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怪奇城の肖像(幕間) - 実在する古城など
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i. イタリア 『吸血鬼たち』(1957、監督:リッカルド・フレーダ)に始まるイタリアの怪奇映画では時として、実在する古城で撮影された画面を見かけることがあります。「怪奇城の画廊(幕間)」の頁で触れた『怪奇な恋の物語』(1968、監督:エリオ・ペトリ)では、ヴィッラが三軒登場、その内の一軒が主な舞台でした(→こちら)。本サイトですでにとりあげたものでは、1460年に築城された*、 バルソラーノのピッコローミニ城 Castello Piccolomini di Balsorano に何度か出くわしました。 * 以下、築城等の年代は、作品の頁で挙げたものを始めとして、公式サイトやウィキペディアの該当頁などから拾いました。ただし本頁で記したもの以外にも、それぞれの城は、その起源から現在に至る間に、改築・修復・再建など、さまざまな紆余曲折を経ているはずです。 |
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それぞれ 左上は『女ヴァンパイア カーミラ』(1964→そちら)、 上は『惨殺の古城』(1965→あちら)、 左は『イザベルの呪い』(1973→ここ) からで、五角形をなす城壁とその角に配された円塔を低い位置から見上げる印象的な眺めが共通しています。 |
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なお『女ヴァンパイア カーミラ』と『イザベルの呪い』では、屋内の場面もピッコローミニ城で撮影されました。セットも混じっているのでしょうが、屋内の階段や食堂ないし広間など、両作品で共通した場所が見られます。 他方『惨殺の古城』の屋内は、 アルテーナのパラッツォ・ボルゲーゼ Palazzo Borghese, Artena でロケされたとのこと。13世紀まで遡れる2つの建物を、1616年から1623年にかけて結びつけ、改築したというこちらの城も、なかなか興味深い空間を欠いてはいません。『吸血鬼と踊り子』(1960、監督:レナート・ポルセリ)や『グラマーと吸血鬼』(1960、監督:ピエロ・レニョーリ)などでも出会えます。 仰角で山上の城をとらえた眺めという点で通じるのが、左下、『生きた屍の城』(1964)における、1485年に完成したという ブラッチャーノのオデスカルキ城 Castello Odescalchii di Bracciano です(→そこ)。やはりセットも混じっているのでしょうが、屋内もこの城で撮影された場面があるようです。他方庭園はボマルツォの聖なる森がロケ地でした。 ちなみに本作と同年の『女ヴァンパイア カーミラ』にはともに、クリストファー・リーが出演しています。短い期間の間に立て続けに、こっちの城そっちの城あっちの庭園と飛び回っていたわけです。自伝で述べている順序通りだとすると、 Katarsis (1963、監督:ジュゼッペ・ヴェッジェッツィ、未見、オデスカルキ城で撮影)、 すぐ後で触れる『白い肌に狂う鞭』(1963)、 『顔のない殺人鬼』(1963)、 『女ヴァンパイア カーミラ』、 『生きた屍の城』 となります(Christopher Lee, Tall, Dark and Gruesome, Midnight Marquee Press, Inc., Baltimore, Maryland, 1977/1997/1999, p.187)。 |
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右は『世にも怪奇な物語』第2話(1968)から、相似た視角で同じ城をとらえたもの(→あそこ)。こちらは少し映るだけでした。とはいえカメラが左下へ振られ、壁にはさまれた入口らしきところを見せてくれたのがミソになっています。 |
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すぐ下の二場面は『血ぬられた墓標』(1960)から(→こっち)。右下のショットはティム・ルーカスによると、複数のマット画用ガラスを重ねて合成されました(Tim Lucas, Mario Bava. All the Colors of the Dark, Video Watchdog, Cincinnati, Ohio, 2007, pp.306-307)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
左上の場面も同様なのかもしれません。他方いずれの場面でも、上方が広くなった円塔が見られます。この塔は、城への入口近くから見上げた左の場面で、よりはっきり見ることができました。 アルソリのマッシモ城 Castello Massimo, Arsoli にほかなりません。 城は10世紀に遡りますが、ファブリツィオ・マッシモ Fabrizio Massimo (1536–1633) が1574年に入手、建築家ジャコモ・デッラ・ポルタ Giacomo della Porta (1532-1602) に改修させたとのことです(→"CASTELLO MASSIMO” [ < Life in italy ])。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
屋内場面のほとんどはセットで撮影されたようですが、一部、ガラスのない窓が開いた部屋などはマッシモ城のようです(→そっち)。 マッシモ城は『ヴェルヴェットの森』(1973)にも登場します(→あっち)。上ひろがりの塔も右下の場面で見られました(→こなた)。屋内はやはりセットでの撮影のようです。 |
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以上三つの城はいずれも、実際にどの程度の高さなのかはさておき、山か丘の上に聳えていると見えるように映されています。日本でいう〈山城〉ないし〈平山城〉に当たるのでしょう。三軒とも築城ないし改修の時期はルネサンス期に入っていますが、高い城壁は軍事的な機能の名残を引きずっているわけです。 他方怪奇映画的な文脈では、そうして過去から積もってきた幾重もの層の上に築かれつつ、周囲の土地から境界によって隔てられ、封印された領域を示すことになります。〈平城〉であっても、そうしたあり方は基本的には変わりますまい。城や館であるという、それだけで、奇怪な現象が起こるための充分条件は備えているはずです。ただ〈山城〉では、隔絶感がいっそう強調されるのでしょう。これは本幕間の頁でとりあげるような実在する城の場合以上に、後篇の頁で見る予定の、マット画や模型による古城のイメージにおいても確認できるのではないか、と予想することができそうです。 その際、海や湖に面した崖の上に建つ城ないし館、というパターンがあります。岬とその絶壁は、やはりこの世界から異界へ突きでた橋頭堡ということになるのでしょう。ただし意味づけや機能は後からついてくるか、せいぜい同時に成立するのであって、イメージとその空間的布置こそが先立っているはずです。 |
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左は『血ぬられた墓標』同様マリオ・バーヴァが監督した『白い肌に狂う鞭』(1963)から(→そなた)。丘の上の城は、 ヴァッレ・ダオスタ自治州にあるフェーニス城 Castello di Fénis, Valle d'Aosta (主に1320 年から 1421 年) の絵はがきから切り抜いたイメージを、マット画用ガラスに貼りつけたものとのことです(Tim Lucas, op.cit., p.524。追補:→「怪奇城の肖像(完結篇)」の頁でも触れました)。屋内の場面については、セットを含みつつ、作品の頁でメモしたように、不明の点が残ります(→そなたの2)。 |
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こちらは平らな土地に建っているように見えます。映画の中では、地下墓所のすぐ外が崖か何かになっているという話も出るのですが(画面には映らない)、それはおくとして、同じくバーヴァの『呪いの館』(1966)でのグラスプ城は、[
IMDb ] や [ il Davinotti ]によると、 グロッタフェッラータにあるヴィッラ・グラツィオーリ Villa Grazioli, Grottaferrata (1580年) とのことで、当作品の頁でも「怪奇城の画廊(後篇)」の頁でも従ってきました(→あなたや、また→こちら)。ただあらためてルーカスの本を見ると、 フラスカーティのヴィッラ・ランチェロッティ Villa Lancelotti, Frascati (1582年) となっています(Tim Lucas, op.cit., p.668)。伊語版ウィキペディアの" Ville Tuscolane"の頁(→そちら)には、場所は近い位置にあるものの別々の建物として挙げられていました。画像で見るかぎり、ファサード(画面に映るのがそうだとして)の一階中央に、半円アーチのフランス窓が五つ並ぶヴィッラ・グラツィオーリのように思われます(一つは陰に入っているのか、画面には四つしか映らないのですが)。 なお右上の場面で奥に見えるのは、館の中のある部屋を飾る、館を描いた大きな絵です(→あなたの2)。写真を用いたのでしょうか。 |
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『亡霊の復讐』(1965)ではやはり フラスカーティのヴィッラ・パリージ Villa Parisi, Frascati (1604-05年) が登場します(→あちら)。屋内の内、少なくとも居間や食堂など、壁画だらけの一階はふんだんに見られます(→「怪奇城の画廊(後篇)」の頁でも触れました)。ただヴィッラの外観は、玄関附近の一階の高さあたりなど、部分的にしか映されませんでした。 |
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ヴィッラのより全体的な姿は、『処女の生血』(1974)で見ることができます(→こっち)。屋内の様子も『亡霊の復讐』におとらず盛りだくさんでした。 他方、四階建てのファサードを見ると逆に、『亡霊の復讐』ではなぜ二階より上を入れた画面が出てこなかったのか、むしろ何か事情があって、意図的に映されなかったのではないかという気もしてきます。 |
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怪奇映画ではありませんが、左は『影なき淫獣』(1973)で見られた コルコッレ城 Castello di Corcolle (15世紀末) です(→そっち)。映画の中では岩山の上に建っているという設定なのですが、実際は平地にあるようです。規模は小さいものの、左右から二階中央へあがる階段が印象的です。ただし屋内はセットによる撮影なのでしょう。屋外の階段からの二階入口を活かした設定も見られませんでした。 |
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こちらは『悪魔の凌辱』(1974)における モンテ・サン・ジョヴァンニ・カンパーノ城 Castello di Monte San Giovanni Campano (10世紀末以来) です(→あっち)。映画でも実際通り、小高い位置に建っています。伊語版ウィキペディア該当頁(→ここ)によると、それぞれ五角形と四角形の塔があるとのことです(サイト[ Provincia di Frosinone ]中の"Monte San Giovanni Campano e il Castello ducale"の頁の"Gallery"に写真がたくさん掲載されています)。左下の場面で奥に見えるのは四角形の塔、右下の場面のそれはまた別の塔(→このあたり)。屋内のいくつかの場面、建物周辺の庭園などは現地で撮影したようでした。 |
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以上は見る機会のあったほんのわずかばかりの作品でしかありませんが、ともあれここで、本サイトではまだ取りあげていない例を二つほど挙げておきましょう。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一つは 『ゼダー/死霊の復活祭』(1983、監督:プピ・アヴァティ) です。後半の主な舞台となる巨大な廃墟がとても印象的でした。装飾を排した直方体で左右相称、広くとった中央部分は格子状に透けており、傾斜路だか階段だけが斜めに区切っています。 エミリオ=ロマーニャ州ラヴェンナ県チェルヴィアのミラーノ・マリッティマにあるコロニア・ヴァレーゼ(コロニア・マリーナ・コンスタンツォ・チャーノ) Colonia Varese (Colonia Marina Costanzo Ciano), Milano Marittima, Cervia, Ravenna, Emilia-Romagna です。 |
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お城ではありませんが、1937年から38年にかけて建造された、いわゆるファシズム期の建築です。 colonia には手もとの伊和辞書によると、「殖民地」以外に「(主に子供のための)保養地、保養施設」の意味があり、括弧内の別称での
colonia marina は「臨海学校」を指します。伊語版ウィキペディアの該当頁は→そこ。 イタリア・ファシズム期の建築については、飯島洋一『映画のなかの現代建築』(1996)が、『ハドソン・ホーク』(1991、監督:マイケル・レーマン)や『ボッカチオ'70』第2話(1962、監督・フェデリコ・フェリーニ)に登場した 《EUR イタリア文明館》(1939) を取りあげていました(pp.62-67、92-97)。『軽蔑(1963、監督:ジャン=リュック・ゴダール)における 《マラパルテ邸》(1938-40) も扱われています(pp.222-227)。 他方、バーヴァの『知りすぎた少女』(1963)では、 フォーロ・イタリコ、旧称フォーロ・ムッソリーニ Foro Mussolini の大理石のスタジアムStadio dei Marmi (1928-32年) が見られました(→あそこ)。 なお『ゼダー/死霊の復活祭』については、以下も参照; Roberto Curti, Italian Gothic Horror Films, 1980-1989, McFarland & Company, Inc., Publishers, Jefferson, North Carolina, 2019, pp.114-121 追補:『軽蔑』で見られるカプリ島のマラパルテ邸は、海に面した崖の上に建っています(左下)。「怪奇城の画廊(幕間)」の頁(→あそこの2)で触れたバーヴァの、こちらはマット画によるという『ファイブ・バンボーレ』が連想されたりもする。他方マラパルテ邸の屋上への階段を上からとらえたショットも印象的でした(右下)。ただしこの階段へいたる、棟沿いの狭い階段(右下の場面で右に見えます)や、崖から浜に降りる折れ曲がった階段も忘れてはなりますまい。 なお『軽蔑』については→あそこの3(「怪奇城の肖像(後篇)」の頁)や、あそこの4(「ギュスターヴ・モロー研究序説」[14]の頁の「おまけ」の「追補」)でも触れました。 マラパルテ邸については、飯島前掲書、p.224 の脚註に挙げられていた、 マイケル・マクダノウ、橋本啓太訳、「マラパルテ邸における自然、シュールレアリスム、民俗的デザイン手法」、『a+u 建築と都市』、no.243、1990.12、pp.3-14 (pp.3-9 は英語原文) ちなみに p.8 右下の書斎の写真で、椅子の奥に映っているのはカッヘルオーフェンではないのでしょうか?(→「カッヘルオーフェン」の頁にも挙げておきます) |
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もう一つ、マリオ・バーヴァの息子ランベルト・バーヴァが監督したTV映画、 『バンパイア 最後の晩餐』(1989) で主な舞台となるのは、 トスカーナ州フィレンツェ県レッジェッロのレッチョにあるサンメッツァーノ城 Castello di Sammezzano, Leccio, Reggello, provincia di Firenze, Toscana です。この城は外観以上に、TV映画でも見られる屋内がとても興味深いものでした。キラキラピカピカの擬似イスラーム建築なのです。 |
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1845-1873年頃改築された本城について、19世紀の建築におけるオリエンタリズムを論じた シュテファン・コッペルカム、池内紀・浅井健二郎・内村博信・秋葉篤志訳、『幻想のオリエント』、鹿島出版会、1991 では、 「トスカナの貴族フェルディナンド・パンチアティーニ・クシメネス・ダラゴナは、ほぼ30年間におよぶ建設期間中、伯父から相続した別荘を、おそらくは彼の祖先の系譜に合わせて、幻想的なムーア様式の城に改築した。改築を担当した建築家でもあったパンチアティーニは、…(中略)…一連のムーア風に装飾したホールと廊下を建造したばかりではなく、ファサードをムーア風の幻想的な様式に改築した」(p.124:本文ではなく挿図の解説中) とありました。 ちなみにムーア風意匠という点でこの映画に出てくるのは、オルタ湖のほとりにあるというヴィッラ・クレスピ Villa Crespi, Orta San giulio (1879年~)だとずっと思いこんでいました。こちらは 「19世紀末に、コットンの売買で財をなした商人クリストフォロ・ベニーニョ・クレスピが建てた邸宅である。邸宅を建てるにあたり、コットンの買い付けで訪れた中近東の建築、ことにイラクのバグダッドの建築を参考にクレスピ邸を設計させた」 (橘川芯、監修:木村俊幸、『ヨーロッパの屋敷・庭園・貴族の館 背景資料ブックス 1』、グラフィック社、2011、p.78)。 なお『バンパイア 最後の晩餐』に関しては、以下も参照; Roberto Curti, op.cit., pp.199-202 ii. オーストリア マリオ・バーヴァの『処刑男爵』(1972)は、 ウィーン近郊のクロイツェンシュタイン城 Burg Kreuzenstein (12世紀初頭より、1874年以降再建) で撮影されました(左下→こなた)。城門から中庭へ、そして中庭を囲む建物群など、けっこう規模のおおきな城に見えるよう、映されています。それに応じて屋内の場面でもいくつもの空間が登場しました。 この城は『ターヘル・アナトミア - 悪魔の解体新書 -』(1968)(右下→そなた)や、本サイトではまだ頁を作っていませんが、ピーター・セラーズ主演版『ゼンダ城の虜』(1979、監督:リチャード・クワイン→あなたを参照:『ゼンダ城の虜』(1937)の頁の Cf.)のロケ先でもあります。後者二作にはともに、吹抜がずいぶん高くまで伸びあがる、厩舎だか干草倉庫が出てきました(→そなたの2)。どういった空間なのでしょうか? |
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『わが青春のマリアンヌ』(1955)には二つの城が登場します(→あなた)。一つが オーストリアはザルツブルク市の東、フシュル湖に面した フシュル城(シュロッス・フシュル) Schloss Fuschl, Fuschl, Salzburg, Austria (1461年頃) で、主人公たちの寄宿学校と湖をはさんで対岸にある「幽霊屋敷」です。 |
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iii. ドイツ |
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もう一つは オーストリアの国境近くのドイツ・バイエルン州、アルプ湖とシュヴァン湖にほど近い ホーエンシュヴァンガウ城 Hohenschwangau, Schwangau, Bavaria (1833~37年) で、主人公たちの寄宿学校「ハイリゲンシュタット城」の外観に用いられました。双方屋内はセットと思われます。 |
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左は『去年マリエンバートで』(1961)から、舞台となるホテルの庭園側からの眺めです(→こちら)。 ミュンヘン郡のシュライスハイム宮殿群 Schlossanlage Schleißheim の三つの宮殿の内、 にあたります。 |
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左は『吸血女地獄』の舞台である城です(→そちら)。作品の頁を作った時はわからなかったのですが、今回 [ IMDb } を覗くとロケ地が特定されていました。 とのことです。独語版ウィキペディアの該当頁は→あちら。 |
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iv. スロヴァキア 時計の針を少し戻しましょう。サイレント時代の怪奇映画で、実際の古城が映る作品といえば、『吸血鬼ノスフェラトゥ 恐怖の交響楽』(1922)がありました。 左下の場面は城に着く前のもので、尖った岩の上に小屋か何かが建っているようにしか見えない印象的な眺めは(→こちら、またこちらの2)、 スロヴァキアのオラヴァ城 Oravský hrad (1241年以降、1539-43年、また1861年以降) のもので、英語版ウィキペディアの該当頁(→そちら)にも相似た視角の写真が"seen from the N-NE"(北北東から見た)として掲載されています。水木しげる「妖怪城」(1966.10)のタイトル・ロールや(水木しげる、『墓場の鬼太郎 2 - 大海獣 -』(小学館文庫 522)、小学館、1976、p.70、pp.88-90。→「怪奇城の肖像(完結篇)」の頁でも触れました)、『長靴をはいた猫』(1969)後半の舞台となる魔王の城における、石製の枝の先端に設けられた時計を連想させたりもしたことでした(右下→あちら)。 山の上に建つオラヴァ城は、南から北へ段をなして高くなっており、一番高い北の部分は、幅の狭い城壁状になって伸びています。その北端はやはり幅の狭い岩山の上に建っていて、そのあたりを低い位置から見上げると、こんな風に見えるということなのでしょう(追補:→「怪奇城の肖像(完結篇)」の頁でも触れました)。 |
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英語版ウィキペディアの該当頁に挙げられていた公式サイト(→そちらの2)では、"galéria"の頁から"You Tube"にリンクして、後半でノスフェラトゥらしき人物を挿入した "Oravský Hrad - Dracula's Castle Orava Slovakia 4K"(3分3秒) なんてプロモーション・ヴィデオまでありました。雰囲気ありげな地下らしき空間も映りましたが(約2分30秒)、ともあれやはり同頁から"You Tube"掲載の "CASTLE RUN - ORAVA - Different styles - Ep.6/8"(5分53秒) とあわせて見ると、左の場面での壁沿い木製階段や別の場面での四阿風展望台も(→こちらの3)、オラヴァ城のものと確認できます。ちなみに後者のヴィデオではカッヘルオーフェンも映るのでした。 |
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他方、『吸血鬼ノスフェラトゥ』の最後に映る、いかにも廃墟然とした城址は(左上→こちらの4、またこちらの2)、エルゼベエト・バートリことバートリ・エルジェーベトゆかりの、 旧ハンガリーのチェイテ村 Csejthe、現スロヴァキア西部のチャフティツェ村 Čachtice の城 でした(13世紀半ば築城。1799年に焼失)。当作品の頁の Cf. で記したように、この城は『カルパテ城の謎』(1981、監督:オルドリッチ・リプスキー)でもロケされました(右上)。 v. イギリス、アイルランド 1950年代後半から70年代前半にかけて、イギリス怪奇映画の一時代を画したハマー・フィルムの作品では、屋内は原則としてセットを組んで撮影することが多いようです。舞台となる城や館の外観も、玄関附近など部分的なセットを造る場合が少なくない。たとえば『吸血鬼の接吻』(1963)や『凶人ドラキュラ』(1966)がその例となります(→ここや、またそこ)。 ハマー怪奇映画路線の口火を切った『フランケンシュタインの逆襲』(1957)でも、これもセットであろう屋上を除けば、館の外観はあまり映されません。かろうじて出てきた時も夜でシルエット化していたりする(左下→あそこ)。Derek Pykett, British Horror Film Locations, 2008 によると、館の外観は バークシャー州ブレイ Bray のオウクリー・コート Oakley Court (1859年) とのことです(p.33、pp.167-168、同書 p.15 に写真掲載)。 他にハマー・フィルムの『吸血鬼ドラキュラの花嫁』(1960)でマインスター城の玄関車寄せ(→こっち)や、コーマンのポー連作の直系に当たる、AIPの『襲い来る呪い』(1965)でも用いられました(右下→そっち)。いずれの場合も屋内の場面はセットでの撮影です。 |
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ところで英語版ウィキペディアの"Oakley Court"の頁(→あっち)の"Film set"の項には、『吸血ゾンビ』(1966→こなた)と『蛇女の脅怖』(1966。左→こなたの2)も挙げられているのですが、パイケットの前掲書には、前者については項目も立てられているのに(pp.99-100。後者はなし)、オウクリー・コートのことは記されていません。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ある程度まとまった外観が見られるのは最後の方だけで、『襲い狂う呪い』同様炎上する姿でした。隅石や ハマー・フィルムの映画製作において、屋内だけでなく、建物の外観に関してもセットやマット画、模型などが多くを占めるということが言えるとするなら、それはそれで興味深い点かもしれません。残念ながら統計的に確実と見なせるほど、多くの作品を確認したわけてはないのですが。 |
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他方、イギリスの実在する古城が登場する怪奇映画といえば、まず挙げられるべきは『たたり』(1963)でしょう(→そなた)。 アルダーミンスターのエッティントン・パーク・ホテル Ettington Park Hotel, Alderminster (1858-62年) でロケされました。屋内はセットですが、外観の方も時間帯や空模様によっていくつもの表情を見せてくれます。 |
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これに続いたのが『ヘルハウス』(1973)における ボルニー村のワイクハースト館 Wykehurst Place, Bolney (1872年) です(→あなた)。やはり屋内はセットで、外観もほとんど霧を纏っているのですが、怪奇映画における城館の撮り方の模範、かくあらんといった雰囲気をたたえています。 なおこの作品では、冒頭に ブレナム宮殿(1705-22年) が登場します(→あなたの2)。 |
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怪奇映画ではありませんが、左はフランシス・フォード・コッポラの監督第1作『ディメンシャ13』(1963)から、 アイルランドのダブリン州ホウスのホウス城 Howth Castle, Howth, Fingal, County Dublin, Ireland (1180年以降、1911年に改築) です(→こちら)。鋸歯型胸壁の |
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左もやはり怪奇映画ではない、ポランスキーの『袋小路』(1966)からで、 イングランド北東のノーサンバーランド州、北海に面したリンディスファーンのホーリー島にあるリンディスファーン城 Lindisfarne Castle, Holy Island of Lindisfarne, Northumberland (1570-72年) です(→そちら)。屋内もここで撮影されました。画面に映ったさまでで見るかぎり、規模がさほど大きいとは感じられず、それがかえってリアリティを与えていました。 |
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ところで同じポランスキーによる『マクベス』(1971)における、マクベスの当初の居城インヴァネスのグラミス城は、茫漠とひろがる荒野のただ中に、小高い岩山がぽつんとあり、その頂に城が聳えると、あまりにといいたくなるほどいかにもいかにもな姿でした。てっきりマット画か何かによるものだろうと思っていたのですが、『袋小路』と同じリンディスファーン城でロケしたというのにはむしろ驚かされてしまいました(左→あちら、またあちらの2)。山の高さは誇張されているようですし、写真で見るかぎりリンディスファーン城には、映画のそれほど目だつ尖り屋根の塔は見あたりません。この点ではセゴビアのアルカサルを思わせなくもない。色味も含めて、実際の眺めに手を加えたそのイメージは、当該作品の頁でも触れたように、オーソン・ウェルズの『マクベス』(1948)でのマクベス城にも通じています(→ここ)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポランスキーの『マクベス』後半の主な舞台となるダンシネインのコーダ城は、こちらもマット画かと思いきや、やはり ノーサンバーランド州バンブラ Bamburgh のバンブラ城 Bamburgh Castle (キープは1170-75年頃、居館は13世紀以降。18-19世紀に修復) でロケしたとのことでした(→あちらの3)。やはり実際のバンブラ城には尖塔は見あたりませんでした。 |
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双方怪奇映画ではありませんが、左下はTV映画『ノーサンガー・アベイ』1987年版から(→そこ)、右下は2007年版からです(→あそこ)。1987年版でタイトル・ロールがロケされたのは イングランド南東部のボディアム城 Bodiam Castle (1385年)、 2007年版では アイルランド南部のリスモア城 Lismore Castle (1185年以来。1850年代修復) でした。 |
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vi. ルーマニア |
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左に引いたのは『Mr.バンピラ 眠れる棺の美女』(1974)で、トランシルヴァニアのドラキュラ城として映された眺めです(→こっち)。当該作品の頁でも記したように、そもそも実在の城なのかマット画の類なのかもわからなかったのですが、試しに画像で検索してみたところ、 ルーマニアのブラン城 Castelul Bran (1211-25年以来) でした。写真を見ると、一番高い塔の屋根の上に、鐘楼でしょうか、四阿状の透けた尖り屋根の構築物が載っており、目印になっています。 ブラム・ストーカーがドラキュラ伯爵を構想するに当たって、モデルの一つにしたとされるヴラド・ツェペシュと結びつけられるけれど、実際には関係がないと註釈されるのが常な城です。日本語版ウィキペディアの該当頁は→そっち(ちなみにこの頁の下の方にある「ギャラリー」の内、「内部の調度品」にカッヘルオーフェンが映っています。なので→「カッヘルオーフェン」の頁にも挙げておきましょう)。 左下の画像のように夜景まで登場しますが、視角はまったく同じようです。城内の場面はセットによるもので、またロンドンが主な舞台のこの映画で、このためにルーマニアまでロケに行ったのかどうか、写真か何かだけ用いたような気がしなくもないのですが、どうなのでしょうか? |
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vii. フランス |
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怪奇映画ではありませんが、『大いなる幻影』(1937)において、山上に聳えるヴィンタースボルンの将校用収容所は、 アルザスのオー・クニクスブール城 Château du Haut Koenigsbourg, Orschwiller, Bas-Rhin (12世紀半ば以降。1900-08年修復) でロケされました(→あっち)。長い階段や城壁周辺も現場のものです。 |
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『乙女の星』(1946)の舞台である城の外観は、 ニエーヴル県のバゾシュの城 Château de Bazoches (12世紀に起源、15-16世紀に改築) ではないでしょうか(→こなた)? 豊富な空間を誇る屋内はセットのように思われます。 |
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怪奇映画ではない『悪徳の栄え』(1963)で後半に登場する城は、その外観と周囲の庭園が ドルドーニュ県のフェヌロン城 Château de Fénelon, Sainte-Mondane, Dordogne (12世紀に築城、14.、16、17世紀に改修)、 同じく城の外観の一部等で ドルドーニュ県の東隣のロット県のラ・トゥレイヌ城 Château de la Treyne, Lot (14世紀に築城) のものとのことです。左に引いた場面や、入口への二股半円形階段は前者のものでした(→そなた)。屋内はセットでしょうか。 |
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近代=19世紀以降の建物であれば、『フランケンシュタインの逆襲』ほかでのオウクリー・コート、『たたり』のエッティントン・パーク・ホテル、『ヘルハウス』のワイクハースト館、『バンパイア 最後の晩餐』のサンメッツァーノ城などもそうでしたが、『ゼダー/死霊の復活祭』におけるコロニア・ヴァレーゼと比べられそうなのは、怪奇映画ではありませんが、『冒険者たち』(1967)における要塞島こと フォール・ボワヤール(ボワヤール砦) Fort Boyard (1804-57年) ではありますまいか(→あなた)。長円という幾何学的形態、それを際立たせる装飾の無さ、規則的に並ぶ窓などが、要塞が与える印象を決定しています。 |
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(追補:『世界のダンジョン 冒険をめぐる情景』、パイ インターナショナル、2020 をぱらぱら繰っていると、 ロシアのアレクサンドル砦 というのが載っていて(pp.48-49)、ボワヤール砦と共通する形状でした。英語版ウィキペディアの該当頁なども参照ください→あなたの2。海のただ中にあって、おおむね楕円形です。ただし桟橋を突きだした門のある部分は楕円を刳りぬいて、少し奥まった位置で直線をなしていました。 「1845年に完成した海上の要塞。…(中略)…実際の戦争で使用されることはなかった」(p.49) という点も近いものがあります。こうした形状は何らかの定型に則っているのでしょうか?) 『世にも怪奇な物語』(1968)からは上で第2話に登場したオデスカルキ城を挙げましたが、第1話では、「怪奇城の肖像(前篇)」の頁でも触れた ケルゴナデアック城 Château de Kergournadec'h (Kergournadeac'h)(1630年頃) 以外にも、 ケルジャン城 Château de Kerjean (1545-96年、左下→こちら) や、 フォール=ラ=ラット(ラ・ラット要塞) Fort-la-Latte (1340年代以来、右下→こちらの2) でロケされました。後者の場合、入江越しで高い位置から見た眺めが何度も登場します。 |
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「(前篇)」の頁ではまた、『レクイエム』(1971)に登場したラ・ロシュ=ギュイヨン城(主塔は1180-1200年)に触れましたが(→そちら)、同じジャン・ロランが監督した『催淫吸血鬼』(1971)では、 セモン城 Château de Septmonts (13-16世紀) がロケ現場でした(→あちら)。左の場面での主塔だけでなく、低予算ゆえかえって、他にも敷地内のあちこちを見ることができます。 |
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viii. ベルギー |
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『淫虐地獄』(1971)で舞台となる城の、少なくとも外観は南西ベルギーの アントワン城 Château d'Antoing でロケされました(→ここ)。この城も19世紀に再建されたものとのことです。 屋内の場面でも興味深い空間が見られますが、どこで撮影したのでしょうか? |
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ix. スイス ダニエル・シュミットの『デ ジャ ヴュ』(1987)に関し、当作品の頁で記したように(左下→そこ)、クロージング・クレジットの謝辞でいくつかの城が挙げられていましたが、画面に出てくる山上の城の、少なくとも外観は、 オルテンシュタイン城 Château de Ortenstein (13世紀の第2四半期) のもののようです。 同じシュミットの『ラ・パロマ』(1974)でも城館が主な舞台となりますが(右下→あそこ)、今のところ不詳。 |
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シュミットの作品ではまた、家族がホテルを営んでいたということもあってか、怪奇映画とは呼べますまいが、『今宵かぎりは・・・』(1972)と『季節のはざまで』(1992)がホテルでロケしています。前者では祖父母が経営し、シュミット自身そこで育ったという シュヴァイツァーホフ・ホテル Hotel Schweizerhof (1902年、左下→こっち)、 後者の外観はルツェルン湖に面した ブルンネンのグランド・ホテル Grand Hotel, Brunnen (1870年、右下→そっち) とのことです。なお後者の屋内はポルトガルは クリアのパレス・ホテル Palace Hotel da Curia (1922年改修) などで撮影されました。 |
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x. スペイン |
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『シンドバッド黄金の航海』(1973)には マドリード州北部のマンサナーレス・エル・レアル(新)城 Castillo nuevo de Manzanares el Real (1475年以降) が登場しました(→あっち)。 先ほど『Mr.バンピラ 眠れる棺の美女』(1974)に関し、城の外観をほんの少し映すだけためにルーマニアのブラン城までロケしたかどうかと述べましたが、本作品でも劣らずほんの少ししか出てこず、しかし確実にロケしています。パルマ・デ・マジョルカ島でも撮影してはいるのですが。 |
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スペインからもう一城、作品の頁は作っていないのですが、ジェス・フランコの『アッシャー家の大虐殺 怨霊伝説』(1983)には アンダルシーア州ハエンのサンタ・カタリーナ城 Castillo de Santa Catalina, Jaén (13-14世紀) が登場します。 旧作『美女の皮をはぐ男』(1962)からの場面を交えた筋運びは〈ユーロ・トラッシュ〉の名にし負うものですが、山上にくっきりと四角な塔が並ぶたたずまいは、何とも印象的でした。西語版ウィキペディアの該当頁→こなた。 |
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xi. アメリカ合衆国 舞台がヨーロッパに設定されるにせよUSAの場合であれ、1930年代以降のユニヴァーサル怪奇映画を始めとして、古城の姿はマット画等で表わされることが多そうだとは、予想のつくところでしょう。先に挙げた『たたり』(1963)や『ディメンシャ13』(1963)、『襲い狂う呪い』(1965)などはイギリスやアイルランドで撮影したとして、USA内でロケした作品を欠くわけではありません。 『血の唇』(1970)で舞台の新館(左下)は タリータウン村のリンドハースト Lyndhurst estate, Tarrytown (1838年)、 旧館(右下)は ブライアクリフ・マナー村のビーチウッド Beechwood, Briarcliff Manor (1780年) で撮影されたという(→そなた)。 |
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作品の頁は作っていないのですが、同じダン・カーティスが監督した『家』(1976)の主役である屋敷の外観は、 カリフォルニア州オークランドのダンスミュア邸 Dunsmuir House, Oakland, California (1899年) でした。 なお、左に引いたのは冒頭の場面で、屋敷に対面した登場人物の一人は、 「荒れてる」 と口走ります。映画の結末で屋敷はピカピカに回春するわけですが、それとの対比でか、当初の屋敷はもっと黒っぽかった、と思いこんでいました。見ての通り始めから白塗りであるのは同じなのでした。 |
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なお英語版ウィキペディアのダンスミュア邸の頁(→あなた)中の"Current uses"の項には、ここで撮影した映画の一覧が掲載されています。 『007/美しき獲物たち』(1985、監督:ジョン・グレン)、 『ハネムーンは命がけ』(1993、監督:トーマス・シュラム)、 『グロリア』(1999、監督:シドニー・ルメット)、 『トゥル-・クライム』(1999、監督:クリント・イーストウッド) その他が挙がっていますが、見たことがあるのは 『ファンタズム』(1979、監督・ドン・コスカレリ) だけでした。同じ建物が映っていたなど、いっかな気づかなかったのはいうまでもありません。 この映画では屋敷は人の住む家ではなく、「モーニングサイド霊園」という共同墓地でした。屋内のセットは、薄い灰色の斑が入った白大理石風のパネルが壁も柩を入れるところの蓋も覆い、ところどころに真紅のカーテンがかけられ、また真っ黒な扉が一つあるというものです。多少変化しつつ、こうした屋内は以後の 『ファンタズムⅡ』(1988、監督:同)、 『ファンタズムⅢ』(1994、同)、 『ファンタズムⅣ 最終版』(1998、同)、 『ファンタズムⅤ ザ・ファイナル』(2016、監督:デヴィッド・ハートマン) でも見られることでしょう(この連作に登場する《 戻って本作での建物の外観は、向かって右のやや離れた位置からの夜、昼の眺めが何度か交替した後、正面から捉えられ(左下)、その後発光したりするのでした(右下)。 |
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『ヨーガ伯爵の復活』(1971)で見られる屋敷は(→あなた)、今のところわかっていません。登場人物たちが延々と歩き回る屋内は、同じ建物で撮影されたのでしょうか? | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
城や館ではありませんが、『恐怖の足跡』(1962)に出てきた、 ユタ州のソルテア(・リゾート、あるいはパヴィリオン) Saltair Amusement Park (1893年、1925年以降、火災等に遭う) はなかなか印象的でした(→こちら)。グレイト・ソルト湖の南岸に突きでたさまもさることながら、人のいない遊園地というのも、城館やホテル、あるいは病院や学校とも違った含意を宿すようです。むしろ庭園に近いのでしょうか。 |
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xii. 日本 最後に日本の映画から少しだけ挙げておきましょう。 |
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『血を吸う薔薇』(1974)で舞台の一つとなる屋敷の外観は、 旧古河庭園の洋館 でロケされました(→そちら)。場面によってはミニチュアのように見えるところもありますが、夕暮れや夜だったり、窓越しだったりする際の、合成のせいでしょうか? |
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泉速之、『銀幕の百怪 本朝怪奇映画大概』、2000 は本作のロケ先に触れて、 「時の停滞と閉塞ゆえに、かかる屋敷は怪奇映画の格好の舞台になると言えよう。この洋館の外観は『虹男』や『透明人間現わる』(昭和二十四年)等でも窺うことができるが、極付けは佐藤肇『怪談せむし男』(昭和四十年)だろう」(p.40) と述べています。『透明人間現わる』(1949、監督:安達伸生)については、舞台が神戸に設定されている点はおくにしても、そうと確認できませんでした。 |
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他方怪奇映画とは見なせますまいが、『虹男』(1949、監督:牛原虚彦)で主な舞台となる摩耶家の屋敷の外観は、コンドルが設計、1917(大正6)年竣工した旧古河邸にほかなりません(左)。 この作品、筋運びのテンポは歯切れ良しとはいいがたいものの、屋内はセットで、それなりに興味深い空間を構成しています。音楽は伊福部昭ですし、登場人物の一人は画家で、そのアトリエや、映画のために急遽仕立てあげたというにはもう少し丁寧に見えるような気がしなくもない、シュルレアリスム風の作品が何点も映ります。 |
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余談になりますが、その内の一点で最初食堂の壁に掛かっていた絵(左下1段目)の図柄をどこかで見かけたような、と思ったら、 古賀春江の《涯しなき逃避》(1930年、左下2段目)、 というか、古賀がその制作にあたって参照したという アウグスト・ネター(ナッテラー) August Natterer (1868-1933) 《驚異の牧人(怪牧人/不思議な牧人) Wunderhirthe 》(1919)(右下) の方をむしろ、直接のネタにしたものなのでした。 |
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古賀春江(1895-1933) 《涯しなき逃避》 1930 * 画像の上でクリックすると、拡大画像とデータを載せた頁が表示されます。 |
アウグスト・ネター(ナッテラー)《驚異の牧人》 (プリンツホルン『精神病者の造形』より) 古賀春江とナッテラーの絵に関しては、 速水豊、『シュルレアリスム絵画と日本 イメージの受容と創造』(NHKブックス 1135)、日本放送出版協会、2009、pp.106-108/図67-68; 古賀自身、有島生馬に 「嘗つて自作の油絵の一枚を指して、之は狂人のデッサンからヒントを得て描いたものです」 と話したことがあるそうです(p.107)。 |
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「これはドイツの医師ハンス・プリンツホルンによる著作『精神病者の造形』に収録されていた図版の一点であることがこれまでの研究によって明らかになっている。石橋美術館が所蔵する古賀の素描のなかにこのプリンツホルンの著作に掲載された他の図版を模写したものが多数あることから、1922年にドイツで出版されたこの本が古賀の手もとにあったことはほぼ確実と考えられている。…(中略)… 「プリンツホルンのこの本は、精神障害者が作った造形作品を研究、紹介したものである」(pp.107-108)。 「また、1938年にパリで開催されたシュルレアリスム国際展の際、ブルトンとエリュアールが編纂した『シュルレアリスム簡約辞典』にもこの《驚異の牧人》が掲載されている」(p.110)。 p.302 註37 に挙げられた古川智次編、『古賀春江 近代の美術 36』(至文堂、1976)には、 「雑誌『美術新論』昭和7年3月号所収の『或る狂人(独逸)の描いた絵(画題・怪牧人)』を参考にしている」(p.72、第104図解説) とありました (追補:古川智次の本では《涯しなき逃避》は《少女》の題で、1932(昭和7)年作となっています。現在では1930年の制作とされており、『美術新論』の記事の方が後になるとのことです)。 いずれかの資料から作成したのでしょうか。 ちなみにナッテラーの独語版ウィキペディアの該当頁は→あちら。その下の方、Weblinks の項中の Commons: August Natterer に、《驚異の牧人》のカラー図版が掲載されています。 『虹男』に戻ると、件の絵が最初に登場する食堂の場面では、 「何て気味の悪い絵なんでしょう」(約29分) と、後のアトリエの場面では、他の作品も含めて、 「どうだ、あのあくどい色彩と奇妙な構図は。…(中略)…こいつはたしかに病的だよ」(約54分) なんて登場人物たちが言います。そんな判断を下せる彼らはいかにもまともだと、映画の製作者に見なされているわけです。 それはともかく、問題の絵の左下には、"- K.Maya -"と、映画の中での摩耶家の長男にして画家、摩耶勝人のサインが入っていました。映画のために制作された小道具と見なしてよさそうですが、勝人の作品として映った他の何点かも同断なのでしょうか? まただとして、それぞれ何かネタがありはしないのでしょうか? (映画オリジナルの美術品ということで、→「怪奇城の画廊(中篇)」の頁、また実在する美術品に基づくということで、→「怪奇城の画廊(完結篇)」の頁の各末尾からもリンクできるようにしておきます。 追補;「『Meigaを探せ!』より、他」からの出張所として「『虹男』 1949)」の頁を設け、他のネタについて知人に教えてもらったことを述べておきました→あちらの2)。 旧古河邸はまた、泡坂妻夫の『乱れからくり』(1977)を映画化したものおよびTV映画版の双方でロケされたとのことです。劇場映画版(1979、監督:児玉進)は未見ですが、火曜サスペンス劇場の枠で1982年3月23日放映されたというTV映画版は、『散歩する霊柩車』(1964)や『吸血鬼ゴケミドロ』(1968)、「『Meiga を探せ!』より、他」で取りあげた『吸血鬼ドラキュラ神戸に現わる~悪魔は女を美しくする』(1979年8月11日放映、ABC局、土曜ワイド劇場→あちらの3:「ギュスターヴ・モロー研究序説[14]」の頁の「追補」)、そして先に名が出た『怪談せむし男』(1965)の佐藤肇が監督しています。 やはり筋運びのテンポは歯切れ良しとはいいがたいものの、旧古河邸の車寄せ附近(左下)等が出てくるのに加えて、庭には迷路があり(右下)、からくり仕掛けの隠し扉および隠し通路なども見られます。 |
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そういえば『女吸血鬼』(1959)で前半の主な舞台となる建物は(→あちら)、 1926(大正15)年に竣工した、旧山本有三邸(=現三鷹市山本有三記念館) でした。 |
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『怪奇!巨大蜘蛛の館』(1978)の館(→あちら)は、どこでロケしたのでしょうか? 屋内にはセットもあるようですが、空き家状態の二階などは、同じ建物なのかどうか、ロケらしくも見えました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本におけるゴシック・ロマンスといえば、たとえば 山岸涼子の「ひいなの埋葬」(1976)(『ひいなの埋葬 山岸涼子傑作集 2』(花とゆめCOMICS)、白泉社、1976) あたりが思い浮かびます。この作品は和風家屋が舞台でした。映画でも実在する和風の建物を撮影した作品があるのでしょうが、今のところ思いつかずにいます。 他方洋館を舞台にしたものであれば、 楳図かずおの『赤んぼ少女』(1967)(『のろいの館』と改題して、『のろいの館』(秋田漫画文庫 6-01)、秋田書店、1976) などが挙げられるでしょうか。その最初の映画化だという『蛇娘と白髪魔』(1968、監督:湯浅憲明)は未見なのですが、先に触れた『虹男』も、日本の洋館を舞台にしたゴシック・ロマンス映画版の早い例と見なせるのかもしれません。『虹男』の角田喜久雄による原作(1947)はこれも未見なのですが、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』(1934→ここも参照:「近代など(20世紀~) Ⅳ」の頁の「XX. 個々の著述家など - 日本Ⅰ(20世紀前半)」中の「小栗虫太郎」の項)を始めとする、戦前の探偵小説の系譜上にあるのでしょう。泡坂妻夫の『乱れからくり』も同様です。 怪奇映画とはいえませんが、たまたま、日本における『ジェイン・エア』型のゴシック・ロマンスと見なせそうな、映画ないしTV映画を三作ほど見る機会がありました。過去からの伏流を潜ませたお屋敷、これらの場合は洋館に、何らかの事情で女性主人公がやって来るところからお話が始まります。 いずれも頁は作っていないのですが、まず、『柘榴館』(1997、監督:伊藤秀裕)は、山崎洋子の同名長篇(1996)を原作にしています。原作からはかなり改変されていて、その分ゴシック・ロマンス的な趣きが増しました。 舞台となる「柘榴館」は、壁面に柱や梁が露出したハーフ・ティンバーが特徴的なチューダー様式によるもので、 渡辺仁が設計、もともとは1934(昭和9)年に東京の目白に建てられ、1968年(昭和43年)、長野県南佐久郡に移築された、旧徳川義親邸、現在の八ヶ岳高原ヒュッテ です(左下。公式サイトは→そこ。藤森照信、『日本の近代建築(下) - 大正・昭和篇 -』(岩波新書 309)、岩波書店、1993、pp.92-95/図9-23)。 屋内で撮影した部分もあり、階段を上がった先の二階廊下、奥の窓の向こう、中庭をはさんで向かい側の棟が見えています(右下)。階段と吹抜の手すりの親柱上に配された熊の木彫も現場のもので、二見浦の賓日館の蛙の木彫と比べることもできましょうか(→「四角錐と四つの球」の頁で触れました)。 |
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TBSの『月曜ドラマスペシャル』枠で1999年7月19日に放映された『ファミリー 真夏の恐怖劇場 2』(監督:水谷俊之)は森村誠一原作とのことですが、未見。ロケ先も今のところわかっていません。 ところで玄関と車寄せ、とりわけ玄関扉のガラスに付された、下から伸びてきて上で半円アーチを描く装飾は(左下)、『学校の怪談 春のたたりスペシャル』(1999/3/30放映)中の第四話「呪われた課外授業」で見られたものと同じではありますまいか(右下→『血を吸う薔薇』(1974)の頁の→あそこで触れました)。 |
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余談になりますが、『柘榴館』、『ファミリー』双方で、鰐淵晴子が館の女主に当たる人物を演じています。いずれの場合でも何やら訳ありげです。妄想を飛躍させるなら、『HOUSE ハウス』(1977)のエピローグで起こった出来事を経て、転生した姿とでも見なせなくもないかもしれません。 余談ついでに、『ファミリー』で屋敷の居間には、アンリ・ルソーの《婚礼》(1904-05年頃)が掛かっていました。 |
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この場合、TV映画のタイトルどおり、家族を表わすイメージとして持ちこまれたのでしょう。ヒロインが結婚によってその家族に加わるという出だしにも合っているわけです(映画に出てきた実在する美術品ということで、→「怪奇城の画廊(完結篇)」の頁の末尾からもリンクできるようにしておきます)。 |
アンリ・ルソー(1844-1910) 《婚礼》 1904-05頃 * 画像の上でクリックすると、拡大画像とデータを載せた頁が表示されます。 |
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さて、やはりTBSの『月曜ドラマスペシャル』枠で『真夏の恐怖劇場 4』として、2000年8月21日に放映された『呪いの5キャラットダイヤ』(監督:水谷俊之) は、橘綾香原作とのことですが、やはり未見。 ただしロケ先は、 岡田信一郎設計で1924(大正13)年竣工した東京都文京区の旧鳩山一郎邸こと鳩山会館 でした(内田青蔵(文)・小野吉彦(写真)、『新装版 お屋敷拝見 』、2003/2017、pp.92-97、およびカヴァー表紙)。 |
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『柘榴館』、『ファミリー』、『呪いの5キャラットダイヤ』のいずれでも、全ての場面というわけではないのでしょうが、ぼちぼち階段を含む屋内でも撮影されたようです。余談になりますが、『真夏の恐怖劇場』枠の後者二作では、どちらの屋敷も東京都内にあるという設定らしく、とすると住人が負担しなければならない維持管理費や税金はどうなるんだろうと思ってしまったことでした。 本頁で触れることができたのは、もとより、ほんの僅かな例でしかありません。ともあれ、本題である怪奇映画におけるマット画や模型による古城のイメージを並べてみるに先だって、実在する城を撮影した作品を入口としてとりあげたのですが、例によって長くなってしまいました。いったんページを閉じて、いつになるやら、続きを待つことにいたしましょう。 |
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→ 「怪奇城の肖像(後篇) - 映画オリジナルの古城など:1940年代まで」へ続く 2022/08/23 以後、随時修正・追補 |
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