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カルロス・ルイス・サフォン(1964-2020);

カルロス・ルイス・サフォン、木村裕美訳、『風の影』(上下、集英社文庫 サ 4-1~2)、集英社、2006
原著は
Carlos Ruiz Zafón, La sombra del viento, 2001 / 2004

カルロス・ルイス・サフォン、木村裕美訳、『天使のゲーム』(上下、集英社文庫 サ 4-3~4)、集英社、2012
原著は
Carlos Ruiz Zafón, El juego del ángel, 2008

カルロス・ルイス・サフォン、木村裕美訳、『天国の囚人』(集英社文庫 サ 4-5)、集英社、2014
原著は
Carlos Ruiz Zafón, El prisionero del cielo, 2011

カルロス・ルイス・サフォン、木村裕美訳、『精霊たちの迷宮』(上下、集英社文庫 サ 4-6~7)、集英社、2022
原著は
Carlos Ruiz Zafón, El laberinto de los espíritus, 2016 / 2017


    バルセロナ
   本の物語
   忘れられた本の墓場
    天使像
    山の手
   ムダルニズマ(モデルニスモ
   ゴシック・ロマンス
   Meiga を[探せ!」より、他・分所
   形式主義(フォルマリスモ)など
   映画
   双面神
◆ 「忘れられた本の墓場」四部作(Tetralogía El cementerio de los libros olvidados)はいずれも、バルセロナを主な舞台としています。
 第一作『風の影』は1945年から1955年(プラス1965年のエピローグ)、
旧市街の古本屋「センペーレと息子書店」の息子ダニエルが主人公ですが、
 第二作『天使のゲーム』は遡って、ダニエルの父フアンがまだ「息子」だった頃、1917~18年から1930年あたりのお話です(プラス1945年のエピローグ)。
 第三作『天国の囚人』では1957年の第一部から、1939年の第二部、1940~41年の第三部を振り返る。第三部の中でまた1957~58年に戻ります(プラス1960年のエピローグ)。
 第四作『精霊たちの迷宮』は、最初の章「ダニエルの本」では前作から地続きで、
遡って二つ目の章「ディエス・イラエ - 怒りの日 -」を1938年3月のプロローグに、
八番目の章での1939年の覚書をはさんで、
三番目の章から十一番目の章で1959~1960年のマドリードおよびバルセロナが主な舞台となります。
その後エピローグ的な十二番目の章は「1964年」と題され、
十三番目の章「フリアンの本」ではダニエルの息子フリアンを語り手に、1966年以降、パリ滞在をはさんで、1977~82年、そして1991~92年のバルセロナに至る(額面どおりの「エピローグ」も1992年8月9日)。

 ちなみにスペイン第二共和制は1931年から39年、
その内スペイン内戦は1936年7月17日から1939年4月1日まで、
以後フランコ政権はフランコが歿する1975年11月20日まで続きました。
各作品内で遡ったり跳んだりしつつ、時系列の上では
 第二作『天使のゲーム』が内線前、
 まず第三作『天国の囚人』、次いで第一作『風の影』がフランコ政権下、
 第四作『精霊たちの迷宮』がフランコ政権崩壊後
をそれぞれの主要部分としていることになります。

◇ ところで四部作中まだ二作しか刊行されていない時点ですでに、

 川成洋・坂東省次編、『スペイン文化事典』、丸善株式会社、2011

では「カルロス・ルイス・サフォン」の項が設けられていました(pp.456-457/9章25)。それだけ評価が高かったということなのでしょう。ともあれ執筆したのは四部作の訳者である木村裕美で、

「”本”がサフォンの小説の主役とすれば、もう一つの主役はバルセロナだ」(p.457)

と記しています。第一作『風の影』5つめの章の章題は「1954年 影の都市」であり、第四作『精霊たちの迷宮』のやはり5つめの章の章題は「鏡の都市」(上巻、p.349/「鏡の都市」8節 も参照)でいずれもバルセロナを指し、また

「呪われた(まち)」(『天使のゲーム』、下巻、p.364/「エピローグ 1945年」)

だの、

「世界で最大級の蜃気楼、港の水面に姿を映しながら明けていく、あのバルセロナ」(『天国の囚人』、p.342/第5部5節)、

「バルコニーや玄関先で揺らめくカンテラやろうそくの仄明かりにぼんやり輪郭を浮かべる亡霊の(まち)」(『精霊たちの迷宮』、上巻、p.72/「ディエス・イラエ - 怒りの日 -」10節)、

「迷宮の母バルセロナ」(『精霊たちの迷宮』、上巻、p.395/「鏡の都市」16節)

だのとバルセロナは本篇中で呼ばれていました。『精霊たちの迷宮』ではまた、作中作

「『精霊たちの迷宮』シリーズの主役のアリアドナが、…(中略)…シリーズの第一巻で、…(中略)…現実のバルセロナと、逆さまのバルセロナのあいだにある門を、それとは知らずにあけてしまう。都市の呪われた虚像、鏡の国……。そのとき足もとで地面がくずれて、アリアドナは永遠につづく螺旋階段を闇にむかって転落し、そのもうひとつのバルセロナにたどり着く、〝精霊たちの迷宮〟にです」(『精霊たちの迷宮』、上巻、p.349/「鏡の都市」8節)

と語られます。「鏡の都市」なる呼び名のゆえんですが、ここで綴られた内容は、四部作全体の鏡像でもあるのでしょう。

◇ ともあれバルセロナに腰を落ちつけて過ごしたことのある者なら、四部作から、いっそう具体的なイメージを積みあげることが大いにできそうなのは、実際のバルセロナをそんなに知らなくても想像するに難くないところです。『風の影』はある知人が薦めてくれたのですが、その人もバルセロナと縁がありました。
 バルセロナについては、見る機会のあったほんのわずかな例でしかありませんが、

岡村多佳夫、『バルセロナ 自由の風が吹く街』(講談社現代新書 1067)、講談社、1991
  地図//
  プロローグ 始まりは終着(テルメ)駅/「四匹の猫」とピカソ/モデルニスムの建築たち/ガウディのある風景/ミロとダリ/1929年万国博の遺産/市民戦争と芸術家たち/エピローグ バルセロナはどこへ//
  主要参考文献など、
  222ページ。

神吉敬三、『バルセローナ 世界の都市の物語3』、文藝春秋、1992
  口絵/地図//
  燃えるスペイン バルセローナは違う/地中海の港湾都市バルセローナ 自由と伝統の街/バルセローナ歴史散歩(一) 観光の中心ゴシック地区を訪ねて/バルセローナ歴史散歩(二) ゴシック地区以外のローマ・中世都市を訪ねて/バルセローナ歴史散歩(三) 大発展をとげる中世バルセローナの新街区/バルセローナ歴史散歩(四) 14世紀市壁内の中世新街区/バルセローナ歴史散歩(五) 1888年の万博で世界に知られた海岸通りとその周辺/バルセローナ歴史散歩(六) 新市街とモデルニスモ建築/バルセローナの美術館・博物館を訪ねて 古くて新しいカタルーニャ美術の伝統//
  バルセローナ年表/参考文献/索引など、
  376ページ。

山道佳子・八嶋由香利・鳥居徳敏・木下亮、『近代都市バルセロナの形成 都市空間・芸術家・パトロン』、慶應義塾大学出版会、2009
  口絵//
  序章 都市空間の変貌()山道佳子)/都市拡張の夢 イルダフォンス・サルダー(1815-76)の理想とバルセロナ(山道佳子)/インディアーノスとバルセロナの都市化(八嶋由香利)/バルセロナ万国博覧会(八嶋由香利)/カタルーニャ・ムダルニズマ その建築家たちとパトロンの系譜(ガウディとグエイを中心に)(鳥居徳敏)/ラモン・カザスの絵画空間(木下亮)/四匹の猫」 バルセロナ前衛芸術運動の諸相(木下亮)
  あとがき/註/参考文献/図版一覧/索引など、
  346ページ。

岡部明子、『バルセロナ 地中海都市の歴史と文化』(中公新書2071)、中央公論新社、2010
  口絵/まえがき/地図//
  地中海交易都市の盛衰 - 囲壁拡張の歴史/19世紀に開架した文化芸術都市 - セルダ、ガウディ、そしてピカソ/待望の自治からフランコの圧政へ - 共和国成立、スペイン内戦、そして独裁/経済成長下の乱開発から都市再生へ - 1950年代~80年代/地中海オリンピック・シティ - FCバルセロナと1992年五輪/「地中海圏の首都」
へ - 21世紀、グローカルな文化戦略
  あとがき/主要参考文献/バルセロナ関連年表など、
  274ページ。

等々をはじめとして、けっこうぽつぽつと言っていいものか、日本でも紹介されてきました。この他、

『カタルニア賛歌 - 芸術の都バルセロナ展』図録、兵庫県立近代美術館、神奈川県立近代美術館、1987
  序文(山脇一夫)//
  世紀末、芸術の都バルセロナ;バルセロナ:カタルニアの首都、スペインの原動力(イジドル・モラス)/
     都市と美術(cat.nos.1-17)/ガウディとカタルニア(ジュアン・バセゴーダ・ノネイ)/モデルニズムの建築とインテリア・デザイン(ミレイア・フレイシア)/
     若きピカソと近代美術運動(cat.nos.18-57)/モデルニズムの絵画とグラフィック・アート(クリスティーナ・メンドーサ)/ピカソとカタルニア(マリア・テレサ・オカーニャ・イ・クマー)//
  カタルニア賛歌;ノウセンティズムと前衛 - 1900年から1936年までのカタルニア美術(フランセスク・フォンボーナ)/
     ノウセンティズム(cat.nos.58-66)/
     前衛美術(cat.nos.67-92)/
     ミロとカタルニア(cat.nos.93-114)/ジュアン・ミロとカタルニア(ローザ・マリア・マレ)/
     ダリとカタルニア(cat.nos.115-127)/ダリとカタルニア - そのアイデンティティをめぐって(ダニエル・ジッラウト=ミラクル)/
    スペイン内戦と美術家たち(cat.nos.128-142)/スペイン内戦と美術(インマクラーダ・ジュリアン)//
    年表/主要参考文献/出品作品一覧など、
    240ページ。

『バルセロナ特別美術展 バルセロナ・アヴァンギャルド Part 1 - 20世紀の巨匠、ピカソ、ミロ、ゴンサレス -』図録、横浜美術館、1990
  「ピカソとミノタウロス」試論(村田宏)/ピカソ 図版・解説//
  《ミロ》 マヨルカ島、パルマ『星座』シリーズ、そして「ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子」(安永幸一)/ミロ 図版・解説//
  鉄の時間《ジュリオ・ゴンサレス》(鈴木久雄)/ゴンサレス 図版・解説//
  文献抄/出品目録など、
  136ページ。

『バルセロナ特別美術展 バルセロナ・アヴァンギャルド Part 2 - カタロニア現代美術 -』図録、横浜美術館、1990
  現代カタロニア美術:再評価の鍵(エロイザ・センドラ・イ・サリーヤス)//
  セルジ・アギラル/フレデリック・アマット/ミケル・バルセロ/ホセ・マヌエル・ブロト/アントニ・クラベ/シャビエ・グラウ/ジュセップ・ギヌバル/ジュアン・エルナンデス・ピジュアン/ラモン・エレロス/ロベル・リモス/ジャウメ・プレンサ/アルベルト・ラフォルス・カサマダ/スサナ・ソラノ/アントニ・タピエス//
  出品目録一覧など、
  72ページ。

『奇蹟の芸術都市 バルセロナ展』図録、長崎県美術館、姫路市立美術館、札幌芸術の森美術館、静岡市美術館、東京ステーションギャラリー、2019-2020
  20世紀初頭にかけてのバルセロナにおける社会的および文化的状況の変革について(フランセスク・フォンボナ)/貞奴と「四匹の猫」の画家たち~日本の舞姫が訪れたバルセロナ~(木下亮)/「四匹の猫:エキセントリックな芸術の砦(フランセスク・キレス・コレーリャ)//
  カタログ;プロローグ/
    都市の拡張とバルセロナ万博/
    コスモポリスの光と影/コラム インディアーノ - 都市近代化の立役者(稲葉友汰)/
    パリへの憧憬とムダルニズマ/
    「四匹の猫」/コラム 近代ギター音楽とカタルーニャ(高瀬晴之)/コラム イジドラ・ヌネイのまなざし(谷口依子)/
    ノウサンティズマ ー 地中海へのまなざし/コラム スポーツとカタルーニャ・アイデンティティ(稲葉友汰)/
    前衛美術の勃興、そして内線へ/コラム アルティガスとミロ(不動美里)/コラム 1937年パリ万国博覧会スペイン共和国パビリオン(野中明)//
  ピカソの絵画形成におけるバルセロナとカタルーニャ美術(アドゥアル・バジェス)/芸術産業の砦としての美術館(マリアンジェルス・フォンデビラ)/カタルーニャにおける日本美術 - 芸術のインスピレーションを得るための新しいモデル(リカル・ブル)/カタルーニャへの前衛芸術導入の過程(松田健児)//
  関連年表/主要参考文献/出品リスト/作家一覧など、
  396ページ。

などなども参照。四部作には実在する地名がいろいろ出てきて、そのあたりを調べたウェブページなどもありそうですが、たとえば、『風の影』でプロローグ扱いの最初の章に続く「1945年-1949年 - 灰の日々」の第1節で早々に登場する「四匹の猫(クアトロ・ガッツ)」(上巻、pp.24-25)については、

 木下亮、「『四匹の猫』 バルセロナ前衛芸術運動の諸相」、上掲『近代都市バルセロナの形成 都市空間・芸術家・パトロン』、pp.245-278

で詳しく取りあげられています。やはり上掲『奇蹟の芸術都市 バルセロナ展』図録(2019-2020)ではカタログ部分の

 「第4章 『四匹の猫』」(pp.149-184)

に加えて、巻頭論文3編中2編が「四匹の猫」を扱っていました。

追補:次の本を見る機会がありました;

Sergi Doria, translated by Graham Thomson, The Barcelona of Carlos Ruiz Zafón. A guide, Editorial Planeta, Barcelona, 2008
原著は Sergi Doria, Guía de Barcelona de Carlos Ruiz Zafón. Editorial Planeta, Barcelona, 2008
『カルロス・ルイス・サフォンのバルセロナ ガイド』
緒言(Sergio Vila-Sanjuán)//
序;文学的都市:使用者用手引き/小説とそこで渡り歩く人物たち//
カルロス・ルイス・サフォンのバルセロナを巡る散策;ランブラ 忘れられた本の墓場/ラバル 天なき声/ゴシック地区 精霊たちの迷宮/リベラ、シウダデラ、バルセロネタ 雑貨店の諸宮殿/カタルーニャ、大学、エンサンチェ 陰謀の諸庁舎/ペドラルベス、サリアー、バルビドレラ、ティビダボ 謎の屋敷群/死都の記憶 死者のための勤め/作り手の影 モデルニスモの歓び//
カルロス・ルイス・サフォンからの拡がりなど、
246ページ。

刊行年からわかるように、取りあげられているのは『マリーナ』、『風の影』、『天使のゲーム』まで。四部作に先立つのが;

 カルロス・ルイス・サフォン、木村裕美訳、『マリーナ バルセロナの亡霊たち』(集英社文庫 サ 4-8)、集英社、2024
 原著は Carlos Ruiz Zafón, Marina, 1999

 そういえば、次の本もありました;

中沢新一、『バルセロナ、秘数3』(中公文庫 な 5-3)、中央公論社、1992
 1990年刊本の文庫化

◇ そういえば

 『青春のバルセロナ』(1987、監督:フェラン・ラゴステラ)

なんて映画もありました。原題は BAR-CEL-ONA で、メインタイトルの際は三つの音節をつなぐハイフンがハート・マークでした。これは後の伏線になっています。見る機会のあったVHSはいわゆるスペイン語ことカスティーリャ語版でしたが、クレジットはカタルーニャ語で記されており、オリジナルはカタルーニャ語版だったようです(→カタルーニャ語版ウィキペディアの該当頁)。
 冒頭で主人公はバルセロナを出てイビサへ旅立とうとしており、また主人公が住んでいた部屋の大家だかは失業中と、当初バルセロナはいささかネガティヴな相を示します。またサグラダ・ファミリアやグエイ(グエル)公園が背景に映ったりするものの、舞台としてはどちらかというと新興区域の方が比重が大きかったような印象がありました。

 ともあれバルセロナが登場する映画は他にも多々あることでしょう。日本語版ウィキペディアに「Category:バルセロナを舞台とした映画作品」という頁がありました(→こちら)。英語版の頁(→こちらの2)やスペイン語版(→こちらの3)も参照ください。2024年10月16日現在、いずれにも『青春のバルセロナ』はなぜか挙げられていないようです、たぶん。


◆ 第一作『風の影』の中には、

「これはねえ、本の物語なんだ…(中略)…
 呪われた本たち、それを執筆した男、その本を燃やすために小説のページから抜けだした人物、裏切りや、失われた友情の物語だ。風の影のなかに生きる愛と、憎しみと、夢の物語なんだよ」(上巻、p.300/「影の都市」8節)

という台詞がありました。先に触れた『精霊たちの迷宮』の、逆さまのバルセロナをめぐる作中作同様、これもまた四部作総体に通じていると見なせるでしょうか。
 さて、四部作では少なからぬ文学作品や文学者の名が折に触れ挙げられますが、作中人物による架空の作品も少なくありません。そんな中、『風の影』は七番目の章の章題であるとともに、

「『風の影』
 フリアン・カラックス」(『風の影』、上巻、p.18/「忘れられた本の墓場」)
(「初版が出たのは、1935年の11月だ」(同上、p.23/「灰の日々」1節))

なる作中作としても登場します。作品と同じ題名の作中作が入れ子として組みこまれているわけです。これは他の三作も同様で、第二作『天使のゲーム』もやはり、その第三幕の章題でもあります。第三作『天国の囚人』は冒頭でさっそく、

「フリアン・カラックス 『天国の囚人』 1992年、パリ リュミエール出版」(p.10)

からエピグラフとして引用されます。パリのリュミエール出版というのも、『天使のゲーム』、上巻、p.50/第1幕3節をはじめとして、その後何度となく出くわすことになるでしょう。戻って『天国の囚人』の本篇も終わり近くになると、

「『天使のゲーム』 ダビッド・マルティン著」(『天国の囚人』、p.356/第5部8節)

が登場します。第四作『精霊たちの迷宮』では、

「精霊たちの迷宮 第七巻
    アリアドナと緋の王子
         カルロス・ルイス・サフォン『精霊たちの迷宮』に登場する螺旋階段風マーク
   文と絵 ビクトル・マタイス」(上巻、pp.18-19/「ダニエルの本」1節、また同、p.202/「キリエ - 主よ、憐れみたまえ -」8節、同、p.476/「鏡の都市」25、下巻、p.580/「1964年」)。

三行目のマークについては別の箇所で、

「本は黒い革の装丁で、表紙にタイトルもなく、螺旋階段を思わせるマークがひとつ刻印されている。螺旋状におりていく階段を天頂からながめたような図柄だ」(上巻、p.113/「仮面舞踏会」5節)

と述べられていました。先に触れた作中作『精霊たちの迷宮』シリーズ第一巻の梗概での「永遠につづく螺旋階段」というイメージが思いだされます。また

「1931年から1938年にかけて、『精霊たちの迷宮』のシリーズが全八巻、バルセロナで刊行されたんですよ」(上巻、p.249/「キリエ - 主よ、憐れみたまえ -」14節)。

 他方最初の章「ダニエルの本」の末尾には

「『精霊たちの迷宮』(「忘れられた本の墓場」第四巻)より抜粋
    フリアン・カラックス著
    エミール・ド・ロジエ・カスタレーヌ編
    リュミール出版、パリ、1992年」(上巻、p.38。下巻、p.592/「1964年」末尾も参照)

と記されます。四部作に先立つ『マリーナ』の「訳者あとがき」にも記されたように、「精霊たちの迷宮」との言い回しは、『マリーナ』ですでに登場していました(p.311);

「ぼくらが来たのは魔法にかかったバルセロナ、精霊たちの迷宮だ。ここでは通りという通りが伝説の名を持ち、時の悪霊(ドゥエンデ)たちが、ぼくらの背後で歩いている」(p.201/19章)。

 おそらく著者にとって、「精霊たちの迷宮」という呼び名は、「現実のバルセロナと、逆さまのバルセロナ」をあわせたバルセロナ総体を指す、あまりにぴったりのものと感じられ、バルセロナを主題にした四部作最終巻の題名として用いずにいられなかったのでしょう。そのことで事後的に、『マリーナ』もまた、四部作の磁場に組みいれられることになりました。そして入れ子構造の総まとめであるかのように、

「《忘れられた本の墓場 小説 全四巻 フリアン・センペーレ著》」(『精霊たちの迷宮』、下巻、p.618/「フリアンの本」3節)

の執筆が予告されるのでした。

 ビクトル・マタイスによる『精霊たちの迷宮』シリーズ全八巻、
 フリアン・カラックスによる「忘れられた本の墓場」の第四巻『精霊たちの迷宮』、
 そしてフリアン・センペーレによる『忘れられた本の墓場』全四巻
と並ぶわけですが、
 マタイス版 < カラックス版 < センペーレ版 (< サフォン版 )
と、先のものが後のものに包含されると単純に言ってよいものかどうか。マタイス、フリアン・カラックス、フリアン・センペーレは皆、四部作の中では実在の人物として同列で、他の誰かが創作したフィクションというわけではありません。カラックス版については本文中では言及されず、その位置づけがよくわからない、たぶん。

◇ なお第四作『精霊たちの迷宮』では、第一作『風の影』で重要な役割を果たし、上でも何度となくその名が見られた作家フリアン・カラックスのある小説について、

「パリの国立図書館の地下に隠れ住む非道な殺人鬼の話なんだが、自分の殺した人間の血で〝悪魔の書〟を書いて、その書物で、ほかならぬサタン(ヽヽヽ)を悪魔(ばら)いしようというわけです」(上巻、p.243/「キリエ - 主よ、憐れみたまえ -」13節)

なんてことが語られます。あきらかに『オペラ座の怪人』に想を得ているのでしょう。『風の影』自体、『オペラ座の怪人』を連想させなくもないお話でした。同時に、第二作『天使のゲーム』がここでの〝悪魔の書〟に重ねられているようでもあります。


◆  第一作『風の影』のプロローグ扱いの最初の章の章題であり、四部作全体の呼び名でもある「忘れられた本の墓場」は、まずその前に立った時、

「時の経過と湿気で門扉が黒ずんでいる。ぼくらの前に立ちはだかる建物は、棄てられた宮殿の亡き骸か、でなければ、残響と影の美術館みたいに見えた」(『風の影』、上巻、p.14/「忘れられた本の墓場」)

と記されます。第二作『天使のゲーム』では;

「センペーレのあとをついて、せまい路地を進んだ。廃墟になりかけた薄暗い建物のあいだの、すきまのような裏通りだ。建物が両側から石の柳みたいにかたむいて、平屋根の描く細長い空を閉じてしまいそうに見える。
 すこし行くと、大きな木の門扉のまえについた。ダムの底に沈んだきり百年も経った古い教会堂(バシリカ)を封じるような趣だ」(『天使のゲーム』、上巻、pp.193-194/第1幕19節)。

扉については、

「錠のかみ合わせは、この場所とおなじほど古い。ぜんまい、梃子(てこ)、滑車、歯車の精密な仕掛けでできていて、十秒から十五秒で結合部分がすべて解除になる」(『精霊たちの迷宮』、下巻、p.434/「アニュス・デイ - 神の小羊 -」18節)。

中に入ると、

「内部は蒼い闇につつまれている。大理石の階段と、天使の像や空想動物を描いたフレスコ画の廊下が、ぼんやりうかんで見えた。管理人らしき男のあとについて宮殿なみの長い廊下を進むうち、父とぼくは、円形の大きなホールにたどりついた。円蓋(ドーム)のしたにひろがる、まさに闇の教会堂(バシリカ)だ。高みからさしこむ幾筋もの光線が、丸天井の闇を切り裂いている。書物で埋まった書棚と通廊が、蜂の巣状に床から最上部までつづき、広い階段、踊り場、渡り廊下やトンネルと交差しながら不思議な幾何学模様をなしていた。その迷宮は、見る者に巨大な図書館の全貌を想像させた」(『風の影』、上巻、pp.14-15/「忘れられた本の墓場」)。

「『忘れられた本の墓場』は独自の幾何学的構造で、二度おなじ場所を通るのは不可能と言っていい」(『精霊たちの迷宮』、下巻、p.380/「アニュス・デイ - 神の小羊 -」10節)。

 ピラネージの《牢獄》を連想せずにはいられますまい。あるいは「怪奇城の図書室」の頁の「7 『薔薇の名前』映画版(1986)からの寄り道:ピラネージ《牢獄》風吹抜空間、他」で挙げた、『薔薇の名前』映画版における書庫を想い起こすこともできるでしょう。
 いずれにせよずいぶん大規模なようですが、広さにせよ最上階の天井までの高さにせよ、どのくらいのものを想定しているのでしょうか? 旧市街のアルコ・デル・テアトロ通り Carrer de l'Arc del Teatre (Calle Arco del Teatro) にあるという設定で(『風の影』、上巻、p.13/「忘れられた本の墓場」)、どんな建物と隣りあい囲まれているのか。
 さて、

「何十年もまえに、おまえのおじいさんに、はじめてつれてきてもらったとき、この場所はもう古びていた。たぶん、このバルセロナとおなじくらいに歴史のある場所だ。いつからここにあるのか、誰がつくったのか、ほんとうに知っている人は誰もいない」(『風の影』、上巻、p.15/「忘れられた本の墓場」)

と、また

「たぶん、このバルセロナとおなじくらい古い歴史があって、(まち)の陰で、都といっしょに育ってきたんでしょう。建物についてわかってるのは、いつの時代にか、この場所にあった城館だとか、教会や、牢獄や、病院の廃墟に建てたもんだってことだね。メインの構造物の起源は十八世紀のはじめだが、以来、どんどん形が変わっていったようですよ。
 『忘れられた本の墓場』はその昔、中世都市の地下通路のしたに隠されていたらしい。異端審問の時代に、偏見にとらわれない知識人たちが、〝禁書〟を石棺のなかに隠したという話もあってね。…(中略)…
 そういえば、十九世紀のなかばに長い地下通路がひとつ発見されて、これがなんと、『忘れられた本の墓場』の心臓部から、ある古い図書館の地下室につづいていたんだね。…(中略)…その地下通路は、どうやら長いあいだ、『忘れられた本の墓場』に通じる主な道のひとつだったようだね。あんたが見ることのできる建物の大部分は、十九世紀のあいだに出来ていったものですよ」(『天使のゲーム』、上巻、pp.198-199/第1幕20節)

とも述べられました。
 主人公ダニエルを導いた父親は、

「ここは神秘の場所なんだよ、ダニエル。聖域なんだ。…(中略)…どこかの図書館が閉鎖されたり、どこかの本屋が店じまいしたり、一冊の本が世間から忘れられてしまうと、わたしたちみたいにこの場所を知っている人間、つまりここを守る人間には、その本が確実にここに来るとわかるんだ。もう誰の記憶にもない本、時の流れとともに失われた本が、この場所では永遠に生きている。それで、いつの日か新しい読者の手に、新たな精神に行きつくのを待っているんだよ」(『風の影』、上巻、pp.15-16/「忘れられた本の墓場」)

と語ります。そして

「この場所にはじめて来た人間には、ひとつきまり(ヽヽヽ)がある。ここにある本を、どれか一冊えらぶんだ。気にいれば、どれでもいい。それをひきとって、ぜったいにこの世から消えないように、永遠に生き長らえるように、その本を守ってやらなきゃいけない」(『風の影』、上巻、p.16/「忘れられた本の墓場」)

と告げるのでした。かくしてダニエルは、

「何百、何千という書物で両側を埋めつくされた渦巻状の通路をめぐった」(『風の影』、上巻、p.17/「忘れられた本の墓場」)。

 本四部作では、第二作『天使のゲーム』を除き、原則として超自然現象は起こりません。「忘れられた本の墓場」の管理人イサック・モンフォルトも普通の人間です。ただ「忘れられた本の墓場」は、大きさといい運営といい、本というもののあり方に基づくのか、何らかの超常性が組みこまれずに存立できるとも考えがたいような気がします。とはいえそうと明言されるわけでもなく、連作の中で存在しつづけるのでした。

◇ ちなみに「怪奇城の図書室」の頁の「エピローグ」で触れた(→このあたり)、

 作:倉田英之、画:山田秋太郎、『R.O.D READ OR DIE』(全4巻、ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ)、集英社、2000~2002

における〝埋蔵図書館〟や、

 山田正紀、『ミステリ・オペラ 宿命城殺人事件』(ハヤカワ・ミステリワールド)、早川書房、2001

での〝検閲図書館〟などと比べることもできるでしょうか。そこでの引用と重複しますが、前者は

「あるはずのない本が揃っているといわれている」(第2巻、p.36)
「それらの失われたはずの本が収納されているとされる」(同、p.38)、

後者は

「発禁になった本、検閲にあって抹消された本、歴史に抹殺された本……そうした書籍ばかりを集めている図書館」(p.181/第2部第4章5)
「異形の、いわば〝反世界・図書館〟」(p.20/プロローグ)

というものでした。歴史の表舞台に対する舞台裏、現存に対する不在、現勢態(エネルゲイア)完全現実態(エンテレケイア)に対する潜勢態・可能態(デュナミス)、已発に対する未発の相に還帰した本が集まるところという点で、いずれも共通していると見なせるでしょうか。この点では、やはり「怪奇城の図書室」の頁の「エピローグ」で触れた(→このあたりの2)、

 諸星大二郎、『栞と紙魚子と夜の魚』(眠れぬ夜の奇妙な話コミックス、朝日ソノラマ、2001)中の「古本地獄屋敷」

も忘れるわけにはいきますまい。

◇ 第4作『精霊たちの迷宮』では、マドリードの国立図書館が登場します(上巻、p.230. ff.)。

「そのドアの向こうに、国立図書館の地下におりる階段があります。どの階も何百万という書物のある廊下が永遠につづいて、その多くが揺籃期本(インキュナブラ)です」(上巻、p.238/「キリエ - 主よ、憐れみたまえ -」12節)

と述べられた少し後には、図書館とは別に、

「19世紀の末、文学カフェと幽霊サロンの形の〝島〟が、世界という大陸から剥離した。以来〝島〟は時間のなかで凍結して、歴史の潮流のままに空想上のマドリードの大通りをただよい、国立図書館の城館近くでよく座礁した。〝島〟は〈カフェ・ヒホン〉の旗を翻し、精神や味覚に飢えて流れつく遭難者を救うべく、波間に浮かぶ巨大な砂時計のごとく待っている」(上巻、p.254/「キリエ - 主よ、憐れみたまえ -」14節)

といったくだりもありました。規模の大小を別にすれば、現実の歴史からずれた場という点で、〝忘れられた本の墓場〟に通じるところがあると見なせるのではありますまいか。ただしカフェ・ヒホン Café Gijón は実在します→スペイン語版ウィキペディアの該当頁


◆ 「忘れられた本の墓場」に入った時を描写した先の引用中に、「天使の像」のことが触れられていました。多くはそうした建物等の装飾なのですが、四部作を通じてちょこちょこ出くわしたような気がします。逐一チェックしたわけでもないので、曖昧な印象でしかありません。ただ先行作『マリーナ』の「訳者あとがき」に、

「『忘れられた本の墓場』シリーズの壮大なロマンを展開する〝幻想と迷宮の(まち)〟バルセロナは、『マリーナ』で早くもそのアイデンティティーを確立し、サフォンお気に入りの天使やドラゴンのモチーフもお目見えする」(p.311)

と記されていましたので、まんざらはずれでもなさそうです。『精霊たちの迷宮』である人物は、

「天使とか霧とか名のつくものに、ぼくは、ことごとく興味をひかれ…(後略)…」(下巻、p.609/「フリアンの本」2節)

と述べます。

「告発の天使の鉤爪」(『風の影』、下巻、p.376/「風の影」3節)

なんてイメージも見られました。

 他方ドラゴンについて、天使ほど頭に残らなかったのは当方の回路のせいだとして、たとえば先に触れた「四匹の猫(クアトロ・ガッツ)」のくだりでは、

「路地角の陰に沈む入り口が、石のドラゴンに護衛され、ガス灯が時と追憶をそのまま残している」(『風の影』、上巻、p.25/「1945年ー1949年 - 灰の日々」1節)

と描写されていました。上で挙げた木下亮、「『四匹の猫』 バルセロナ前衛芸術運動の諸相」、p.253 図1 の写真や、英語版ウィキペディアの該当頁(→こちら)に掲載された写真などもご覧ください。

 第四作『精霊たちの迷宮』では、〈吸血鬼〉の語に何度となく出くわすことになります。最初に出てくるのは先に触れたマドリードの国立図書館にまつわるくだりですが(上巻、pp.238-239/「キリエ - 主よ、憐れみたまえ ー」12-13節)、その後は多くの場合主人公アリシア・グリスに重ねあわされることでしょう。


◆ 古本屋「センペーレと息子書店」や「忘れられた本の墓場」が海に近い旧市街にあるのに対し、山の手の地区に建つ館や屋敷の類が、四部作ではしばしば重要な舞台となります。この点は前作『マリーナ』でも同様でした。四部作や『マリーナ』を読んでいると、バルセロナの山の手は、住む人もいなくなった宏壮なお屋敷だらけというイメージを刷りこまれずにいられましょうか。
 さて、『風の影』三番目の章「1954年 風の影」で主人公ダニエルは、まず地下鉄で

「電車が都市の腹をくぐってティビダボの丘のふもとまで」(『風の影』、上巻、p.238/「1954年 影の都市」4節)、

「ふたたび外の世界に出たとき、別のバルセロナに出会った気がした」(同上)。

そこから路面電車に乗り換える;

「木々の影をなでながら、古城の風格をもつ豪邸の石塀や庭園を順に見おろしていく。彫像や噴水池、厩舎、秘密の礼拝室が、こんな大邸宅の内部にぎっしりつまっている様子を、ぼくは想像した」(同、p.239)。

その先にアルダヤ邸こと〈靄の天使〉(同、p.396)がありました。1899~1900年に〈靄の天使〉を建てさせたサルバドール・ハウサに関して、

「そのころのティビダボ通りは、まだ比較的さびれた場所だった。…(中略)…人里離れた場所にこの男が唯一望んだのは、天使像のある庭園で…(中略)…庭に七つの頂点をもつ星を描いて、その頂点に天使像を一体ずつ立てなければならない」(同、p.400/「1954年 影の都市」15節)

と語られています。
 第四作『精霊たちの迷宮』では、やはり山の手の「ラス・アグアス通りのそばの豪勢な館」(上巻、p.560/「鏡の都市」35)が登場します。その主で小説家のビクトル・

「マタイスが館の〝デラックス・ツアー〟に招待してくれたが、すくなくとも鳥肌がたちましたよ、…(中略)…どこにも行きつく先のない階段があったり、鏡が妙な並び方をする廊下があって、そこを通ると誰かにつけられている気になったり」(上巻、p.562/「鏡の都市」35節)

と、さながらウィンチェスター・ハウスです。


◆ なお先の『風の影』からのくだりの前後に、

「その時代のバルセロナは、すでに近代主義(モデルニスモ)の熱につつまれていた」(上巻、p.399/「影の都市」15節)

という一文がありました。〈近代主義(モデルニスモ)〉の語もぽつぽつ見かけたような気がします。カタルーニャ語読みでムダルニズマについては、上掲の諸書の他、

ウリオール・ブイガス、稲川直樹訳、『モデルニスモ建築』、みすず書房、2011
  原著は Oriol Bohigas i Guardiola, Reseña y catalogo de la arquitectura modernista, 1983
  再版へのまえがき//
  年代と地理の範囲/用語としての「モデルニスモ」/芸術と産業/新様式を求めて/ガウディとドゥメナク=イ=ムンタネー/表現主義と合理主義/ウィーンのこだま/記念碑と居住性/モデルニスモの盛衰/モデルニスモの建築言語//
  訳者あとがき/モデルニスモ関連年表/索引など、
  362ページ。

などを参照ください。サグラダ・ファミリア(『天使のゲーム』、上巻、p.125/第1幕12節、『精霊たちの迷宮』、上巻、p.203/「キリエ - 主よ、憐れみたまえ -」8節)に言及されたり、ガウディの名が挙がったりもしました(たとえば『天使のゲーム』、上巻、p.213/第1幕24節、同、p.303/第2幕8節)。ただまたもやあやふやな主観的印象以上ではないものの、設計者名抜きで〈近代主義(モデルニスモ)〉の建築と名指されたりする方が、むしろ多かったたような気がします(たとえば『天使のゲーム』、上巻、p.392/第2幕20節、下巻、p.104/第2幕34節)。

「二十世紀の夜明け、(かね)がまだ香水のかおりを放ち、莫大な財産が相続よりも舞台演出に使われていた当時に、偉大な工芸職人たちの魔法と、ある金満家の虚栄心との怪しいロマンスから生まれた近代主義様式(モデルニスモ)の城館が空から落ちてきて、バルセロナの良き時代(ベルエポック)の嘘みたいな飛び地に永久に嵌りこんだ。
 いわゆる〝ペレス・サマニージョ邸〟は半世紀のあいだ夢を誘うように、それとも来るべきものの予兆として、バルメス通りとディアゴナル通りの角地を占めてきた」」(『精霊たちの迷宮』、上巻、p.344/「鏡の都市」8節)

とある〝ペレス・サマニージョ邸〟(Casa Pérez Samanillo, 1910 →カタルーニャ語版ウィキペディアの該当頁)や、「エル・ピナール」(同、下巻、p.55/「忘れられた者たち」6節;El Pinar = Casa Arnús, 1903 →仏語版ウィキペディア該当頁)のような実在の建物も出てきます。ウリオール・ブイガスの上掲『モデルニスモ建築』(2011)には、

「建築史上で重要と考えられたこの時代の国々のどこをみても、カタルーニャほど作品の総体が高密度かつ広範に普及した地域はない。イギリスにおけるウィリアム・モリスも、ベルギーにおけるヴィクトール・オルタも、スコットランドにおけるマッキントッシュ、あるいはオーストリアにおけるオットー・ワーグナー、さらにはオランダにおけるベルラーヘも、カタルーニャのモデルニスモ建築家ほどの密度で作品を残してはいない。他のいかなる国においても、新様式を求める『近代建築の第一世代』の冒険がこれほどおびただしい作品を生んだことはなかったし、ほとんど大衆的と呼べるほどの表現の形をとり、しかもそれがこれほど広い地理的範囲に根を下ろしたことはなかった」(p.19/Ⅰ章)

とありました。バルセロナではムダルニズマ/モデルニスモの建築がそれだけ当たり前のもので、バルセロナ生まれの著者にとって慣れ親しんだイメージなのだと見なしてよいでしょうか。


◆ 〈靄の天使〉に戻ると、

「ヴィクトリア朝のゴシック小説的概念からして、まず地下からさがしはじめるのが妥当だろうと考えた」(『風の影』、下巻、p.113/「1954年 影の都市」21節)、

「ヴィクトリア朝文学の読書体験が、こんどこそ役に立った」(同上、p.116/同上)

なんてくだりも見られました。第四作『精霊たちの迷宮』の「訳者あとがき」に、

「『風の影』が青春ミステリー、
 『天使のゲーム』が〝ファウスト〟的幻想ゴシック小説、
 『天国の囚人』が〝モンテクリスト伯〟風冒険譚とすれば、
 『精霊たちの迷宮』は極上のサスペンス」(下巻、p.677。改行は当方による)

とまとめられており、先行作『マリーナ』の「訳者あとがき」でも

「ゴシック・ロマンの香りが全編にただよう」(p.309)

と形容されていました。先に『精霊たちの迷宮』中の作中作のくだりで『オペラ座の怪人』を引きあいに出しましたが、『マリーナ』と『天使のゲーム』以外の作品、とりわけ『風の影』も、ゴシック・ロマンス的色彩は強いように思われます。それは『風の影』における〈靄の天使〉や、『天使のゲーム』での、旧市街・フラッサデース通り(Carrer dels Flassaders ?)30番地の〈塔の館〉(上巻、p.86/第1幕7節)といった宏壮な館が、それぞれの物語で占める位置にも現われていたのではありますまいか。〝忘れられた本の墓場〟の屋内の描写もそうでしたが、そういった建物の記述や、その中を移動する場面にちょこちょこ出くわしたような気がします。たとえば〈靄の天使〉についてフリアン・カラックスの

「小説『赤い家』のなかで、この館は外から見るよりも、内部に広がりをもつ陰鬱な屋敷として登場します。家は形をゆっくり変えてゆき、廊下や回廊、ありそうにもない屋根裏部屋や、どこにも行きつかない終わりのない階段が成長していく。突然あらわれたり消えたりする暗い部屋に光が照らされて、うっかりそこに入りこんだ者は、もう二度と人まえに姿をあらわすことがないのです」(『風の影』、下巻、p.302/「ヌリア・モンフォルト - 亡霊の回想」10節)

とか、

「この館は廊下や部屋を自在に動かす能力をもつ生き物(ヽヽヽ)で、ぼくを逃さないつもりなのかと、そんなことまで考えた」(『天使のゲーム』、下巻、p.131/第2幕36節)

と述べられたりします。また

「時計だらけのバルセロナを走っている夢を見た。時計の針という針が、逆に回っている。路地や大通りが生きた迷路と化して、まるで自分の意志をもつトンネルみたいに、ぼくが行こうとする先からよじれ曲がり、いくらこちらが進もうと思っても、その先々で邪魔をした」(『天使のゲーム』、下巻、pp.152-153/第2幕40節)

と、「怪奇城の地下」の頁の「2. 地中世界諸相」で触れた〈生成迷路〉(→そのあたり)めいたイメージも登場しました。〈塔の館〉の設計図について、

「これを見ると、廊下の奥の部屋は四十平方メートルになってるでしょ。これがまた、とんでもない話でね。二十平方メートルもありゃ、御の字ですわ。あっちゃいけない場所に壁があるんですから。排水口ときたあかつきには、こりゃもう、言わぬがホトケ。あるはずの場所に一本もないとくる。…(中略)…
言っときますが、lこの家はジグソーパズルですからね」(『天使のゲーム』、上巻、p.93/第1幕8節)

なんて語られます。ちなみに『天使のゲーム』では、〈塔の館〉以外の建物、新聞社に隠し通路が設けられていたりしました(下巻、p.41/第2幕27節)。


文学や建築に比べると美術への言及は多くないものの、皆無というわけではありません。上で触れた「四匹の猫(クアトロ・ガッツ)」のくだりでは、

「一歩なかに入れば、人びとが過ぎし時代の余韻と溶けあい、会社員や夢想家や芸術家の卵たちが、パブロ・ピカソと、イサック・アルベニスと、フェデリコ・ガルシア-ロルカと、あるいはサルバドール・ダリと、おなじテーブルをわかちあっている」(『風の影』、上巻、p.24/「灰の日々」1節)

と記される。そこで挙がった名の内、ダリについては、

「ダリが描きそうな溶けたパエリア鍋」(『天国の囚人』、p.52/第1部8節)

なるくだりが見られました。またとある剥製職人が登場した際、彼が

「何カ月かまえ、かのサルバドール・ダリがそこのドアから入ってきて〝二十万匹の蟻を剥製にできないか?〟って言うわけですよ。嘘じゃない。それは無理な相談だって答えたら、ダリは〝昆虫と枢機卿たちの祭壇画に、よかったら奥さんの肖像を描いてあげましょう〟と言いだしてね」(『精霊たちの迷宮』、上巻、p.402/「鏡の都市」17節)

と物語る一幕がありました。何か元になるエピソードでもあるのでしょうか?
(ダリに関連して、→そちらも参照:「オペラ座の裏から(仮)」の頁の「3-7 テアトロ・オリンピコ、他」)

 『精霊たちの迷宮』の物語が展開する1959~1960年頃のバルセロナでは、タピエス(タピアス)がアンフォルメルに棹さす作風を確立してすでに数年経っていましたうが、前衛的な傾向の担い手の一人だったその名が見られないのはさておき、ミロも触れられないというのは、ある意味で面白い点かもしれません
 よりオーソドックスなところでは、

「近代の印象派的画家ソロージャ、黄金世紀のスルバラン、かのベラスケスや、ゴヤ」(『精霊たちの迷宮』、上巻、p.110/「仮面舞踏会」4節)

の名が並べられる箇所がありました。その内ゴヤについては、

「やせた小柄な男で、顔全体が大きな鼻に収斂し、どことなくゴヤの描いた人物ふうだ」(『精霊たちの迷宮』、上巻、p.305/「鏡の都市」3節)

というくだりも見られます。

◇ またソローリャ(ソロージャ、ソローヤ)に関して、

「ソロージャの絵画みたいな太陽がまぶしく輝くだろうと、堅く信じていた」(『精霊たちの迷宮』、下巻、p.561/「バルセロナ」1節)。

との文言がありました。

 平野文千、「ホアキン・ソローリャ《漁の帰り》 ー ナチュラリズムを中心に ー」、『成城美学美術史』、24号、2018.3、pp.95-119 [ < 成城大学リポジトリ

の冒頭に、

「ホアキン・ソローリャ・イ・バスティーダ(Joaquín Sorolla y Bastida 1863-1923)は19世紀末から20世紀初頭のスペインを代表する画家である。『光の画家』と呼ばれ、スペインの風景や人物を陽光の下で明るく豊かな色彩で描いた。とりわけ画家は海辺の情景にこだわり、生涯に渡って描き続けた。海水浴をする子どもや海辺を散歩する女性たちを描いた《海辺の少年》(図1)や《海辺の散歩》(1909年、ソローリャ美術館)がよく知られ、代表作とされている」(p.95)

とあって、「ソロージャの絵画」と「太陽がまぶしく輝くだろう」眺めとの結びつきは、一般に広まっているようです。
 さらに四部作に先立つ『マリーナ』で、

「ホアキン・ソロージャの油絵から抜けでたようなワンピース」(p.29/3章)

というくだりがありました。
 ソローリャの絵を連想させた少女の着ていたのが「白いワンピース」であるとすぐ前に記されていますが、連想されたソローリャの絵のワンピースも白いものととってよいのでしょうか。ソローリャに馴染みがあると感じるスペインの人にとって、その名がただちに、白いワンピースを代名詞とするほど、そうしたモティーフを描いたと見なされているのかどうか、いささか気になったのでした。
  手元にある図録

Catálogo de la exposición Sorolla (Fondos del Museo Sorolla), Centre Cultural Bancaixa, Valencia, 1995
  同時代の国際的絵画の枠組みの中でのソローリャ(Francesc Fontbona)/ホアキン・ソローリャへの接近(Felipe Vicente Garin Llombart)/ソローリャ:根っからの旅人(Florencio de Santa-Ana)/ホアキン・ソローリャ、人と芸術家(Blanca Pons-Sorolla Ruiz de la Prada)//
  カタログ;cat.nos.1-51 ソローリャ美術館所蔵品/引用展観/引用文献/年譜//
          cat.nos.A-M バンカハ Bancaja 所蔵品/展覧会歴/文献など、
  188ページ。

に掲載された64点の内には、風景画もあれば静物画も混じっているのですが、白いワンピースらしきものを描いた作品が7点(cat.no.5, 6, 10, 19, 20, 30, 51,)、?マークが5点(cat.no.7, 47, H, J, L)、ついでに白い上下の男性が登場する絵が2点(cat.no.26, L)ありました。7点中1点(cat.no.5)は4歳の息子を、おそらく室内でモデルにしたもの、やはり室内らしき1点(cat.no.6)、それ以外は屋外、多く海辺で描かれたものです。
 もとよりそうした衣服が実際にあったから描いたのだとして、ただ屋外の光の中、明るめで大振りな、しばしば帯状をなす色面にはさまれるように配された、白という色が、薄い青灰色の陰影を施されつつ、画面全体の明るい輝きを押しあげるという、積極的な役割を果たすものとして扱われています。
 「バルコニー、ヴェランダなど - 怪奇城の高い所(補遺)」の頁の「2-ii 露台や屋上の点景人物など」でも触れた拙稿「花嫁装束再び ー ダニ・カラヴァン『斜線』の上を歩きながら -」(→あちら)で、画面の中で白が小さからぬ役割を果たす作例いくつかを取りあげたことがあるのですが、ソローリャもそうした系列につなげられそうです。

 ともあれ上の箇所で念頭に置かれていたのがどんな作品なのかはわかりませんが、上の図録掲載作とは別に、平野文千論文の冒頭で代表作の一つとされていた《海辺の散歩》を右に挙げておきましょう。
ソローリャ 《海辺の散歩》 1909
ソローリャ(1863-1923)
《海辺の散歩》 1909*

* 画像の上でクリックすると、拡大画像とデータを載せた頁が表示されます。

◆ 第二作『天使のゲーム』である人物が、

「文学もそうですし、ほかのどんな伝達行為でもそうですが、効果を生みだすのは、形式であって、内容ではない」(上巻、p.222/第1幕24節)。

と語ります。同様に、

「きみに期待するのは形式(ヽヽ)であって、内容ではありません」(『天使のゲーム』、上巻、p.312/第2幕8節)、

「われわれは、歌詞で歌を理解していると思いこんでいるが、その歌を信じさせるかどうか、きめるのは曲でしょう」(同上)。

 形式主義(フォルマリスモ)的な美学というわけですが、もとより登場人物の見解と著者のそれとが同じと見なすことはできませんが、第四作『精霊たちの迷宮』で別の人物が、

「文学に存在する真の課題はひとつ、なにが語られるかではなく、どう語られるか、それ以外は、飾り格天井のようなものだと」(『精霊たちの迷宮』、下巻、p.474/「イサベッラのノート」2節)

と述べ、さらに別の人物も

「日を追うごとに核心を強めたのは、良質の文学というのは〝インスピレーション〟だの、〝書きたいものがある〟だのという軽薄な幻想とは、ほぼ無縁だということ。それよりも文体の工学や、叙述の建築構造、構成要素の描写、構文の響きや彩色、イメージの写真術、言葉のオーケストラが奏でうる音楽に関係するということだ」(『精霊たちの迷宮』、下巻、pp.612-613/「フリアンの本」3節)

と記していました。『天使のゲーム』での台詞は編集者アンドレアス・コレッリのもの、『精霊たちの迷宮』の最初の引用は章題にあるとおりイサベッラが、同書からの第二の引用もやはり章題のフリアン・センペーレが語ったものでした。コレッリの話し相手は一人称の語り手ダビッド・マルティンですが、他方イサベッラに上の意見を述べたのもダビッド・マルティンです。
 『天使のゲーム』で物語られた事件に対して、第三作『天国の囚人』と第四作『精霊たちの迷宮』では、あるねじれが施されるのですが、作品をまたいだその現われをここで読みとれるかどうか、いささか考えすぎのような気がしなくもありません。
 他方、フリアン・センペーレはイサベッラの孫なのですが、語られた内容が関連づけられているわけではない。
 いずれにせよ、著者の見方と登場人物のそれを同一視してならないのに変わりはないにせよ、著者にとってなにがしか引っかかる考え方と見なすことはできるでしょうか。

◇ うがったことを口にする割りにその後登場することもなかった、ある水彩画家は、

「作品が仕上がることは絶対にない。秘訣は、未完のまま、どこで打ち切るかを知ることです」(『精霊たちの迷宮』、上巻、p.468/「鏡の都市」24節)

と語ります。また別の人物も曰く;

「カラックスがぼくに教えてくれたのは、本というのは、けっして書きおわらないということ、運がよければ、本の方がぼくらを見放して、半永久的に書き返さなくてもすむようにしてくれるということだ」(『精霊たちの迷宮』、下巻、p.664/「フリアンの本」3節)。


◆ 映画も何度か触れられていましたが - たとえば『風の影』、上巻、pp.402-405/「影の都市」15節 -、その中で当サイトにとって感慨深かったのが、

「いや、ベルナルダから、あなたはボリス・カーロフのスペイン版だわ、なんて言われてるもので」(『風の影』、下巻、p.128/「影の都市」22節)

という台詞でした。この章は1954年の出来事が語られています。1940年頃が舞台だという『ミツバチのささやき』(1973、監督:ビクトル・エリセ)における、ボリス・カーロフが出演した『フランケンシュタイン』(1931)ほど重要な役割を担っているわけではありません。ただ1964年生まれの著者サフォンにとって、ボリス・カーロフの映画というのは、あくまで歴史的な回顧の対象でしょう。これは当サイトにとっても同じですが、当サイトが抱かずにはおれないカーロフに対する畏敬の念を、ある種のゴシック趣味の持ち主とおぼしきサフォンも共有しているかどうかは、しかし冗談口調の上の台詞だけでは何とも言えない。

◇ 他に題名の挙げられた映画として、『精霊たちの迷宮』では、

「『第三の男』と『ストレンジャー』の二本立て」(上巻、p.448/「鏡の都市」22節)

を上映している映画館が出てきます。IMDb によると『第三の男』(1949、監督:キャロル・リード)は1950年スペイン公開、『ストレンジャー』(1946、監督:オーソン・ウェルズ)はスペインでは劇場未公開だったのでしょうか。
 『第三の男』はやはり1954年の出来事を綴る『風の影』、下巻、p.190/「影の都市」29 で、ある登場人物の自称として用いられていました。

◇ なお『天使のゲーム』第1幕25節で綴られる夢からは(上巻、pp.229-232)、水のイメージ、その中での浮遊、通路ならぬ階段を進んだ先での、人の輪のただ中の手術台など、『血とバラ』(1960)における夢のシークエンス(→あのあたり)が連想されたことでした。


◆ 『天使のゲーム』で主人公ダビッド・マルティンが「忘れられた本の墓場」で見つけたD.M.『不滅の光(ルクス・エテルナ)』(上巻、p.204/第1幕21節)は、

「いわゆる〝死者たちの書〟のようなもの」(『天使のゲーム』、上巻、p.262/第2幕3節)

で、

「ろくな韻律もない詩もどきに、たびたび表示される〝死〟は、爬虫類の目をした白い天使や、光り輝く子どもの姿を借りているが、唯一普遍の神格をもつ存在として紹介され、自然や、欲望や、人間の弱さのなかにあらわれる。…(中略)…
D.M.によれば、はじめと終わりがあるだけ、創造し、破壊する唯一の主がいるだけで、その存在が、様々な名前で登場しては、人間を混乱におとしいれたり、人間の弱みにつけこんで誘惑したりする。この唯一神がもつ真の顔は、ふたつに分かれている。半分は甘く慈悲にみち、もう半分は残忍で悪魔的なのだ」(『天使のゲーム』、上巻、pp.262-263/第2幕3節)

と記されているという。別の箇所では、

「自然とは、昔の詩人たちが(うた)った妖精(シルフィード)などではない。自分が生きつづけるために、つぎつぎ子を産んでは食べて栄養にしていく、残酷で貪欲な母ですから」(『天使のゲーム』、上巻、pp.310-311/第2幕8節)

と、サド風の自然観が語られたりもしました。これらもまたそのまま著者の見解ととることはできませんが、発想源が気になるところではありました。『不滅の光(ルクス・エテルナ)』の神学については、ヤーヌスや両面宿儺、また「天使、悪魔など」の頁の「ii. 悪魔など」で挙げた

 エリアーデ、宮治昭訳、「第2章 悪魔と両性具有 - 全体性の神秘 -」、『悪魔と両性具有 エリアーデ著作集 第6巻』、せりか書房、1973、pp.102-167

や、「北欧、ケルト、スラヴなど」の頁の「iii. スラヴ、フィンランド、古ヨーロッパなど」で挙げた

 ミルチャ・エリアーデ、「創造者とその〈影〉」、中村恭子編訳、監修:堀一郎、『宗教学と芸術 新しいヒューマニズムをめざして エリアーデ著作集 第13巻』、せりか書房、1975、pp.204-239、

あるいはカバラーにおける神性の構造であるセフィロートの樹の〈左側〉が連想されなくもないかもしれません。たとえば、

 Gershom Scholem, Kabbalah, New American Library, New York, Scarborough, Onatario, 1978, pp.55-56, 123-126, 321-323

などを参照。

 
2024/10/23 以後、随時修正・追補
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