< 怪奇城閑話 |
怪奇城の図書室
プロローグ:司書ジョナサン・ハーカー ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』は、ロンドンの事務弁護士ジョナサン・ハーカーがトランシルヴァニアにあるドラキュラ城を訪ねるところから始まります。solicitor は平井呈一訳では「弁理士」と訳されていますが、ともあれ 「一外国人がロンドンに地所を購入し、その地所買い入れ次第を説明しにやってきた一弁理事務員」 (ブラム・ストーカー、平井呈一訳、『吸血鬼ドラキュラ』(創元推理文庫 502A)、東京創元社、1971、p.30) であるわけです。映画化された『吸血鬼ノスフェラトゥ 恐怖の交響楽』(1922)では出発地がドイツの港町ヴィスボルク、名前がトーマス・フッター、職種が不動産業に変わったり、ユニヴァーサルの『魔人ドラキュラ』(1931)では出向くのがハーカーではなくレンフィールドだったりと、改変はあるにせよ、西方の都会からトランシルヴァニアへ土地購入の手続きに赴く点は、そのまま取りいれられていました。 ロンドンとトランシルヴァニアとの間に、何が重ねあわされ、何を読みとることができるかに関わらず、両者間の距離こそが要点にほかなりますまい。それを前提にした上で、その距たりを往き来することが、物語を駆動させるのでしょう。 他方、ハマー・フィルムの『吸血鬼ドラキュラ』(1958)では、ハーカーがドラキュラ城に到着するところから始まるのに変わりはありませんが、不動産屋ではなく、司書として蔵書の整理に携わるためでした。これは、地理上の設定が整理され、間に国境をはさむにせよ、ドラキュラ城とハーカーの婚約者ルーシーとその家族が住むカールシュタットとの距離が、馬車で往き来できるだけの近さに縮まったことから導きだされたのでしょう。 ハーカーは結局、表向きの肩書きだった司書の業務に手をつける暇もなく、腹に抱えた一物 - 本来の目的へ突き進むことになります。ドラキュラ伯爵の正体を何も知らなかった原作のハーカーとはまったく異なる立場にいたわけです。距離が縮まり、地続きになったことを前提にした上で、物語を効率的に進行させるために、城に入りこむための口実として司書という身分が選ばれたのだと思われます。 『ダリオ・アルジェントのドラキュラ』(2012、監督:ダリオ・アルジェント→「カッヘルオーフェン」の頁の「追補」でも触れました)でも、ハーカーは司書としてドラキュラ城に入ります。ハマー・フィルム版同様、トランシルヴァニアから遠く離れたロンドンへ移動するのではなく、ドラキュラ城とその城下町で物語が終始するのに対応していることになります。 ただしハマー・フィルム版のハーカーと違って、伯爵の正体を知らない点では、原作以下のヴァージョンに準じている。そのためか、アルジェント版のハーカーは司書としての仕事に取りかかることができました。伯爵もこの図書室は400年以上前からあると自慢げでした(約26分)。原作で伯爵がトランシルヴァニア、そして一門の歴史を滔々と弁じたてるのに応じていると見なせるかもしれません(前掲書、pp.50-52)。 ところで伯爵は、原作(pp.11-13)を引き継いで 、『吸血鬼ノスフェラトゥ』、ユニヴァーサル版そしてハマー・フィルム版でも、地元で忌み恐れられる対象として描かれていました。ユニヴァーサル版の続篇に当たる『女ドラキュラ』(1936)で、ドラキュラ城の窓に灯りがともった時の、村人たちの反応が思い起こされます(→こちら)。 対するにアルジェント版では、恐怖の対象どころか、町の近代化に貢献した功労者と見なされていました(約17分)。学校も作ったそうです(約1時間8分)。他方軍と協定が結ばれたなど、一部の者は正体を知っていました(同上)。『吸血鬼の接吻』(1963)で、ラヴナ博士が地元で名士として扱われていたのが思いだされたりもします(→こちらの2)。公的な支援者としての顔と、闇の悪鬼としての顔との乖離が、ロンドンとトランシルヴァニアとの距離に通じていると言っては、いささかこじつけが過ぎるでしょうか。 1 図書室夜話 不動産取引の場合、伯爵からロンドンの不動産屋に手紙が送られた、ないしそれに相当する手段が取られたと見ることができます。城を勤め場とする司書の場合はどうなのでしょう? アルジェント版では、伯爵が司書を募集したとのことでした(約17分)。ハマー・フィルム版でも事情は同様だったのか、あるいはハーカーの方から打診したのか。いずれにせよ、伯爵なりハーカーに思惑のあるなしはさておき、蔵書の管理が有益だと伯爵が判断したのであれば、それはそれで面白がれる点ではありますまいか。 |
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とまれ、ハマー・フィルム版において図書室は、本篇中で伯爵が正体を最初に現わす場所でもあれば、クライマックスの舞台でもあるという、重要な位置を占めていました(右1段目→そちら)。 奥の壁に大広間と同じく中二階の歩廊があり、左の壁に玄関広間と同じ拳葉飾り付きアーチがあります。「怪奇城の広間」の頁で石田一から引用したように、大広間と玄関広間は一つのセットを模様替えして用いたとのことでしたが(→そちらの2)、もしかすると図書室も、同じなのかもしれません。 部屋は四角形で、正方形に近いのでしょうか。司書の仕事を始めることもできなかったのに応じて、蔵書の内容が話に出てくることはありません。奥の書棚に納められた本は、中二階のものも含めて、いささか背表紙だけ作ったもののように見えなくもない。むしろ奥の壁と平行に配された長テーブルの上に散らばった本の方が、いかにも未整理のままのようでした。なおこの長テーブルは、図書室初登場時には伯爵に、クライマックスではヴァン・ヘルシングに飛び乗られるという、重要な出番を持っています。 |
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この図書室にはまた、飛び乗る前に伯爵が出てきた扉口が中二階歩廊の下、書棚にはさまれた位置に設けてあります(右上2段目、右端近く)。扉口の右手にも、書棚を区切る部分がはさまれているのですが、これは窓だけなのか、窓付きの扉なのか。 また向かって左手の壁、拳葉飾り付きアーチの左は少し凹み、一段上がって椅子が置いてありました(同、左端近く)。クライマックスには、椅子の右手前の床にはね上げ戸があって、隠された空間へ通じていることがわかります。 その向かい、右手の壁は手前に暖炉、その左にステンド・グラスをはめた窓が配され、こちらもクライマックスで重要な役割を果たすことでしょう。 欄干のない階段と中二階歩廊、それに捻り柱やオベリスクをちりばめた大広間、拳葉飾り付きアーチが突っ切る玄関広間に比べると、図書室は癖のない方形とも映りますが、このように別の空間へ通じる開口部がいくつも仕掛けられている点にこそ、クライマックスの舞台として選ばれたことの証なのかもしれません。 なお中二階付き書棚の壁の向かいの壁は、本篇中に映されることはありませんでした。カメラやスタッフが陣取るところに開けた、いわゆる〈第四の壁〉だったのでしょう。 |
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頁はまだ作っていないのですが、アルジェント版の図書室は、面白い形状にデザインされていました(右上下)。入口から入って1~2段下りて、左右の壁沿いにさらに1~2段低く、回廊が渡されています。右1段目の場面で一番奥に見える、部屋の反対側で合流する。そこにハーカーが陣取ることになる机が据えてあるのでした。 その壁と天井が接する部分は斜めになっており、それに応じて壁際の書棚も、上端が斜めに傾けてあります。この斜線に平行するのか、右1段目の場面で一番手前の入口側、および右2段目の場面では回廊から中央の吹抜へ突きだすように、斜めの書見台が配してありました。さらに下りる階段も見えましたが、中央部分自体は映されませんでした。 |
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図書室、図書館、書棚、書庫、書斎、書店、古書店などの類は、単に物としての本を集積した場所というだけではない、なにがしかのイメージをまとっているようです。クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』の「第16章 象徴としての書物」やブルーメンベルク『世界の読解可能性』などが跡づけたように、世界が書物にたとえられるのであれば、クルツィウスいうところの「このトポスの美妙な裏返し」(クルツィウス、前掲書、pp.468-469)としてジョン・オウエンが記したように、書物もまた一つの世界にほかならず(またブルーメンベルク、前掲書、p.324)、書物が集まる図書室は、いくつもの世界の集合であり、あるいはそこからさまざまな世界へ通じる中継駅とでも見なせるでしょうか。 本自体もあわせて、そうしたイメージを取りあげた、それこそ本の類について、出くわす機会のあったほんのわずかばかりの例を、クルツィウスやブルーメンベルクの上掲書も含めて、「言葉、文字、記憶術・結合術、書物(天の書)など」の頁の「本・書物(天の書)など」の項および「おまけ」に並べておきました。それ以外に、たとえば、「バルコニー、ヴェランダなど - 怪奇城の高い所(補遺)」の頁の「プロローグ」で触れた『体育館の殺人』(→あちら)に始まるシリーズの第4作(長篇では第3作)、 青崎有吾、『図書館の殺人』(創元推理文庫 M あ 16-4)、東京創元社、2018(2016年刊本の文庫化) であるとか、 後藤均、『 などもありました。また 『ライブラリアン ユダの聖杯伝説』(2008、監督:ジョナサン・フレイクス) はTV映画のシリーズ第3作だそうです(前作・前々作は未見)。もっともそこで扱われるのは書物だけにおさまらない、守備範囲の広いものでした。古本屋を営んでいたという著者による、元警官の古本屋を主人公にした ジョン・ダニング、宮脇孝雄訳、『死の蔵書』(ハヤカワ文庫 HM タ 2-1)、早川書房、1996 同、 同、 『幻の特装本』(同 HM タ 2-2)、同、1997 同、 同、 『失われし書庫』(同 HM タ 2-8)、同、2004 同、横山啓明訳、『災いの古書』(同 HM タ 2-9)、同、2007 同、 同、 『愛書家の死』(同 HM タ 2-10)、同、2010 のシリーズは続いているのでしょうか? さらに、 生田耕作編訳、『愛書狂』、白水社、1995(1980刊本の新装復刊版) 愛書狂(G.フローベール)/稀覯本余話(A.デュマ)/ビブリオマニア(Ch.ノディエ)/愛書家地獄(Ch.アスリノー)/愛書家煉獄(A.ラング)// フランスの愛書家たち(A.ラング)// 作者紹介など、 246ページ。 アンドルー・ラング、生田耕作訳、『書斎』、白水社、1996(1982刊本の新装復刊版) 主に図書館などの写真を掲載した本も出ているようですが、とりあえず手もとにある 『死ぬまでに行きたい世界の図書館 大人気映画「ハリー・ポッター」の魔法の世界へ』(SAKURA MOOK 50)、笠倉出版社、2015 他にも山ほどあるものと思われますが、折あれば追々補っていくとして、ここでは、見る機会のあった怪奇映画周辺に出てきたものに絞るといたしましょう。 2 実在する図書室 |
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ただちに思い浮かぶのは、『インフェルノ』(1980)に出てきた図書館です(右→こっち)。書架が三層にも及ぶ点だけでなく、背表紙がほぼベージュ系にまとめられているように見えるため、特定の性格に統一された蔵書と感じられたことでした。 薄暗い入口附近、登場人物が下りていく階下の様子、とりわけ廊下の本棚なども、こうした印象に寄与しているものと思われます。 入口附近や階下は別の場所なのかもしれませんが、開架閲覧室は『インフェルノ』の頁でも触れたように、 ローマのサンタゴスティーノ広場にあるアンジェリカ図書館 Biblioteca Angelica, Piazza Sant'Agostino, Roma で撮影されたとのことです。 |
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実在する図書室だか書斎では、『亡霊の復讐』(1965)(下左→そっち)および『処女の生血』(1974)(下右→そっちの2)も挙げておきましょう。両作品は ラツィオ州ローマ県の旧フラスカーティ Frascati, Roma, Lazio、現モンテ・ポルツィオ・カトーネにあるヴィッラ・パリージ(=ボルゲーゼ) Villa Parisi(-Borghese) , Monte Porzio Catone でロケされたとのことです。書棚も同じタイプに見えます。下の二つの場面でカメラはそれぞれ、部屋の正反対に位置していたようです。 |
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『処刑男爵』(1972)は ウィーン近郊のクロイツェンシュタイン城 Burg Kreuzenstein などでロケされたとのことですが、書棚が並ぶ空間は、廊下のようにも見えます(下左→あっち)。これとは別に、書斎のような部屋も登場しました(下右→あっちの2)。双方クロイツェンシュタイン城にあるのか、あるのだとすると、前者はどんな場所なのでしょうか? |
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3 怪奇映画の図書室 |
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怪奇映画なのかサイコ・スリラーなのか、『五本指の野獣』(1946)では図書室は、ピーター・ローレ演じるヒラリーの根城でした(右→ここ)。ヒラリーは図書室の主になることを望むのですが、その望みはついにかないませんでした。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『たたり』(1963)の舞台であるヒル・ハウスの図書室には、ずいぶんと高くまでのぼる鋼の螺旋階段が設置されています(下左右→そこおよび→そこの2)。やはり中二階の層があります。「怪奇城の高い所(中篇) - 三階以上など」の頁で引いたように、原作では図書室は塔の中にあるという設定でした(→そこの3)。この螺旋階段は物語の中で重要な役割を果たします。ただそれが図書室でなければならなかったかどうかは、棚上げしておきましょう。後に触れる同じ原作による『ホーンティング』(1999、監督:ヤン・デ・ボン)では、別の場所に移されていました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『吸血鬼』(1967)の舞台となる城の主フォン・クロロック伯爵は愛書家らしく、図書室を自慢します(下左→あそこ)。また『たたり』の場合同様、ここにも螺旋階段があります(下右→あそこの2)。あれほど高くはなく、上がった先は小部屋です。書棚も見えますが、やはり「怪奇城の高い所(中篇) - 三階以上など」の頁で触れたように、望遠鏡や天球儀なども置いてありました(→あそこの3)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
怪奇映画ではありませんがゴシック・ロマンスではある『大反撃』(1969)では、オープニング・クレジット中に二層からなる図書室が映ります(右→こなた)。天井画付きです。『吸血鬼ドラキュラ』といい『たたり』に『ダリオ・アルジェントのドラキュラ』といい、 吹抜回廊を巡らした図書室というのは、ある種の定型なのでしょうか? この作品では、別に書斎も登場しました(下→こなたの2)。もっとも、これまで気がついていなかったのですが、書棚の並びが弧か多角形をなしており、その手前に上からゴシック風といっていいものかどうか、上拡がりの装飾*が垂れ下がっている点からすると、吹抜回廊付き二層図書室と同じセットではないかと思われます。 |
↓ * 〈ペンダント pendant 〉とか〈ボス boss 〉というのとも違うのでしょうか? それぞれ マシュー・ライス、岡本由香子訳、中島智章監修、『英国建築の解剖図鑑』、エクスナレッジ、p.139、p.45 の図を参照。また『巨人ゴーレム』(1920)で見られた吊り下がり装飾と比較できるでしょうか? →こなたの3 |
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『鮮血の処女狩り』(1971)(下左右→そなた)で図書室は城の二階にあります。二階廊下の端にある空間同様不規則な形状をしているようで、書棚の配置も壁際だけではありませんでした。下右の場面、中央やや右寄り奥では、やたら円柱が立っていますが、建築上の機能はあるとも思えません。 歴史家のファビオは先代の遺言で図書室を譲られました。『五本指の野獣』でのヒラリー同様ここが彼の根城となるのですが、無残な最期を迎える場所ともなってしまうことでしょう。物語中で起こる事態にまつわる本も登場します。 |
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『デモンズ3』(1989)における図書室というか、当初主人公と思われた司書の仕事場は、閉じた空間ではないようです(→あなた)。当該作品の頁でも記したように、教会のどこに位置しているのでしょうか? | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルトゥーロ・ロペス・レベルテの『フランドルの 双方主な舞台とはいえないにせよ、古城が登場するのに頁はまだ作っていないのですが、後者の始めの方に、ある蔵書家の稀覯本書庫が登場します(下左右)。どこぞのビルの高い階、まわりをあけて中央にガラス張りの空間が設けられ、その中に書棚が並ぶというものでした。 |
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余談になりますが、ラヴクラフトの「ダニッチの怪」で、 「恐ろしい書物」、「慄然たる『ネクロノミコン』」 を収めていたという、 ミスカトニック「大学付属図書館の鍵つきの保管庫」 (大瀧啓裕訳、『ラヴクラフト全集 5』(創元推理文庫 523-5)、東京創元社、1987、p.257) とは、こんな感じかもしれないと思ったりしたことでした。 ちなみに映画化された『ダンウィッチの怪』(1970)では、開架閲覧室ののぞきケーズに展示されていました(右→あなたの2)。 |
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「暖炉の中へ、暖炉の中から - 怪奇城の調度より」の頁でも触れた(→あなたの3)、三つの挿話を収めるオムニバス『ネクロノミカン』(1993)、その枠物語「ザ・ライブラリー」(監督:ブライアン・ユズナ)は、タイトルどおり、とある僧院の図書室が舞台となります。『ネクロノミコン』が収められていたのは、開架閲覧室(下左)ではなく、その階下にある、鉄格子をはめた書庫でした(下右)。 その奥の壁の金庫に収蔵されていて、これはいかにもそれらしいのですが、『ナインスゲート』におけるガラスで囲った書架というのも、それはそれでありえなくもないかもしれないという気がしなくもありません。 |
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ところで『ネクロノミコン』は、『ダンウィッチの怪』に先立つ『怪談呪いの霊魂』(1963)にも登場しました(→あなたの4)。『ダンウィッチの怪』とやはりラヴクラフトの映画化である前作『襲い狂う呪い』(1965)の監督であるダニエル・ハラー(ホラー)が美術監督を担当していた、ロジャー・コーマンによるポー連作第六作ですが、ポーではなくラヴクラフトが原作でした。 『襲い狂う呪い』にも怪しげな本が登場しましたが(→あなたの5)、それはさておき、本サイトでの怪奇映画史における里程標の一つと化した感のあるコーマンのポー連作では、書斎の類を別にすれば(たとえば『姦婦の生き埋葬』(1962)で主人公が絵を描いていた部屋や、『忍者と悪女』(1963)の冒頭)、書物が蓄積された図書室や書庫は見られなかったような気がします、たぶん。だとすると、これはこれで面白い兆候なのかもしれません。どう深読みできるか、課題としておきましょう。 |
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戻って『ナインスゲート』ではまた、稀覯本書庫に先立って、古本屋の中が映りました(右)。螺旋階段付きです。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古本屋からもう一つ、やはり頁未作成の『ハードカバー/黒衣の使者』(1989、監督:ティボー・タカクス)を挙げておきましょう(下左右)。こちらも本にまつわる話です。ヒロインはこの古書店で働いています。下左の場面で奥へ進むと、二階への階段があります。二階は倉庫や入荷した本を整理するための作業場として用いられているようです。下右の場面では本棚と本棚の間の通路をヒロインが覗きこむのですが、いかにも雑然として、本で溢れかえっている様子は、日本の古本屋でもお馴染みの光景と言えましょう。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この作品では後ほど図書館も舞台として出てきますが、クライマックスは古書店に戻り、階段で本の山が雪崩落ちたりします(下左)。ラストではさらに、ある本がばらばらになって、そのページが二階の窓から舞い散ることでしょう(下右)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
図書室、図書館、書店いずれの場合も、本棚は本を整理し、秩序づけるための枠という役割を果たします。枠は限界づけるものであって、本の総量がどれだけであれ、個々の本棚やその部分はあくまで有限です。しかし本がどんどん増えていけば、いずれその結界は破れざるをえません。一冊の本が一つの宇宙だというなら、そこには少なくとも潜在的に、無限がはらまれているはずです。一冊の本だけでは無限を実現するにはいたらないかもしれません。しかし書架に複数の本が並べられることで、本同士が互いに照応しあい、華開世界起(→「仏教 Ⅱ」の頁の「iii. 華厳経、蓮華蔵世界、華厳教学など」の項中参照)よろしく、無限を開花させることでしょう。 具体的には、本が床に積みあげられるようになり、すると、特定の本を見つけるのに困難を来たす羽目に陥ります。エントロピーは増大するばかりです。そのあげく、本の山は崩れ、雪崩落ちたりもすることでしょう。ついにばらばらになって窓から飛び散るとすれば、それは解放と見なすべきなのでしょうか。 4 図書室異聞 |
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崩れかねないほど雑然としているといえば、『闇のバイブル 聖少女の詩』(1970)の一場面が連想されます(下左→こちら)。救貧院の地下、その一角にあって、梯子をかけなければならず、梯子から落ちるとたいへんことになりかねないほど、高くまで伸びています。なぜこんな風になっているのかはわからない。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本作にはもう一つ、本棚だらけの部屋が登場します(→こちらの2)。ヒロインが住む家にあります。さほど広くはなさそうですが、角をまたいで本棚が天井近くまで埋め尽くしている。後に本棚の天辺と天井の間にある人物がはさまって、ギターをつま弾くことでしょう。救貧院地下と同じセットを用いているのでしょうか? | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
これら二つの図書室だか書庫は、いささか脈絡の掴みがたいものでした。劣らずよくわからない書庫が、同じく1970年初頭の『催淫吸血鬼』(1971)で見られます(→そちら)。さほど広くはない部屋の、しかし壁四面まるまる本棚で占められています。入口は書棚の一つです。カメラは右から左へ、360度見渡します。棚の本が次々と飛びだして、ある人物を埋めようとするのでした。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
同じ年の『淫虐地獄』(1971)でも、本が棚から勝手に落ちました(→あちら)。本作では一段だけで、図書室自体、暖炉や椅子もあって、普通の造りと見てよいでしょうか。本の量はけっこうあるようです。 本が落ちたのはある一冊を主人公の目にとまらせるためでした。何かの役割に奉仕するという点では、何の意味もなく本がなだれ落ちた『催淫吸血鬼』の場合ほど、印象は強くなりえようもありませんでした。 |
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棚から落ちる本といえば、『アッシャー家の末裔』(1928)が思いだされたりもします(下左→ここ)。そもそも舞台となる館では、大広間や廊下など、やたら風が吹きこみます。先立つ場面では、戸棚の上に積みあげた本が飛ばされたりしていました(下右)。下左の場面で本棚の脇に立っている鎧も、すぐ後に倒れてしまう。火事になる直前ではありますが、館の崩壊を告げているのでしょう。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
5 事務所の書類棚 書棚が奇態な相貌を示した『闇のバイブル 聖少女の詩』や『催淫吸血鬼』がともに1970年代初頭に製作されたというのが、何かの兆候なのかどうか、今のところあまりにサンプルが少ないので、またの課題としておきましょう。 ところで雑然としていて今にも崩れ落ちそうな本棚という点では、本を並べているわけではないのでしょうが、『吸血鬼ノスフェラトゥ 恐怖の交響楽』(1922)の冒頭近く、レンフィールドに相当する人物の事務所で見ることができました(下左→そこ)。まだ頁は作っていないのですが、ヴェルナー・ヘルツォークによる再製作版『ノスフェラトゥ』(1979)でも再現されていました(下右)。 |
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相通じる眺めは、『月光石』(1933)でも弁護士の事務所に登場しました(右→あそこ)。弁護士などの事務所はそういうものだとでもいうイメージがあるのでしょうか? | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
これは整理されているのかどうか、『ドクターX』(1932)の始めの方の舞台である「外科研究所 Academy of Surgical Research 」の一室です(右→こっち)。背表紙が同じか似たようなものなのか、ベージュで統一されているため、整理されたはずの秩序が、かえって焦点を定めることのできない混沌に裏返ってしまったかのようです。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
背表紙が均一なので、個々の部分同士の違いはならされることになります。〈オール・オーヴァ〉と呼べましょうか。それはたしかに秩序づけられている一方、個々の部分の生動性が抑えられた、不活性な状態でもあります。エントロピーが高いわけです。とすれば、秩序づけた状態と本の山が崩れた状態とは、紙一重の差でしかない。梯子にのぼらなければならないのも、足下をぐらつかせることの裏返しにほかなりますまい。『闇のバイブル 聖少女の詩』の場合、実際、梯子から人が落ちました。本が崩れ落ちる代わりといっては、いささか深読みになってしまうかもしれません。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『ドクターX』の場合穿ちすぎでないと言い切る自信はまったくありませんが、『審判』(1962)では、整理がそのまま機能不全を表わしていると見なせそうです。裁判所の事務所らしきところのどこまでも続きそうな書棚とキャビネットの部屋(右→そっち)だけでなく、裁判所から下りていった先のどこともしれぬ蒲鉾型空間(下左→そっちの2)、それに弁護士の家も、本だか書類の山ができていました(下右→そっちの3)。エントロピーはいや増すばかりです。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6 書架と隠し扉 「怪奇城の隠し通路」の頁で、確認したわけでもないのに「壁の一部以外では、書斎の書棚の一部ととともに、暖炉の奥の隠し扉というのは人気があるようで」なんて記しましたが(→あっち)、そんな気がするというだけでいいのなら、書棚の一部が隠し扉になっている場面をちょこちょこ見かけたような憶えがあります。隠し扉でなくとも、書棚から本を一冊抜くと向こう側が見えるとか、本を刳りぬいて小型拳銃を忍ばせてあるとかといった場面も、紋切り型と呼べそうなほど馴染みがある。といって具体的な作例がすぐさま名指せるといかないのは、いつものことでした。 ただ「怪奇城の隠し通路」の冒頭で「ノックスの十戒」第3項を引いたのですが、そこでノックスが引きあいに出していたミルンの『赤い館の秘密』に(→あっちの2)、本棚型隠し扉が出てきていました; 「『さあ、それじゃこのアッシャー先生の本を持っていてくれ。左手で、そう、そんなふうに。それから右手、つまりよく利く方の手で、この棚をしっかり掴むのだ。そうそう。で、ぼくが「引っぱれ」といったら、そろりそろりと引っぱってくれたまえ。いいね?』 「…(中略)…ギリンガムは、分厚いアッシャー先生を引き抜いたあとにぽっかり開いた隙間に手を差しこみ、棚の裏の背面に指を触れると、『引っぱれ』といった。 「…(中略)…とみるみる、天井から床までそっくりその棚全体が、まるでドアがあくように、しずかにふたりの方へあいてきた」 (A.A.ミルン、大西尹明訳、『赤い館の秘密』(創元推理文庫 119A)、東京創元社、1959、pp.171-172)。 「怪奇城の隠し通路」の頁と重複しますが、本サイトで取りあげた怪奇映画周辺における隠し扉としての本棚では、実は怪奇映画ではない『猫とカナリヤ』(1927)が比較的早いらしき例として挙げることができましょう(下左→こなた)。書斎の書棚に隠し扉が仕掛けてあって、最初の事件がこれを利用して起こされるとともに、クライマックスを導きもします。 頁はまだ作っていないのですが、やはり「怪奇城の隠し通路」の頁で触れた『猫とカナリヤ』(1939)(→こなたの2)でも、書斎の書棚の一つが回転しました(下右。追補:以下も参照; Cleaver Patterson, Don't Go Upstairs! A Room-by-Room Tour of the House in Horror Movies, 2020, pp.43-46)。 |
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やはり怪奇映画ではない『大鴉』(1935)でも書斎の書架の一つが回りました(→そなた)。『猫とカナリヤ』の無声版でもトーキー版でも、館中に隠し通路が張り巡らせてありました。本作では手術室や、地下のコレクションの収蔵室が設けてあるという設定です。隠し扉の向こうの空間がけっこう広いようなのでした。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
こちらも怪奇映画ならぬ『モデル連続殺人!』(1964)でも書棚が開きます(→あなた)。書棚の本の背表紙がいささかぺらぺら感満載でした。先は下りの階段で、やはり地下の小部屋に通じています。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『ヤング・フランケンシュタイン』(1974)の書棚式隠し扉はくるくる回転して、ドタバタのネタになっています(→こちら)。やはり先で下へくだり、実験室などかなり広い空間に通じています。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
これもまだ頁を作っていない『ホーンティング』(1999、監督:ヤン・デ・ボン)は、『たたり』に続いてシャーリイ・ジャクソンの『山荘綺談』を再映画化した作品です。ただし本作は、怪奇映画というよりヒーローもののファンタジーの相を呈していました(何をもってファンタジーと呼ぶのか、議論のあるところでしょうが)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吹抜に高々と金属製の螺旋階段が伸びあがる図書室は、本作では削られました。代わりといっていいのか、温室に螺旋階段が配されます。金属製なのは変わらず、見返りといっていいのか、二重螺旋になっていました。 また書斎があって、そこの本棚が隠し扉の役目を果たします(右)。入ると金属製の螺旋階段が下方へ潜っていく。下りた先はかつての館の主の個人的な書斎とのことです。 |
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ところで表の書斎、その右奥にベックリーン《死の島》が飾ってありました(上および右)。細かいところは見えないのですが、舟に立つ白い衣の人物が、やはり白っぽい二つの門柱にはさまれている点からして、第5ヴァージョン(1886、造形芸術館、ライプツィヒ)と思われます (フランツ・ツェルガー、髙阪一治訳、『ベックリーン【死の島】 自己の英雄視と西洋文化の最後の調べ』(作品とコンテクスト)、三元社、1998、pp.16-17/図5。 →そちらにも挙げておきます:《死の島》(第3ヴァージョン、1883)の頁の「おまけ」)。 |
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7 『薔薇の名前』映画版(1986)からの寄り道:ピラネージ《牢獄》風吹抜空間、他 怪奇映画ではありませんが、ゴシック・ロマンスとは見なせよう、ウンベルト・エーコによる同題の原作を映画化した『薔薇の名前』(1986:監督:ジャン=ジャック・アノー)、例によって頁は作っていないのですが、そこに登場する書庫はいたく印象的でした。下左の場面で、門の向こう、右手に見える塔が文書館になっています。中庭はなぜか傾斜した斜面でした(下右)。 |
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下1段目左の場面に映っているのは写字室です。音声解説で監督のアノーは、エーベルバッハ(エバーバッハ)修道院で撮影したと述べています(約33分)。左奥に書庫への入口があるという設定なのですが、主人公たちはここから入ることを許されず、隠し扉を見つけ、地下通路を通って書庫に潜りこむことになります。ちなみに地下通路はとある ともあれ、書庫は下1段目右の場面で見られる、小部屋の集合として成りたっています。形状は多角形のようで、それぞれの出入口から上か下への階段につながっています。アノーによると 「図書館の部屋は三つしか作らなかった」(約1時間13分) とのことです。 |
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何より印象的だったのは、小部屋と小部屋をつなぐ階段を張り巡らせた吹抜の空間でした(上2段目左右)。いかにも錯綜したそのさまは、上下に果てしなく続くかのようです。 DVDに収録された特典映像の一つ「ジャン=ジャック・アノーのビデオ・ジャーニー」(約16分)の中で、アノーは面白いエピソードを紹介しています(約7分以降)、原作には 「階段の話は出てこない」 とアノーは述べ、原作者のエーコに、 「全部同じ階にあるんだろ?」 と問うと、エーコは 「驚いた、大当たりだと」 と答えます。アノーの 「巨大な空間で、塔じゃない」 とのコメントをはさんで、エーコとの会話に戻ると、彼は書斎に駆けこみ、二冊の本を手に戻ってきたとのことです。エッシャーの《階段の家》とピラネージの《牢獄》の本でした。 H.D.バウマン/A.サヒーヒ、谷口勇訳、『映画「バラの名前」』、而立書房、1987 に収録されたインタヴューでも、 「たしかに、小説の中では迷宮は平らで、二次元になっているのに、映画では、高く、三次元に建てられていますが、これにはさまざまな理由があるのです。第一に、迷宮のあるところが塔の中だというのに、どうしてその迷宮が平らなのでしょう? そんなことをウンベルトが考えていたわけはないと思いますし、少なくとも、小説ではそのことは説明されていません。第二に、塔がすっかり迷宮でふさがれるものとイメージしてみたほうが、その塔の心理作用ははるかに大きくなるのです。第三に、平らな迷宮では、映画にするのが大変にむずかしいのです。すべてがあまりに窮屈ですし、四方八方が壁ということになります。これでは視野がひどく狭められてしまいます」(p.48) とアノーは述べ、 「あなたの迷宮はピラネージやエッシャーを思いださせるのですが」 というインタヴュアーに、 「ええ、ごもっとも。私どもも、ピラネージやエッシャーの考えに合わせようとしたのです。フェレッティはエッシャーに心酔しています」(p.49) と答えています。ダンテ・フェレッティは本作のプロダクション・デザイナー。「怪奇城の外濠」の頁の「ii. 映画のセット、映画美術など」で挙げた 『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』(SPACE SHOWER BOOKS)、スペースシャワーネットワーク、2014、pp.202-217:「13 ダンテ・フェレッティ」 フィヌオラ・ハリガン、石渡均訳、『映画美術から学ぶ「世界」のつくり方 プロダクションデザインという仕事』、フィルムアート社、2015、pp。103-116:「ダンテ・フェレッティ」 などで紹介されています。前者では p.207、後者は p.115 で『薔薇の名前』のミニ・コーナーを設けてありました。 戻って、同書の先立つ箇所で著者たちは、 「…(前略)…ウィリアムとアトソンを迷わせるもつれた階段は、中世ではなくて、18世紀および20世紀からモデルをとっている。すなわち、イタリア人ピラネージのものすごい『牢獄』のイメージと、オランダの版画家M・C・エッシャー(1898~1972)の気を狂わすような(踊り場から次の踊り場への)ひと続きの階段が取り上げられているのだ。(注- 『階段研究会』会長ミールケ教授は筆者たちの質問に答えて、『廃墟の間にそのような任意に張り渡した階段を中世になすりつける』ことは、映画では許されるかも知れないが、本当は『18世紀以降からやっと考えられる』ものなのだ、と語っている)」(p.23、p.25) と記していました。「階段研究会」会長ミールケ教授については、「階段で怪談を」の頁の「文献等追補」で挙げた "Stairs", Rem Koolhaas et al., Elements of Architecture, Taschen, 2014/2018, pp.1726-2033 ( pp.0-307) で紹介されていました。 さて、原作では「 「一階が厨房と大食堂になっていて、上の二つの階には ( ウンベルト・エーコ、河島英昭訳、『薔薇の名前(上)』、東京創元社、1990、p.57/第一日三時課) 「 「七つの壁面に囲まれていたが、そのうちの四面にしか通路は開いていなかった。…(中略)…閉ざされた[通路のない]壁面には、巨大な書架が置かれ、整然と書物が並べられていた」(同上)、 「一つずつ窓のついている長方形もしくは台形に近い部屋が五つあって、螺旋階段で昇ってきた窓のない七角形の部屋を取り巻いている」(同上、p.271/同) のを皮切りに、次々と小部屋が連なっていきます。邦訳上巻 p.273 および下巻 p.108 には推理小説の伝統に則って、文書庫のある三階の見取り図が載っていました (邦訳上下巻の扉にも掲載。また上下巻の表および裏見返しには、同じ「僧院平面図」。独訳には「大型の僧院の図版が折り畳んで入れてあった」(「解説」、下巻、p.409)とのことですが、異同は不詳)。 この書庫の見取り図をたとえば、 今福龍太、『ボルヘス 伝奇集 - 迷宮の夢見る虎』(世界を読み解く一冊の本)、慶應義塾大学出版会株式会社、2019、「Ⅳ バベルの塔を再建すること」 の冒頭で紹介されている、ボルヘス「バベルの図書館」の見取り図を作るいくつかの試みと比較することもできるでしょうか(pp.97-99、101/図Ⅳ-1~5)。 ニルダ・グリエルミ、谷口勇訳、『「バラの名前」とボルヘス - エコ、ボルヘスと八岐の園 -』(U.エコ『バラの名前』解明シリーズ)、而立書房、1995 と題した本が刊行され邦訳されるまでに、『薔薇の名前』とボルヘスおよびその「バベルの図書館」等との結びつきは自明のことと見なされているようです。 アノーの談話に戻れば、原作で文書庫が一つの階に収められている以上、エーコがエッシャーやピラネージの画集を持ちだしたのは、どうしたつもりだったのでしょうか? どんな話が続いたのか、残念ながら語られませんでした。 |
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エッシャーの《階段の家 Treppenhuis (House of stairs)》*は1951年のリトグラフで、『ラビリンス - 魔王の迷宮 -』(1986)に出てきた翌々年の《相対性》(1953)と同じように(→あちら)、上下の区別がない湾曲した屋内に、いくつもの階段が渡されているさまが描かれています。本作の場合同じ年の《カール・アップ Wentelteefje (Curl-up)》**にも登場した、芋虫状の生きものたちが階段を上り下りしています。 | *岩成達也訳、『M.C.エッシャー 数学的魔術の世界』、河出書房新社、1976、図66、作品解説(M.C.エッシャー) p.11/no.66 →こちら(「言葉、文字、記憶術・結合術、書物(天の書)など」の頁の「おまけ」/ダニエレブスキー『紙葉の家』に関連して)でも触れました ** 同上、図65、pp.10-11/no.65 |
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今福龍太の上掲『ボルヘス 伝奇集 - 迷宮の夢見る虎』では、エッシャーの《相対性》について記した後、 「すでに見た18世紀のピラネージによる『牢獄』世界との驚くべき図像学的な類似も感じられ、ピラネージ-エッシャー-ボルヘスという三者の隠された連関は歴然としている」(p.114) と述べています。実際、映画版の書庫の様子を見てエッシャー以上に連想させられたのは、ピラネージの《牢獄》でした(→あちらの2:《牢獄》第2版14図および15図の頁)。 長尾重武編著、『ピラネージ《牢獄》論 描かれた幻想の迷宮』、中央公論美術出版、2015 でも、 「ボルヘスに強い影響を受けたウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』は1980年に発表され、87年には映画化された。映画の中でエッシャーの絵やピラネージ牢獄版画を想い起こさせる迷宮図書館が出てくるのでご記憶されている方も多いと思う」(p.198) と述べられていました。 |
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同じようにピラネージじゃん、と思ったのは、やはりまだ頁を作っていないのですが、『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001、監督:クリス・コロンバス)のある場面です。主人公たちの寄宿学校ホグワーツで、大食堂から出ると、寮の各部屋へつながる階段広間となります(右)。上を見上げるとどこまでもつながっているかのようです(下左)。さらに、ここの階段は勝手に動くのでした(下右)(追補:→「階段で怪談を」の頁の「その他、フィクションから」でも触れました)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
そういえば今までピラネージと結びつけたことはありませんでしたが、『わが青春のマリアンヌ』(1955)の主な舞台の一つも寄宿学校で、『ハリー・ポッターと賢者の石』ほどではないにしても、たいがい巨大な吹抜に階段と回廊が渡されていました(下2段→あちらの3)。 巨大な吹抜をいくつものアーチや橋、階段に横切られることで、からっぽのひろがりをさまざまな向きへ導き、つながる通路の束にすることが、《牢獄》の空間の特質だとすれば、ピラネージを発想源にしているかどうかは不明ですが、少なくとも通じるところを見てとることはできそうです。通路はそれ自体が目的ではないがゆえに、通路の束であるとは、どこへも行き着くことなく、交差するばかりで、ただ伸びていく空間が現われ出たということなのでしょう。 |
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「オペラ座の裏から(仮)」の頁で記したように (→あちらの4)、『オペラの怪人』(1925)における劇場舞台裏や地下の空間に関し、ホアン・アントニオ・ラミーレスは『スクリーンのための建築』の中で、 「『オペラの怪人』のためにカレによってデザインされた奇妙な建築形態は、とりわけピラネージの《牢獄》の銅版画に想を得たかのように思われるかたわら、これらは一方、それら自身の資格で純粋に映画的な発想源となった」 と述べていました (Juan Antonio Ramírez, Architecture for the Screen. A Critical Study of Set Design in Hollywood's Golden Age, 2004, p.136)。 ビヴァリー・ハイスナーの『ハリウッド美術』でも、ベン・カレが『オペラの怪人』のために描いた素描を掲載、やはりピラネージを思わせるとされます (Beverly Heisner, Hollywood Art. Art Direction in the Days of the Great Studios, 1990, p.23/図10、また p.281)。 「言葉、文字、記憶術・結合術、書物(天の書)など」の頁の「本・書物(天の書)など」の項で挙げた『読書の歴史 あるいは読者の歴史』と『図書館 愛書家の楽園』の著者でもあるアルベルト・マングエルはまた(→あちらの5)、英国映画協会が刊行するBFI映画古典シリーズの『フランケンシュタインの花嫁』の巻で、 「上向きのショットは塔の内部をあきらかにする。ピラネージの名高い《牢獄》の銅版画から模写されたものだ」 と記しています(Alberto Manguel, Bride of Frankenstein, (BFI Film Classics), British Film Institute, 1997, p.44)。 「上向きのショット」が下左のものなのか下右のようなものなのか(→あちらの6)、 「模写された copied 」というのは《牢獄》中の具体的にどの画面を念頭に置いているのか、 わからずにいます。いずれにせよピラネージの《牢獄》が描きだした空間のイメージが、ある種の範型のようなものとして、映画における建築的な想像力の底流の少なくとも一つをなしているのでしょう。 |
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ピラネージの《牢獄》的な空間をセットで造りあげたわけではありませんが、「『Meiga を探せ!』より、他」の頁で触れたように(→あちらの7)、『ベビー・ルーム』(2006、監督:アレックス・デ・ラ・イグレシア)には、ピラネージの画集とバラで《牢獄》の図版が映されました。二つの世界が交錯するという状況と重ねあわされているのでしょう。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
もっともそんな風に読みこむのであれば、ブレイクの《大きな赤い龍と太陽を着た女》と《獣たちに名前をつけるアダム》、ベックリーンの《死の島》なども位置づけなければ、片手落ちというものでしょう。《大きな赤い龍と太陽を着た女》は黙示録的な状況、《死の島》は死が二つの世界に浸透していることを表わす、と言うことができるかもしれませんが、《獣たちに名前をつけるアダム》はどうなのか? それ以上に、いくつもの建物の模型、その内机の上にあったのは舞台となる家の模型だとして、棚に飾ってあった他の模型はどういうものなのでしょうか? そして同じ部屋にあったピラネージとの関連やいかに? | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長尾重武の上掲『ピラネージ《牢獄》論 描かれた幻想の迷宮』には、 「おそらくピラネージ的な空間イメージを数え上げたらきりがないであろう」(同上) とあります。折あれば追々補っていくとして、寄り道の寄り道になりますが、ここで、『ホーンティング』におけるベックリーン《死の島》第5ヴァージョンに続いて、「怪奇城の画廊」番外篇といたしましょう。 |
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『薔薇の名前』映画版では、何点か写本挿絵が映されました。いずれも元ネタがあるものと思われますが、不勉強のため今のところ見当がついたのは一種だけでした。書庫内の最初の小部屋で、当時15歳前後だったというクリスチャン・スレイター扮するアドソが、テーブルの上に置いてあったのを見つけ、ぱらぱらと繰っていたのは(下左3段)、 『ベアトゥス黙示録註解』写本 の内、 マドリード国立図書館が所蔵する『ファクンドゥス写本』の挿絵 に相当するものではないかと思われます*(下右3段、 画像の上でクリックすると、拡大画像とデータを載せた頁が表示されます。以下同様。ただし映画から引いた画像は除く)。 |
* [解説]J.ゴンサレス・エチュガライ、他、「翻訳」大高安二郎、安發和彰、[日本版序文]辻佐保子、『ベアトゥス黙示録註解 ファクンドゥス写本』、岩波書店、1998、pp.60-6;安發和彰、「『ベアトゥス黙示録註解』現存写本リスト」、【系統Ⅱ群a】の
15(p.61)。 また英語版ウィキペディアの "Commentary on the Apocalypse"の頁(→あちらの8) 中の "Copies of the manuscript" に掲載された "9th through 11th centuries" の一覧表で三段目、 "Manuscript ID"が”MS.Vit.14.1”。 その6列目の"Vit.14.1"から サイト[ Biblioteca digital hispánica ]の該当頁(→あちらの9) にリンクしています。その頁の左、下に "Ver Obra" と記された表紙のサムネイル画像からリンクした先で、全ページの画像を見ることができます。 |
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『ベアトゥス黙示録註解 ファクンドゥス写本』(1047)より、 《太陽をまとう女と竜(『ヨハネ黙示録』12.1-16)》(fs.186v.-187) |
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同上、 《獣と竜の礼拝(『ヨハネ黙示録』13.1-8)》(fs.191v.) |
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同上、 《竜、獣、偽預言者の口から蛙の姿で汚れた霊が出て来る(『ヨハネ黙示録』16.13-14)》(fs.220v.) |
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しばしば水平の帯として積みあげられる地の鮮やかな色とその対比、色の発現を妨げないよう単純化され、全体に対する大きさを調節された形態が印象的な挿絵群ですが、開かれた三箇所はいずれも、ドラゴンの登場する場面でした。常の通りまるっきり忘れていましたが、原作には 「…(前略)…机の上には、『モザラービの黙示録』のすばらしい版が置かれていて、竜に立ち向かう〈太陽ノ模様ノ服ヲマトッタ女戦士〉のページが開かれてはいたが」(上巻、p.280/第二日深夜課) とあります。「モザラービ」は通例「モサラベ」と表記され、『モザラービの黙示録』とは『ベアトゥス黙示録註解』にほかなりますまい(『新潮世界美術辞典』、1985、p.1480 右段「モサラベ美術」の項)。〈太陽ノ模様ノ服ヲマトッタ女戦士〉のページは、上1段目の挿絵ないし別の写本での同じ主題の図像を指すのでしょう。原作ではアドソは 「机の脇で…(中略)…気を失っていた」 と、状況は変更されていますが、そこで言及されていた書物とその挿絵であると思われるものは再現されたのでした。ドラゴンの場面が続くのは、何やら壊乱的な性格を強調したかったのか、統一感のある図像でまとめたかったのか、あるいは単に、監督なり美術監督の気に入ったのか。 原作の後の箇所には、 「また別の書物を開いてみた。今度のはヒスパニア派のもののように思えた。色彩がけばけばしく、朱色は血や炎みたいだった。『使徒の黙示録』だった。またしても私の目は、前夜と同じように、〈太陽ノ模様ノ服ヲマトッタ女戦士〉のページの上へ落ちていった。しかし同じ書物ではなくて、細密画も異なっていた。こんどのほうが姿や形がいっそう丹念に描き込まれていた」(上巻、p.388/第三日終課の後) とありました。さらに後ほど、 「そして大急ぎで私たちはその部屋を横切ったが、そのとき〈太陽ノ模様ノ服ヲマトッタ女戦士〉の絵図が彩色された、あの美しい『黙示録』を見たときのことを、私は思い出した。 「…(中略)…リエバナのベアートによる『黙示録』の注解に関しても、多数の巻が捧げられていて、原典の部分はおおむね似たり寄ったりのものであったが、挿絵のほうはじつに多種多様で、そのなかのいくつかに、この王国が生んだ最大の細密画家たち、すなわちアストゥリエ、マギウス、ファクンドゥス等々の筆さばきを、ウィリアムは認めた」(下巻、p.97/第四日終課の後) と、名指されていました。アストゥリエは シロス断簡(別称シルエーニャ断簡、シロス、サント・ドミンゴ修道院、9世紀第4半期(?)、上掲「『ベアトゥス黙示録註解』現存写本リスト」の系統Ⅰ群-1、p.60 では「アウトゥリアス(?)」と記されている挿絵画家と同じなのでしょうか?)、 マギウスは モーガン写本(ニューヨークのピアポント・モーガン図書館、10世紀半ば頃、系統Ⅱ群a-11、p.60/英語版ウィキペディア上掲頁の一覧表で5段目、”MS.644”) の挿絵画家で、また タバラ写本(マドリード、国立歴史資料館、968/970年7月27日、系統Ⅱ群b-17、p.61/英語版ウィキペディア上掲頁の一覧表で6段目、”AHN CODICES, L.1097”) も手がけ、弟子のエメテリウスが完成させたとのことです。 「系統Ⅱ群の全体に共通する段状の縞目をなすカラフルな地は、『モーガン写本』(M)の主任画家マギウスの創案とみなされている」 (辻左保子「諸写本の系統別分類と主要作品の特色」、前掲『ベアトゥス黙示録註解 ファクンドゥス写本』、p.64/ 再録:辻左保子、『ロマネスク美術とその周辺』、岩波書店、2007、p.25)。 原作邦訳の訳者「解説」によると、エーコには『リエバナのベアート』(1973年)という著書があるそうです(下巻、p.406)。伊語版ウィキペディアのエーコの頁(→あちらの10)の"Opere"(著作)の節の内大半を占める"Saggistica"(評論)の項を見ると、 Beato di Liébana. Miniature del Beato de Fernando I y Sancha. Codice B.N. Madrid Vit. 14-2, testo e commenti alle tavole di, Milano, Franco Maria Ricci, 1973 (『リエバナのベアート フェルナンド1世とサンチャ(王妃)のベアトゥス写本の細密画 マドリード国立図書館写本 Vit. 14-2』、テクストおよび図版解説担当) とあって、おそらく、前掲の『ベアトゥス黙示録註解 ファクンドゥス写本』(1998)同様、『ファクンドゥス写本』の挿絵の図版を掲載した画集の類なのかもしれません。ともあれそれだけでなく、他の写本の挿絵のことも知悉していたのでしょう。最初の引用箇所と二番目の箇所それぞれで、いずれかの写本挿絵を具体的に念頭に置いていたのでしょうか? ちなみに 田中久美子、『世界でもっとも美しい装飾写本』、エムディーエヌコーポレ-ション、2019、「第2章 黙示録の世界」 には、まず 『ベアトゥス・ファクンドゥス写本』のコーナーがあって(pp.62-73)、 解説頁の2節目は 「太陽をまとう女と竜」 でした(p.62)。 上で挙げたファクンドゥス写本の見開き画面を pp.70-71 に載せた後、 あらためて《太陽をまとう女と竜》のコーナーを設け(pp.76-83)、 他のベアトゥス写本の作例(pp.76-79)、 「ベアトゥス以前の《太陽をまとう女と竜》」(pp.80-81)、 「ベアトゥス以後の《太陽をまとう女と竜》」(pp.82-83) と続きます。ここではベアトゥス写本から、p.79 に掲載された『ジローナ写本』(下左)および『シロス写本』(下右)のものを挙げておきましょう。 |
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『ベアトゥス黙示録註解 ジローナ写本』(975)より、 《太陽をまとう女と竜(『ヨハネ黙示録』12.1-16)》(fols.171v.-172r) 『ジローナ写本』は系統Ⅱ群b-18、p.61、 また英語版ウィキペディア上掲頁の一覧表で8段目、”MS.7”。 |
『ベアトゥス黙示録註解 シロス写本』(1109)より、 《太陽をまとう女と竜(『ヨハネ黙示録』12.1-16)》(fols.147v.-148r) 『シロス写本』は系統Ⅱ群a-16、p.61、 また英語版ウィキペディア上掲頁の一覧表で最下行、”Add MS.11695”。 |
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上掲の『ベアトゥス黙示録註解 ファクンドゥス写本』(1998)に収録されたホアキン・ジャルサ・ルアセスの各図版解説には、 「ベアトゥス写本グループの系統Ⅱでは、この『太陽をまとう女と竜』の挿絵は、構想にほとんど変化がない。…(中略)…ベアトゥス写本の系統Ⅱでは、この挿絵は必ず見開き2頁にわたって1つの画面が設定されている。『バルカバード写本』(fs.130v.-131)、『モーガン写本』(fs.152v.-153)、『ウルジェイ写本』(fs.140v.-141)、そして後年の『シロス写本』(1091/1109年、fs.147v.-148)でもそうである」(p.150) と記されています。また同書の辻左保子「諸写本の系統別分類と主要作品の特色」に、 「個人的な好みもあるとはいえ、Ⅱ群b の『ジローナ写本』(G)は、やはり全体の中でも最大の傑作ではなかろうか。…(中略)… 『ファクンドゥス写本』(J)の優れた特色は、大胆な色彩対比と明快なデザイン性にある(最も典型的な例として図21)。…(中略)…モサラベ特有の繊細な装飾感覚に満ちている。こうした工芸的な特色を、細部のモティーフばかりでなく、画面の全体にまで極度に推し進めたのが、最後のモサラベ作品ともいえる『シロス写本』(D)である。地には小紋のような細かな梅花文がちりばめられ、人体も山岳も動物も完全に扁平で均質な文様世界に還元されている」(p.64/前掲『ロマネスク美術とその周辺』、p.26) とありました。ついでに『薔薇の名前』邦訳のカヴァーに使われているのも『ファクンドゥス写本』からとられたもので、 上巻が《小羊、4つの生き物、長老たちのヴィジョン(『ヨハネ黙示録』5.1-14)》(f.116v.)(、『ベアトゥス黙示録註解 ファクンドゥス写本』、p.91/図7)、 下巻が《バビロンの崩壊、それを嘆く王と商人たち(《ヨハネ黙示録》18.1-20)》(f.233v-234)(同上、p。220/参考図版9) でした。 →あちら( 『A-ko The ヴァーサス』(1990)のメモの頁)でも触れました 8 『お嬢さん』(2016)より 「『Meiga を探せ!』より、他」の頁で触れたように(→ここ)、『お嬢さん』 (2016、監督:パク・チャヌク)の中で、 藤島武二の《大王岬に打ち寄せる怒濤》(1932) が映りました(下1段目左。下1段目右は明るくしたその部分の拡大)。藤島はこの主題をほぼ同じ構図で二点描いています。 下2段目左が三重県立美術館版、 下2段目右がひろしま美術館版です。 くっきり映るわけではありませんが、水平線より上の雲の明るさ、水平線の左端近くに描かれた小さな舟らしきもの、左下の岩の傾き、右下の緑の丸まりなどなどからして、三重県立美術館版をやや縮小した複製と思われます。 |
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藤島武二 (1867-1943) 《大王岬に打ち寄せる怒濤》(三重県立美術館版) 1932 |
藤島武二 《大王岬に打ち寄せる怒濤》(ひろしま美術館版) 1932 |
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エンディング・クレジットの中で、 「六華苑・諸戸氏庭園・名張藤堂家邸・伊勢山上 飯福田寺・小向神社・大井川鐵道」 と漢字で記された箇所がありました(約2時間24分)。不勉強のためハングルは読めないのですが、ロケ先でしょうか。次の項には 「桑名市・名張市・松阪市・三重県…(後略)…」 とあって、こちらは協力者か。 《大王岬に打ち寄せる怒濤》が映った場面の舞台は日本のホテルという設定で、洋間と日本間双方備えた部屋はセットかと思われますが、いずれ日本で撮影ないしその準備をした際、出くわした複製ではないかと思われます。映画の中身とは関係なさそうです。 この映画は サラ・ウォーターズ、中村有希訳、『荊の城』(上下)(創元推理文庫 M ウ 14-2~3)、東京創元社、2004 を原作にしています。超自然現象は起こりませんが、城館に主人公が侍女として勤めるために到着したところから展開する点からして、典型的な『ジェイン・エア』型ゴシック・ロマンスとは見なせるでしょう。原作邦訳を呼んだ際には、二度ほどのどんでん返しにけっこうびっくりさせられた憶えがあります。それとともに、ディケンズ風といっていいのかどうか、19世紀半ばのロンドン周辺の雰囲気が印象的でした。原作をほぼ忠実に映像化したTV映画版 『荊の城』(2005、監督:エイスリング・ウォルシュ、約1時間半×2) も製作されました。『お嬢さん』は舞台を1939年、日本統治下の朝鮮半島に移し、後半の展開が原作と異なります。 主な舞台は「日本人の華族と結婚して『 |
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右に引いたのはその外観の一つで、左半の和風の部分は、屋根の段差からして、 桑名の六華苑 でロケしたものでしょう。六華苑でも右半は洋風ですが、木造でした。それが映画では煉瓦造りの棟と合成されています (六華苑についてはついでながら→「近場観光名所抄」の頁のこのあたりもご覧ください)。 |
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離れなのか、入口が別の同じ棟なのかわかりませんが、屋敷内には大きな図書室があります。右の場面は奥から入口側を見た眺めで、板張りの床、中央を通路として開けて、左右に書架が並んでいました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
右上の場面で右側手前には、のぞきケースが配されています(下左)。さらに手前は、二段ほど低くなって、広い畳の間となる(下右)。奥には襖絵が見えます。また下右の場面では、手前左寄りで、畳を外し、石庭をしつらえてあります。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
畳の間の中央手前寄りでは、畳を外すと浅い水槽になっています(右)。どんな用途で用いるものなのか。この他、畳の間奥の左手では、畳を外すと地下への階段がおりて、隠し部屋に通じたりするのでした。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『ナインスゲート』や『ハードカバー/黒衣の使者』、『薔薇の名前』同様、『お嬢さん』もある意味で、本にまつわるお話でした。ただしここでの本は、春画を掲載した春本です。北斎のいわゆる《蛸と海女》(1814)をはじめとした浮世絵類を主に、中国やインドのものも映りました。ちなみに中国のものの内の一点(約1時間9分)は、 中野美代子、『肉麻図譜 中国春画論序説』(叢書メラビリア 8)、作品社、2001 のカラー口絵Ⅸでも見られ、「清・康煕年間(1662~1722)の絹本春画冊より」とのことです(また本文 p.205)(中野美代子について→「中国」の頁の「i. 概説、通史など」の項も参照)。 春画類や《大王岬に打ち寄せる怒濤》以外にも、本作中ではさまざまな美術品が映されました。その内、屋敷の階段室の壁にかけられていた二点の肖像画(下左)は、出演した俳優二人を描いたもので、写真に基づくのか、あるいは写真自体を油絵風にコーティングしたのか、いずれにせよ映画のために制作されたものと思われます。また別の場面では、山水を描いた掛軸が見られました(下右)。これは既製品でしょうか? |
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他方興味深いのは、屋敷の一室で背後の壁に映っていた絵です(左および下左)。細かい点は見えませんが、黒と白、顔の肌色部分、右下の赤などの配置からして、 レンブラント晩年の《織物商組合幹事たち》(1662) ではないかと思われます(下)。 かなり小さくした複製ですが、なぜここに架かっているのか。何やら意味を読みこむより、《大王岬に打ち寄せる怒濤》ともども、たまたま複製が手の届く範囲で見つかったから、と取った方がいいような気もしますが、どうなのでしょうか。 |
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レンブラント (1606-1669) 《織物商組合幹事たち》 1662 |
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追補(2024/10/28);六華苑でロケされた箇所に関して、 ・洋館から番蔵棟への渡り廊下 ・奥の離れ家の波打った欄間 の二箇所を知人が教えてくれました。 |
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まったく気がついていなかったのですが、確認してみると、冒頭、主人公の一人が屋敷に着いて、案内されて通る通路が(右)、番蔵棟への渡り廊下でした。 ちなみに上で触れた「近場観光名所抄」の頁に、番蔵棟側から洋館の方を見たスナップを載せていました(下左)。また右の場面で左寄り、窓が映った部分の内側が、下右の廊下となります。番蔵棟の奥の方から見た眺めです。 |
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さて、六華苑の公式サイト(→ここの3)中の「モデルコース」の頁によると、離れ家には 「曲線が特徴的な無双窓があります」。 日向進、『窓のはなし 物語|ものの建築史』、鹿島出版会、1988 を開いてみれば、〈無双窓〉とは、 「古い民家の流し元などに用いられているもので、一組の幅のある とのことでした。通常の無双窓は直線の縦板が横に並ぶという形になりますが、六華苑の離れ家のものは、縦板の両サイドがうねるような波形をなす点で特徴的なわけです。 |
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例によってまるっきり気づいていませんでしたが、波状無双窓は、図書室の奥の畳の間、そのさらに奥、左の仕切られた部分に登場しました(右)。地下への隠し蓋のあるところでしょうか。少し後の場面では、同じ無双窓がアップになります(下左)。やはり波形の白い連子子が左右にずらされ、向こうからもう一人の主人公がオペラ・グラスで覗くのでした。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
主人公がいるのは縁側から入った小部屋で、波形無双窓は屋内を仕切る障子の上部に位置することになります。縁側の屋外側上部に無双窓を設けた実際の離れ家とは配置が異なっている。 無双窓の下の、特異なパターンを描く障子も(上右)、実物のガラス戸とは別ものです。画像検索してみたところ、青森県平川市の盛美館、その一階客間の書院窓のようです(→公式サイト中の「ギャラリー」の頁を参照)。 とすると、映画で見られたのは、別々の実物を模して作られ、その上で組みあわされたセットなのでしょうか。それとも画像を合成したのか。 |
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ちなみにこれまた意識していなかったのですが、「近場観光名所抄」に載せたスナップの一点は、離れ家と番蔵棟をつなぐ渡り廊下の上の方を、数段上がった離れ家の縁側から撮ったもので、画面上辺沿いに波形無双窓の下の方が映っていました(右)。 まだまだ他にもあることだろうと先の知人も言っていました。エンド・クレジットに挙がっていた、六華苑の隣にある諸戸氏庭園や名張の藤堂家邸なども気になるところですが、とりあえずは、以上二件のみメモしておきます。 |
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エピローグ 『お嬢さん』から少し前に引いた、畳を外して浅い水槽を開いた場面(約1時間52分)で、まわりに散らばっているのは、書架に並べられていた書物の一部です。ゴシック・ロマンスの定型の一つに則って炎上した、『薔薇の名前』における文書館の塔ほどの規模ではないにせよ、ここでも本の集合は渾沌へと追いやられたのでした。『薔薇の名前』の原作では、ストア派の宇宙論よろしく「 |
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それはさておき、水槽の場面の少し前には、本棚をはさんで、向こう側を覗くというショットが配されていました(右)。先にも触れたようにこうした状況は、ぼつぼつ見かけた気がします。書架をはさんで両側に人が立つ以上、書架は壁付けではないわけで、個人の書斎より、図書室とか書庫の方がふさわしそうです。とりわけ学校の図書室を舞台にしたものなどで接したかと思うのですが、いつもどおり具体例は出てきません。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
かろうじて引きだせたのが、『甲賀屋敷』(1949)の一場面でした(→そこ)。 本棚をはさんでのショットというのは、「暖炉の中へ、暖炉の中から - 怪奇城の調度より」の頁で触れた〈暖炉の炎越しのショット〉(→そこの2)と同じような役割を果たすものと見なせることでしょう。広義には、手前に物を配して、奥との距たりを強調する、ルプソワールの一種と分類できます。ただ、見られる対象に気づかれることのない、隠れた位置からひそかに窃視するというニュアンスが加わります。 |
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また暖炉の中からのショットが、普通にはありえない位置からのものであり、しばしば低い位置から見上げるのに対し、本棚をはさんでのそれは、暖炉の中よりは実際にありえそうで、また多くは立った状態で目の高さから見ることになります。 ところで『甲賀屋敷』における書庫は、地下だか半地下にありました (下左右→そこの3)。 |
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そこに保管されていた本だか文書は、おそらくすべて和綴じ本で、平積みにされています。ちなみに『お嬢さん』の図書室では、縦置きのものと平置きのものが、区別して収めてありました(右)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「言葉、文字、記憶術・結合術、書物(天の書)など」の頁の「おまけ」で挙げた(→あそこ)、原作(第1巻~第12巻、集英社スーパーダッシュ文庫、集英社、2000~2016/2023年6月11日現在、未完結のようです)と脚本を倉田英之が担当したアニメ、 OVA版『R.O.D - READ OR DIE -』(2001~2002、監督:舛成孝二) と TV版『R.O.D - THE TV -』(2003~2004、同) にも触れておきましょう。ちなみにTV版第5話「やつらは騒いでいる」では、ルーマニアのとある湖のただ中に聳える古城が舞台となります。 さて、このシリーズも本にまつわる話で、OVA版の主人公およびTV版での主要人物四人の内二人は、度を超した本好きという設定です。 下左に引いたのはOVA版の冒頭、主人公が住んでいるビルの屋内です。ベッド等のある部屋だけでなく、建物全体が積みあげられた本でふさがれています。 下右の場面で中央右寄りの角に建つビルが、その外観で、他に借りている者はいないのか、ビル全体が右のようなありさまらしい(小説版第1巻(2000)の末尾(pp.221-222)、第6巻(2002)のプロローグ(pp.18-26)などに、対応する描写がありました)。 |
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OVA版の主人公だけではありません。TV版の主要登場人物四人の内三人は姉妹なのですが、彼女たちが住むアパートも右の状態でした。拒否反応を示すか共感するか羨ましいと感じるかは、見る者次第です。 OVA版の主人公はTV版にも登場します。初登場時に彼女は、国会図書館の地下書庫内に住んでいました(下)。 |
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本にまつわる話というだけあって、シリーズ中には地下の隠れ古書店、学校の図書室、あまつさえ焚書など、さまざまなモティーフが登場します。その内、右に引いたのは大英図書館の地下にある、大英図書館特殊工作部が管理する巨大書庫です。下の方ではこれまた大きな可動書架が左へ移動している(小説版第3巻(2001)第1章(p.58)、第4巻(2001)第1章(pp.50-51)などに対応する描写がありました)。 |
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また内側が刳りぬかれた本がTV版の第1話(下左)と第8話(下右)の二度、出てきました。いずれの場合も、入っていたのは小型拳銃ではありません(小説版第2巻(2000)にも中を刳りぬいた本が登場しました(p.108)。やはり入っていたのは小型拳銃ではありませんでした)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本だらけのお話とあってみれば、そこには、これまでいくつかの例を見てきたのと同じく、本の集積が引き起こす崩壊という事態の可能性が宿されていることでしょう。実際TV版の第1話では、〈ブック・ドラフト〉と称して、アパートの扉が内側に溜めこまれた本の山の圧力によってはじけ飛ぶという事態が発生しました(右)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小説版はまた、隠し扉としての本棚も欠いてはいません(第2巻、p.46)。ついでながら、廊下を転がり落ちる大きな石の球も出てきます(第2巻、pp.30-32)。 本シリーズには漫画版もあって、 作:倉田英之、画:山田秋太郎、『R.O.D READ OR DIE』(全4巻、ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ)、集英社、2000~2002 作:倉田英之、画:綾永らん、『R.O.D READ OR DREAM』(全4巻、ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ)、集英社、2003~2005 原作:倉田英之、漫画:藤ちよこ、『R.O.D REHABILITATION』(全1巻、SUPERDASH & GO!)、集英社、2013 この内山田秋太郎版には、 「あるはずのない本が揃っているといわれている」(第2巻、p.36) 「それらの失われたはずの本が収納されているとされる」(同、p.38) 〝埋蔵図書館〟なるものが登場、そこには 「人間とは何か? どこから来て どこに行くのか? それらを記した〝真書〟」(同、p.138) があるという。第14話(第3巻)ではこの〝埋蔵図書館〟は巨龍化したり、第20話(第4巻)では 「遙か昔星の海を渡って一組の男女が降り立った」(p.131)、 「過渡期にあった人類に 彼らはさまざまな知識を与えながら 同時に己の叡知を二冊の本に記し残した」(p.132) と、起源神話が語られたりするのでした。 ちなみに〝埋蔵図書館〟というイメージは、 山田正紀、『ミステリ・オペラ 宿命城殺人事件』(ハヤカワ・ミステリワールド)、早川書房、2001 に出てきた〝検閲図書館〟を連想させました(追補:→あそこの2(カルロス・ルイス・サフォン「忘れられた本の墓場」四部作(2001-17) メモの頁)で触れた、〝忘れられた本の墓場〟にも通じていそうです)。 「発禁になった本、検閲にあって抹消された本、歴史に抹殺された本……そうした書籍ばかりを集めている図書館」(p.181/第2部第4章5) 「異形の、いわば〝反世界・図書館〟」(p.20/プロローグ)。 この長篇の副題『宿命城殺人事件』は本文が始まる、そのすぐ前にトランプの絵札が載せてある点からしても、カルヴィーノの『宿命の交わる城』を参照しているのでしょう。ボルヘスの〝バベルの図書館〟も引きあいに出されます(p.20/プロローグ。) 「小城魚太郎……昭和9年に『赤死病館殺人事件』というゴシック・ロマンス風の探偵小説を発表」((p.10/プロローグ) なんてのが飛びだすかと思えば、きちんと小栗虫太郎『黒死館殺人事件』(1934/昭和9)の名も挙がります(pp.36-37/第1部第1章7)。『エイダ』(1994)では「エヴァレッタ」の〝並行宇宙論〟とありましたが、本書では「ヒュー・エバレットの『量子力学の多世界解釈』という論文」(p.25/第1部第1章1)のことが綴られたりします。 また〝検閲図書館〟ならぬ〝大連図書館分室〟について、 「四階建てほどの高さがある吹き抜けに、馬蹄形に階段廊をめぐらし、その階段廊の基部に文献目録をおさめたファイル・キャビネットを積みあげ、壁にぎつしりと書棚を並べてゐる。階段廊はホールをとりまく中二階通路につゞいてゐる」(p.202/第2部第4章11)、 「全体になにか蒼茫とした岩窟めいた印象をもたらしてゐる。…(中略)…岩窟だとしたら、これは迷宮の 「いや、これは岩窟といふより、むしろ人間の頭蓋を と記され、少し後には、「中二階廊」という語が見開き2頁の中で五回も出てくるのでした(pp.240-241/第2部第5章15)。『吸血鬼ドラキュラ』や『たたり』、『大反撃』に『ダリオ・アルジェントのドラキュラ』の図書室が思いだされるところです。 戻って『R.O.D REHABILITATION』では、舞台が未来の〝 「建築物がすべて本棚で構成されている街」(p.291/[美術設定/R.O.D3]) とありました。地下には六層からなるフロアが積み重なっており(p.57/Episode 2)、これを一つ一つ降りていくという冥界下りが骨子になっています。最下層では 「作れるとしたら人間以外の という 「本であり 本でなく 本を超え 本を究めた 本の中の本」(p.249/同上) なんてものが出てきた挙げ句、「18万年後」(p.264)へ跳ぶのでした。 最後に、これも「言葉、文字、記憶術・結合術、書物(天の書)など」の頁の「おまけ」で挙げた(→あそこの3)、 諸星大二郎、『栞と紙魚子と夜の魚』(眠れぬ夜の奇妙な話コミックス、朝日ソノラマ、2001)中の「古本地獄屋敷」 に触れておきましょう。この短篇では、本の集積が引き起こす迷宮化と崩壊の可能性が描かれています。 追補(2023/08/31); セルジオ・レオーネのマカロニ・ウェスタン、『荒野の用心棒』(1964)、『夕陽のガンマン』(1965)、『続・夕陽のガンマン』(1966)、そして『ウェスタン』(1968)では、決闘の場面がクライマックスを含む見せ場となります。その際、エンニオ・モリコーネの音楽とともに、目元や手もとの極端なアップをはさみつつ、えんえんと溜めに溜めた上で、音楽が途絶えるや、早撃ちで瞬時に決着がつくというものでした。本家の西部劇でのさまざまな決闘場面、それに黒澤明の『用心棒』(1961)や『椿三十郎』(1962)などを先例にして成立したわけですが、それにしても、あざといまでの溜め具合は印象に刻まれずにいませんでした。 だからなのでしょう、『メイフィールドの怪人たち』(1989、監督:ジョー・ダンテ)にたしか、パロディー化した場面があったかとうろ憶えしています(未確認)。 期せずしてほぼ同時期に製作された『サンダウン~ボクたち、二度と血は吸いません~』(1989、監督:アンソニー・ヒコックス)でも、クライマックスの決闘場面はレオーネ風を狙ったものなのではないでしょうか。ただしこの作品の場合、早撃ち勝負が終わった後、おそらく『吸血鬼ドラキュラの花嫁』(1960)のクライマックス(→こちら)を参照しているのではないかと思われる場面が続きます。そこでモリコーネ風の曲が流れるのでした。 さて、『ガンパウダー・ミルクシェイク』(2021、監督:ナヴォット・パプシャド)でも、同様の趣向が見られました。早撃ちによる決闘ではありませんが、約29分、ボウリング場での乱闘が始まる直前の溜めは、レオーネにならったのでしょう。音楽もモリコーネ風でした。約44分、病院の廊下での活劇場面にもその気配が漂っています。ただし双方、一瞬で片がつかないのは、昨今のサーヴィス観によるものなのでしょうか。 なおボウリング場や病院の場面に先立って、向かいあう二人の目元が極端なアップで捉えられる場面がありました(約5分)。二人は母娘で、直後に一杯のミルクセーキにストローを二本差して、二人で飲むというカットにつながります。決闘ではさらさらないものの、これもレオーネ流儀を参照したものと見なせるのではありますまいか。 |
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ところでその直前、本の中を刳りぬいて、小型とはいえなさそうな拳銃を収めるという小道具が登場しました(右)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
またこの作品では、図書館が重要な舞台になります。外観正面は半円状をなしています(右)。[ IMDb ]の該当頁中の"Trivia"によると、図書館の外観はベルリンの 規模の大きな施設ではなさそうですが、右下の眺めで中央、階段の踊り場の奥の壁画には隠し扉があって、その先で螺旋階段が地下へ降りていくのが、真上から見下ろされたりします。 |
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左上の開架閲覧室は吹抜になっており、右上の眺めで階段の上左右に張りだした、半円のバルコニー状部分しか二階はありませんが、そこから奥に入るのでしょうか、森の中だの海底だのにしつらえた部屋があります(始めの方で「児童書のセクション」と言っていました(約14分)。「魔法の森や果てしない海の物語」とのこと。そして二つのバルコニーを見上げてカメラが首を振ります)。地下らしき長い通路も欠いてはいません(約1時間20分)。 さらに、開架閲覧室に並べられた本の随所で、中を刳りぬいて札束(下左)だの金の延べ棒(下右)だのが隠してあったりするのでした。一般の利用者が見つけたらどうするんだとか、この図書館の設定はよくわからなかったりしたものです。 |
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戻って約18分、地下の作業室で司書たち(女性)が主人公(女性)に本を渡します。いずれも中を刳りぬいて銃などを隠してあるわけですが、元の本の著者はジェイン・オースティン、シャーロット・ブロンテ、ヴァージニア・ウルフでした。おまけとしてアガサ・クリスティを読書用にと載せられる。英語圏で知名度のある女性の作家の典型ということなのでしょう。エミリー・ブロンテではなくシャーロット・ブロンテなのかとか、アン・ラドクリフやメアリー・シェリー、ダフニ・デュ・モーリエ、シャーリイ・ジャクスンは出てこないのかとかと思ったりしたことでした。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2023/06/18 以後、随時修正・追補 |
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