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    おまけ 

 重複するものもありますが、インドについてはとりあえず→別立てした「インド」の頁へ
 また、→「中央アジア、東アジア、東南アジア、オセアニアなど」の頁の「ii. チベットなど」」および「iii. ネパールなど」等の項も参照


* サンスクリット、パーリ語、チベット語の日本語表記はもとより、漢文やその訓読、古文すら、勉強不足のため残念ながらわかりません。
例によって、多々誤りもあろうかと思いますが、ご寛恕ください。
i. 須弥山/三千大千世界/四大劫・六十四転大劫など

 須弥山説についてはじめて出くわしたのはおそらく、

光瀬龍、『百億の昼と千億の夜』(ハヤカワ文庫JA 6)、早川書房、1973、pp.120-122、131-132

 だったかと思います。その漫画化版

原作・光瀬龍、絵・萩尾望都、『百億の昼と千億の夜』(1~2)(少年チャンピオン・コミックス)、秋田書店、1977/1978

 でも、第1巻pp.98-99に須弥山世界の模式図が描かれています。

 これ以外にも弥勒とその下生、阿修羅、転輪王、それにディラックの海などが扱われ、またp.148で言及される
「摩尼宝楼閣一切瑜伽瑜祇経巻三十二に記されてあるこの悉達多太子と阿修羅王のくだり」
およびそこに付された龍樹による脚注なるものがずいぶん気になったものです
 (おそらく創作だと思うのですが、いまだ不詳。Googleで「摩尼宝楼閣一切瑜伽瑜祇経」で検索しても、一致する項目はなしと出ました。
 「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」という密教系の漢訳経典は実在するようです。

小川豊生、『中世日本の神話・文字・身体』、2014、p.39、pp.49-50 など
 (また
伊藤聡、『神道の中世 伊勢神宮・吉田神道・中世日本紀』、2020、pp.89-91)、

 そこからたぐってたとえば

安原賢道、「瑜祇經の研究 (一) 特に成立に注意して」、『密教研究』、45号、1932、pp.59-81
 および
同、「瑜祇經の研究 (二) 特に成立に注意して」、同、46号、1932、pp.84-108 [ < J-STAGE ]など)。

 →こちら(「仏教 Ⅱ」の頁の「おまけ」)や、そちら(「言葉、文字、記憶術・結合術、書物(天の書)など」の頁の「おまけ」)でも挙げました
 光瀬龍については→あちらも参照(「近代など(20世紀~) Ⅵ」の頁の「光瀬龍」)の項


 また

諸星大二郎、『西遊妖猿伝 大唐篇』、第43回(第4巻)、pp.402-403

 には毘藍婆(びらんば)菩薩という名の菩薩の石像が出てくるのですが、その名の由来として、『倶舎論』が説く六十四大劫の終わりに宇宙を滅ぼす風の名「バーイランバカ」、毘藍婆ないし毘嵐風(びらんふう)が挙げられていました。

 同じ著者による→ここを参照(「近代など(20世紀~) Ⅵ」の頁の「諸星大二郎」の項)
………………………

 さて、仏教の宇宙論について詳しく記した本として何より役立ったのが;

定方(あきら)、『須弥山と極楽 仏教の宇宙観』(講談社現代新書 330)、講談社、1973
人間は宇宙をどう把えたか;須弥山説の世界/仏教に説かれたインド亜大陸/太陽と月//
仏教の“地獄と天界”;地獄の世界/天界の構成/禅定者の世界//
極大の世界と極微の世界;三千大千世界/物質の根源 四大と極微//
仏教宇宙観の底を流れるもの;時間と人生/宇宙の生成と消滅/業と輪廻//
西方浄土の思想;娑婆と極楽/西方浄土の思想の起源//
地獄はどう伝えられたか;エンマの変身/三途の川/賽の河原と地蔵菩薩//
仏教の宇宙観と現代;実践的宇宙観から神話へ/仏教の宇宙観が示すものなど、
196ページ。

 ちなみに本書の第1章から第4章までの記述のもとになったのは『倶舎論』の「世(間)品」です。


 →こちら(『バーバレラ』(1968)の頁中)や、またそちら( 本項下掲の松山俊太郎、「インドの回帰的終末説」、1982)で少し引きました

 この後

定方晟、『仏教にみる世界観』(レグルス文庫 122)、第三文明社、1980、
仏教の宇宙観;風輪とその大きさ/欲界/色界と無色界/宇宙の輪廻/仏教の宇宙観と現代科学//
ブッダをめぐる伝説;シャカの世俗時代/出家/悟り/教団の発展/涅槃//
仏教の神々;多神教的な神々/仏/菩薩/女神/下級神/密教の神々//
地獄と極楽;アショーカ王の地獄/八熱地獄/副地獄/八寒地獄/地獄の王エンマ/極楽浄土//
暦と占星術;お月様による暦/季節との調整/一年の行事/星うらない//
説話の世界;歴史的事実と空想物語/シャカの前世物語/説話の伝播/中国・日本への伝播/外からインドへ入ってきた説話など、
242ページ


 を経て、すでに「インド」のページで挙げた;

定方晟、『インド宇宙誌』、春秋社、1985

 および

定方晟、『インド宇宙論大全』、春秋社、2011

 にいたります。

 ちなみに須弥山説について前者ではpp.19-32に、「Ⅰ 仏教の世界観 第1章 小乗の世界観(須弥山世界観)」として、
界(空間)/世(時間)/須弥山世界観についての現代的考察など、

 後者ではpp.203-245に「第二部 仏教の宇宙観 第1章 小乗の宇宙観」として、
現実的な地理観/空想的な宇宙論/長さの単位/風輪、水輪、金輪/須弥山/七山七海/贍部洲/太陽と月/地下界/天界/無色界/千世界/仏教の時間の単位/宇宙の輪廻など


 なお前者は、刊行は先後しましたが、下記の論述を用いています;


定方晟、「須弥山世界と蓮華蔵世界」、『アジアの宇宙観』、1989、pp.130-167
小乗仏教の空間論/小乗仏教の時間論/大乗仏教の世界観/世界種の中の世界/仏の世界など。

 同じ著者による→こちらを参照:「グノーシス諸派など」の頁の「ii. 『ナグ・ハマディ文書』邦訳刊行とその周辺など

………………………

 古い本ですが、内容が豊富なものとして、

小野玄妙、『佛教神話 佛教思想体系 第拾四巻』、大東出版社、1933(昭和8)
序論;佛教研究の階梯/常識的組織的観察/佛教神話學/佛教神話學の基構/佛教神話發達史観 1 釋尊在世時代 2 小乗部派佛教時代 3 大乗佛教時代 4 密教興起以後//
大千國土神話;大宇宙に對する概念/三千大千世界/三界(欲界、色界、無色界)/二種世間、五道六趣/實測的に見た大千國土(倶舎論の説)/長阿含經の説/立世阿毘曇論の説//
須彌天界神話;須彌山頂帝釋天宮の所在/忉利天善見大城/殊勝殿/善法堂/四園林(衆車園、ロク(つつみがまえに鹿)惡園、雜林園、喜林園)/晝度樹//
人間四洲神話;吾等の住する國土/南贍部洲/東勝身洲/西牛貨洲/北倶廬洲//
世界成敗神話;世界の成立及び壊滅/世界成壊の四大時期/小の三災(刀兵、疾疫、飢饉)/大の三災 1 火災 2 水災 3 風災//
日月氣象神話;自然現象の説明/日宮殿/月宮殿/日月の運行と歳時晝夜/暦日の換算/氣象雜説//
天地開闢神話;神人時代/原人/人生生活の濫觴/異説小記/結言//参考 經典所説の尺度及び數量など、
358ページ。

 「豫め十八章目を立ててその取り纏めにかゝったのであるが、僅に前七章を済ませたと思つたら旣に與へられた豫定の頁數に達してしまい筆を擱かなければならぬことになってしまった」(序pp.1-2)、「第八章上宮諸天神話巳下以下の諸章は、別に後日を刻して續篇として書き継ぐことにした。従って神話らしい面白い部分は劫て今後の記述に俟たなければならぬことになった」(例言p.1)
とのことですが、続篇が出たかどうかは不詳。
 なお本書は、『佛教の世界觀』と改題して同じ大東出版社から1936年再刊されています。内容は変更なし。


 同じく古い本で、ウェブ上に掲載されているのが;

鈴木暢幸(講述)、『佛教神話』(早稲田大学三十九年度文学教育科第一学年講義録)、早稲田大学出版部、1907(明治40) [ < 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
緒論//
三界の依報;須彌山/三千世界//
三界の正報;地獄/餓鬼/畜生/阿修羅/人間/天上 甲 欲界天 乙 魔天 丙 色界天 丁 無色界天//
輪廻;地獄の業因/鬼神の業因/畜生の業因/阿修羅の業因/人界の業因/天上の業因//
時量;四劫波 成劫 住劫 壊劫 空劫/過去未三劫//結論など、
132ページ。


 手もとにあるもので、同じく国立国会図書館デジタルコレクションに掲載されている;

佐田介石、『佛教創世記』、東京書林(森江蔵板)、1879(明治12)
28ページ。

 佐田介石について→こちらも参照:本頁本項下掲の「図像など


 同じく手もとにあるもの;

浦上隆應(講述、戒光筆記)、『佛教 宇宙原因論』、眞言宗聯合大學黌(高野山 聯合大學蔵版)、1906(明治39)
發刊の辭(眞空太寰)/佛教 宇宙原因論序言(隆應)//
序論//
分類//
有情世界成立論 有情の出生を明す;三界=欲界、色界、無色界、/五趣=地獄、餓鬼、畜生、人、天、/九有情居/四生=胎、卵、濕、化、/中有の靈魂(槪説 中有の義 中有の現はるゝ理由 中有の形 中有は何人の眼に見ゆるや 中有は往來無礙自在なること 中有の食物 壽命の長短 託生の状態 中有は假有にして實有にあらざること)/十二縁起//
  有情の存在を明す//有情の死没を明かす//
器世界成立論 緒言//
  器世界の成立;遊虚空天の器界/須彌四大洲の成立//
  器世界の破壊//世界の數量//
成立の原因を論ず;宇宙は衆因縁生なることを明す/因縁は別の能造の者なきことを論ず/能生の因縁の躰を論ず/因縁を持續する識躰を論じて唯心造を顯はす/因縁の体は有空無碍にして宇宙萬象の大原因なることを結論す、など、
90ページ。


 まだまだあるのでしょうが、比較的近年のものに戻れば;

大橋俊雄、『仏教の宇宙』(東京美術選書 47)、東京美術、1986
須弥山の世界;はじめに/仏教天文学の歩み/須弥山説//
須弥山の宇宙;仏教の宇宙観/一須弥界/須弥世界/三千大千世界/私たちの住む世界 - 南贍部洲//
太陽と月の説話;太陽(日宮殿)/月(月宮殿)/太陽と月の動き - 『阿毘達磨倶舎論』/『立世阿毘曇論』にみる太陽と月/太陽と月の外観/『阿毘達磨大毘婆沙論』にみる太陽と月/雨安居/閏月について/春・夏・冬 - 一年三季/大洋の運行する道//
仏教の宇宙;地球/経典と時代/災害について/地球における大の三災-火災・水災・風災/地球の再成/壊滅と生成 - 六四転大劫など、
186ページ。


W. ランドルフ・クレッリ、瀬川郁久訳、『仏教のコスモロジー』、春秋社、2002
原著は W. Randolph Kloetzli, Buddhist Cosmology. From Single World System to Pure Land: Science and Theology in the Images of Motion and Light, 1983
仏教の思想と宇宙論;宇宙についての不可知論/宇宙論と古代の科学//
須弥山世界の宇宙論 - 単一の世界;基本的なイメージ/天体とブラフマーの教え//
「千の宇宙論」 - 一から多へ、多から一へ;時間と数えきれない世界/増殖するブッダ//
「千の宇宙論」のドラマと「道」;宇宙的な時間の間隙/解脱への道とブラフマーの輪//
「無数の宇宙論」と光の教え;基本となる神話素/十方の諸仏/光線の放射//
「無数の宇宙論」の終末論 - ガンガー河の砂の数ほどのブッダたち;無限大と無限小/ガンガー河の砂/知の作為としての宇宙/ブッダの瞑想/再成の種子//
結論-運動と光明//付録 参考文献など、
288ページ。

………………………

『木村泰賢全集 4 小乗仏教概論』、明治書院、1937、pp.241-334、「第三篇 世界觀」
總論;世界觀の定義/原始佛教の世界觀/阿毘達磨の世界觀/世界觀の資料に就いて/参考書//
婆羅門教の世界觀[特に物器世間に就いて];はしがき/吠陀・奥義書の世界觀/新婆羅門教の世界觀/プラーナの世界起源論/閻浮堤洲に就いて/他の六洲に就いて/空界及び天界/太陽(
Sūrya)を中心としての年時/特に月及び星座に就いて/天界其二/下界(Pātāla)/地獄(Naraka)/閻魔の世界//
佛教世界觀;器世間(
bhajanaloka);はしがき/風輪・水輪・金輪/須彌山を中心としての九山八海/特に須彌山に就いて/日月暦數//
特に地獄(
naraka, niraya)に就いて;文獻/位置/數及び種類/閻魔地獄/孤地獄//
有情世間(
sattvaloka)(生物現象論);五道或は六道/三界の有情/出生法/生活の資料/身長と壽量//
世界(物器・有情)の生・住・滅;劫波説と四瑜伽説/劫の種類/成劫/住劫/壊劫と空劫/結語など
(手もとにあるのはこの部分のコピーのみ)。


 ちなみに木村泰賢が小さからぬ比重で登場するのが;

宮崎哲弥、『仏教論争 - 「縁起」から本質を問う』(ちくま新書 1326)、筑摩書房、2018


松山俊太郎、「古代インド人の宇宙像 Ⅲ」、『エピステーメー』、vol.2 no.10、1976.11、「特集 数学の美学」、pp.166-183
仏教的宇宙論の諸相/十四無記(反形而上学的態度)/五趣と六道/最初期仏教の未組織的世界知識/仏教的な神群の位階と諸天界/仏教的「三界説」の萌芽/「禅定」による階梯/「三界説」と「禅天説」の関係/地獄の構造/須弥山説の構成/「三千大千世界」の構造など

 連載のⅠ、Ⅱについては→こちら:「インド」の頁の「i. 概説など

 →そちらでも少し触れています:「世界の複数性など」の頁中
 →あちらに再録:「仏教 Ⅱ」の頁の「iii. 華厳経、蓮華蔵世界、華厳教学など

 「ⅩⅢ 十四無記(反形而上学的態度)」(pp.167-168)で述べられている〈14(難)無記〉は、仏教における宇宙論の前提として押さえておくべきでしょう。そこではパーリ中部63経「チューラ・マールンキヤ・スッタ」と対応する漢訳中阿含221「箭喩経」が例として挙げられていますが、前者の現代語訳が;

「中篇の経典 - 5種」中の「2 毒矢のたとえ(中部第63経、小マールンキャ経)」、『バラモン教典 原始仏典 世界の名著 1』、1969、pp.473-478

 ここでは10種の問題が記されています。即ち;
「世界は永遠であるとか、世界は永遠でないとか、
世界は有限であるとか、世界は無限であるとか、
生命と身体は同一なものであるとか、生命と身体は別個なものであるとか、
人 * は死後存在するとか、人は死後存在しないとか、
人は死後存在しながらしかも存在しないのであるとか、人は死後存在するのでもなく存在しないのでもないとか」(p.473)。
 (* 同ページ(3)に「原語 tathāgata は普通『如来』と訳される語で、仏陀の呼称として用いられるが、ここでは必ずしも仏陀を意味するのではなく、ひろく一般的に人間を意味すると思われるので、『人』と訳した」とのこと)

 下掲(→こちら)の小谷信千代・本庄良文、『倶舎論の原典研究 随眠品』、大蔵出版、2007、p.99 では;
「世間は常住か。常住ではないか。
常住であり、かつ常住ではないのか。常住でもなく、常住でないのでもないのか。
[世間は]有限か。無限か。
有限であり、かつ無限か。有限でもなく、無限でもないのか。
如来は死後に存在するのか。如来は死後に存在しないのか。
乃至、生命と身体とは別か」(第22頌、p.xvii)

 また、カントにおける〈アンチノミー〉(→こちらを参照:「ロココ、啓蒙思想など(18世紀)」の頁の「iii. カントなど」)やフッサールにおける〈判断停止(エポケー)〉と比較してください。
 〈無記〉説と宇宙論の関係について、下記

岡野潔、「初期仏教のコスモロジーと善悪」、『日本佛教学会年報』、no.65、2000

小山一行、「仏教宇宙論と親鸞の思想」、2010

 も参照
 →そちらでも少し触れています:「世界の複数性など」の頁中

松山俊太郎、「三千世界の宇宙体系」、『SFと宇宙科学 タイムマシン・超宇宙・異次元に挑む 産報デラックス 99の謎 自然科学シリーズ 13』、1978.6、pp.136-138

松山俊太郎、「反世界としての地獄」、『反宇宙 もう一つの世界はあるか 産報デラックス 99の謎 自然科学シリーズ 15』、1978.8、pp.120-121

松山俊太郎、「インドの回帰的終末説」、is、no.17、1982.6、「特集 時」、pp.6-9
ユガ~カルパ説[ヒンドゥー教]/複合カルパ説[仏教]/半円環的時代説[ジャイナ教]など

  ヒンドゥー教では1カルパ=43億2千万年等と具体的な数字を当てたのに対し(pp.6-7/再録した『松山俊太郎 蓮の宇宙』(2016)では p.283→こちらも参照:「インド」の頁の「i. 概説など」中の本論文のところ)、仏教では、〈成・住・壊・空〉各20中劫からなる計80中劫=〈(四)大劫は

「〈磐石劫〉〈芥子劫〉など譬喩的にのみ説明され」(p.8/『蓮の宇宙』、p.288)、

具体的年数を示さなかったようです。なお、

芥子劫(けしこう)という譬喩によると、一辺一由旬(1由旬=約7.4キロ)の立方体をした城の中に、芥子粒をみたし、百年に一粒ずつ取り出して、全部終わっても、まだ一劫は経過しない。磐石劫(ばんじゃくごう)といy譬喩によると、一辺一由旬の立方体をした固い大石があり、カーシー産の綿ネル(karpāsa)でもって百年に一度さっと払い、石が摩滅して消滅するまで払いつづけても、一劫はまだ終わらない。
 これらは『
雑阿含(ぞうあごん)』の説だが、綿ネルの代りに天人の衣(とても軽い)をあげる仏典もある」
  ( 定方晟、『須弥山と極楽』、1973、p.101)。

 仏教が数字嫌いどころか、須弥山世界の大きさや欲界・色界の住民の身長や寿命などなど、事細かに数字を当てていることを思えば、〈劫〉に対するこうした態度は不思議と見えなくもありません。
 とまれ松山俊太郎は、

「〈中間劫〉が、人間の寿命が8万歳から10歳まで百年に一歳ずつ増減する期間、(80000-10)×100×2=15998000年と、算定の基礎ができた…(後略)…
 すなわち、新しい〈大劫〉は、〈12億7984万年〉で、ヒンドゥー教の〈カルパ〉の4分の1強にすぎない」(p.9/『蓮の宇宙』、p.288)

と算出しています。

 仏教における〈劫〉が何年なのか、気になる者は他にもいるようで、本項下掲(→そちら)の鈴木真治『巨大数 岩波科学ライブラリー 253』(2016)は、数学者リトルウッドの言葉を引用しています(p.22)。そこにも記されているように引用元には邦訳があって、見る機会がありました;

 B.ボロバシュ編、金光滋訳、『リトルウッドの数学スクランブル』、近代科学社、1990、「第10章 大きな数」

です。

「大きさが1立方マイルで、堅さがダイヤモンドの100万倍の岩がある。100万年に一度、聖なる人が岩のところに降臨して羽毛で撫でるががごとき7一撫でをする。岩は最後に擦り切れてしまうのであるが、それまでに1035年ほどかかる」

とあって、その前に

「バックル著『イングランドにおける文明の歴史』(第2版)、121-124ページ参照(次に述べることはこれが出典のような気がする - 私が自分で考え出せたはずはないから)」

と但し書きしてありました(p.142)。日本語版ウィキペディアに「ヘンリー・トマス・バックル Henry Thomas Buckle(1821-1862)」の頁がありました(→あちら)。History of Civilisation in England は未完で、第1巻は1857年、第2巻は1861年、第3巻は歿後の1868年に刊行されたとのことです。残念ながら算出の根拠はわかりませんが、他方、やはり下掲の同じ箇所に挙げたフィッシュ『巨大数論 第2版』(2013/2017)によると、

「『カガクの時間』というサイトでは、次のように計算しています。
『磐石劫』では、
  『1里=500m』
  『原子=1辺0.2nmの立方体』
  『1回なでると、1平方メートルの範囲の原子が1層はがれる』
という仮定の下、
4𥝱=4×1024年という計算結果を出しました。
2つ目の『芥子劫』については、
  『1里=500m』
  『けし粒=1辺0.5mmの立方体』、
という仮定の下
6𥝱4垓=6.4×1024年という計算結果を出しました」(p.16、改行は当方)

とのことです。

「数の位は、一、十、百、千、万と10倍ずつになり、その先は1万倍ずつ、億=108、兆=1012、京=1016、垓(がい)=1020、𥝱(じょ)=1024…(後略)…」(p.13)

で、
 ヒンドゥー教における1カルパ=43億2千万年は43.2×108年、
 松山俊太郎が記した大劫=12億7984万年は約12.8××108年、
 「インド」の頁で挙げた梵天の寿命=パラ=311兆400億年でも311×1012+400×108
と、これらよりさらに大きくなったわけです。仏教では1大劫×8×8の六十四転大劫だの阿僧祇劫だのと増殖していくわけですが(先の「数の位」云々によると阿僧祇=1056)、やはり松山の先の論考では、いわゆる六師外道の一人ないし「仏陀と同時の〈邪命外道(ājīvika)〉マッカリ・ゴーサーラの教説」に触れています;

「(vi) パーリ長部『沙門果経(sāmañña=phalasutta)』とジャイナ経典『バガヴァティー・スートラ』は、ゴーサーラの『無業報輪廻説』を伝えている。人間は〈8百40万大劫(cullāīti mahākappuno satasahassāni, caürāsītim mahākappa-saya-sahassāïm =84×100×100大劫)の輪廻を経て所業の善悪に関係なく涅槃に達するとあるのjは両経に共通であるが、後者はさらに、〈大劫(mahākappa)が三十万〈サラ(sara)〉からなるとして、夢魔的な体型を説く。すなわち、河床の長さ250〈ヨージャナ(約15キロ)〉、幅が半ヨージャナ、深さ500〈ダヌス(2メートル弱)〉のガンジス河を基準として、その7の7乗倍(117,649倍)の規模をもつパラマーヴァティー河があり、この河床から100年ごとに一粒の砂を除いて砂がなくなる期間が、〈サラ〉である。砂の厚みが述べられていないので、ガンジス河の砂粒を10の20乗として計算すると、〈8百40万大劫〉は3×10の39乗年になり、〈世界生滅の期間〉はこれよりさらに長大である」(p.8/『蓮の宇宙』、pp.285+286)。

マッカリ・ゴーサーラについては
 中村元、『思想の自由とジャイナ教 [決定版]中村元選集 第10巻』、春秋社、1991、pp.77-111:「第3章4 決定論 - ゴーサーラとアージーヴィカ教」
などを参照していただくとして、宇宙周期の年数ではありませんが、フィッシュ『巨大数論 第2版』(2013/2017)には数の単位としての〈恒河砂〉に関し、

「恒河砂は『ガンジス川の砂』の意味で、…(中略)…ガンジス川の砂の数という具体的な数になっているので、どの程度の大きさなのか見積もってみます。…(中略)…ガンジス川の全長は2500kmあまりです。川幅は数kmなので4km程度と考えて、面積を10000km2とします。深さをどこまで取るのかは分かりませんが、仮に1mの深さまで考えると、体積は10km3になります。問題は、砂の大きさです。…(中略)…ここでは暫定的に直径が0.1mmであると考えます。…(中略)…充填率100%でざっくり計算すると、10km3=1010mの中に0.001mm3=10-123の粒子を隙間無く埋めた時の粒子の個数なので、1022となります。今の日本の数え方だと、100垓程度であると見積もられます」(pp.15-16)

と算出しています。フィッシュ『巨大数論 第2版』や鈴木真治『巨大数』双方で取りあげられているアルキメデスの「砂粒を算えるもの」が連想されもするでしょうか。
 この他フィッシュの本では第1章中の1.2として華厳経阿層祇本に登場する「不可説不可説転」が扱われています(pp.31-32)。鈴木真治『巨大数』、pp.25-26、さらに「仏教 Ⅱ」の頁の「iii. 華厳経、蓮華蔵世界、華厳教学など」で挙げた

 鎌田茂雄、『華厳経物語』、1991、pp.189-199:「無限の数と寿命 - 心王菩薩問阿僧祇品」

 平嶋秀治、「華嚴經における大数について」、2000.

 望月海慧、「『華厳経』「阿僧祇品」「入法界品」に説かれる算法について」、『宗教研究』、vol.81 no.4、2008

また

 兒山敬一、「華嚴經・如來光明覺品の數理 - その方法論的な序説 -」、1961
  同、 「華嚴經における數理的なもの(二)」、1962

なども参照。鈴木真治『巨大数』によると数学者の末綱恕一に『華厳経の世界』(1957)があるとのことですが(p.26)、残念ながら未見(
追補:その後見る機会を得ました→やはり「仏教 Ⅱ」の頁の「ii. 華厳経、蓮華蔵世界、華厳教学など」中)。

 他方、同じく「インド」の頁の「viii. ジャイナ教など」でメモした松山論文の該当部分(→ここ)によると、
 ジャイナ教における〈時の輪〉は840万の19乗×10の15乗年×2
でした。840万の19乗はGoogleで計算すると3.641719e+131と出ます。これは3.641719×10の131乗でよいのであれば、それに10の15乗を掛けて3.641719×10の146乗、2倍にすれば7.283838×10の146乗でずいぶん大きくなりますが、合っているのでしょうか?

 「ギリシア・ヘレニズム・ローマ Ⅱ」の頁の「xii. その他」で挙げた

Godefroid de Callataÿ, Annus Platonicus. A Study of World Cycles in Greek, Latin and Arabic Sources, 1996

の巻末にある「附録2 もろもろの大年(太陽年で)」("Appendix 2 : Great Cycles (in solar years)"、pp.253-258)は、さまざまな典拠に現われた大年の年数の一覧で、テネドス島のクレオストラトス(紀元前520年頃)ないしクニドスのエウドクソス(紀元前4世紀)に帰されるという〈8年〉(p.253)を皮切りに、年数の大きいものへと列挙してあります。本の副題にあるとおり、古典古代およびアラビアの文献が主なのですが、一番最後の、おそらく資料が破損しているであろうとされる「344,3(...),787,638,360,[609 or 670]」(p.258)の一つ前は、「43億2千万」というインドのカルパのものでした(同上)。

 「中国 Ⅱ」の頁の「viii. 宋学と理気説」で挙げた(→そこ、邵康節/邵雍『皇極経世書』の〈元会運世〉説では
一元は12万9600年となるわけですが、
川勝義雄「総説」(『史学論集 中国文明選 第12巻』、1973)によると、
「宇宙は『元之元之元之元』つまり『元』の4乗『2万8211兆990万7456億年』」(p.20)。
 あわせて、『帝王世紀』等における天地開闢から現在までを「276万745年」とする算出については→あそこを参照:戸川芳朗、『漢代の學術と文化』、2002/「中国」の頁の「iv. 個々の著述など」の項の「その他

 イスマーイール派における周期説、とりわけイエメンのタイイブ派における
36万年×36万回=1296億年の大周期
(→そこなど:「イスラーム Ⅱ」の頁の「vi. イスマーイール派など」)、
またユダヤ教カバラーにおけるシェミットートについて、「ユダヤ Ⅲ」の頁の「xii. カバラーなど」で挙げた
 山本伸一、『総説カバラー ユダヤ神秘主義の真相と歴史』、原書房、2015、pp.253-284:第2部第10章「世界周期論」
などと比較してみてください。

「ひとつの世界が崩壊すると、今度は新しい世界が創造されるという。この循環は連鎖し、創造と終末で区切られた7000年の期間が7度繰り返される。ここまでで49000年を数える。さらに最後の1000年で、時間は究極の終焉へと向かい、最後にはすべてを生み出した神の内部に回収されることになる」(p.256)。

「世界の終わりに向けて7度繰り返す7000年の時代は、それぞれひとつのセフィロートとひとつのヘブライ文字に対応していて、文字により時代の性質が異なっている。…(中略)…
神からモーセに与えられた律法がこの7000年に限られた一時的なものでしかない」(p.259)。

 〈5万年〉という単位は、宇宙的な周期の期間ではありませんが、大地と第9天球ないし神の玉座との間を表わす表現として、イスラーム圏の文献に登場するそうです。「イスラーム Ⅲ」の頁の「x. クジャタ、バハムート、ファラク、その他」で挙げた

 Bernd Radtke, Weltgeschichte und Weltbeschreibung in mittelalterlichen Islam, 1992, pp.254-255

 Bernd Radtke and John O'Kane, The Concept of Sainthood in Early Islamic Mysticism. Two works by Al-Ḥakīm Al-Tirmidhī, 1996, p.230

などを参照。
 同じ「x. クジャタ、バハムート、ファラク、その他」の項の少し上で記したように(→そのあたり)、やはり距離を表わす〈500年〉という言い方や、〈1万8000の世界(ないしアイオーン)〉といったイメージをユダヤとイスラームは共有しています。「ユダヤ Ⅱ」の頁の「xi. メルカヴァー/ヘーハロート神秘主義など」で挙げた

 Nocolas Sed, La mystique cosmologique juive, 1981, “chapitre Ⅲ A-f-7 Les cinq cents années de marches” et “chapitre Ⅲ A-f-5 Les dix-huit mille mondes”

なども参照ください。加えて、ユダヤの巨数嗜好は神の身体の寸法を記した〈シウール・コーマー〉などでも見られました(→あのあたり:「ユダヤ Ⅱ」の頁の「メルカヴァー/ヘーハロート神秘主義など」)。そこからさらに、ユダヤにおけるアダムの表象も含んだ、宇宙大の原人間や原初の獣のイメージへつながっていくことでしょう(→「原初の巨人、原初の獣、龍とドラゴンその他」の頁を参照)。

R.F. ゴンブリッチ、「インドの宇宙論」、『古代の宇宙論』、1976、pp.105-143 および口絵21-23、p.xv。
『リグ・ヴェーダ』後半;空と地の二分説と地・空気・天の三分説/プラーナの宇宙論;ユガ、マハー・ユガ、カルパ/世界の構成、メール山、天界と冥界/ジャイナ教/仏教など。

山辺習学、『地獄の話』(講談社学術文庫 561)、講談社、1981
原著は『仏教に於ける地獄の新研究』、1932
序論;迷界研究の意義/経説としての迷悟境/三世思想の生活感/内観の世界//
地獄界;地獄の位置とその意味/批判の世界/苦悩の種々相/地獄の宗教性/餓鬼界//
天上界;帝釈と阿修羅/天上界裏の地獄、
まえがき・解説(金岡秀友)など、
296ページ。


『大法輪』、第55巻第7号、1988.7、pp.104-163、「特集 仏教の世界観 - 迷いの世界と仏の世界」
須弥山とは何か(加藤純章)/地獄の世界(三友健容)/迷いの世界 - 人間と天界(田中教照)/弥勒菩薩の兜率天(花山勝友)/観音菩薩の補陀落浄土(速水侑)/法華経の霊山浄土(久留宮圓秀)/華厳経の蓮華蔵世界(木村清)/阿弥陀仏の西方極楽浄土(藤元正樹)/密教の密厳浄土(頼富本宏)など

ひろさちや、『仏教「死後の世界」入門 美しく生きて美しく死ぬ』(講談社+α新書 118-1A)、講談社、2002
死への旅立ち/来世への旅立ち/地獄めぐり/餓鬼と畜生の世界/天界と修羅と娑婆/極楽めぐりなど、
200ページ。


荒川紘、「第2章 縁起から須弥山宇宙へ - 釈迦の教えと上座部仏教」、『東と西の宇宙観 東洋篇』、2005、pp.54-88
第二の都市化 - 自由思想家の出現/釈迦の宇宙思想/上座部仏教 - 「有」の宇宙論へ/『倶舎論』の須弥山宇宙など。

 同、 「第3章 空の宇宙 - 大乗仏教」、同上、pp.89-105
大乗仏教の展開/浄土の宇宙論/密教的宇宙の成立など。

梶山雄一、吹田隆道編、『梶山雄一著作集 第三巻 神変と仏陀観・宇宙論』、春秋社、2012
仏教の終末論/仏教の終末論、神変、そして法華経/法華経と空思想/華厳経における仏・菩薩の奇跡/仏教終末論ノート-『世記経』と『倶舎論』/華厳経入法界品解説(1)/華厳経入法界品解説(2)/大智度論解説/仏陀観の発展神変/迦葉仏と多宝仏/法華経における如来全身/瑜伽師地論の宇宙論(試訳)など、
416ページ。


 同書中で重複して何度か出てくるのですが、アビダルマの終末論において、火の大災では全有情が第2禅天に、水の大災では第3禅天に、風の大災では第4禅天に生天することが、大乗において神変に展開されるという議論は興味深いものでした。
 また仏陀観に関連して、一世界一仏説における〈世界〉が一須弥世界か三千世界かの議論、大乗においては諸々の三千世界=十方世界における諸仏の存在へと展開するという話も注目されます(「仏陀観の発展」第2節「 仏陀観の空間的発展」参照)。

 →こちらにも挙げておきます:「世界の複数性など」の頁中

Willibald Kirfel, Die Kosmograhie der Inder, 1920/1967, pp.178-207 ; "2. Abschnitt. Die Kosmographie der Buddhisten"

 原典からの翻訳として;

山口益・舟橋一哉、『倶舎論の原典解明 世間品』、法藏館、1955
緒言//
世間;三界/五趣/七識住/九有情居/四識住/四生/中有/中有説の論據/中有の形状/中有の九門分別/四種の入胎/無我と中有と輪廻//
十二因縁;三世兩重の因果/十二支の體/四種の縁起と佛陀の聖意/何故に十二因縁は唯だ有情のみに關して説くか/十二因縁の略攝/十二因縁の輪的相關關係/無明について/名色について/觸について/受について/惑業事としての十二因縁の喩説//
有情に關する種種の問題;四有とその染、不染、及びその三界に對する關係/有情の住-四食/以上の没/有情世間の生住没における三聚//
器世間;三界の根本-三輪/九山/八海/四大洲/贍部洲の山河/地獄[㮈落迦]/日と月/天器及び諸天/千世界/有情の身量/有情の壽量//
有情物・器世間の變化及び運命;變化の基礎[色及び時の量]/劫及び四劫/諸佛菩薩/劫初の有情と國王の協立/劫滅時の大小の三災など、
592ページ。

 世親『阿毘達磨倶舎論 世間品』と稱友の倶舎論疏こと『阿毘達磨倶舎論明瞭義釋 世間品』の和訳。
 「本論については梵本が未刊であったためにチベット訳からの和訳を提示したもの」(櫻部建・小谷信千代・本庄良文、『倶舎論の原典研究 智品・定品』、大蔵出版、2004、p.364)で、梵文世品の和訳も別途準備中とのこと(同、pp.367-368。小谷信千代・本庄良文、『倶舎論の原典研究 随眠品』、大蔵出版、2007、p.279)。

 本書にもどれば、「第5章第2節 劫及び四劫 第3項 成劫」(p.457)から引用したりもしたことがありました→「作品解説、あるいは幕間に潜りこもう!」、3節目の終わり頃、『ひろがるアート展~現代美術入門篇~』図録 2010.10』<三重県立美術館のサイト

 →こちらで少し引いています:『バーバレラ』(1968)の頁中
 なお本書は、新装版が2012年12月に刊行されたとのことです。

桜部建、『倶舎論 佛典講座 18』、大蔵出版、1981

 「まず玄奘訳『倶舎論本頌』第一-第七章の本文、その読み下し、語釈および解説を掲げ、次に、玄奘訳『倶舎論』第八章の本文、その読み下し、語釈と、サンスクリット原文よりの和訳および解説を与える」(p.33)というもので、「分別世間品第三」は pp.104-134 に掲載。
400ページ。

 なお、具体的な宇宙論の記述は「世間品」でなされているわけですが、色界・無色界は禅定と結びつけられているため、他の章にも関連する箇所が多々あります。


 『倶舎論』の全体像や位置づけについては;

櫻部建・上山春平、『存在の分析〈アビダルマ〉 仏教の思想 2』(角川ソフィア文庫 SP 107)、角川書店、1996
原著は1969刊。
無常の弁証(櫻部建);宇宙/人間/ダルマの体系 Ⅰ/ダルマの体系 Ⅱ/物/心/善と悪/煩悩/道/
らかん(ヽヽヽ)ほとけ(ヽヽヽ)/アーガマからアビダルマへ/世親の伝記/『倶舎論』以後//
インド思想とアビダルマ([鼎談]服部正明・櫻部建・上山春平)//
仏教哲学の原型-ダルマの哲学(上山春平);宗教と哲学/アビダルマの課題/『倶舎論』の構成/有情の業/ダルマの体系/有部アビダルマと『倶舎論』/刹那滅の思想など、
342ページ。

 『倶舎論』の著者でありつつ、唯識の確立者でもあるというヴァスヴァンドゥ(世親)については;

三枝充悳・横山紘一、『世親』(講談社学術文庫 1642)、講談社、2004
原著は1983刊。
ヴァスヴァンドゥ(世親)の生涯;はじめに/『婆藪槃豆伝』/ターラナータの伝えるヴァスヴァンドゥの伝記//
ヴァスヴァンドゥの思想;『倶舎論』における思想/唯識論書における思想//
ヴァスヴァンドゥの著作;概観/『成業論』/『唯識二十論』/『唯識三十頌』//
ヴァスヴァンドゥ以後;インドにおける発展/中国における発展/日本における発展/西洋思想とヴァスヴァンドゥなど、
384ページ

………………………

 原典訳にもどれば;

丘山新・神塚淑子・辛嶋静志・菅野博史・末木文美士・引田弘道・松村巧訳注、『現代語訳「阿含経典」 長阿含経 第6巻 世記経』、平河出版社、2005
閻浮堤洲品/鬱単曰品/転輪聖王品/地獄品/龍鳥品/阿須倫品/四天王品/忉利天品(1)/忉利天品(2)/三災品/戦闘品/三中劫品/世本縁品(1)/世本縁品(2)など、
544ページ。


 〈梵天王の誤解〉に関して→こちらで少し触れています:「世界の複数性など」の頁中

 『世記経』に関連して、とりあえず手もとにあるものから;

岡田真美子訳、「第24経 神通と世界の起源 - パーティカ経」、中村元監修、『原始仏典 第3巻 長部経典Ⅲ』、春秋社、2004、pp.3-40

 同、 「第26経 転輪王と人間の寿命 - 転輪聖王修行経」、同上、pp.69-113

岡田行弘訳、「第27経 人間世界の起源 - 起源経」、同上、pp.115-140

 〈梵天王の誤解〉に関して→こちらで少し触れています:「世界の複数性など」の頁中
 同巻からは他に、
「第33経 教義の集成-等誦経」、
「第34経 教義の収集と分類-十上経」
 なども参照。

出本充代訳、「第120経 希望による転生 - 意行経」、中村元監修、『原始仏典 第7巻 中部経典Ⅳ』、春秋社、2005、pp.193-207

 同、 「第121経 空についての短い経 - 小空経」、同上、pp.209-217

長尾佳代子訳、「第127経 瞑想によって神々に転生する-有勝天経」、同上、pp.283-293

 同、 「第129経 愚者と賢者 - 癡慧地経」、同上、pp.313-334

 同、 「第130経 神の使者-天使経」、同上、pp.335-347

 同、 「第137経 『六つの場所』を分析する - 分別六処経」、同上、pp.429-445

 など

 漢文訓み下しですが;

金子芳夫・小山一行・羽矢辰夫校註、『新国訳大蔵経 インド撰述部 阿含部 3 長阿含経Ⅲ、尸迦羅越六方礼経、他』、大蔵出版、1995、pp.48-212

 が「巻第十八 (三〇)第四分 世記経」。
 pp.9-15 に解説。

………………………

 以下、漢文訓み下し;

『佛説立世阿毘曇論』十巻、林彦明・飯田順雄・渡邉楳雄譯、竹村牧夫・片山一良校訂、『國譯一切經 印度撰述部 148 論集部 一』、大東出版社、1933/1977、pp.113-366
巻の1;地動品/南剡浮堤品/六大國品/夜叉神品//
巻の2;漏闍耆利象王品/四天下品/數量品/天住處品//
巻の3;觀喜園品/衆車園品/惡口園品/雜園品/波利夜多園品//
巻の4;堤頭頼吒城品/毘留勒叉城品/毘留博叉城品/毘沙門城品//
巻の5;天・非天闘戦品/日月行品//
巻の6;云何品//
巻の7;受生品/壽量品//
巻の8;地獄品//
巻の9;小の三災[品]:疾疫品/刀兵品/飢餓品//
巻の10;大の三災品:火災

 渡邉楳雄「立世阿毘曇論解題」(pp.113-135)
は仏教の宇宙論の歴史における位置づけを試みており、参考になります。
 本経については下記、岡野潔「インド正量部のコスモロジー文献、立世阿毘曇論」(1998)も参照。

『正法念處經』巻の第1~21、山邊習學譯、田上太秀校訂、『國譯一切經 經集部 八』、大東出版社、1933/1990
十善業品1~2/生死品1~3/地獄品1~11/餓鬼品1~2/畜生品1~4、
418ページ。


『正法念處經』巻の第22~39、山邊習學譯、『國譯一切經 經集部 九』、大東出版社、1931
觀天品1~18;四天王1~3/三十三天1~11/夜摩天1~4、
360ページ。


『正法念處經』巻の第40~55、山邊習學・中村元・田上太秀譯、『國譯一切經 經集部 十』、大東出版社、1931/1992
觀天品19~34;夜摩天5~20、
316ページ。


『正法念處經』巻の第56~70、山邊習學・泉芳環譯、『國譯一切經 經集部 十一』、大東出版社、1935、pp.1-287
觀天品35~42;夜摩天21~28/身念處品1~7

 他に
『大乗同性經』所収(pp.289-330)

 本経については、また;

水野弘元、「正法念處經について」、『印度學佛教學研究』、vol.12 no.1、1964、pp.38-47 [ < J-STAGE

 さて、仏教の宇宙論を記した重要な文献の日本語訳がウェブ上に掲載されています。まずは;

岡野潔、「インド正量部による世界の歴史 : 『大いなる帰滅の物語』内容梗概」、『論集』、no.38、印度学宗教学会、2011.12、pp.1-19[ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

 以下、さかのぼって本文。註にも随所で参考になる見解が記されています;

 同、 「正量部の仏伝の伝承研究 : 『大いなる帰滅の物語』第1章1節~3節の翻訳と研究」、『哲學年報』、no.65、九州大学大学院人文科学研究院、2006.3.1、pp.1-38 [ < 同上

 同、 「世界の成り立ちをめぐる外教との論争 : 『大いなる帰滅の物語』第一章第四節読解」、『哲學年報』、no.71、九州大学大学院人文科学研究院、2012.3.9、pp.1-46[ < 同上

 同、 「『大いなる帰滅の物語』第2章1節〜3節に見る世界形成の正量部伝承」、『哲學年報』、no.66、九州大学大学院人文科学研究院、2007.3.1、pp.1-37 [ < 同上 ]

 〈梵天王の誤解〉に関して→こちらで少し触れています:「世界の複数性など」の頁中

 同、 「『大いなる帰滅の物語』(Mahāsaṃvartanīkathā) : 第2章4節~第4章1節と並行資料の翻訳研究」、『哲學年報』、no.63、九州大学大学院人文科学研究院、2004.3.5、pp.1-110 [ < 同上 ]

 同、 「やがて世界が終わる、世界が生まれ変わる : 『大いなる帰滅の物語』第4章2節~4節読解」、『哲學年報』、no.67、九州大学大学院人文科学研究院、2008.3.1、pp.1-54 [ < 同上 ]

 同、 「生きものが再びいなくなる時代 : 『大いなる帰滅の物語』第5章1節にみる正量部伝承」、『哲學年報』、no.68、九州大学大学院人文科学研究院、2009.3.1、pp.1-26 [ < 同上 ]

 同、 「『大いなる帰滅の物語』 (Mahāsaṃvartanīkathā) : 第5章2節~4節と並行資料の翻訳研究」、『哲學年報』、no.64、九州大学大学院人文科学研究院、2005.3.5、pp.1-32 [ < 同上 ]

 同、 「『大いなる帰滅の物語』最終章 — 第6章1節-4節の翻訳研究 —」、『哲學年報』、no.70、九州大学大学院人文科学研究院、2011.3.1、pp.1-41 [ < 同上 ]
………………………

 関連する論文として;

岡野潔、「新発見の仏教カーヴィア Mahāsṃavartanīkathā - 特に, Amṛtānda 本 Buddhacarita に見られる, その借用について - 」、『印度學佛教學研究』、vol.43 no.1、1994.12、pp.391-386 [ < J-STAGE ]

 同、  「いかに世界ははじまったか -----インド小乗仏教・正量部の伝える世界起源神話 -----」、『文化』、vol.62 no.1・2、1998.9、pp.176-158

 同、  「新発見のインド正量部の文献」、『印度學佛教學研究』、vol.47 no.1、1998.12、pp.376-371 [ < J-STAGE

 同、  「インド正量部のコスモロジー文献、立世阿毘曇論」、『中央学術研究所紀要』、no.27、1998.12、pp.55-91 [ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

 同、  「初期仏教のコスモロジーと善悪」、『日本佛教學会年報』、no.65:「仏教における善と悪」、2000.5.15、pp.225-238 [ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

 〈無記〉説を踏まえた上で、仏教の宇宙論が、阿含中の「『パーティカ経』『梵網経』の語る宇宙開始期の神話と、『アッガンニャ経』の人間と社会の起源を語る神話と、『転輪聖王師子吼経』の人寿の増減と刀兵劫の神話、この三者がともに時間軸の上に置かれて連続的な歴史として整理される」(p.229)、
 加えて「『七日経』の器世間の終末神話と結合」して、「最近発見された正量部のカーヴィヤ
Mahāsṃavartanīkathā(略号 MSK)ならびにその作品の直接の源泉である『文献X』」や、あるいは『世起経』にいたるという展開が述べられています。
 →こちらにも挙げています:本頁本項の上掲箇所(〈十四難無記〉に関連して)

 同、  「正量部の歴史的宇宙論における終末意識」、『印度學佛教學研究』、vol.49 no.1、2000.12、pp.406-402 [ < J-STAGE ]

 同、  「犢子部の三法度論と正量部の現存資料の関係 - 立世論の部派所属の追加証明の試み -」、『印度學佛教學研究』、vol.50 no.1、2001.12、pp.390-386 [ < J-STAGE ]

 同、  「正量部の伝承研究(1): 胡麻・砂糖黍・乳製品の劣化に見る人間の歴史」、『櫻部建先生喜寿記念論集 初期仏教からアビダルマへ』、2002.5、pp.217-231 [ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

 同、  「正量部における現在劫の終末意識をめぐる問題点」、『印度學佛教學研究』、vol.51 no.1、2002.12.20、pp.393-388 [ < J-STAGE ]

 同、  「インド仏教正量部の終末観」、『哲學年報』、no.62、2003.3.8、pp.81-111 [ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

 同、  「インド正量部の宇宙論的歴史における人間と動物と植物の関係」、『日本佛教学会年報』、no.68:「仏教と自然」、2003.5.25、pp.71-85 [ < 日本佛教學会

 同、  「アッガンニャ経の神話的食物の名 lasā/rasā/rasa」、『印度學佛教學研究』、vol.52 no.2、2004.3、pp.858-851 [ < J-STAGE ]

 同、  「正量部の伝承研究(2) : 第九劫の問題と『七佛経』の部派所属」、『インド学諸思想とその周延 : 佛教文化学会十周年北條賢三博士古稀記念論文集』、no.62、2004.6、pp.173-196 [ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

 同、  「弥勒下生経類と『大いなる帰滅の物語』の関係」、『論集』、no.34、印度学宗教学会、2007.12、pp.524-540 [ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

 同、  「世界史を説く未知の正量部聖典からの引用文テクスト(1) - 『有為無為決択』第 8 章における引用文の蔵文テクストの校訂・和訳 -」、『哲學年報』、no75、2016.3.18、pp.15-53 [ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

 同、  「世界史を説く未知の正量部聖典からの引用文テクスト(2) - 『有為無為決択』第 8 章における引用文の蔵文テクストの校訂・和訳 -」、『哲學年報』、no76、2017.3.17、pp.1-32 [ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

 併せて;

岡野潔、「仏陀の永劫回帰信仰」、『論集』、no.17、印度学宗教学会、1990.12、pp.93-109 [ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

  同、  「仏陀が永劫回帰する場所への信仰 : 古代インドの仏蹟巡礼の思想」、『論集』、no.26、印度学宗教学会、1999.12、pp.77-92 [ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

 同、  「悪をどう考えるか — インド仏教の立場から」、『西日本宗教学雑誌』、no.25、2003.12、pp.120-133 [ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

 原典の日本語訳としてこの他に;

三友健容、『アビダルマディーパの研究』、平樂寺書店、2007、pp.416-419

 「『アビダルマディーパ』…(中略)…正確な著者も時代も未詳のこの論書は、世親(Vasbandhu)の『倶舎論』Abhidharmanyāyānusāraに対して正統有部の立場から反論し、…(中略)…かつ大乗佛教への批判も行うという」(p.iii)もの。
 ただし「世間品のほとんどの箇所が欠落していて第150偈は、大の三災の説明の一部である」(p.110)。
全1160ページ。


並川孝儀、『インド仏教教団 正量部の研究』、大蔵出版、2011、pp.350-370

 「第二部 チベット語訳『有為無為決択』所引の正量部説 和訳と引用文」、
「第一章 『有為無為決択』所引の正量部説のシノプシスと和訳」、
「第二節 『有為無為決択』所引のシノプシスと和訳Ⅱ」、
「(一)第八章『劫決択』中の『世界の生成と破滅』シノプシスと和訳」。

 前掲岡野潔の翻訳研究と重なるが、「和訳に異なったところも見られ、またSAVにおける正量部説の考察の一環でもあるので、ここに訳出しておく」(p.369)とのこと。


梶山雄一、「第一三章 瑜伽師地論の宇宙論(試訳)」 、前掲『梶山雄一著作集 第三巻 神変と仏陀観・宇宙論』、2012、pp.345-361

 「『瑜伽師地論』本地分・意地のうちに『宇宙論』を略述した部分がある。…(中略)…ここでは『大の三災』を中心とする壊劫、それに次ぐ空劫・成劫、住劫の記述のある部分、すなわち大正、XXX, 285, b19-288, a25 の間を選ぶことにした」(p.345)とのこと。
 訳はサンスクリット文による。初出は1997。

………………………

 また;

福田 琢(編)、「加藤清遺稿 蔵文和譯『世間施設』(1)」、『同朋仏教』、no.34、1999.3、pp.140-99(19-60) [ < 同朋大学機関リポジトリ
DOI ; https://doi.org/10.15076/00001856

 同、   「加藤清遺稿 蔵文和譯『世間施設』(2)」、『同朋仏教』、no.35、1999.7、pp.88-72(27-43) [ < 同上 ]
DOI ; https://doi.org/10.15076/00000704

 同、   「加藤清遺稿 蔵文和譯『世間施設』(3)」、『同朋仏教』、no.36、2000.7、pp.128-91(19-56) [ < 同上 ]
DOI ; https://doi.org/10.15076/00000703

 同、   「加藤清遺稿 蔵文和譯『世間施設』(4)」、『同朋大学論叢』、no.84、2001.6、pp.86-63(45-68) [ < 同上 ]

 同、   「加藤清遺稿 蔵文和譯『世間施設』(5)」、『同朋大学論叢』、no.85・86、2002.6、pp.310-273(189-226) [ < 同上 ]

 同、   「加藤清遺稿 蔵文和譯『世間施設』(6)」、『同朋大学論叢』、no.89、2004.12、pp.146-130(93-109) [ < 同上 ]

 同、   「加藤清遺稿 蔵文和譯『世間施設』(7)」、『同朋仏教』、no.40、2004.7、pp.162-135(25-52) [ < 同上 ]
DOI ; https://doi.org/10.15076/00001828

 同、   「北京・デルゲ対校 チベット文『世間施設』第1巻」、『同朋大学論叢』、no.93、2009.3、pp.150-126(23-47) [ < 同上 ]

 同、   「北京・デルゲ対校 チベット文『世間施設』第2巻」、『同朋大学論叢』、no.96、2012.3、pp.128-100(75-103) [ < 同上 ]

 同、   「北京・デルゲ対校 チベット文『世間施設』第3巻」、『同朋大学論叢』、no.98、2014.3、pp.90-69(1
7-38) [ < 同上 ]


 があるとのことですが、未見。
追補(2023/11/12);その後ありがたいことに、ウェブ上に掲載されていました。上記各タイトルからリンクしておきます。第7回を誤って「『同朋大学論叢』(?)、no.88(?)」としていましたが、訂正しました。また概観を得るには;

福田 琢、「『世間施設』の背景」、『同朋仏教』、no.49、2013.7、pp.136-120(1-17) [ < 同上 ]

 『施設論』中、『世間施設』に続く『因施設』は現代語訳で;

福田 琢(編・訳)、「加藤清遺稿 蔵文和訳『因施設』(1)」、『同朋仏教』、no.43、2007.7、pp.88-59(1-30) [ < 同上 ]

 同、   「加藤清遺稿 蔵文和訳『因施設』(2)」、『同朋仏教』、no.48、2012.7、pp.164-136(1-29) [ < 同上 ]

 各論として;

梅原隆章、「須彌山説に就いて」、『ヒストリア』、no.2、1951.12、pp.55-60

海野一隆、「崑崙四水説の地理思想史的考察 : 仏典及び旧約聖書の四河説との関連において」、『史林』、vol.41 no.5、1958、pp.379-393

御手洗勝、「古代中国における地理思想 - 崑崙四水説について -」、『民族学研究』、24巻1-2号、1960.3、pp.438-450

 上の二つの論文は双方→「中国」の頁の「iv. 個々の著述など」中の「その他」で挙げたものです。
 後者には、

「一体『世起経』の世界観では、閻浮洲とスメルとは、七山八海によって隔絶されているが、原始仏教では、スメルは、ヒマラヤと同一視され、これが世界の中央だと考えられている(KIRFEL ; a.a.O..S.182)。従って原始仏教経典のスメルは、新バラモン経典の世界観にも似て、本来一大陸の中央にあったことになろう。しかるにこの大陸が、四海観念を媒介として、四つの部分に分離されるや、こゝに仏教の四大洲が成立するに至ったものと考えられる。(Vgl, KIRFEL ; a.a.O.S.103..)」(p.446)

とありました。

 →「インド」の頁の「iv. 叙事詩、プラーナなど」で挙げた

  井上信生、「Mahābhārata VI.5-13の世界観」、『待兼山論叢. 哲学篇』、no.31、1997.12、pp.43-53

のところで記したメモも参照。
 また、「イスラーム Ⅲ」の頁の「x. クジャタ、バハムート、ファラク、その他」の内、

  守川知子監訳、ペルシア語百科全書研究会訳注、「ムハンマド・ブン・マフムード・トゥースィー著 『被造物の驚異と万物の珍奇』(1)~(11)」、『イスラーム世界研究』、vol.2 no.2~vol.11、2009~2018

のところでメモした〈アルボルズ山/カーフ山〉とも比較してみてください(→こちら)。

藤田宏達、「三界説について」、『印度學佛教學研究』、vol.8 no.2、1960、pp.467-470 [ < J-STAGE

稲荷日宣、「十界の成立 - 特に下六界について-」、『印度學佛教學研究』、vol.9 no.1、1961、pp.192-195 [ < J-STAGE ]

 同、  「十界の成立 (2) - 特に上四界と下六界との結びつき -」、『印度學佛教學研究』、vol.10 no.1、1962、pp.269-273 [ < 同上 ]

坂東性純、「仏教と終末思想」、『印度學佛教學研究』、vol.21 no.2、1973、pp.560-566 [ < J-STAGE ]

吉田宏晢、「仏典にあらわれた風」、『エピステーメー』、vol.4 no.2、1978.2、「特集 風・プネウマ 生と死のスーユ」、pp.88-95
宇宙論における風/身体論における風/存在論における風/風に対するその他のエピステーメーなど

牧達玄、「大楼炭経の同本異訳を巡る二三の問題」、『印度學佛教學研究』、vol.26 no.2、1978、pp.667-668 [ < J-STAGE ]

牧達玄、「阿含経典中に散在する器世間関係の資料整理 (一)」、『印度學佛教學研究』、vol.27 no.2、1979、pp.704-706 [ < J-STAGE ]

 同、  「阿含経典中に散在する器世間関係の資料整理 (二)」、『印度學佛教學研究』、vol.29 no.2、1981、pp.632-633 [ < 同上 ]

 同、  「阿含経典中に散在する器世間関係の資料整理 (三)」、『印度學佛教學研究』、vol.31 no.1、1982、pp.120-121 [ < 同上 ]

牧達玄、「『仏説泥犁経』考」、『印度學佛教學研究』、vol.32 no.1、1983、pp.190-193 [ < J-STAGE ]

牧達玄、「『増一阿含経善聚品32-4・天使経』考」、『印度學佛教學研究』、vol.34 no.1、1985、pp.148-153 [ < J-STAGE ]

 同、  「『増一阿含経善聚品32-4・天使経』考(2)」、『印度學佛教學研究』、vol.38 no.1、1989、pp.286-293 [ < 同上 ]

春日井真英、「須弥山の構造について - その垂直面からの考察 -」、『印度學佛教學研究』、vol.28 no.2、1980、pp.648-649 [ < J-STAGE ]

 同、  「須弥山の構造について Ⅱ」、『印度學佛教學研究』、vol.29 no.1、1980、pp.130-131 [ < 同上 ]

春日井真英、「初期仏教経典にみる世界壊滅と再成」、『印度學佛教學研究』、vol.30 no.1、1981、pp.116-117 [ < J-STAGE ]

 同、  「初期仏教経典にみる世界壊滅と再成 Ⅱ」、『印度學佛教學研究』、vol.31 no.1、1982、pp.118-119 [ < 同上 ]

春日井真英、「仏教経典にみる洪水の問題について」、『印度學佛教學研究』、vol.32 no.1、1983、pp.172-173 [ < J-STAGE ]

 なお、同じ著者によるものとして→こちら:「日本」の頁の「i. 概説、通史など

伴戸昇空、「lokantarika-niraya 成立過程の推論」、『印度學佛教學研究』、vol.29 no.1、1980、pp.126-127 [ < J-STAGE ]

 →こちらで触れました:「世界の複数性など」の頁中、また→あちら(「インド」の頁の「i. 概説など」の末尾)も参照

伴戸昇空、「漢訳雑阿含考」、『印度學佛教學研究』、vol.30 no.2、1982、pp.854-857 [ < 同上 ]

伴戸昇空、「覩史多天考」、『印度學佛教學研究』、vol.31 no.1、1982、pp.330-333 [ < 同上 ]

池田練太郎、「中有の機能について」、『印度學佛教學研究』、vol.39 no.2、1991、pp.926-922 [ < J-STAGE ]

『アジア遊学』、no.10、1999.11、pp.2-136;「特集・東アジアの芸術・芸能に見る地獄と極楽」
総論 東アジアの芸術・芸能と仏教における地獄と極楽の接点(勝木言一郎)/地獄と救済 - 三部長議会にみる(佐藤道子)/日本建築における装飾の展開 - 浄土表現の変化を辿る(菅澤茂)/中国中世の冥界と地獄(辻正博)/石鼓廟地獄図壁画の図像について(勝木言一郎)/福建省泉州の芸能と地獄・極楽(山本宏子)/飛天が奏でる天宮の楽 - 石窟壁画にみる楽器の形状(樋口昭)/化粧皿にみる楽園と饗宴のイメージ - 西北インド・ガンダーラにおける楽園へのまなざし(服部等作)/古代西アジアの天国と地獄(宮下佐江子)など

森雅秀、「仏教の空間論への視座」、『印度学宗教学会 論集』、no.31、2004、pp.1-19 [ < mori masahide's homepage

本多真、「環境問題から考える『相克』と『調和』 - 初期仏教教団における環境悪化とその対応」、『宗教と倫理』、no.6、2006.10、pp.48-61 [ < 宗教倫理学会

江上琢成(たくじょう)、『日本中世の宗教的世界観(日本仏教史研究叢書)』、法蔵館、2007、pp.56-91:「第2章 中世歴史叙述における須弥山説の諸相」
はじめに//
『水鏡』における須弥山説;『水鏡』における四劫説の重視/『水鏡』における浄土教的世界観の重視/『水鏡』における地理認識の希薄性//
『愚管抄』における須弥山説;『愚管抄』における増減劫観の重視/『愚管抄』における怨霊の重視と浄土教的世界観の希薄性/『愚管抄』の地理認識の希薄性//
『元享釈書』における須弥山説;『元享釈書』「伊勢皇太神宮伝」における四劫観と地理認識/『元享釈書』における須弥山説と浄土教的世界観//
『神皇正統記』における須弥山説;『神皇正統記』における地理認識と四劫観/『神皇正統記』における仏教的世界観と神道的世界観の併存形態//
むすび


 2002年6月の発表を論文化したもの(p.249)。
『神皇正統記』にからんで→こちらにも挙げておきます(「日本」の頁の「iv. 神仏習合、中世神話など」の項)

 他の目次は;

序章 宗教的世界観研究の構想/『往生要集』における三世因果観の性格/『沙石集』における三世因果観の性格/『北条重時家訓』における宗教思想の性格/法然の宗教的世界観/親鸞の宗教的世界観/補論 親鸞の教化観 - その主体性の思想史的性格 -/結章 宗教的世界観の展開など、
258ページ。


 序章2-2も「須弥山説の性格 - アジアの天動説」(pp.16-19+註)
 上に細目を挙げた第2章とともに、第1章でも「特に須弥山説を重視する」とのこと(p.23)。
第6章2-2は「親鸞思想における須弥山説」(pp.201-203++註)。なので→そちらにも挙げておきます(本頁、下掲の親鸞に関して
結章では近世以降における須弥山説の展開がたどられ、〈梵暦〉にも触れられます。なので→あちらにも挙げておきます(本頁、下掲の梵暦に関して

平岡聡、「『増一阿含経』の成立解明に向けて(1)」、『印度學佛教學研究』、vol.56 no.1、2007.12.20、pp.305-298 [ < CiNii Articles

 同、  「『増一阿含経』の成立解明に向けて(2)」、『印度學佛教學研究』、vol.57 no.1、2008.12.20、pp.319-312 [ <同上

外村中、「帝釋天の善見城とその園林」、『日本庭園学会誌』、no.20、2009.2.27、pp.1-19 [ < J-STAGE ]

外村中、「飛鳥の須彌山石」、『日本庭園学会誌』、no.21、2009、pp.1-14 [ < J-STAGE ]

  本頁下掲の→こちらで触れました;小峯和明、「須弥山世界の言説と図像をめぐる」、2011

Sotomura, Ataru, "Mt. Sumeru 須彌山 : source manual for iconographic research on the Buddhist universe", Nalanda-Sriwijaya Centre Working Paper Series, no.6, 2011.9 [ < ISEAS (The Institute of Southeast Asia) - Yusof Ishak Institute
http://www.iseas.edu.sg/images/pdf/nsc_working_paper_series_6.pdf

Sotomura, Ataru, "The Buddhist Heavens 天 : Source Manual for Iconographic Research on the Buddhist Universe, Part II", Nalanda-Sriwijaya Centre Working Paper Series, no.18, 2015.4 [ < 同上 ]
http://www.iseas.edu.sg/images/pdf/nsc_working_paper_series_18.pdf 

外村中、「須弥山世界に関する諸説と東大寺大仏蓮弁須弥山図について」、稻本泰生編、『東アジア佛教美術における聖地表象の諸様態』、平成25~27年度科学研究費補助金・基盤研究(B)、研究成果報告、2016、pp.1-32 [ < SINOLOGIE IN WÜRZBURGUNIVERSITÄT WÜRZBURG
http://www.sinologie.uni-wuerzburg.de/fileadmin/04050130/user_upload/Sotomura-2016-A_World_in_a_Petal.pdf

 同じ著者による→こちらを参照:「仏教 Ⅱ」の頁の「iii. 華厳経、蓮華蔵世界、華厳教学など

石田一宏、「西方諸師説の一考察 - 色界説を通して」、『佛教文化学会紀要』、no.17、2009.10、pp.47-65 [ < J-STAGE ]

Chaitongdi Phrachatpong、「Lokappadīpakasāra(世間灯明精要)の成立背景 : 第七章「器世間の解説」(Okāsalokaniddesa)を中心として」、『パーリ学仏教文化学』、no.23、2009.12.22、pp.41-55 [ < CiNii Articles (有料)

Chaitongdi Phrachatpong、「Lokappadīpakasāra(世間灯明精要)の研究序」、『印度學佛教學研究』、vol.58 no.1、2009.12.20、pp.372-369 [ < CiNii Articles

Chaitongdi Phrachatpong、「後代パーリ仏教の世界に与えたLokappadīpakasāra の影響 - Cakkavāḷadīpanī, Lokasaṇhṭānajotaratanagaṇṭhī におけるLokappadīpakasāra の引用を中心として -」、『印度學佛教學研究』、vol.59 no.2、2011.3、pp.902-899 [ < J-STAGE

三友健容、「『婆沙論』と『大智度論』」、『印度學佛教學研究』、vol.58 no.1、2009.12.20、pp.379-373 [ < CiNii Articles

常塚聴、「日本における須弥山説の受容――世界観の接触の事例として――」、『現代と親鸞』、17巻、2009、pp.23-52 [ < J-STAGE
DOI : https://doi.org/10.24694/shinran.17.0_23

 同じ著者による→こちら(「グノーシス諸派など Ⅲ」の頁の「viii. マーニー教など」/「中国社会におけるマニ教の認識 - 唐から明までの漢文史料を中心に -」、2001)や、また本頁下掲のそちら(「須弥山と地球――科学的宇宙論と仏教的宇宙論の接触――」、2010)を参照

邢東風、「仏典に見られる『大地震動』」、『桃山学院大学総合研究所紀要』、vol.36 no.1、2010.6.30、pp.179-194 [ < CiNii Articles

薗田坦、「仏教の世界観について」、『仁愛大学研究紀要. 人間学部篇』、no.10、2011.12.30、pp.1-10 [ < 福井県地域共同リポジトリ(CRFukui: Community Repository of Fukui) ]

 →こちらで少し触れています:「〈宇宙論〉と〈宇宙観〉など、若干の用語について」の頁中
 同じ著者による→そちらを参照:「ルネサンス、マニエリスムなど(15~16世紀)」の頁の「ii. クザーヌスなど

宮嶋純子、「隋代訳経『起世経』『起世因本経』にみる同時代異訳経典の成立過程」、『東アジア文化交渉研究』、no.5、2012.2.1、pp.239-252 [ < 関西大学学術リポジトリ

フィッシュ、『巨大数論 第2版』、2013/2017、pp.15-16、31-32

 次に挙げる鈴木真治による二つの資料ともども、→こちらで触れました:本頁上掲の松山俊太郎、「インドの回帰的終末説」(1982)のところ

鈴木真治、『巨大数 岩波科学ライブラリー 253』、岩波書店、2016、pp.9-12:第1章1中の「法華経への影響」、および pp.20-28:第1章3「仏教やジャイナ教に現れた巨大数」

鈴木真治、「歴史的に観た巨大数の位置づけ」、『現代思想』、vol.47-15、2019.12:「特集 巨大数の世界 アルキメデスからグーゴロジーまで」、pp.86-87

師茂樹、「巨大数の経験」、同上、pp.109-112

小川束、「仏教経典と『塵劫記』とにおける巨大数の心性試論」、同上、pp.113-119
はじめに/インドおよび中国における巨大数/日本における巨大数/『塵劫記』と巨大数/おわりに

 「吉田光由の『塵劫記』(寛永4[1627]年)」(p.116)は江戸時代の数学書。

  〈生天〉ということばを知ったのは;

金漢益、「生天と涅槃の関係 : 仏教文化史の観点から」、『東洋文化研究所紀要』、no.137、1999.3、pp.133-181 [ < 東京大学学術機関リポジトリ(UT Repository) ]

 によってでした。仏教の宇宙論における天界説の展開と結びついていることを知らされた次第です。
 というわけで、他に;


辻本鐵夫、『原始佛教における生天思想の研究』、顯眞學苑出版部、1936(昭和11)
序(羽渓了諦)//
本論の課題/原始佛教における三つの着目点/出家の佛弟子は在家の佛弟子に何を教へたか/開示せられたる天路/佛教の第一義的立場と生天/何故に佛陀は生天を説かれたか/生天思想の宗教的義趣/生天と解脱との統合/無我の標識と生天思想/生天思想の佛教史的意義、
120ページ。


藤田宏達、「原始仏教における生天思想」、『印度學佛教學研究』、vol.19 no.2、1971、pp.901-909 [ < J-STAGE ]

石上和敬、「ニカーヤに見られる生天の諸表現」、『印度學佛教學研究』、vol.40 no.2、1992.3、pp.969-967 [ < J-STAGE ]

石上和敬、「施論, 戒論, 生天論」、『印度學佛教學研究』、vol.41 no.2、1993.3、pp.1016-1014 [ < J-STAGE ]

石上和敬、「ニカーヤに見られる生天の諸表現」、『印度學佛教學研究』、vol.43 no.2、1994.3、pp.955-951 [ < J-STAGE ]

西村実則、「初期インド仏教にみる天界と出家」、『大正大學研究紀要. 人間學部・文學部』、no.94、2009.3、pp.1-28 [ < 定期刊行物大正大学

 関連して;

前田恵學、「『旅行の途中他世界に遭遇する物語』考」、『印度學佛教學研究』、vol.6 no.1、1958、pp.196-200[ < J-STAGE ]

前田恵學、「神通より來迎へ -インド佛教文學に見られる天界訪問の二方法-」、『印度學佛教學研究』、vol.7 no.1、1958、pp.44-56[ < J-STAGE ]
………………………

 やはり仏教の宇宙論における天界説と関連の深いのが、禅定の問題です;

増永靈鳳、「原始佛教に於ける禪定の研究」、『駒沢大学仏教学会年報』、no.3、1932、pp.78-98 [ < CiNii Articles

増永靈鳳、「印度佛教に於ける禪定思想の展開」、『駒沢大学実践宗乗研究会年報』、no.5、1937.3.10、pp.28-45 [ < CiNii Articles

修山脩一、「禪定の研究 序説 : 經典の表現根據として」、『佐賀龍谷學會紀要』、no.3、1955.12.15、pp.1-68 [ < CiNii Articles

貞包哲朗、「大智度論における禪定」、『佐賀龍谷學會紀要』、no.6、1958.12.25、pp.22-47 [ < CiNii Articles

吉瀬勝、「南北両伝における四禅定について」、『印度學佛教學研究』、vol.21 no.1、1972、pp.363-366 [ < J-STAGE ]

池田練太郞、「色界第四禅について」、『印度學佛教學研究』、vol.40 no.2、1992.3、pp.966-961 [ < J-STAGE ]

玉城康四郞、「禅定から解脱へ - 四禅・四無色定を通じて -」、『印度學佛教學研究』、vol.44 no.1、1995.12、pp.15-21 [ < J-STAGE ]

金 亨俊、「原始仏教における四禅と四無色定」、『印度學佛教學研究』、vol.44 no.2、1996.3、pp.871-869 [ < J-STAGE ]

金 宰晟(正圓)、「『清浄道論』における念 - 四禅との関係を中心として -」、『印度學佛教學研究』、vol.45 no.2、1997.3、pp.924-922 [ < J-STAGE ]

藤本晃、「パーリ経典に説かれる『九次第定』の成立と構造」、『印度學佛教學研究』、vol.53 no.2、2005.3.20、pp.891-888 [ < J-STAGE ]

ARAMRATTANA Sutus、「パーリ仏教における空の修行法 - 空遍と空無辺処について -」、『印度學佛教學研究』、vol.55 no.1、2006.12.20、pp.362-359 [ < J-STAGE ]

阿部真也、「説一切有部における静慮」、『印度學佛教學研究』、vol.55 no.2、2007、pp.523-527 [ < CiNii Articles

馬場紀寿、「パーリ文献における禅定論の系譜」、『印度學佛教學研究』、vol.57 no.2、2009.3.20、pp.899-893 [ < CiNii Articles

 禅定とも関連して;

岩井昌悟、「あたかも力ある人が曲げた臂を伸ばし、伸ばした臂を曲げるように : 神變のイメージの變遷を追う」、『東洋学論叢』、no.33、2008.3、pp.131-68 [ < 東洋大学学術情報リポジトリ

 須弥山世界などのイメージについては、まず、「図像、図形、色彩、音楽、建築など」の頁の「i. 図像など」冒頭に挙げた

杉浦康平構成、岩田慶治監修、『アジアのコスモス+マンダラ』、講談社、1982

 が内容豊富ですが、これ以外に;

『須彌山圖譜』、龍谷大學出版部、1925(大正14)

 目録並に解説のページと、11点の図版を掲載(手もとにあるのはコピー)

 →こちらにも挙げておきます:「図像、図形、色彩、音楽、建築など」の頁の「1. 図像など

追記:PDFで→こちらに掲載されていました [ < 国立国会図書館デジタルコレクション
    *1926(大正15)年刊版、解説1ページに図版が4点追加され全15点

 本書については、また;


宇杉和夫、「10 須弥山について : 『須弥山図譜』を中心にした考察 : <反復的構造の中心をもつ空間>の位置づけとその事例についての研究 その4(都市計画)」、『研究報告集. 計画系』、no.58、社団法人日本建築学会、1987.6.30、pp.217-220 [ < CiNii Articles (有料)

 他に;

川添裕、「大仕掛大千世界万国一覧 異国をつくる十選 江戸・明治の見世物を中心に 6」、『日本経済新聞』、2004.1.30

『仏教の宇宙観 龍谷大学大宮図書館 2009年度特別展観』図録、龍谷大学図書館、2009.5
ごあいさつ(平田厚志)/須彌山・天体図・佐田介石関係年表/仏教の宇宙観-須彌山世界と仏の慈悲(鍋島直樹)/仏教の宇宙観(龍谷大学大宮図書館)//
図版・解説;第1部 須彌山の世界/第2部 人の死と救いなど、
60ページ。

 次に出てくる〈梵歴〉の主導者圓通の高弟環中とその弟子晃厳が、「からくり儀右衛門」こと田中久重に発注して制作された
《須彌山儀》(1847-1850、cat.no.1)および《縮象儀》(1847-1850、cat.no.2)
は龍谷大学の前身である学林に寄贈されました(pp.11-14)。その周辺資料が本展第1部の核をなしています。
 また cat.nos.31-42 は佐田介石関連資料。佐田介石については、同じく〈梵歴〉の項、また本頁上掲の→こちらも参照:佐田介石『佛教創世記』(1879)

 →そちらにも挙げておきます:「図像、図形、色彩、音楽、建築など」の頁の「i. 図像など
 からくり儀右衛門、《須彌山儀》、《縮象儀》に関連して→あちらで少し触れました:「怪奇城の隠し通路」の頁、また→ここでも触れました:「津の築山遊具など」の頁

須弥山儀 シリーズ龍谷の至宝④」 < 『龍谷』、No.63、2007 [ < 龍谷大学

 また

第1期研究展示 宗教と科学 - 仏教の宇宙観と近世の科学書 -」、2003 < 「展観・展示」 < 「龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター」 < 同上(リンク切れ)

 も参照
 上記《須彌山儀》(no.5)を含めて、《 安立器世間掌菓圖》(no.4)、《縮象儀》(no.6)、《世界大相圖》(no.11)、《須彌山儀銘並序》(no.12)、《縮象儀説》(no.16)、《須彌三界圖》(no.17)その他が掲載されていますリンク切れ)。


 上掲『須彌山圖譜』(1925/26)、『仏教の宇宙観』図録(2009)と重なるもの;
『須彌山圖譜』  『仏教の宇宙観』  龍谷大学サイトより 
図1  cat.no.30/p.33  17 《須彌三界圖》 
27/p.31   
   
   
   
8/p.20   
5/p.18  12 《須彌山儀銘並序
7/p.19  11 《世界大相圖
   
10     
11     
12  28/p.32   
13  3/p.17   
14  16/p.24   
15  17/p.24   
  1/p.15  5 《須彌山儀》
  2/p.16  6 《縮象儀》
  4/p.17  16 《縮象儀説》
  14/p.23  須弥山ノ図 

山田慶兒、「龍谷大学大宮図書館所蔵 縮象儀 ― 図・説および模型 ― について」、『日本研究』、16巻、1997.9.30、pp.59-71 [ < 日文研オープンアクセス国際日本文化研究センター ]
DOI ; https://doi.org/10.15055/00000772

小峯和明、「須弥山世界の言説と図像をめぐる」、『アジア新時代の南アジアにおける日本像――インド・SAARC諸国における日本研究の現状と必要性[インド・シンポジウム2009]』、2011.3.25、pp.45-55 [ < 日文研オープンアクセス < 国際日本文化研究センター ]

 本論考の第1節で言及される東京国立博物館蔵の「飛鳥川から出土した須弥山の石像」(p.45)については、
C0024153 須弥山 - 東京国立博物館 画像検索」 [ < 東京国立博物館 研究情報アーカイブズ
 また
e-国宝 須弥山・石人像」 [ < e-國寶 国立文化財機構所蔵
 および上掲の
外村中、「飛鳥の須彌山石」、2009

 第2節(p.49)で登場する《玄奘三蔵絵》(全12巻、鎌倉時代/14世紀、藤田美術館、大阪)、巻第1第4段について、いろいろあることでしょうが、たとえば;

『天竺へ 三蔵法師3万キロの旅』展図録、奈良国立博物館、2011、pp.17-18、43-45、238-239

 同じく第2節(pp.49-52)でとりあげられるハーバード大学アーサー・M・サックラー美術館蔵《日本須弥天図》(1402年、p.50/図1)については、

Harvard Art Museums ]のサイトで、[ Browse Our Collection ]から

Object Number: 1973.66
People: Monk Ryûyû, Japanese (active late 14th-early 15th c.)
Title: Five Buddhist Maps (Nihonkoku narabi ni Shumi Shotenkoku zu) with text copied by Monk Ryûi
Other Title: Transliterated Title: Nihonkoku narabi ni Shumi Shotenkoku zu


 として掲載されていました。
 また p.49 で言及されているのが;

Catalogue of the exhibition The Courtly Tradition in Japanese Art and Literature. Selections from the Hofer and Hyde Collections, Fogg Art Museum, Harvard University, 1973, pp.104-109 / cat.no.33 : "Five Buddhist maps"

 さらに;


高 陽、『説話の東アジア 「今昔物語集」を中心に』、勉誠出版、2021、「第一編 須弥山と天竺の説話世界 - 仏伝から玄奘へ」、pp.13-100;第1章-第5章
はしがき//
須弥山と天上世界 - ハーバード大学所蔵『日本須弥諸天図』と中国の『法界安立図』をめぐって;はじめに/『日本須弥諸天図』と『法界安立図』/『法界安立図』の中国古典引用/国土観とハーバード本の『日本須弥諸天図』の中華意識/金沢文庫本瑜祇塔図との類似/仏教須弥山天上地下と中国基層信仰の天上地下/ハーバード本『日本須弥諸天図』にない「須弥山図」 - 三千大千世界と須弥芥子/結び//
東アジアの須弥山図 - 敦煌本とハーバード本を中心に;はじめに/四輪と地獄の形象/日宮と月宮について/須弥山頂の図像/建築の図像様式/須弥山の形について/最上部の図像の差違/ハーバード本の龍をめぐる/結び//
須弥山と芥子 - 極大と極小の反転;仏教の空間 - 須弥山から「芥子納須弥」の喩へ/「芥子納須弥」への疑問/「芥子納須弥」の文学表象//
天竺神話のいくさをめぐって - 帝釈天と阿修羅の戦いを中心に;はじめに/『今昔物語集』の説話から/須弥山をめぐる/阿修羅と帝釈天の住処/阿修羅の身体、日と月/帝釈天と阿修羅の戦いの原因/帝釈天が引き返す理由/阿修羅の逃げ場所/極大と極小の反転/須弥山の舞台にいる金翅鳥と阿修羅と龍/中国の例から - 中国文献における帝釈天と阿修羅の記述/帝釈天と阿修羅の戦いの図像に関して/結び//
天竺無熱池の説話と図像 - 『大唐西域記』から『日本須弥諸天図』『玄奘三蔵絵』へ;はじめに/『大唐西域記』の無熱池 - 四方獣と須弥山図との関連/ハーバード本『日本須弥諸天図』の無熱池/無熱池の東アジアにおける伝播と享受/『玄奘三蔵絵』に描かれた「無熱池」の庭園/結び


 全体の目次は;

刊行に寄せて(小峯和明)/はじめに//
序章 今昔物語集の東アジア世界はどのように形成されたか//
須弥山と天竺の説話世界 - 仏伝から玄奘へ;はしがき/(上掲第1章~第5章)/仏伝の鉢説話考/ 『大唐西域記』と金沢文庫保管の説草・ 『西域記伝抄』/ 『大唐西域記』と金沢文庫保管の 『西域記伝堪文』/悪龍伝説の旅 - 『大唐西域記』と『弁暁草』について
説話の受容と変容 -  聖人から天狗へ;はしがき/『今昔物語集』における「聖」「聖人」の用語意識/日本中世の孔子説話 - 『今昔物語集』を中心に/『今昔物語集』における僧の天界往還夢説話/鳥としての天狗の源流考/女犯聖人説話考 - 『今昔物語集』巻十第三十四話について/后と聖人 - 女犯の顛末/説話文学から大衆文学へ - 染殿后譚を例に//
南方熊楠と説話世界 - 説話の近代;はしがき/南方熊楠の比較説話をめぐる書き込み - 『太平広記』『夷堅志』と『今昔物語集』とのかかわりを中心に/南方熊楠の書き込みに関する研究 - 『太平広記』を中心に/南方熊楠と宋代の『夷堅志』 - 熊楠の書き込みを中心に/南方熊楠と『聊斎志異』//
終わりに/あとがきなど、
484ページ。


 こちらで〈芥子納須弥〉をめぐって少し触れました;「仏教 Ⅱ」の頁の「iii. 華厳経、蓮華蔵世界、華厳教学など

 第2章で《日本須弥諸天図》と比較される「10世紀、晩唐の敦煌本『三界九池之図』(フランス国立図書館所蔵、P2824)」(p.37)は、そこでも記されているように、
 杉浦康平構成、岩田慶治監修、『アジアのコスモス+マンダラ』、講談社、1982
に図版が掲載されている他(p.16/図1-6)、

[ Bibliothèque nationale de France ]のサイトで、[ Archives et manuscrits ]から、

Cote : Pelliot chinois 2824 
San jie jiu di zhi tu 三 界 九 地 之 圖

の頁でデータと画像を見ることができます。
 また;


高 陽、「説話文学から見た『梁塵秘抄』の須弥山世界観」、『学芸古典文学』、3号、2010.3.、pp.73-83 [ < 東京学芸大学リポジトリ
http://hdl.handle.net/2309/108828

馬偉、「四川省須弥山図浮彫についての試論 - 中国南朝とインドの交流を中心に -」、『文化』、82巻 1-2号、2018.9.28、pp.72-91 [ < 東北大学機関リポジトリ TOUR

 直前に挙げた『仏教の宇宙観』図録(2009)以外にも、前掲の大橋俊雄『仏教の宇宙』(1986)、pp.4-30 にはいわゆる〈梵暦〉について記されていますが、

中山茂、『日本の天文学』、1972、「第五章 西洋宇宙説に対する仏・儒・神の反応」中の「仏教側の反応」(pp.135-151)

 や

稲垣足穂、「梵天の使者 - 谷崎潤一郎からのコピー -」、『男性における道徳』、中央公論社、1974/『稲垣足穂全集 13 タルホ拾遺』、筑摩書房、2001

 でも述べられていました(→こちらでも挙げています:「仏教 Ⅱ」の頁の「おまけ」)。
 足穂については→そちらも参照:「近代など(20世紀~) Ⅳ」の頁の「足穂」の項

 この問題はむしろ日本の近代化に関わるものですが、ともあれ近年の収穫として;


岡田正彦、『忘れられた仏教天文学 十九世紀の日本における仏教世界像』、ブイツーソリューション、2010
序章 普門円通と仏教天文学;忘れられた「仏教天文学」/円通と梵暦 - 「仏教天文学」と「近代仏教」 -/梵暦研究の可能性と方法//
震撼する世界 - 十九世紀の日本における世界記述をめぐる言説 -;はじめに/地動説の導入 - 司馬江漢『和蘭天説』 -/神秘なき世界 - 山片蟠桃『夢ノ代』 -/世界の中心としての日本 - 佐藤信淵『天柱記』 -/幻想の実体化 - 普門円通『仏国暦象編』 -/おわりに//
起源/本質の探究と普遍主義のディスクール - 普門円通『仏国暦象編』を読む -;普門円通と『仏国暦象編』/暦原(第一) - 暦法の起源/天体(第二) - 仏教の宇宙論 -/地形(第三) - 須弥界の地形 -/暦法(第四) - 仏教天文学 -/眼智(第五) - 慮知と實智 -/起源/本質の探究と普遍主義のディスクール//
創られた伝統としての「須弥界」 - 近代的世界記述と「仏教」 -;「須弥界」の成立と「近代」/近代的世界記述と仏教の世界像 - 文雄と円通 -/円通の梵暦研究と「須弥界」のイメージ/須弥山儀の構成 - 「須弥山儀」と「縮象儀 」-/創られた伝統としての「須弥界」 - 近代的世界記述と「仏教」 -//
忘れられた仏教天文学 - 梵暦運動と「近代」 -;忘れられた「仏教天文学」 - 普門円通と梵暦運動 -/梵暦社と梵暦運動/同四時派と異四時派 - 梵暦運動の二面性 -/新理論の天界 - 仏教天文学を目指して -/梵暦運動の解体と「近代」//
須弥山の行方 - 近代仏教の言説空間 -;近代仏教と須弥山説/佐田介石の視實等象論 - 視覚と實象 -/井上円了の妖怪学 - 仮怪と真怪 -/木村泰賢と原始仏教主義 - テキストのなかの世界 -/清沢満之と精神主義 - 客観的知識と主観的真理 -/須弥山の行方 - 近代仏教の言説空間 -//
終章 近代日本思想史と梵暦運動 - 近代的自然観と宗教言説 -;梵暦運動と「近代」 - 近代日本の宗教言説と須弥山説 -/言説史的アプローチの可能性と近代日本思想史など、
308ページ。


 また;

海野一隆、「日本において須弥山説はいかに消滅したか」、『アジアの宇宙観』、1989、pp.350-371
仏教の須弥山説/日本の須弥山/天動地球説との接触/神・儒・仏の各思想集団の対応/仏教家たちの抵抗とその顛末など

 →こちらも参照:「日本 Ⅱ」の頁の「vi. キリシタン、蘭学・洋学とその周辺

田中聡、「佐田介石 文明開化の宇宙争奪戦」、『怪物科学者の時代』、1998、pp.15-34

大島明秀、「佛國暦象編」、ヴォルフガング・ミヒェル編、『村上玄水資料 Ⅰ (中津市歴史民俗資料館 分館 村上医家史料館資料叢書 1)』、中津市教育委員会、2003.3、pp.40-104 [ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR) ]

大島明秀、「村上医家史料館所蔵写本『老野子』における「有外子」・「老野子」とその背景」、ヴォルフガング・ミヒェル編、『村上玄水資料 Ⅲ (中津市歴史民俗資料館 分館 村上医家史料館資料叢書 3)』、中津市教育委員会、2005.3、pp.22-52 [ < 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

梅林誠爾、「佐田介石仏教天文地理説の葛藤」、『熊本県立大学文学部紀要』、no.13、2007.2、pp.31-56 [ < CiNii Articles

江上琢成、『日本中世の宗教的世界観』、2007、pp.238-245:「結章 宗教的世界観の展開」

長山靖生、「それでも地球は動じない - 佐田介石」、『奇想科学の冒険 近代日本を騒がせた夢想家たち』、2007、pp.11-39
「単純素朴で美しい」地球平面説/地動説に対して科学的に反論/科学時代だからこそのランプ亡国論/国産品振興のための発明/あらゆる分野に「代用品」を/エコロジーとオリエンタリズム批判/高等遊民礼賛の走り/あえて大馬鹿者の汚名を着て

西村玲、『近代仏教思想の独創 僧侶普寂の思想と実践』、トランスビュー、2008、pp.114-143、「第四章 現世の解体 - -須弥山説論争と普寂」
須弥山説論争/懐徳堂知識人と文雄/無我の護法論/須弥山説の意味など

西村玲、「日本における須弥山論争の展開」、『印度學佛教學研究』、vol.61 no.2、2013.3.20、pp.679-683 [ < CiNii Articles

 併せて;


西村玲、「虚空と天主 : 中国・明末仏教のキリスト教批判」、『宗教研究』、vol.84 no.3、2010.12.30、pp.661-681 [ < CiNii Articles

常塚聴、「須弥山と地球――科学的宇宙論と仏教的宇宙論の接触――」、『現代と親鸞』、20巻、2010、pp.23-57 [ < J-STAGE
DOI : https://doi.org/10.24694/shinran.20.0_23

 同じ著者による→本頁上掲のこちら(「日本における須弥山説の受容――世界観の接触の事例として――」、2009)を参照

池内了、『司馬江漢 「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生』(集英社新書 0951D)、集英社、2018、「第7章 退隠・偽年・偽死」中の pp.277-289;
円通との須弥山問答/前哨戦(1810~1811年)/本格論戦(1812年)

清水浩子、「須弥山説受容と須弥山儀」、武田時昌編、『天と地の科学 - 東と西の出会い -』、2019/2021、pp.184-196
はじめに/須弥山説の受容/地球説の伝来/宣教師と仏僧の論争/江戸時代の天文学と須弥山説/須弥山儀と仏教天文説の普及/須弥山説批判/まとめ

 編者である武田時昌の「序文」によると、「執筆者の多くは『仏国暦象編』の会読メンバー」(p.v)とのこと。

麥文彪・上田真啓、「『仏国暦象編』におけるインド天文学について」、同上、pp.217-233
はじめに:円通の目指したもの//
円通の依拠する典籍:「梵暦」の源;仏典/出典としての漢籍と仏典//
円通のインド天文学の特徴;須彌山説/暦法/二十八宿/惑星/日月食と掩蔽//
結論:円通のインド天文学の位置づけ


梅林誠爾、「『兩曜運旋略儀』について - 岩橋嘉孝『平天儀』、佐田介石『視實等象儀』との比較を通して」、同上、pp.259-276
はじめに/「兩曜運旋略儀」本体の構成/「兩曜運旋略儀」は仏教系平面天体儀である - 岩橋嘉孝「平天儀」との比較 -/「略儀」の日月運旋の仕掛け - 偏心構造/佐田介石「視實等象儀」との比較/おわりに


鍋島直樹、「親鸞の宇宙観と須弥山儀の再評価」、『印度學佛教學研究』、vol.60 no.2、2012.3.20、pp.559-567 [ < CiNii Articles

 また併せて;


菅野隆一、「親鸞のコスモロジー」、『印度學佛教學研究』、vol.38 no.1、1989.12、pp.66-68 [ < J-STAGE ]

江上琢成、『日本中世の宗教的世界観』、2007、pp.201-203+註:「第6章2-2 親鸞思想における須弥山説

小山一行、「仏教宇宙論と親鸞の思想」、『筑紫女学園大学・短期大学部 人間文化研究所年報』、no.21、2010.8、pp.1-14 [ < 筑紫女学園大学リポジトリ

 →こちらにも挙げています(本頁本項上掲の宇宙論と〈無記〉説などに関して

 親鸞に関し取りあげられているテクストとして;


石田瑞麿訳、『親鸞 歎異抄・教行信証 Ⅱ』(中公クラシックス J15)、中央公論新社、2003、pp.99-246、「化身土巻(顕浄土方便化身土文類六)」

 親鸞については→こちらも(「仏教 Ⅱ」の頁の「v. 仏身論、密教など」の〈垂名示形〉説などに関し

ii. アビダルマの自然学、刹那滅論など

 まずは;

佐々木閑、『仏教は宇宙をどう見たか アビダルマ仏教の科学的世界観』(DOJIN 選書 050)、化学同人、2013
序章 『倶舎論』への誘い//
仏教の物質論 - 法と極微;物質世界のとらえ方 - 七十五法/物質の基本要素 - 色法/物質世界を構成する素粒子 - 極微//
仏教がとらえる内的世界 - 心・心所;心・心所の構造/心所を構成する要素/心・心所の動き方//
仏教の時間論 - 諸行無常と業;時間論の構造/業と時間の関係/世親の思想とカオス的世界観//
仏教のエネルギー概念 - 心不相応行法;生き物だけに付随する法 - 「得」「非得」「衆同分」/修行のための法 - 「無想定」「滅尽定」と「無想果」/そのほかのエネルギー概念//
総合的に見た因果の法則 - 六因と五果//
終章 分類によって変わる世界の見方 - 五蘊、十二処、十八界//
仏教における精神と物質をめぐる誤解 - 山部能宣氏に対して、など、
236ページ。

 刹那滅論を説明するに際して、映画のコマをたとえに持ちだされることがあります。上掲『存在の分析〈アビダルマ〉 仏教の思想 2』(1996)pp.75-76 や後出の谷貞志『〈無常〉の哲学』(1996)p.104 などを、アシュアリー派の原子論やデカルトの連続創造説などと合わせて、引きあいに出したことがありました→「時よ止まれ、おまえは美しいのか? 絵と映像のA感覚」、『液晶絵画』展図録、2008 [ < 三重県立美術館のサイト ]。→こちら(「イスラーム」の頁の「ii. 思想史・哲学史的なものなど」)や、そちら(「バロックなど(17世紀)」の頁の「v. デカルトなど」)、またあちら(「近代など(20世紀~) Ⅲ」の頁の「x. フランスから」)も参照
 本書「第3章 仏教の時間論-諸行無常と業」、「第1節 時間論の構造」中の「映写機で考える」と続く「未来雑乱性」の説(pp.108-116)でも同じたとえが木村泰賢にならって持ちだされ、かつ「『倶舎論』の理論と映写機の譬喩との違い」(pp.116-119)についても記されています。
 ちなみに

マーチン・ボジョワルド、前田秀基訳、『繰り返される宇宙 ループ量子重力理論が明かす新しい宇宙像』、2016

 でもループ量子重力理論が呈示する空間・時間の離散性というイメージにからんで、映画のコマのたとえが用いられていました;pp.157-157、p.291 も参照。ループ量子重力理論の時間論に関し、

カルロ・ロヴェッリ、冨永星訳、『時間は存在しない』、2019、第5章

も参照。さらに

ブライアン・グリーン、青木薫訳、『宇宙を織りなすもの』、2009、上巻、p.217、p.222、pp.237-238


コリン・ブルース、和田純夫訳、『量子力学の解釈問題』、2008、p.230

 他に;

三枝充悳編、『講座 仏教思想 第一巻 存在論 時間論』、理想社、1974
序文(三枝充悳)//
存在論;原始仏教・アビダルマにおける存在の問題(桜部建)/大乗仏教における存在論(長尾雅人)/法界縁起と存在論(鎌田茂雄)/密教の存在論-六大縁起を中心として-(吉田宏晢)//
時間論;原始仏教・アビダルマにおける時間論(平川彰)/大乗仏教における時間論(江島悳教)/道元の時間論(玉城康四郎)/末法思想(石田充之)など、
362ページ。


佐々木現順、『仏教における時間論の研究』、清水弘文堂、1974
時間論 時間論の本質;時間に関する諸思想/インドに於ける時間論//
  南伝アビダルマ仏教の時間論;時間概念の二種 -
samayakāla -/体験時間の構造/縁起と時間//
  北伝アビダルマ仏教の時間論;関係の二様態/時間の作用性/刹那の本質とその意義//
存在論;仏教思想史上に於ける順正理論/存在の本質/過去未来実有の論証/存在の構造/大乗思想との関連/三世実有論の意義など、
334ページ。


谷貞志、『〈無常〉の哲学 ダルマキールティと刹那滅』、春秋社、1996
序章 無常・死の正視/疾走するダルマキールティ/自発的消滅[瞬間的存在性論証タイプ1]/ダルマキールティ『自発的消滅(死)』の哲学/ダルマキールティの哲学の背景/存在性からの論証[瞬間的存在性論証タイプ2]/ポスト・ダルマキールティアンにおける対立/知覚される瞬間的存在[瞬間的存在性論証タイプ3]/知覚瞬間の自己差異化/「反瞬間的存在性論証」と「神の存在論証」への批判/無常する認識根拠/終章 未完の無常の哲学など、
312ページ。


谷貞志、『刹那滅の研究』、春秋社、2000
序章 原始仏教における「無常」/ヴァスヴァンドゥの刹那滅論証:内遍充論による自発的消滅論証/ダルマキールティの刹那滅論証/ポスト・ダルマキールティアン「刹那滅論証」の展開/ラトナーカラシャーンティとジュニャーナシュリーミトラの思想的クロノロジー/ラトナーカラシャーンティの「内遍充論」/ジュニャーナシュリーミトラ新外遍充論による刹那滅論証/隠された離反:ラトナーカラシャーンティの「瞬間的消滅論証」/ウダヤナの反瞬間的消滅論証/最後の刹那滅論証とウダヤナへの反撃/終章 刹那滅論証:論理と時間性など、
780ページ。


那須円照、『アビダルマ仏教の研究 - 時間・空間・涅槃 -』、永田文昌堂、2009
序論//
時間論・空間論・涅槃論の背景:『婆沙論』の所説;世親の「滅無因論」の背景/「作用」をめぐる論争の背景/世親の「形非実有論」の背景/「自相と共相」の背景/「涅槃論」の背景/小結//
時間論;アビダルマの滅論/有部(衆賢)と瑜伽行中観派(寂護・蓮華戒)の間の「作用」をめぐる論争//
空間論;有部の形実有論と経量部の形非実有論/アビダルマの極微論:極微が触れるか触れないかという問題を中心として/世親の外界非実在論/小結//
涅槃論;世親と安慧の涅槃論/時間・空間の超越と不一不異//
結論//
付録;『倶舎論』(AKBh)とその諸注釈における作用をめぐる論争:試訳など、
402ページ。

………………………

広瀬智一、「アビダルマ仏教における bhājana-loka について」、『印度學佛教學研究』、vol.20 no.1、1971、pp.154-155 [ < J-STAGE ]

橋本哲夫、「原始仏教における loka の概念」、『印度學佛教學研究』、vol.29 no.1、1980、pp.396-394 [ < J-STAGE ]

桂紹隆、「仏教における〈場所〉の概念 : 袴谷憲昭氏へのレスポンス」、『龍谷大學論集』、no.470、2007.7、pp.2-22 [ < 龍谷大學学術機関リポジトリ(R-SHIP) ]

立川武蔵、「『倶舎論』における界について」、『印度學佛教學研究』、vol.57 no.1、2008.12.20、pp.1-10 [ < CiNii Articles
………………………

福原亮嚴、「佛典に見える物質 (色) の研究 - 有部説を中心として -」、『印度學佛教學研究』、vol.10 no.1、1962、pp.12-23 [ < J-STAGE ]

加藤利生、「『瑜伽師地論』に見られる瑜伽行派の極微論の特色」、『印度學佛教學研究』、vol.35 no.2、1987.3.25、pp.581-583 [ < J-STAGE ]

加藤利生、「唯識学派の極微論をめぐる問題 - 極微論受容の意図について -」、『印度學佛教學研究』、vol.38 no.1、1989.12、pp.312-314 [ < J-STAGE ]

早島理、「『顕揚聖教論』に見られる極微説」、『印度學佛教學研究』、vol.37 no.1、1988.12、pp.426-421 [ < J-STAGE ]

松濤泰雄、「Tattvārthā (IV)-四大種について-」、『印度學佛教學研究』、vol.41 no.2、1993.3、pp.973-968 [ < J-STAGE ]

阿部真也、「有部の極微説をめぐって - 古代ギリシアとの比較 -」、『佛教文化学会紀要』、no.13、2004、pp.86-105 [ < J-STAGE ]

 インドとギリシアの原子論の比較について→こちらも参照:「ギリシア・ヘレニズム・ローマ Ⅱ」の頁の「デーモクリトスと原子論、およびエピクーロス派」の項

阿部真也、「四大種に関する一考察 : 『倶舎論』と『成実論』をめぐって」、『印度學佛教學研究』、vol.57 no.2、2009.3.20、pp.949-944 [ < CiNii Articles

佐々木閑、「有部の極微説」、『印度學佛教學研究』、vol.57 no.2、2009.3.20、pp.932-926 [ < CiNii Articles

真鍋智裕、「極微において方位の区別と単一性は両立するか : カマラシーラとシュバグプタの対論」、『印度學佛教學研究』、vol.59 no.1、2010.12.20、pp.422-419 [ < CiNii Articles

近藤伸介、「『阿毘達磨大毘婆沙論』における種子の考察」、『佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇』、no.39、2011.3.1、pp.1-15 [ < 佛教大学論文目録リポジトリ(BAKER)

長友泰潤、「ブラフマスートラのプラーナ説 - 倶舎論の風説との比較研究 -」、『南九州大学研究報告 人文社会科学編』、no.47B、2017.4、pp.23-27
………………………

里見泰穩、「佛教の時間否定について」、『印度學佛教學研究』、vol.9 no.1、1961、pp.196-199 [ < J-STAGE ]

山口瑞鳳、「飛んでいる矢は止っているか(思想の言葉)」、『思想』、no.772、1988.10、pp.1-6

山口瑞鳳、「刹那滅と縁起生の相違 - わが国中観哲学の常識に問う -」、『思想』、no.778、1989.4、pp.55-69

吉水千鶴子、「恒常なものはなぜ無能力か - 刹那滅論証の理論的背景 -」、『印度學佛教學研究』、vol.48 no.1、1999.12、pp.377-373 [ < J-STAGE ]

阿部真也、「刹那滅について - 倶舎論を中心として -」、『印度學佛教學研究』、vol.49 no.2、2001.3、pp.804-806 [ < J-STAGE ]

護山真也、「仏教認識論の射程 - 未来原因説と逆向き因果」、『未来哲学』、第1号、2020.11.25、pp.138-152
はじめに/ダルマキールティの論理学における輪廻の論証/プラジュニャーカラグプタの未来原因説/未来原因説と逆向き因果/おわりに

「原因は結果に時間的に先行する - 私たちの多くが当然のように前提とするこの信念に対して異議を唱え、結果が原因に先立つ可能性を論じた二人の哲学者がいる。そのうちの一人が20世紀のイギリスで活躍した分析哲学の巨匠マイケル・ダメットであることは比較的よく知られている。一方、蒙一人の哲学者が8世紀のインドで活躍したプラジュニャーカラグプタであることを知る人は稀である。彼はインド仏教の論師であり、仏教認識論の伝統に属した仏教徒である」(p.138)

と書き出され、見出しにあるとおり、第一節でダルマキールティ、第二節で「彼の後継者であるプラジュニャーカラグプタ」(p.143)を概観した後、第三節でダメットの議論をたどった上で、両者が比較されます。
 ちなみに、量子力学の「確率過程解釈」において、たとえば
「シュレーディンガー(E.Schrödinger)はシュレーディンガー方程式を、時間前向きの拡散方程式(分布が過去から未来へと拡散する)と時間後ろ向きの拡散方程式(未来から過去へと拡散する)の組み合わせで考えようとしたことがあった」
という点などに関して
こちら:「近代など(20世紀~)」の頁の白井仁人『量子力学の諸解釈 パラドクスをいかにして解消するか』(2022)のところや、
また→そちらも参照;同じ頁、森田邦久、『量子力学の哲学 非実在性・非局所性・粒子と波の二重性』(2011)の第7章「過去と未来を平等に考えてみる」
2013/07/04 以後、随時修正・追補
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