと造形芸術など、 206ページ。 同じ著者による→こちらを参照:「天使、悪魔など」の頁の「i. 天使など」 この他; ルメートル、小海永二訳、『美術と映画』(芸術論叢書)、紀伊國屋書店、1965 原著は Henri Lemaitre, Beaux-arts et cinéma, 1956 美術としての映画;両者の関連/交換と借用/その未来// 美術映画論;さまざまの問題点/清算結果 - その評価/その可能性// 映画と芸術的教養;教育/大衆化/映画と空想の美術館// 結論/付録など、 192ページ。 パスカル・ボニゼール、梅本洋一訳、『歪形するフレーム - 絵画と映画の比較考察 -』,、勁草書房、1999 原著は Pascal Bonitzer, Décadrage - peinture et cinéma, 1985 序文/現実の粒子/ショット=タブロー/とまどうレンズ/切断された反映/デカドラージュ/メタモルフォーゼ/残滓(カール・テホ・ドライヤー『ゲアトルード』)/消失(アントニオーニについて)/ 来るべき映画のために - 訳者による解題など、 176ページ。 映画と美術の関係だけを扱っているわけではありませんが; 古賀重樹、『1秒24コマの美 黒澤明・小津安二郎・溝口健二』、日本経済新聞出版社、2010 序// 黒澤の夢;ゴッホの鴉を飛ばせ - 全身全霊で画作り/セザンヌになりたい - 青年画家の挫折と再起/鉄斎のように大胆に - 風と雨/フィルムに描く - 画コンテに込めた情熱// 小津好み;背後の名画 - 日本画家との交流/煙突、原っぱ、洗濯物 - 下町と木村伊兵衛/モダンボーイの梁山泊 - 蒲田と河野鷹思/相似形が壊れるとき - 秩序と混沌// 溝口神話;完全主義者の闘い - 美術監督・水谷浩/不屈のアバンギャルド - 向島と柳瀬正夢/生身の女 - 京都と甲斐庄楠音/世界映画へ - ヌーベルヴァーグの熱狂// フィルモグラフィーなど、 216ページ。 Angela dalle Vacche, Cinema and Painting. How Art Is Used in Film, Athlone, London / University of Texas Press, 1996 / 1997 『シネマと絵画 芸術は映画の中でどのように用いられるか』 序 主題的および間テクスト的なアプローチ// ヴィンセント・ミネリの『巴里のアメリカ人』(1951):心的激変としての絵画;芸術と愛、愛と金/国民としての、および性的なアイデンティティー/シネマと絵画/ポロックとミネリトゥールーズ=ロートレックは幸福である/ディズニーランドとしての画家たちのパリ// ミケランジェロ・アントニオーニの『赤い砂漠』(1964);腹話術としての絵画と運動としての色彩;歴史的変化の挑戦/両性間の争い/建築と絵画/言葉とイメージ// エリック・ロメールの『O侯爵夫人』'1976):思考を描く、イメージを聞く;ロメールの映画理論における言葉とイメージ/クライストのテクストへのロメールのアプローチ/脚色の意味/絵画的、建築的、映画的空間// ジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』(1965):絵画に抗するコラージュとしてのシネマ;語りの構造/色と線、言葉とイメージ、男性と女性/主観性:反肖像としてのコラージュ/イメージを書く// アンドレイ・タルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』(1967):イコン絵画の修復としてのシネマ;見えないものを見えるようにする:顔と歴史/扉と窓/建築、事物と動物たち/伝統を修復する、情動を再び目覚めさせる// F.W.ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922):表現主義シネマにおける恐怖と欲望としてのロマン主義絵画;ベルリンとハイデルベルクにおけるムルナウの教育/ロマン主義と表現主義/ロマン主義的局面とドイツ的アイデンティティー/ムルナウとフリードリッヒ:欲望としての絵画/恐怖としての絵画/表現主義的な局面:シネマとしてのノスフェラトゥ/恐怖の交響楽:ジェンダーと観客性// 溝口健二の『歌麿をめぐる五人の女』(1946):木版画と刺青との間のフィルム;伝統的芸術に対する大衆的な媒体としてのシネマ:自由か束縛か?/身体を描く、映画的イメージをからっぽにする// アラン・カヴァリエの『テレーズ』(1986):女性的な空間として静物とクロース=アップ;全ては喪失であり、喪失は全てである/静物とクロース=アップなど、 320ページ。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2021/03/10 以後、随時修正・追補 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
HOME>古城と怪奇映画など;目次>怪奇城閑話>「Meigaを探せ!」より、他 |