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怪奇城の画廊(後篇) - 実在する美術品:壁画など

  1 イタリア怪奇映画より
  2 イタリア怪奇映画(2) - マリオ・バーヴァの作品より、他
   3 地獄図
   4 大反撃』(1969)より - ピエロ・デッラ・フランチェスカ、ゴッホ、他

 1 イタリア怪奇映画より

 幕間の頁でいわゆる現代美術系の美術家が登場する映画の一つとして、『怪奇な恋の物語』(1968)を挙げました(→このあたり)。この映画にはティエポロの壁画や天井画がある、モンテッキオ・マッジョーレのヴィッラ・コルデッリーナ・ロンバルディ Villa Cordellina Lombardi, Montecchio Maggiore が登場します。とはいえ、ティエポロの作品がじっくり映されるわけではなく、またそのホールに展示されたという、主人公の作品、実際にはジム・ダインの作品とどんな風に競演したのかもわからずじまいでした。ヴィッラ・コルデッリーナはしょせん、もう一つのヴィッラ、実際にはブレッセオ村のヴィッラ・カヴァッリ・ルッリ Villa Cavalli Lugli, Bresseo がいかに、主人公を呼び寄せずにいないかということを際立たせるための、刺身のつまでしかない、ということなのでしょう。
『怪奇な恋の物語』 1968 約20分:パトロンのヴィッラのティエポロの壁画(《スキピオの自制》1743-44)

もっとも、通りすがりのようにカメラが撫でるだけではありますが、右に掲げた《スキピオの自制》の図柄の一部を認めることはできました(上)。
ティエポロ《スキピオの自制》 1743-44
ティエポロ(1696-1770)
《スキピオの自制》
1743-44

* 画像をクリックすると、拡大画像を載せた頁が表示されます。
 『怪奇な恋の物語』にかぎらず、1960年代あたりのイタリアの怪奇映画などでは、時折壁画等で飾られた建物が映るのを見かけます。ユニヴァーサルを始めとして、1930~40年代にハリウッドで製作された怪奇映画の類は、古城や館が舞台だとして、基本的にはセットで撮影されました。1950年代後半以降のハマー・フィルムによる作品でも、とりわけ屋内は、多くの場合セットと見てよいでしょう。イタリア映画の場合も、ローマ郊外にあるチネチッタなどにセットが組まれたのでしょうが、同時に、手近なところだったと言えるのかどうかはわかりませんが、ともあれ予算が潤沢ではないジャンル映画の製作状況でも、ロケーションに用いることのできる城や館を見つけることができたわけです。その中には壁画などを備えるものもあった。涎が垂れます。

 たとえば『亡霊の復讐』(1965)の舞台である館の一階は、居間や食堂など、壁画だらけでした(→こちらや、そちら)。
 
『亡霊の復讐』 1965 約4分:ピアノの間+壁画 『亡霊の復讐』 1965 約23分:衣裳室+壁画
 ロケ先はフラスカーティないし現在のモンテ・ポルツィオ・カトーネにあるヴィッラ・パリージ(=ボルゲーゼ) Villa Parisi(-Borghese) , Frascati / Monte Porzio Catone です。 『クレイジー・キラー/悪魔の焼却炉』(1970→あちらを参照:『血ぬられた墓標』(1960)の頁の「追補 2」)や『処女の生血』(1974)にも登場していました追補:→「怪奇城の肖像(幕間)」の頁でも触れました)
 伊語版ウィキペディアのヴィッラ・パリージの頁(→ここ;英語版→そこも参照)を見ると、"Arte"の項があって、
 ・中央サロンと回廊(ロッジア)には1735/36年にジュゼッペ・ヴァレリアーニ Giuseppe Valeriani (1708頃-1761/62)とその弟ドメニコ(1771年以前に歿)によるテンペラ等、
 ・彫像の回廊 Galleria delle Statue、
隠遁所(エレミトリオ)の間 Stanza dell'Eremitorio、蔓棚のある回廊 Galleria con Pergolato にはバイエルン人イグナツィオ・ヘルトマン Ignazio Heldmann il Bavarese (1736-1737/ 1751 に記録)によるフレスコ、
 ・円柱の間にはポーランド人画家タッデオ(タデウシュ)・クンツェ Taddeo (Thaddaus) Kuntze (1727-1793)による装飾
が施されているとのことです。
 こちらなども参照→サイト[ Villa Parisi Lazio, Italy ]>"Galleries">"Interiors"
 寡聞にしていずれも馴染みのない名前ですが、先のティポロや少し後で出てくるパニーニ(パンニーニ)、あるいは『さらば美しき人』(1971)で見られた(右→あそこ)、ヴィッラ・バルバロの十字の間におけるヴェロネーゼのだまし絵フレスコ(1560-61)のように、門外漢でも聞き憶えのある画家や作品の方が、むしろ例外なのでしょう。もとより名前を知らないのは当方の勉強不足ゆえであって、作品それ自体がどういうものかという点はまた別の話です。 『さらば美しき人』 1971 約1時間15分:ヴェロネーゼの壁画があるヴィッラ・バルバロの十字の間
 先に触れたように、ヴィッラ・パリージは『処女の生血』(1974)のロケ先でもありました。右の場面で見られる壁画は(→こなた)、『亡霊の復讐』から引いた画面の内、左上に映っている壁画と、図柄こそ異なりますが、絵の様式や、メダイヨンを戴いた扉に左右をはさまれるという配置がよく似ています。対だか連作の一部だかをなしているのでしょう。  『処女の生血』 1974 約1時間20分:館 壁画のある部屋 右の出入口から屋外へ
 またこれは同じ場所なのでしょうか?、壁画を描いた壁の一部が扉になっているところが双方に登場しました(左下→そなた、および右下→あなた)。風景と、それを枠どる柱などが描かれています。ただ、右手の角から少し左にある扉は、前者では木枠に囲まれていましたが、後者で枠は見られませんでした。別の場所なのか手を加えられたのか。他方、双方、扉の向こうは螺旋階段です。 
『亡霊の復讐』 1965 約41分:一階廊下(?)の手前を曲がったところ+壁画 『処女の生血』 1974 約1時間37分:館 廊下 手前左に壁画のある壁 一階(?)
 『惨殺の古城』(1965)でも、壁画に飾られた部屋が見られます(→こっちや、そっち)。屋内の場面はアルテーナのパラッツォ・ボルゲーゼ Palazzo Borghese, Artena, Roma, Lazio で撮影されたとのことでした。
 サイト[ MWNF - Museum with No Frontiers ]>"Virtual Museums">"Discover Baroque Art">"Database"
に"Borghese Palace"の頁があって(→あっち)、その"Description"の項によると、回廊(ロッジア)のパノラマ的なフレスコは、もともと、ローマで活動したフランドルの風景画家パウリ・ブリル Paul Bril (1553/54-1626)の作品と見なされていましたが、現在では、ローマやシチリアで17世紀前半に活動したことが知られるジョヴァンニ・バッティスタ・コッラディーニ Giovanni Battista Corradini に帰されているとのことです。
『惨殺の古城』 1965 約13分:壁画のある小部屋 『惨殺の古城』 1965 約44分:壁画のある部屋

 2 イタリア怪奇映画(2) - マリオ・バーヴァの作品より、他
 マリオ・バーヴァの傑作『呪いの館』(1966)で主人公が一度通りすぎ、帰りに、白い鞠付きの白衣の少女に出会う廊下も、壁画で飾られていました(→こちらや、またそちら)。篇中の城はやはりフラスカーティ、ローマの南東郊外、現在はグロッタフェッラータにあるヴィッラ・グラツィオーリ Villa Grazioli, Frascati / Grottaferrata, Roma でロケされました(追補:→「怪奇城の肖像(幕間)」の頁でも触れました。そこで記したように、フラスカーティのヴィッラ・ランチェロッティ Villa Lancelotti, Frascati とする資料もあるのですが)。 『呪いの館』 1966 約41分:壁画のある廊下、メリッサ反対側に
 英語版ウィキペディアのヴィッラ・グラツィオーリの頁(→あちら)によると、このヴィッラは、アントニオ・カラファ枢機卿(1538-1591)が1580年、建築家ドメニコ・フォンターナ Domenico Fontana (1543-1607)の設計で完成させたものでした。件の頁には"Notable features"の項があって、
 「ヴィッラはその屋内装飾によって際立っている。装飾は三つの時期に行なわれ、各時期に建物を所有していた一族に対応している。
 第1期は1590年前後で、オッタヴィオ・アックワヴィーヴァ(1560-1612)が主要階の部屋群の装飾を委嘱した。完成は1612年。これらの部屋は現在、アゴスティーノ・チャンペッリ Agostino Ciampelli (1565-1630)の手になるものと信じられている。彼は田園生活や田舎風の場面でヴィッラを描写した。
 第2期はモンタルト一族が所有していた時期に対応している。アレッサンドロ・モンタルト枢機卿(1571-1623)は部屋の丸天井の中央パネルの装飾を委嘱した。そこにはボローニャ派の画家たちが、聖書からエリヤやエリシャの主題をフレスコで描いた。
 第3期はオデスカルキの時期;わけても際立つのが、一階回廊(ガッレリア)、今では『パニーニの回廊(ガッレリア)』として知られるもので、ジョヴァンニ・パオロ・パニーニ(パンニーニ)(1691-1765)によって作りあげられた。1743年のヴィッラの家財目録は回廊(ギャラリー)のことを記述しており、その画家としてパニーニの名を挙げている」(改行は当方による)
とのことでした。
 右上に引いた画面などで見られる壁画は、描かれた円柱で区切られており、これは〈パニーニの回廊(ガッレリア)〉のものと一致するようです。
 やはりバーヴァの佳作『リサと悪魔』(1973)では、屋敷の使われていない部屋に、捻れ柱を描いた壁画が施されていました(→ここや、そこ、またあそこ)。 『リサと悪魔』 1973 約1時間0分:使われていない部屋の手前、青っぽい壁画
またこれら廃墟状の部屋の先にあるとされる別の部屋には、捻れがより強い捻れ柱を配し、風景を描いただまし絵風壁画が見られます(→こなたや、そなた、またあなた)。  『リサと悪魔』 1973 約59分:殴殺が行なわれた部屋の壁画
この他、庭側から窓越しに見上げられた部屋には、天井画が描いてありました(→こっち)。 『リサと悪魔』 1973 約58分:庭に面した窓のある部屋の天井画
 『リサと悪魔』を再編集した悪名高い『『新エクソシスト/死肉のダンス』のクライマックス、神父が悪魔祓いの儀式を執りおこなう廃墟にも、風景を描いた壁画が見られます(→そっち)。  『新エクソシスト 死肉のダンス』 1975 約1時間26分:壁画のある部屋
 プロデューサーのアルフレード・レオーネによると本作は、
「ローマ近郊のヴィッラ・フラスカーティでの屋内の撮影で始まり、トレドでのロケーション撮影、そしてバルセロナでの屋外の撮影にマドリードでの追加の屋内撮影で終わった」(Tim Lucas, Mario Bava. All the Colors of the Dark,, 2007, p.909)
とのことです。
 Villa Frascati という名のヴィッラがあるのか、『亡霊の復讐』でのヴィッラ・パリージや『呪いの館』でのヴィッラ・グラツィオーリなど、フラスカーティ周辺にあるヴィッラのどれかを指すのかはわかりません(英語版ウィキペディアの"Frascati"の頁中(→あっち)、"Main sights"に"Villas"の項があって、主なものとして12件が挙げられていました。伊語版ウィキペディアの" Ville Tuscolane"の頁も参照→こちら)。
 ティム・ルーカスによる上掲書の『新エクソシスト 死肉のダンス』のところには、
「クライマックスの悪魔祓いの場面は、もとの屋内のロケーションでは撮影されなかった - その後修復され、外国の大使館の建物へと改変されたのだ。そこでヴィッラ・フラスカーティの屋内で撮影は行なわれた。そこでは、ほぼ10年前、『呪いの館』のヴィッラ・グラプスの屋内が撮影された」(同上、pp.929-930)
とあります。とするとヴィッラ・グラツィオーリでロケされたと見ていいのでしょうか? 『リサと悪魔』の頁で挙げた
 "LOCATION VERIFICATE: Lisa e il diavolo (1972)"および "VILLINO CRESPI"(2011/3/21) [ < il Davinotti
によると、
 屋敷の庭園はマドリードの北東、アラメーダ・デ・オスナにあるエル・カプリーチョ公園 Parque de El Capricho, Alameda de Osuna, Madrid 、
 屋敷の外観は同じ公園の中にあるオスナ公爵宮 Palacio de los duques de Osuna
で撮影されました。さらに、
 屋敷の屋内の内、玄関ホールとその先を曲がったところにある階段については、ローマのヴィッリーノ(ヴィッラ)・クレスピ Villino (Villa) Crespi, Roma
でのロケとのこと。


 『亡霊の復讐』に戻ると、オープニング・クレジットで映るストラスブールの美術館蔵の《死せる恋人たち》は(→そちら)、原題の「冥府の愛人たち」そのままでもあれば、クライマックスで登場する二人の亡霊にも対応しています。また中篇の頁でとりあげた、バーバラ・スティール扮するムリエルの肖像画は(→そのあたり)、途中での絵柄の改変が理由をつかみがたいとはいえ、主要登場人物を描いたものということで、映画に登場するだけのわけはある。それらに対し、壁画や天井画はもともとロケ先のヴィッラにあったもので、映画の筋立てには関わりがありませんし、また関連づけようとした様子も見あたりません。
 あえて深読みするなら、食堂の天井と壁の境に配されただまし絵で、描かれた人物が食堂にいる人を見下ろすという設定なのは(右→あちら追補:→「バルコニー、ヴェランダなど - 怪奇城の高い所(補遺)」の頁でも触れました)、別の部屋ではあるものの、クライマックスで亡霊たちが、両側をだまし絵にはさまれた中二階の開口部から見下ろすという配置を(左下→こっち)、視線の方向付けという点で予告するもの、と見なせなくもないかもしれません。なお『処女の生血』でも、同じ中二階、ただし隣の窓口から吸血鬼とその下僕が見下ろすという場面がありました(右下→そっち)。 『亡霊の復讐』 1965 約55分:食堂、壁と天井の境のだまし絵
『亡霊の復讐』 1965 約1時間32分:居間の吹抜上方 『処女の生血』 1974 約1時間36分:館 細長い部屋の天井近くの開口部

 3 地獄図

 とまれ、以上の例では、実在する壁画と映画の内容は、基本的には無関係と見なせましょう。これに対し、やはり実在する作品の複製を用いて、映画の中身と関連づけた例もありました。その際複製は、寸法を除いてそのまま用いられる場合と、何らかのアレンジが施される場合とがあります。
 まずは、やはり壁画状の絵が登場するものから - 『吸血魔のいけにえ』(1967)の地下城では、ボスの《快楽の園》右翼から得たと思われるイメージで壁を覆った部屋が登場しました(→あっち)。
 
『吸血魔のいけにえ』 1967 約29分:ボス風壁画 『吸血魔のいけにえ』 1967 約29分:ボス風壁画
 右上に引いた画面で、背の高い椅子に腰かけ、口から人の下半身をはみださせている鳥頭の妖かしは、《快楽の園》右翼の右下からそのまま写されています(→右に載せた細部の拡大:《快楽の園》の頁)。左上に引いた画面で、ポンマーというものなのでしょうか*、左下から右上へのびる長い木管楽器を背負っている人物は、原作では鳥頭のすぐ左に見える。
 ただし、原作でその左に配されたハ-ディ・ガーディこと手回し風琴**はなぜかはしょられ、さらに左の黄色いリュートとハープの組みあわせへ飛んでいます。
ヒエロニムス・ボス《快楽の園》右翼(細部) 1500-05年
ヒエロニムス・ボス
《快楽の園》右翼(細部)
1500-05年
 ハーディ・ガーディを飛ばした理由はわかりません。レイアウトの配分が要請したのでしょうか? 幕間の頁で見たように(→あのあたり)、バーヴァの『ファイブ・バンボーレ』(1970)において、カンディンスキーの《黒い四角形の中に》(1923)が右や左に横倒しにされていたことが連想されたりもします(追補:完結編の頁でも触れました)。

* 鹿島亨、『絵と音楽の対話 名画にみる楽器』、芸術現代社、1977、pp.197-199。メムリンク《合奏する天使たち》(p.189/図168、アントウェルペン王立美術館)の右端の天使が演奏する管楽器について記されています。p.199/図177に「ポンマー各種」の図。メムリンクの件の作品については Giorgio T. Faggin, Tout l'œuvre peint de Memling, (Les Classiques de l'Art), Flammarion, Paris, 1973, p.101 / cat.no.35A も参照。
** 同上、pp.133-150:第3章2「ラ・トゥール - ハーディ・ガーディ奏者」。章題にあるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品(p.134/図127、ナント美術館) が扱われています。Jacques Thuillier, Tout l'œuvre peint de Georges de la Tour, (Les Classiques de l'Art), Flammarion, Paris, 1973, pl.XIII-XIV, p.90 / cat.no.25 も参照。

 『吸血魔のいけにえ』に戻ると、後の場面で、やはり妖かしで埋め尽くされた壁画に覆われた別の部屋が登場します(→こちら)。原題にある、ポー由来の〈振子〉の部屋です。毎度のことながら、同じボスから取ったんだろうと確かめもしなかったのですが、あらためて目をやれば、《快楽の園》には見られない図柄でした。ボスの他の作品やブリューゲルにも出てこないようです。何かネタはあるのか、あるとすると何なのでしょうか?
『吸血魔のいけにえ』 1967 約51分:振子の部屋のボス風壁画 『吸血魔のいけにえ』 1967 約57分:振子とボス風壁画
 ともあれ責め苦・拷問を描くと同時に、そこに超自然的な幻想性を加味した図像ということで、ボスの作品をネタにしたのは、いたってわかりやすい。これに近い例として、『デモンズ3』(1989)の教会内で修復中の壁画があります(→そちら)。
 映画のクライマックスでは、文字通り地獄の蓋が開いたかのような状況になるので、それに呼応するものとして
  地獄の魔王を描いたタッデオ・ディ・バルトロの壁画はいかにも似つかわしいと選ばれたのでしょう。
『デモンズ' 3』 1989 約32分:修復中の壁画~タッデオ・ディ・バルトロ《地獄》より
 ただタッデオ・ディ・バルトロの原作は壁と天井の境という配置ゆえ、画面上部は半円アーチの形をなしています(→あちら;画像とデータの頁)。これが『デモンズ3』では縦長の長方形になったので、画面左右が切り取られる。魔王を中心にした部分を残して、原作の下半を占めている七つの大罪の場面も外されました。
 さらに、映画での画面下半も変更されています。右の方は見えないのですが、左下に配された、右の方を振り返る悪魔や、そのすぐ下の何やらペロペロ・キャンディのような渦巻く円も原作では見あたらないようです。後の場面で教会の番人が変貌した姿と同じイメージがやはり下半に描かれているらしく、適宜アレンジされているわけなのでした。これらのアレンジには何かネタがあるのでしょうか、それとも映画オリジナルなのでしょうか?追補:完結篇の頁でも触れました)



 4 『大反撃』(1969)より - ピエロ・デッラ・フランチェスカ、ゴッホ、他

 原作にどのような改変を加えているかはさておき、『吸血魔のいけにえ』や『デモンズ3』で、壁画の原作は映画の主題にかなうものとして選ばれました。対するに、怪奇映画ではないけれどゴシック・ロマンスではある戦争映画『大反撃』(1969)の冒頭に登場する、ピエロ・デッラ・フランチェスカの《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》が(→ここ)、映画の設定や筋立てに呼応しているかどうかは微妙なところではありますまいか。それでも、戦闘の場面を描いているから選ばれたのだと、見なすことはできるでしょう。
 ただ、当該作品の頁で触れたように、この件で面白いのは原作へのアレンジの方です。
『大反撃』 1969 約5分:キープの一室+ピエロ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》もどき 『大反撃』 1969 約5分:キープの一室+ピエロ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》もどき
 上に引いた二つの場面は、左上の場面のすぐ後で右上のそれへつながるのですが、そこに映った壁画をよく見ると、原作の中央右寄り、お尻を向けた白馬が左手にいます。それはいいとして、 左上の場面で、白馬の右の方にオレンジがかった服の人物が見えます。地面に跪いているのですが、向かって左に丸い盾を振りあげ、首は右へ向けている。ところが原作ではこの人物は、白い馬の左手に配され、左へ首を回していました。左右反転しているわけです。右上の場面で右端にのぞいている、何と呼ぶのでしょうか、ずいぶん背が高く、上ひろがりで前後二つに割れているらしき白い帽子をかぶり、ラッパか何かを吹いている人物は、原作ではずっと左の方で見つかります。
ピエロ・デッラ・フランチェスカ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》1452-66
ピエロ・デッラ・フランチェスカ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》 1452-66
 映画に映る壁画の左右がどうなっているのかはわかりませんが、まず、元の画面右寄り、先に見た左向きの白馬の左手、もう一つ、白馬とその右にいる、背を向け肩に何かを斜めにかけ左を向いた人物の右あたりとで、画面を切り離してしまいます。
 ピエロ・デッラ・フランチェスカ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》細部:左←→ピエロ・デッラ・フランチェスカ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》細部:右←→
 次いで、切り離した右端区画ははずし、もとは右にあった白馬のいる区画と、左にあった跪く人物のいる区画との、左右を入れ替える。

ピエロ・デッラ・フランチェスカ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》細部:右

ピエロ・デッラ・フランチェスカ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》細部:左
 さらに、右に来たもとは左の、跪く人物のいる区画の左右を反転させる。

 そして二つの区画をぴったり合わせれば、映画で映った状態になるわけです。

ピエロ・デッラ・フランチェスカ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》細部:左を左右反転

ピエロ・デッラ・フランチェスカ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》細部:右ピエロ・デッラ・フランチェスカ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》細部:左を左右反転
 だからすぐ後で映る細部、片腕を振りあげた、髭が白い人物は映画では左向きですが(左下)、原作では右向きなのでした(右下)。
『大反撃』 1969 約5分:ピエロ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》もどきの細部 ピエロ・デッラ・フランチェスカ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》細部:左
 なぜこんな処理を加えたのかはよくわかりません。壁画が配されたセットの都合なのでしょうか。カメラの動きやその前に立つ人物の配置との関係で、改変した状態の方が視覚的にぴったりくるとでも判断されたのか。左上に引いた細部を入れたかったからというわけでもありますまい。この処理が本篇に何らかの効果をもたらしているとも思えない。
 そもそも映画ではカメラが短く捉えるだけで、今行なっているようにいったん静止し、ピエロの画集の類を引っぱりだしてまじまじと眺めては、照らしあわせでもしないかぎり、そうそう気がつく者などおりますまい。ピエロのこの作品を自家薬籠中のものとするまでに見尽くした者なら、何かおかしいと感じるのでしょうか。
 ところで後の場面で(→そこ)、この部屋の窓のすぐ下は濠で、部屋が角塔の上階にある - そういう設定であることがわかります。例によって確かめていなかったのですが、その際窓をはさんだ、二つの壁にのぞく画面は、《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》には見あたらないようです。アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂を飾る《聖十字架伝》の内、同じく戦闘場面を描いた《コンスタンティヌスの勝利》にも含まれていない。これまた、何かネタがあるのか、あるとすればどんなネタなのでしょうか? 『大反撃』 1969 約51分:キープの一室の窓+ピエロ《ヘラクリウスとホスロー2世の戦い》もどき
 そもそも『大反撃』の頁で述べたように、舞台となる古城には美術品がわんさかとあり、闖入者である米軍部隊の中には美術史家も混ざっていました。本篇中では他に何点も絵画の類が出てきました。
 その中で例えば、 ボナールの《レーヌ・ナタンソンと赤いセーターのマルト・ボナール》に基づく絵は、描かれた人物の顔が城主の伯爵とその夫人に差し替えられていました(→あそこ/ボナールの作品の頁は→こなた)。
『大反撃』 1969 約36分:少佐の部屋+ボナール《レーヌ・ナタンソンと赤いセーターのマルト・ボナール》もどき
 ブーシェの《オダリスク》(1743/45?)にマネの《オランピア》(1863)を掛けあわせたような活人画も登場します(→そなた/ブーシェの作品の頁は→あなた)。この絵を見る、ある登場人物の欲望をいささか露骨に絵解きしていたのでした。 『大反撃』 1969 約30分:ブーシェ《オダリスク》もどき
 オープニング・クレジットのさなか、ピエロの壁画とちょっとした城内巡りに続いて、美術史家が上を見上げるとルーベンスの天井画が映ります。その直前、美術史家をはさむようにして2点の絵が背後の壁にかけられていました(左下→こっち)。
 細かい点は見えませんが、右側の絵は、ニューヨークの近代美術館が所蔵するマティスの《オダリスクとタンブリン》(1926)かと思われます。後の場面(右下)で画面の下の方だけ映りますが、ニューヨークの絵と一致していると見てよさそうです。
 左の絵はゴッホの糸杉を描いた作品のようですが、またしてもおかしな点が見つかってしまいました。
『大反撃』 1969 約6分:ルーベンス風天井画の部屋 『大反撃』 1969 約38分:ルーベンス風天井画の部屋、左後方にマティス《タンバリンとオダリスク》(1926)の下方
 この絵は後の場面でもう少し大きく映されます(右→このあたり)。縦長の画面という点からすると、メトロポリタン美術館の《糸杉》(1889、左下)やクレラー=ミュラー美術館の《糸杉と星の見える道》(1890、右下)が候補としてあげられそうです。
 とはいえ 左寄りの糸杉の位置は後者と異なり、といって前者ほど糸杉の幅は広くない。何より背景が両作品よりざわざわ騒がしい。
 
『大反撃』 1969 約39分:左にゴッホの糸杉の絵/《星月夜》を改変?
 ゴッホ《糸杉》 1889
ゴッホ(1853-1890)
《糸杉》
1889
 ゴッホ《糸杉と星の見える道》 1890
ゴッホ
《糸杉と星の見える道》
1890
 この点では月と11の星がまたたき、白い雲の流れが渦巻く、ニューヨークの近代美術館にある《星月夜》(1989)が近い。とはいえこの絵は横長です。
 ただぼやけた映画版の絵をよく見ると、糸杉の右下にある小さな赤みや、そのさらに右の尖塔はニューヨーク近代美術館の作品と一致しているようです。
 星の数は少なくなっており、原作では月の左少し下にある雲の渦が、映画版ではほぼ上下に重なっています。
 他方糸杉のシルエットは、映画版では左右反転しているかのようです。
 ゴッホ《星月夜》 1889
ゴッホ
《星月夜》
1889
 この見方が仮に正しいとして、しかし、そんな風にした理由は皆目見当もつきません。配すべき柱の幅に合わせ、マティスの《オダリスクとタンブリン》と対になるようにしたかったのか、あるいは現存する作品をそのまま使わない方がいいと考えたのか。

 ともあれ同じ部屋にはピカソあたりを思わせなくもない絵も、右に引いた場面と(→そっち)、向かいあたりにもう一つ見られました。素性は今のところ不明です。
 
『大反撃』 1969 約39分:ルーベンス風天井画の部屋+奥左にピカソ風の絵
 と思えば、同じ部屋の場面で奥に見えるボッティチェッリの《ウェヌスとマルス》には手を加えていないようです(→あっち/ボッティチェッリの作品の頁は→こちら)。ただマティスの《オダリスクとタンブリン》もそうですが、ピエロやボナール、ゴッホの例を考えると、見落としているだけかもしれません。  『大反撃』 1969 約37分:ルーベンス風天井画の部屋+奥左寄りにボッティチェッリ《ウェヌスとマルス》、右端にゴッホの糸杉
『大反撃』 1969 約37分:ルーベンス風天井画の部屋、下から

 ルーベンスとされる天井画もあって、『大反撃』の頁では「これもネタがあるのでしょうが、不詳」と記しました(→そちら)。とこうする内に、候補らしきものに出くわしました。「初代バッキンガム公爵、ジョージ・ヴィリアズから委嘱された天井画」のための油彩習作です。ただし「天井画自体はバッキンガム公のロンドンの邸宅であるヨーク・ハウスに描かれたが、1949年の火災で失われた」(A.モラル、倉田一夫訳、『巨匠の絵画技法 ルーベンス』、エルテ出版、1991、p.46)。
ルーベンス《ミネルウァとメルクリウスがバッキンガム公爵をウィルトゥース(美徳)の神殿へ導く(下絵)》 1625以前
ルーベンス(1577-1640)
《ミネルウァとメルクリウスがバッキンガム公爵美徳(ウィルトゥース)神殿へ導く(下絵)》
1625年以前
 ちなみにヨーク・ハウスというのはいくつもあるのですが、この場合ストランドのヨーク・ハウスということのようです(→英語版ウィキペディアの該当頁)。また
 [ Sir John Soane's Museum Collection Online ] > "Preliminary design for a ceiling for the great staircase, 1768, executed with minor alterations (1)"

 [ National Trust Collections } > "Gallery 4 : Art / Of all the treasures on which the Child family spent their fortune, it was their paintings that they valued most – and wished to share"
によると、 バッキンガム公の肖像画2点を天井画とともに1697年、公爵の遠縁にあたる、銀行業のフランシス・チャイルド Francis Child (1642-1713)が購入、リンカーンズ・イン・フィールズ42番地 42 Lincoln's Inn Fields にあった邸宅に飾りました。後にロバート・チャイルド Robert Child がバークリ・スクエア38番地 38 Berkeley Square に移転、ルーベンスの肖像画2点他はチャイルド家が所有するオスタリー・ハウス Osterley House に移されます。保管先だったジャージー島で1949年に起きた火事で失なわれてしまいますが、現在は《バッキンガム公の神化》の20世紀の模写が、オスタリー・ハウスの階段室の天井に設置されているとのことです。ナショナル・トラストの上掲頁の下の方にある"Loss"の項に、この模写の画像が掲載されています。

 さて、天井画のための習作は他にもあるようですが(もとの勤め先で開かれた『ルーベンス展- 巨匠とその周辺 -』(1985-86)に出品された模作を→右上の作品の頁の「Cf. の cf.」に載せました)、右上に挙げたロンドンの油彩習作、それに完成作の模写や習作の模作でも、バッキンガム公は鎧を身につけているのに、映画に映った天井画では裸身です。竪琴を左手に持っている点からすると、アポローンになぞらえているのでしょうか。右下部分の図柄もロンドン本他と映画版では違っています。ミネルウァとメルクリウス、バッキンガム公ないしアポローンの主要人物三人および左下の三美神のポーズは一致していますが、映画版の元になったまた別の習作か何かがあるのでしょうか? それともまたしても、何らかの改変がなされているのか?


 わからない点がいくつも残っていますが、それはさておき、『大反撃』におけるピエロの壁画のアレンジやルーベンスの天井画の再現は、すぐそれとわかるような意味づけがなくとも、映画のセットに既存の美術品が組みこまれるという、例の内に数えることができるでしょうか。

 本題の後篇に入るということで、実在する作品を壁画や天井画に用いる例から始めたわけですが、例によって長くなってしまいました。この後はささっと済ませたいものですが、いったんページを閉じて、いつになるやら、続きを待つことにいたしましょう。
→ 「怪奇城の画廊(完結篇) - 実在する美術品より」へ続く

2022/06/18 以後、随時修正・追補
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