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ホワイト・キューブ以前の展示風景:孫引きガイド 、
あるいは吸血鬼の舞踏会のために

  挿図の上でクリックすると拡大画像とデータのページが表示されます。
 400字詰め原稿用紙にして8枚弱ほどの、ホワイト・キューブを軸にした展示空間について短い原稿を書く機会がありました。手もとにあった貧弱な資料を引っ張りだしたりウェブをうろうろしたりしていると、ホワイト・キューブ定着以前の展覧会場などを描いた図像類がぼちぼち出てくる。貧乏性なもので副産物として、紙面の都合で充分挙げることができなかった参考文献表も兼ね、その中からいくつかを掲載しておくことといたしましょう。
カナレット《ヴェネツィア、サン・ロッコの祝祭の日》  1735頃(細部)
右図細部
カナレット《ヴェネツィア、サン・ロッコの祝祭の日》  1735頃
カナレット
《ヴェネツィア、サン・ロッコの祝祭の日》  1735頃

 上の図版は『西洋美術研究』10号(2004.1)の表紙を飾ったものです。この号は「展覧会と展示」の特集で、この後もいくつか掲載論考を挙げることになるかと思いますが、加えてpp.165-179 の「展覧会と展示 文献リストと解題」は、西洋美術史の領域でこの主題を本格的に調べようとする者にはちゃんとしたガイドになることでしょう(本ページははなはだもってちゃんとしていませんので、くれぐれもご注意ください)。
 さて上図については

中村俊春、「まえがき 芸術家-展覧会-公衆」、p.5

で取りあげられています。「イタリアには、聖体節や他の祝祭の折りに、広場、通り、教会の正面、中庭、宮殿などを、さまざまな絵画、彫刻、タペストリーなどの美術作品で飾る伝統があり」、本作は「そのような祝祭の様子を描いた貴重な作例である」とのことです。こうした祭礼時の展示については、同じ号の

秋山聰、「如何にしていとも気高き帝国の聖遺物が呈示されたのか ニュルンベルクにおける帝国宝物の展観」

を、また祭礼時の行列等については、やはり『西洋美術研究』、no.18、2014.12:「特集 スペクタクル」から;

秋山聰、木下直之、芳賀京子、古谷嘉章、京谷啓徳、「座談会 スペクタクルをめぐって」

フィリーネ・ヘラス+ゲアハルト・ヴォルフ、秋山聰監訳、太田泉フロランス訳、「1462年ローマにおける聖母被昇天の祝祭行列 2つのイコンが出会う夜」

京谷啓徳、「新教皇のスペクタクル ポッセッソの行列をめぐって」

森田優子、「ヴェネツィアの祝祭と都市イメージ」

藤崎衛訳、「1462年ローマにおける救世主イコンの行列次第(原典資料紹介)」

などを参照ください。→こちら(「オペラ座の裏から(仮)」の頁内)も参照
 ついでに日本の事例ですが、もとの職場で開かれたのが;

『まつりの造形』展図録、三重県立美術館、1994 [ < 三重県立美術館のサイト

 先史時代の洞窟壁画の類についてはおくとして、先に進む前に、人に見られることを想定しない、あるいは見られないことを想定した作品のあり方というものもあることを、知人が指摘くれました。その例として挙げられたのは〈秘仏〉でしたが、さらに古代エジプトの墳墓の内装や副葬品、始皇帝陵の兵馬俑、馬王堆漢墓の帛画などを思いだすこともできるでしょう。こうした見られない作品については、

三木順子、「第1章1 展示の前史-見えるものと見えないもの」、太田喬太・三木順子編、『芸術展示の現象学』、晃洋書房、2007

 また少し性格を異にしますが、たまたま一度だけ居合わせたことのあるスペインはバレンシアの火祭りことファリャ-街の区画ごとに一年かけて制作した巨大な人形(ムニェコ)を3月半ばの期間中街路に立て、最後の夜に燃やしてしまう-なども、ある種の展示の文脈の内に位置づけることができるのかもしれません。というわけで下の2点は20年前の観光スナップです;
バレンシアのファリャ、1995年3月19日(1) バレンシアのファリャ、1995年3月19日(2)
バレンシアのファリャ、1995年3月19日
 西洋美術史以外の領域で作品がどのように展示されてきたのかという問題、またヨーロッパ圏での壁画や祭壇画、あるいは写本挿絵のレイアウトなどもおくとして、プリーニウスの『博物誌』第35巻には、古代ギリシアで絵画の競技会が開かれたことを伝えています;

中野定雄・中野里美・中野美代訳、『プリニウスの博物誌 Ⅲ』、雄山閣、1986、p.1419、p.1427

このあたりもいろいろと議論はされているのでしょうが、残念ながら不勉強のため具体的な姿についてはよくわかりませんでした。
 先に挙げた中村俊春「まえがき 芸術家-展覧会-公衆」p.5 では、レオナルドが工房(?)で下絵を公開した逸話に触れていました。この点については;

平川祐弘・小谷年司・田中英道訳、『ヴァザーリ ルネサンス画人伝』、白水社、1982、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」、pp.149-150

 同じ逸話はやはり『西洋美術研究』、no.10、2004.1:「特集 展覧会と展示」所収の

高橋健一、「『第三の場』 17世紀イタリアにおける美術展覧会(展示)についての覚え書き」、p.121

でも挙げられていました。この論考にはまた、1617年頃に著されたジューリオ・マンチーニの『絵画論考』第10章での、展示について論じた箇所のことが述べられています(p.127)。マンチーニの当該箇所についてはさらに;

岡田温司、『もうひとつのルネサンス』、人文書院、1994、「第5章 ディレッタント登場」、p.232-234

  同じ著者による→こちらや、そちらも参照。また→あちらも参照

 岡田(p.232)・高橋はともに、この箇所が「有名」である旨を記しおり、不勉強のためピンときませんでしたが、イタリア美術史に詳しい者には常識なのでしょう。とまれマンチーニの背景には近世におけるコレクションの形成があります。そこで同特集からまた、

平川佳世、「15、16世紀の南ネーデルラントにおける絵画市場の成立と作品展示」

 また市場、展覧会等さまざまな点とからみあうのが;

島本浣、『美術カタログ論 記録・記憶・言説』、三元社、2005

 コレクションについては;

クシシト・ポミアン、吉田城・吉田典子訳、『コレクション 趣味と好奇心の歴史人類学』、平凡社、1992

『西洋美術研究』、no.8、2002.11:「特集 アート・コレクション」

 ポミアンの本でも取りあげられていますが、美術作品だけの展示に先立つ〈小書斎(ストゥディオーロ)〉、〈珍品陳列室〉、〈驚異の部屋(ヴンダーカンマー)〉等をめぐって;

和田咲子、「フランチェスコ・デ・メディチのストゥディオーロにおける一考察」、『千葉大学社会文化科学研究科研究プロジェクト報告書第57集「『権力と視覚表象(2)」』、2001.3、pp.24-34 [ < 千葉大学学術成果リポジトリ CURATOR(キュレーター)

西野嘉章、『ミクロコスモグラフィア マーク・ダイオンの[驚異の部屋]講義録』、平凡社、2004

ポーラ・フィンドレン、伊藤博明・石井朗訳、『自然の占有 ミュージアム、蒐集、そして初期近代イタリアの科学文化』、ありな書房、2005

小宮正安、『愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎』(集英社新書ヴィジュアル版 005V)、集英社、2007

スーザン・A・クレイン、「珍品奇物の陳列室と想像のミュージアム」、スーザン・A・クレイン編著、伊藤博明監訳、『ミュージアムと記憶 知識の集積/展示の構造学』、ありな書房、2009

小宮正安、「驚異の部屋『ヴンダーカンマー』の時代」、山中由里子編、『〈驚異〉の文化史 中東とヨーロッパを中心に』、2015

桑原聡、「キルヒャーとクンストカマー」、『19世紀学研究』、vol.9、2015.3;「[特集] アタナシウス・キルヒャー」

 その種の陳列室を描いた図像から2例だけ;
  
ナポリのフェッランテ・インペラートの博物館 1599
ナポリのフェッランテ・インペラートの博物館 1599
オーレ・ウォルムのムーサエウム・ウォルミアヌム コペンハーゲン 1655
オーレ・ウォルムのムーサエウム・ウォルミアヌム コペンハーゲン 1655
 さて、そうした類に連なる〈愛好家の陳列室〉を描いた作例から-寓意だのコレクターの顕彰だのといった因子が入ってくるので、当時の忠実な記録とはいえないであろうことを念頭に置いた上で(追補:→「怪奇城の画廊(前篇)」でも少し触れました);  
ヤン・ブリューゲル(父)およびルーベンス《視覚の寓意》 1617
ヤン・ブリューゲル(父)およびルーベンス《視覚の寓意》 1617
ヤン・ブリューゲル(父)およびルーベンス、他《視覚と嗅覚の寓意》 1617-18
ヤン・ブリューゲル(父)およびルーベンス、他《視覚と嗅覚の寓意》 1617-18
ウィレム・ファン・ハーハト《コルネリス・ファン・デル・ヘーストの画廊》1628
ウィレム・ファン・ハーハト《コルネリス・ファン・デル・ヘーストの画廊》 1628
フランス・フランケン二世《美術・骨董品陳列室》 1636以降(1641?)
フランス・フランケン二世《美術・骨董品陳列室》 1636以降(1641?)
スタルベント《諸学と諸技芸》 1650頃
スタルベント《諸学と諸技芸》 1650頃
ダーフィット・テニールス二世《ブリュッセルのギャラリーにおける大公レオポルト=ヴィルヘルム》 1647頃
ダーフィット・テニールス二世《ブリュッセルのギャラリーにおける大公レオポルト=ヴィルヘルム》 1647頃
ダーフィット・テニールス二世《ブリュッセルのギャラリーにおける大公レオポルト=ヴィルヘルム》 1650頃
ダーフィット・テニールス二世《ブリュッセルのギャラリーにおける大公レオポルト=ヴィルヘルム》 1650頃
 これら画廊画については、17世紀前半のさまざまな作例について;

ヴィクトル・I・ストイキツァ、岡田温司・松原知生訳、『絵画の自意識 初期近代におけるタブローの誕生』、ありな書房、2001

 の「第2部 好奇の眼」で詳しく論じられています。
 なお同書原著の書評として;

中村俊春、「書評 Victor I. Stoichita, The Self-Aware Image. An insight into Early Modern Meta-Painting」、『西洋美術研究』、no.3、2000.3:「特集 イメージの中のイメージ」

 また

Pierre Georgel et Anne-Marie Lecoq, La peinture dans la peinture, Adam Biro, Paris, 1987, "Allégories réelles"中の pp.169-182:"Extra muros", "Allégories réelles - Dossiers"中の pp.218-219:"28. Les onocéphales dans le cabinet de l'amateur"

なども参照。この本には、ここでは取りあげなかった画家等のアトリエを描いた作例もたくさん載せられています。ちなみ同書の書評も;

三浦篤、「書評 Pierre Georgel, Anne-Marie Lecoq, La peinture dans la peinture」、『西洋美術研究』、no.3、2000.3:「特集 イメージの中のイメージ」

 この本の原題でもある〈画中画〉は、アトリエ画や画廊画も下位の範疇として含みつつ、展示の様態を垣間見る重要な資料ですが、ここはとりあえず他に;

アンドレ・シャステル、木俣元一・三浦篤監修、画中画研究会訳、「絵の中の絵」、『西洋美術研究』、no.3、2000.3:「特集 イメージの中のイメージ」

Julian Gallego, El cuadro dentro del cuadro, (Ensayos Arte), Catedra, Madrid, 1991

 次の2編はたまたま目についたものですが、東アジアに関してはまだまだいろいろあるかと思います;

ウー・ホン、中野美代子・中島健訳、『屛風の中の壺中天 中国重屛図(ダブル・スクリーン)のたくらみ』、青土社、2004

奥平俊六、「彦根屏風について-〈鏡像関係〉と〈画中画〉の問題を中心に-」、『美術史』、no.109、1980.11

岸文和、『江戸の遠近法 浮絵の視覚』、勁草書房、1994、「終章 寛政7年(1795)のアート・ギャラリー」

 またアトリエ画については;

井上明彦、「壁とテーブルについての一考察-マティス《赤いアトリエ》をめぐって-」、『美学』、no.176、1994春

井上明彦、「アトリエの時間-絵画の自己反映性をめぐる一考察」、『絵画考 器と物差し 水戸アニュアル'95』展図録、水戸芸術館現代美術ギャラリー、1995

井上明彦、「折れる壁をめぐって-アトリエ画のプロブレマティーク-」、藤枝晃雄・谷川渥編、『芸術理論の現在 モダニズムから』、東信堂、1999

を参照。

島本浣・岸文和編、『絵画のメディア学 アトリエからのメッセージ』、昭和堂、1998、「第Ⅰ部 Ⅳ 絵画について語る絵画-メタ絵画的機能-」

には

「①絵画制作を描く絵画 アトリエ画(西洋)/(日本)」(蜷川順子/加須屋誠)、

「③絵画流通を描く絵画 ギャラリー画(西洋)/(日本)」(島本浣/岸文和)、

「④絵画消費を描く絵画 画中画(西洋)/(日本)」(島本浣/加須屋誠)

の各節があり、長文ではないものの要を得ています。

 →こちらの作例(《屛風図屏風》)も参照

 さて、同じく画廊画ながら、時代もくだれば、〈建築綺想画(カプリッチョ)〉(→こちらも参照)の趣向が掛けあわされたのが;
 
パニーニ《古代ローマの景観図の画廊》 1758
パニーニ《古代ローマの景観図の画廊》 1758
パニーニ《近世ローマの景観図の画廊》 1759
パニーニ《近世ローマの景観図の画廊》 1759
 〈愛好家の陳列室〉のようなコレクションの展示は今日でいうところの常設展示の先行形態となるのでしょうが、これに対し、先に触れたレオナルドの例のような工房での展示が、今日の一時的な展覧会の先駆けだとして、17世紀から18世紀にかけては、フランスでいえば〈ル・サロン〉、いわゆる官展が形を整えていく時期に当たります。この点では;

吉田朋子、「アンシャン・レジーム下の『サロン』」、『西洋美術研究』、no.10、2004.1:「特集 展覧会と展示」

 前掲の高橋健一「『第三の場』 17世紀イタリアにおける美術展覧会(展示)についての覚え書き」および吉田朋子の論考で取りあげられている各地の美術アカデミーは各種官展の母胎となります。そこで;

N.ペヴスナー、中森義宗・内藤秀雄訳、『美術アカデミーの歴史』、中央大学出版部、1974

『西洋美術研究』、no.2、1999.9:「特集 美術アカデミー」

 これら官展の会場風景をうかがわせる図像として;
  
サン=トーバン《1765年のサロン》 1765
サン=トーバン《1765年のサロン》 1765
サン=トーバン《1779年のサロンの眺め》 1779
サン=トーバン《1779年のサロンの眺め》 1779
 サン=トーバンの会場図としては他に、

吉田朋子、「アンシャン・レジーム下の『サロン』」、『西洋美術研究』、no.10、2004.1:「特集 展覧会と展示」、p.41 / 図4

島本浣、『美術カタログ論 記録・記憶・言説』、三元社、2005、p.99 / 図19

 および


Pierre Georgel et Anne-Marie Lecoq, La peinture dans la peinture, Adam Biro, Paris, 1987, p.178 / no.279


として《1767年のサロン》(ペンと水彩、パリ、個人蔵)が掲載されていました。
 
マルティーニ《1785年のルーヴルのサロンにおける絵画の配置の正確な眺め》 1785
マルティーニ《1785年のルーヴルのサロンにおける絵画の配置の正確な眺め》 1785
マルティーニ《1787年のルーヴルのサロンにおける展覧会》 1787
マルティーニ《1787年のルーヴルのサロンにおける展覧会》 1787
マルティーニ《ロイヤル・アカデミーの展覧会》 1787
マルティーニ《ロイヤル・アカデミーの展覧会》 1787
 マルティーニの版画はあちこちで見かけますが、最初に知ったのはおそらく;

井上明彦(講演録)、「展覧会って何?(シンポジウム、1992.12.20)」、Visual Field、特別増刊号、1933.10、p.8 / 図1

でした。このシンポジウムの時は会場に聞きに行った憶えがあり、本講演にはいろいろと滋養を引きださせてもらったものでした。
 またウェブ上でたまたま出くわしたのが;


Vicenç Furió, "Seeing Art History : Pietro Antonio Martini's Engravings on the Exhibitions of Paris and London in 1787", Locus Amoenus, no.7, 2004 [ < Grabados antiguos sobre el mundo del arte. Obras de la colección Vicenç Furió

 1787年時点でのパリとロンドンの会場、展示方法や内容、観衆などが、当時の証言を参照しつつ詳しく比較されています。またロンドンの会場では、高さ2mほどの刳り型ないしコーニスが〈ライン the line〉と呼ばれ、そこにかぶさらないように絵を掛けた、一種の基準線をなしていたとのことです(p.265)。あり方は違いますが、

川田都樹子、「〈アヴァンギャルド〉の展示空間を読む 〈ホワイト・キューブ〉とそれ以前のアメリカ」、『武蔵野美術』、no.104、1997.5:「特集 展示・場・美術館」、pp.19-20

で述べられている、20世紀初頭の展示における「ヴィジュアル・バンド(視覚の帯)」への配慮と比較することができるでしょうか。川田論考の当該箇所には註が附され(p.25、註3)、


Germano Celant, "A Visual Machine. Art installation and its modern archetypes", Reesa Greenberg, Bruce W. Ferguson and Sandy Narine ed., Thinking about Exhibitions, Routledge, London and New York, 1996, p.376

が参照されています。なおロイヤル・アカデミーの会場を描いた版画は

Eva Mendgen ed., In Perfect Harmony. Picture + Frame 1850-1920, Van Gogh Museum / Kunstforum Wien, Waanders Uitgevers, Zwolle, 1995, p.58

にあったもので、この本は副題の示すとおり、19世紀後半から20世紀初頭にかけての絵の画面と額縁の関係に関する展覧会にあわせて出版されたものです。当初の額縁の状態を示すため展覧会等の会場図像・写真がちょくちょく掲載されており、この後もいくつか出てくることでしょう。 
F-Jアイム《1824年のサロン閉会にあたり、美術家たちに褒賞を授与するシャルル10世》 1825
F-Jアイム《1824年のサロン閉会にあたり、美術家たちに褒賞を授与するシャルル10世》 1825
グランヴィル《展示室》 『もう一つの世界』より 1844
グランヴィル《展示室》 『もう一つの世界』より 1844
グランヴィル《展示画廊》 『もう一つの世界』より 1844
グランヴィル《展示画廊》 『もう一つの世界』より 1844
ドレ《展覧会場の入口》 1861
ドレ《展覧会場の入口》 1861
ピフ『シャリヴァリ』誌、1880年5月23日号より《サロンにて 作品をよくない位置に展示された画家が望遠鏡を設置する》
ピフ『シャリヴァリ』誌、1880年5月23日号より《サロンにて 作品をよくない位置に展示された画家が望遠鏡を設置する》
 上のグランヴィル2点の内、右の作品については、

中村俊春、「まえがき 芸術家-展覧会-公衆」、『西洋美術研究』、no.10、2004.1:「特集 展覧会と展示」、pp.7-8

で、「多くの作品が展示される展覧会において、人々の関心を自作に引きつけるためにさまざまな刺激的な工夫を凝らすようになった」、「こうした状況を揶揄した版画に他ならない」と記されています。
 また上掲のマルティーニの版画でも、高い位置にかかった作品を見るためにオペラ・グラスを使っている観客が描きこまれていましたが(
Vicenç Furió, op.cit., p.260, p.261 / fig.4)、ピフの戯画も、マルティーニから約1世紀が経っても状況は変わらなかったことを物語っています。
 他方

堀川麗子、「ジョン・ラスキンの展示学」、『愛国大学人間文化研究紀要』、no.8、2006.3.31 [ < CiNii Articles

によると、19世紀の半ばにラスキンは、作品が「すべて一列に並び、決して上には飾られない」、「すべて目線の高さになるように」することを提案していたとのことです(p.19、また p.25、註19)。

 
バルトロッツィ《セント・ジェイムズ宮殿近くのグリーン・パークで展示されたコプリー氏の「ジブラルタルの包囲」》 1791
バルトロッツィ《セント・ジェイムズ宮殿近くのグリーン・パークで展示されたコプリー氏の「ジブラルタルの包囲」》 1791
 アメリカ出身の画家コプリーは1781年5月、ロンドンでロイヤル・アカデミー恒例の展覧会の会期に合わせて、自らの大作《チャタム伯爵の死》1点だけを、入場料を取って公開しました。詳しくは

中村俊春、「ジョン・シングルトン・コプリーと同時代的歴史画 マーケティング戦略としての展覧会」、『西洋美術研究』、no.10、2004.1:「特集 展覧会と展示」

を参照ください。左の図は同巧の展示会第3弾の入場チケットに附された挿絵です。
これは上の方で触れた工房での作品公開の伝統が、官展が定着しつつあった時期に形を変えて引き継がれたものとも見なせるでしょうし、他方、クールベが1855年のパリ万国博覧会時に、博覧会場近くで開いた個展を経て、19世紀後半以降の商業画廊での個展につながっていくと位置づけることができるかもしれません。
 コプリーがこうした個展を開いた要因の一つは作品の大きさですが(《チャタム伯爵の死》は228.5×307.5cm、《ジブラルタルの包囲》が543×754cm)、中村論考でも述べられているようにパノラマの流行に追い越されることになるとして(p.142)、期せずして一点だけの展示であるため、かつての壁画のようでもあれば後のホワイト・キューブ、あるいは映画のような相を呈することとなっています。
 ちなみにパノラマについてはいろいろ文献があることでしょうが、とりあえず;

中原佑介、「第5章 タブローとパノラマ 二つの視座 市民社会と世界空間の発見」、小山清男他、『遠近法の精神史 - 人間の眼は空間をどうとらえてきたか -』、平凡社、1992、pp.222-271

前川修、「パノラマとその主体」、『藝術論究』、no.24、1997.3

谷田博幸、『極北の迷宮 北極探検とヴィクトリア朝文化』、名古屋大学出版会、2000、pp.135-170:「第3章 幕間 〝パノラマニア〟の北極」+註

加藤幹郎、『映画館と観客の文化史』(中公新書 1854)、中央公論新社、2006、pp.3-21:「はじめに パノラマ館を見る - 絵画、幻燈、写真、映画、ヴィデオ・ゲーム」

尾関幸、「パノラマ 19世紀的多幸症の装置」、『西洋美術研究』、no.18、2014.12:「特集 スペクタクル」


ポール・コリンズ、山田和子訳、「1 バンヴァードの阿房宮 ジョン・バンヴァード」、『バンヴァードの阿房宮 世界を変えなかった十三人』、2014

 →こちらも参照

 
ヴァトー《ジェルサンの看板》 1720
ヴァトー《ジェルサンの看板》 1720
 左図はヴァトー晩年の名作ですが、18世紀の画商の店先の一点景ということで挙げておきましょう。
ゾファニー《ウフィッツィのトリブーナ展示室》 1772-78
ゾファニー《ウフィッツィのトリブーナ展示室》 1772-78
  さて、18世紀から19世紀にかけては、啓蒙主義の理念に呼応して、公的性格を持った美術館を含む博物館が、盛んに建てられるようになった時期でもあります。
 左の作品については、未見なのですが2011年6月21日NHK-BSで「額縁をくぐって物語の中へ」と題して放映された番組があったそうです。以下のブログの記事等を参照ください;

ヨハン・ゾファニー《ウフィツィ美術館のトリブーナ》

NHK-BSP「額縁をくぐって物語の中へ」---「ゾファニー“ウフィツィ美術館のトリブーナ”」


ユベール・ロベール《ルーヴルのグランド・ギャルリー改修計画、1796年》 1796
ユベール・ロベール《ルーヴルのグランド・ギャルリー改修計画、1796年》 1796
ユベール・ロベール《廃墟となったルーヴルのグランド・ギャルリーの想像的眺め》 1796
ユベール・ロベール《廃墟となったルーヴルのグランド・ギャルリーの想像的眺め》 1796
ユベール・ロベール《美術館のギャラリー》 1789
ユベール・ロベール《美術館のギャラリー》 1789
ユベール・ロベール《グラン・ギャルリー、1801年から1805年の間》 1801-05
ユベール・ロベール《グランド・ギャルリー、1801年から1805年の間》 1801-05
 ここに挙げたユベール・ロベールの作品4点の内(まだまだあります)、対をなす上の2点については、詳く扱った論考をさいわい日本語で読むことができます;

ヴィクトル・I・ストイキツァ、「7 美術館と廃墟/廃墟としての美術館」、岡田温司監訳、喜多村明里・大橋完太郎・松原知生訳、『絵画をいかに味わうか』、平凡社、2010


 また;

三谷理華、「ユベール・ロベールとルーヴル」、『ユベール・ロベール-時間の庭-』展図録、国立西洋美術館、福岡市美術館、静岡県立美術館、2012

 例によってきれいさっぱり忘れていましたが、

『ルーヴル美術館200年展』図録、神戸市立美術館、横浜美術館、1993

の「Ⅴ. ルーヴルの歴史」には、ロベールの2作のそれぞれ別ヴァージョンが出品されていました(pp.246-249 / cat.nos.89-90)。
 さらに上に挙げたF-Jアイム(エーム)の作品(pp.250-251 / cat.no.91)、次に掲げるカスティリオーネの作品(pp.252-253 / cat.no.92)も出ています。
 
モース《ルーヴル美術館の展示室》 1832-33
モース《ルーヴル美術館の展示室》 1831-33
カスティリオーネ《ルーヴルのサロン・カレ》 1861
カスティリオーネ《ルーヴルのサロン・カレ》 1861
デュヴァル《ルーヴル美術館のグランド・ギャルリーの眺め》 1880頃
デュヴァル《ルーヴル美術館のグランド・ギャルリーの眺め》 1880頃
 モールス信号の発明で名高いモースがルーヴルを描いた作品は、

Brian O'Doherty, Inside the White Cube. The Ideology of the Gallery Space, Expanded edition, University of California Press, Berkeley, Los Angeles, London, 1999, p.17

に掲載されていたものです(後から『巨匠の世界 コプレー 1738-1815』(1977)にも載っていたことに気づきましたが、きれいに忘れていました)。右のデュヴァルの作品を挿図にした

Wolfgang Kemp, "A Shelter for Paintings. Form and Functions of 19th-Centuey Frames", In Perfect Harmony. Picture + Frame 1850-1920, 1995

でも、モースの作品についてのオドハティの記述が引用されていました(pp.17-18)。
 ホワイト・キューブ批判の古典として名高いオドハティーの本は、もともと1976年に『アート・フォーラム』誌で3回連載、1981年に単行本化、後に1章を加えて1986年に増補再刊されたものです。美術家でもあったオドハティーに著述を促したのは、1970年代半ばにおける美術界の状況が与って力あったのでしょう。
 他方、18世紀末から19世紀にかけてという美術館草創期にあってすでに、美術館批判がカトルメール・ド・カンシーによってなされていました。この点については;

井上明彦、「美術館とコレクション-〈美術館効果をめぐって〉」、谷村晃・原田平作・神林恒道編、『芸術学の射程-芸術学フォーラム 2』、勁草書房、1995

 先に挙げた講演録「展覧会って何?(シンポジウム、1992.12.20)」(1993)とともにさらに、

井上明彦、「美術館・画廊・展覧会」、神林恒道・潮江宏三・島本浣編、『芸術学ハンドブック』、勁草書房、1989

井上明彦、「美術館の寓意-美術の場所をめぐて」、『理想』、no.656、199512:「特集 転換期の芸術の哲学-三つの世紀末:ロマン主義・世紀末・ポストモダン-」

なども合わせて参照ください。カトルメール・ド・カンシーについてはまた;

岡田温司、『もうひとつのルネサンス』、人文書院、1994、「第7章 アンチ美術館の論理と倫理」

 同じ著者による→こちらも参照

 美術館批判の古典としてド・カンシーに続くのが;

ポール・ヴァレリー、渡辺一夫・佐々木明訳、「博物館の問題」(1936)、『ヴァレリー全集 10 芸術論集』、筑摩書房、1967

 また;

テオドール・W・アドルノ、渡辺祐邦・三原弟平訳、「ヴァレリー プルースト 美術館」(1953)、『プリズメン 文化批判と社会』(ちくま学芸文庫 ア 11-1)、筑摩書房、1996

 →こちらでも触れています

谷川渥、『表象の迷宮 マニエリスムからモダニズムへ』、ありな書房、1992、「XII 美術館という形象」

 ところで井上明彦「美術館とコレクション-〈美術館効果をめぐって〉」(1995)では初期の博物館/美術館の一つとして、シンケルが設計、1830年に開館したベルリンのアルテス・ムゼウムのことが触れられていました。この美術館についてはまた;

太田喬太、「第1章2 モダニズムと展示」、太田喬太・三木順子編、『芸術展示の現象学』、晃洋書房、2007

Werner Szambien, Schinkel, Hazan, Paris, 1989, pp.45-49

Douglas Crimp, "The Postmodern Museum", On the Museum's Ruins, The MIT Press, Cambridge and London, 1993/1995

 モースの《ルーヴル美術館の展示室》に話を戻すと、2015年現在、この絵を主題にした展覧会がUSA各地を巡回しています。その図録が;

Peter John Brownlee ed., Samuel F. B. Morse's Gallery of the Louvre and the Art of Invention, Terra Foundation for American Art, distributed by Yale University Press, New Haven and London, 2015

本ページに載せたものも含めて、各種画廊画が参考図版になっていたりもしました。序論を含めて12篇の論文が収録されていますが。とりわけ

Catherine Roach, "Images as Evidence? Morse and the Genre of Gallery Painting"

では(というかこれしか読んでいない)、モースの作品を画廊画の伝統に位置づけた上で、モースと同じ1831年に同じサロン・カレを描いたニコラ・セバスティアン・マーヨ(1781-1856)およびジョン・スカーレット・デイヴィス(1804-1845)の作品と細かく比較し(図版はマーヨ:p.40 / fig.18、p.52 / fig.28、デイヴィス;p.54 / fig.29)、3点のいずれもが忠実な記録ではなく、そのことでかえって、各作家の狙いを読みとっています。
 また余談ですが、3点のいずれにおいても部屋の角に絵をまたぐようにかけており、これは当時標準的なやり方だったであろう事が記されていました(p.54)。展覧会は2018年3月まで巡回しているとのことです(出品リストが載っていないので、モースの作品以外に何が出品されているのか不明なのですが)。機会がありましたらということで。


 とまれ、最後に展示風景を写した写真をいくつか挙げておきましょう;
1855年の万国博覧会におけるアングル展会場写真
1855年の万国博覧会におけるアングル展会場写真
1855年の万国博覧会におけるドラクロワ展会場写真
1855年の万国博覧会におけるドラクロワ展会場写真
 上の2点は

Modernity and Modernism. French Painting in the Nineteenth Century, Yale University Press, 1993

に載っていたものです。右のドラクロワ展会場写真については;

渋谷拓、「1855年のパリ万国博覧会における美術展 ディスデリによるドラクロワ個展エリアの記録写真について」(研究ノート)、『西洋美術研究』、No.21、2024.10.31:「特集 美術とテクネ-」、pp.220-236

 下の4点は例によって


In Perfect Harmony. Picture + Frame 1850-1920, 1995

から;
1884年のレ・ヴァン展会場写真
1884年のレ・ヴァン展会場写真
1914年サロン、『今日の芸術』展、ゴッホ展示室の会場写真
1914年サロン、『今日の芸術』展、ゴッホ展示室の会場写真
1908年『美術展』、クリムト展示室の会場写真
1908年『美術展』、クリムト展示室の会場写真
1926年のヴェネツィア・ビエンナーレにおけるベックリーン展の会場写真
1926年のヴェネツィア・ビエンナーレにおけるベックリーン展の会場写真
 1855年のパリ万博におけるアングルおよびドラクロワ展では、隣りあう作品との間を詰め、何段にも積み重ねるというサロンやルーヴルの常設でも見られる展示方法が引き継がれていますが、下の4点では今日の展示に近づいてきています。
 とりわけヨーゼフ・ホフマンが展示デザインを担当したという1908年のクリムト展会場は、壁面に壁紙でしょうか、装飾こそ施されているものの、作品と作品との間にゆとりを持たせ、絵を縦の中心でそろえ、観る者の視線とほぼ平行になるよう配するという、ホワイト・キューブ方式とあまり変わらない。
 ただし他の3点を見ると、4段5段と積み重ねこそしないものの、2段掛けに遠慮はありませんし、何より作品と作品との間隔がかなり狭い。また1926年のベックリーン展会場では、一番下の段の下辺の高さをそろえている点が目に止まります。
 なお近代の展示についてはまた;


林洋子、「生きた美術(アール・ヴィヴァン)の場を求めて フランスにおける現代美術展示の100年」、『武蔵野美術』、no.104、1997.5:「特集 展示・場・美術館」

も参照。第1段として同時代の美術を展示したリュクサンブール美術館が取りあげられ、会場写真も掲載されています。
 エル・リシツキーの《プロウン・ルーム》(1922-23)を主軸に、〈ホワイト・キューブ〉定着前後におけるさまざまな試みについて;


Yve-Alain Bois, "Exposition : Esthétique de la distraction, espace de démonstration", Cahiers (du Musée national d'art moderne), no.29, automne 1989

 同誌はまた、以前「作品とその展示」特集を組んでいました;

Cahiers (du Musée national d'art moderne), no.17/18, 1986 : "L'œuvre et son accrochage"
作品とその展示(Catherine Lawless)//
展示の歴史;諸博物館史の諸断片
(Louis Marin)/諸博物館の中のキルケー 欧米の新たな七つの博物館についての省察(Thomas West)/シャフハウゼンの新芸術会館博物館(Delphine Bertho)/芸術作品の公的な場所を構築する(Rémy Zaugg)//
作品とその展示;舞台美術家ブランクーシ
(Isabelle Monod-Fontaine)/額縁の危機 マティスの一点の絵《アトリエの画家》に関して(Dominique Fourcade)/調停証明書(Jean-Claude Lebensztejn)/フェルナン・レジェ《読書》の最初の展示(Christian Derouet)/展示におけるある革命:シュルレアリスム国際展(José Pierre)/場所の発明(Catherine David)//
展示の諸問題;大展覧会 類型論粗描
(Jean-Marc Poinsot)/収集/展覧会(Ramon Tió Bellido)/ポストモダニズムの壁のない博物館(Rosalind Krauss)/額縁の隔たり(Giovanni Careri)/絵画とその展覧会、あるいは絵画は展示できるものなのか?(Daniel Buren)/展示の署名(Claude Leroy)/出版物と展示(Claire Stoullig)/写真:ライヴァル博物館?(Gabriel Bauret)/ある博物館の肖像、あるいは場所の撮影効果(Alain Fleischer)/質問表への回答:「ある芸術作品を展示する」(Fabrice Hergott)など、
216ページ。


 この特集に掲載された論考の内、ドミニク・フルカドとレーベンシュテイン(→こちらを参照。彼の論文は Jean-Claude Lebenszteln, Annexes - de l'Œuvre d'art, Éditions La Part de l'Œil, 1999 に再録)はともに、マティスの《アトリエの画家》(1917)の展示の変遷を扱っており、pp.77-83 には当の作品を展示したそれまでのさまざまな会場写真が掲載されています。
 この他デュシャンによるシュルレアリスム展の展示を扱ったジョゼ・ピエールの論考、マルローの〈想像の美術館〉をめぐるロザリンド・クラウスの論考、ダニエル・ビュレンによる展覧会批判などなどが収録されています。


 さて、〈ホワイト・キューブ〉そのものについては、上でも挙げた

川田都樹子、「〈アヴァンギャルド〉の展示空間を読む 〈ホワイト・キューブ〉とそれ以前のアメリカ」、『武蔵野美術』、no.104、1997.5:「特集 展示・場・美術館」

 写真家のスティーグリッツが開いた画廊〈291〉、アーモリー・ショー、そして1929年に開館したニューヨーク近代美術館が展示写真を交えて扱われています。
 この他ウェブ上で見つけたものとして;

村田真、「第12回 1. 美術館について (5)美術館建築-1」、2001.4.15 [ < 「連載 美術の基礎問題」 < 「artscape」]

 同、  「第13回 1. 美術館について (5)美術館建築-2 ホワイトキューブ」、2001.5.15 [< 同]


 同、  「第14回 2. 展覧会について」、2001.7.25 [< 同]

 同、  「第15回 2. 展覧会について クールベの個展/マネと『落選者展』/第1回印象派展」、2001.9.17 [< 同]

天野太郎、「第24回 美術館の壁が白い訳、ホワイト・キューブについて」、2013.11.12 [ < 「VIA YOKOHAMA」 < 「創造都市横浜」]


 同、   「第25回 制度論としてのホワイト・キューブ-逸脱する美術との関係」 、2014.1.20 [< 同]

 ホワイト・キューブについて節を立てているものから、やはり上掲の;

太田喬太、「第1章2 モダニズムと展示」、太田喬太・三木順子編、『芸術展示の現象学』、晃洋書房、2007

 また;

並木誠士・中川理、『美術館の可能性』、学芸出版社、2006、「第Ⅱ章 『モノ』をめぐる場のあやうさ」(並木)の「Ⅱ・2 展示空間の可能性と問題点」

 ホワイト・キューブと言えばMOMAことニューヨーク近代美術館ですが、その展示について知人が見せてくれた本;

Mary Anne Staniszewski, The Power of Display. A History of Exhibition Installations at the Museum of Modern Art, The MIT Press, Cambridge, Massachusetts, London, 1998

 中身は読んでいませんが、ぱらぱら繰ると会場写真がたくさん載っていました。本書の書評が;

鷲田めるろ、「[書評] Mary Anne Staniszewski, The Power of Display」、『西洋美術研究』、no.10、2004.1:「特集 展覧会と展示」

 ホワイト・キューブ批判としては上に挙げた;

Brian O'Doherty, Inside the White Cube. The Ideology of the Gallery Space, 1976/1981/1986/1999

 2ページの短い文章ですが、いろいろとヒントになったのが;

中村敬治、「壁の色」、『美術手帖』、no.671、1993.6


 美術館批判というのもいろいろあるかと思いますが、とりあえず視線の問題に絡めて、フーコー『監獄の誕生』(1975)で取りあげられたベンサムの〈パノプティコン〉を引きあいに出したものとして;

尾崎信一郎、「啓示と持続-『近代的な視覚』をめぐって-」、『アート・ナウ'94』図録、兵庫県立近代美術館、1994

岡田温司、『
芸術(アルス)生政治(ビオス) 現代思想の問題圏』、平凡社、2006、第Ⅰ章:「ミュージアムとパノプティコン」

 同じ著者による→こちらも参照

Donald Preziosi, Rethinking Art History. Meditation on a Coy Science, Yale University Press, 1989, chapter 3: "The Panoptic Gaze and the Anamorphic Archive"

 ついでに同じ著者による;

ドナルド・プレツィオージ、「美術史、ミューゼオロジー、そして現代性の演出」、『パラレル・ヴィジョン-20世紀美術とアウトサイダー・アート』展図録、世田谷美術館、1993

 また

河田亜也子、「作家たちによる制度批判:〈ドクメンタ5〉をめぐる抗議文」、『コンテンポラリー・アート・セオリー』、イオスアートブックス、2013

Jean-Claude Lebensztejn, "L'espace de l'art", Zigzag, Flammarion, 1981

 同じ著者による→こちらも参照

 レーベンシュテインについて;

聞き手:三浦篤、「[インタビュー]ジャン=クロード・レーベンシュテインに聞く」、『西洋美術研究』、no.9、2003.5:「特集 パレルゴン:美術における付随的なもの」

 同号には

松岡新一郎、「[書評]
Jean-Claude Lebenszteln, Annexes - de l'Œuvre d'art

も掲載されています。

 日本の博物館・美術館についてもいろいろあるかと思いますが、とりあえず;

北澤憲昭、『眼の神殿 「美術」受容史ノート』、美術出版社、1989


『美術館の夢 松方・大原・山村コレクションなどでたどる』展図録、兵庫県立美術館、2002

 始めの方で触れた、見られることを想定しない作品のあり方という話を聞いて思い浮かんだのは、イヴ・クラインの《空虚》(1958、1961、1962)やハイレッド・センターの《大パノラマ展》(1964)でしたが、双方以外にも20世紀の多くの作例を取りあげた次の図録のことを、後になって思いだしました;

Voids. A Retrospective, Centre Georges Pompidou, Paris, Kunsthalle Bern, 2009

 ついでに作業面が主軸ですが、もとの職場で書いた展示に関する文章;

学芸員の仕事紹介⑤ 作品の展示」、2006.7.1 [ < 学芸室だより三重県立美術館のサイト



謝辞:冒頭で触れたホワイト・キューブに関する原稿を書く機会を与えてくれた丹羽誠次郎・伊藤優子両氏、また美術史頭では思い至りそうにない点を指摘してくれた高橋貴氏に、記して謝意を表したく思います。


追記

『西洋美術研究』、no.19、2016.9:「特集 美術市場と画商」

 に掲載された

フィリップ・フェルメイレン、河内華子訳、「ブリューゲルの時代の芸術と経済 16世紀のアントウェルペン美術市場」

陳岡めぐみ、「グーピル社の1世紀」

宮崎直子、「趣味の歴史 フランシス・ハスケルの著作について(研究ノート)」

 などには関連する図像が挿図として登場してきていました。

 また、たまたま岡崎の古本屋で出くわしたのが;

岡田譲編、『床の間と床飾り 日本の美術 No.152』、至文堂、1979.1


 壁面を軸にした展示空間 - ホワイト・キューブ - と第二次大戦以後の抽象絵画との関係を扱って興味深かったのが;

林道郎、『静かに狂う眼差し - 現代美術覚書』、水声社、2017、「第4章 表面としての絵画 - ざわめく沈黙」


 さらに;

川口幸也編、『展示の政治学』、水声社、2009
 展示のポリティクス;展示 狂気と暴力の黙示録(川口幸也)/展示への権利 美の展示と暴力の展示のすき間に(荻野昌弘)/画像の展示と秘匿 キリスト教美術を中心に(宮下規久朗)/展示される戦利動物(木下直之)/展示と政治(松宮秀治)//
 展示のプラクティス;ミュージアムと教育 真珠湾教育ワークショップの事例から(矢口祐人)/オーストラリア戦争記念館と日本展示(溝上智恵子)/空中写真の闇(源河葉子)/名づけ得ぬもの(関直子)/アートプロジェクトの政治学 「参加」とファシズム(鷲田めるろ)/起源への憧れを展示する 南米アルゼンチンのミュージアムが見せるもの(塚田美紀)//
 展示のグローバリズム;見せずにいられない 展示という名の所有の誇示(川口幸也)/国を展示する パプアニューギニアにおける国家の表象(豊田由貴夫)/「オーストラリア原始美術」展とその民族学的背景 日本最初のアボリジニ美術展をめぐって(松山利夫)/文化を展示することは可能か 民族学博物館の展示手法の近年の変化から(竹沢尚一郎)など、
396ページ。


 川口幸也「見せずにいられない 展示という名の所有の誇示」の中で、上で触れた
モース《ルーヴル美術館の展示室》(1831-33)が p.279 で図2、
マルティーニ《1787年のルーヴルのサロンにおける展覧会》(1787)が p.283 で図3、
ダーフィット・テニールス二世《ブリュッセルのギャラリーにおける大公レオポルト=ヴィルヘルム》(1650頃)が同じ頁で図4、
ナポリのフェッランテ・インペラートの博物館図(1599)が p.295 に図11
として、それぞれ掲載されていました。
 また宮下規久朗「画像の展示と秘匿 キリスト教美術を中心に」は次の単著で再録;

宮下規久朗、『聖と俗 分断と架橋の美術史』、岩波書店、2018、pp.108-131+注 pp.312-315:「展示と秘匿」

 この他;

石井祐子、『コラージュの彼岸 マックス・エルンストの制作と展示』、ブリュッケ、2014、pp.95-168+註 pp.299-285:「第2部 波及するコラージュ - シュルレアリスムの展覧会をめぐって」
  第4章 両大戦間の展覧会とコラージュ;シュルレアリスムの国際化とコラージュの波及/ロンドン・シュルレアリスム国際展/パリ・シュルレアリスム国際展//
  第5章 1940年代初頭のアメリカにおける展覧会;エルンストの亡命とニューヨーク/1942年の展覧会/1942年のエルンストの制作と展示


髙木彬、「美術館 文学の建築空間」、日高佳紀・西川貴子編、『建築の近代文学誌 外地と内地の西洋表象 アジア遊学 226』、2018、pp.202-203

山中由里子・山田仁史編、『この世のキワ 〈自然〉の内と外 アジア遊学 239』、2019
 所収の、
pp.280-291;松田陽、「不思議なモノの収蔵場としての寺社」
pp.292-307;角南聡一郎、「寺院に伝わる怪異なモノ - 仏教民俗学の視座」
pp.322-334:寺田鮎美、「異界としてのミュージアム」


藤原貞朗、『共和国の美術 フランス美術史編纂と保守/学芸員の時代』、名古屋大学出版会、2023
 序章 奇妙な「共和国の美術」成立史にむけて/「共和国の美術」前史/コラム① ルイ・クラジョと「戦闘的」美術史家のイメージ/マネ生誕百年記念展 - 「革命的」画家の「保守」への変転/コラム② ポール・ジャモと愛国的フランス美術史/ピカソからマネへ - アナクロニズムの歴史編纂/コラム③ ルネ・ユイグとポストモダンの美術史編纂/十九世紀絵画の「勝利」と「連続性」の創出 -1932年ロンドンのフランス美術展/十七世紀の「レアリスム」と逆遠近法の絵画史編纂 - 1934年の「現実の画家たち」展をめぐって/コラム④ 共和国の美術編纂と学芸員の役割/ルーヴル美術館の再編と近代化のパラドクス - 1929年の印象派のルーヴル入りをめぐって/コラム⑤ 共和国の学芸員の多様性とルーヴル学院卒業生/モダンアートの行方 - リュクサンブール同時代美術館と「右でも左でもない」ミュゼオロジー/棲み分ける美術館 - 潜在するナショナリズムとコロニアリズム/コラム⑥ アンドレ・ミシェルとレオンス・ベネディット/終章 「共和国の美術」とはなにか//
資料;1932年のマネをめぐる言論空間/両大戦間期パリの特別展覧会など、
454ページ。

 p.2/図序-1~2、p.19/図1-1、p.30/図1-6、p.31/図1-7、p.56/図2-4~5、p.88/図3-2~3、p.124/図4-2、p.134/図4-17、p.146/図4-22、p.196/図6-1、p.202/図6-2~3、p.204/図6-4、p.213/図6-7~11、p.214/図6-12~13、p.215/図6-14、p.216/図6-15~16、p.219/図6-17~18、p.220/図6-19、p.221/図6-20、p.223/図6-21、p.241/図7-2、p.245/図7-6~7、p.251/図7-15、p.253/図7-19、p.262/図7-26~27、p.266/図7-29~30、p.274/図8-3、p.284/図8-18、p.311/図8-36~37、p.313/図8-38、p.316/図8-42、p.318/図8-44p.323/図8-46
 に展示風景の写真ないし絵、平面図()が掲載されています。
 その内p.196/図6-1は「1929年の近代絵画室の様子(ルーヴル美術館)」で、三点掲載の内右上のものの左端にモローの《イアーソーン》(1865)、右端に同じく《オルペウス》(1865)が見えます。



追記の2

 冒頭で触れた原稿を含む本が刊行されました;

日本展示学会編、『展示学事典』、丸善出版、2019.1.30

 全640ページのうち、ほんの3ページ弱です。共同執筆者分とあわせて記しておくと(pp.74-81);
「ホワイトキューブ」
ホワイトキューブ以前/ホワイトキューブ成立の条件/ホワイトキューブに走るひび割れ(以上石崎)/フレーム/額縁(丹羽誠次郎)//
「インスタレーションとパブリックアート」
ホワイトキューブの中で - インスタレーション/ホワイトキューブの外へ(以上丹羽誠次郎)/パブリックアートとまちづくり/社会化するアート(以上伊藤優子)

 入稿して本ページを作ったのが2015年10月ですからできあがりまで3年以上かかったことになりますが、→こちらで記したように、『キリスト教教父著作集』は1987年9月第1回配本ながら、個人的にお目当てだった『第2巻Ⅰ エイレナイオス1 異端反駁Ⅰ』が出たのが2017年1月、『第19巻 ヒッポリュトス 全異端反駁』が2018年12月と、間に30年はさまっていることを思えば、まだまだというべきなのでしょう。


追記の3

 有栖川有栖(文)、磯田和一(絵)、『有栖川有栖の密室大図鑑』(創元推理文庫 M あ 2-8、東京創元社、2019)中のクレイスン『チベットから来た男』(1938)の項に、

「ひんやりと冷たい美術館や博物館に死体が転がっている、という設定に私はかなり弱くて、エジプト博物館が殺人現場のヴァン・ダインの『カブト虫殺人事件』もお気に入りである。ただ見られるだけの存在と化したモノたちの中で起こる殺人。そんなモノたちに見下ろされながら生物から鉱物の領域へ向けてゆっくりと移行を始める死体。そんなイメージを垣間見せてくれる作品がもっと読みたい」(p.110)

とありました。クレイスンの『チベットから来た男』は→こちらで挙げました:「中央アジア、東アジア、東南アジア、オセアニアなど」の頁の「おまけ



追記の4

『GAUDIA 造形と映像の魔術師 シュヴァンクマイエル 幻想の古都プラハから』、求龍堂、2005、pp.x-xii:ヤン・シュヴァンクマイエル、「蒐集物の陳列室」

同書所収の
 山梨俊夫、「『驚異の部屋』のグロテスク - シュヴァンクマイエルに寄せて」(pp.vii-ix)
また
 赤塚若樹、『シュヴァンクマイエルとチェコ・アート』、未知谷、2008、pp.8-32:第1部Ⅰ「実現された夢の世界 シュヴァンクマイエル・アートの正しい見方・楽しみ方」
などでも、シュヴァンクマイエルと〈驚異の部屋(ヴンダーカンマー)〉の関連が取りあげられています。本人の映像作品としては、

 『自然の歴史(組曲)』、1967、9分
  (DVD『夢と残酷のエクリチュール シュヴァンクマイエルの不思議な世界』に収録)

「皇帝ルドルフ二世に捧げる」と記され、アルチンボルドの作品がタイトル・バックに登場します。他方、クエイ兄弟には

 『ヤン・シュヴァンクマイエルの部屋』、1984、14分13
  (ブルーレイ『ブラザーズ・クエイ短篇作品集』に「02」賭して収録)

があります。「部屋」の原語は cabinet で、陳列室のこと。ここでもアルチンボルドのイメージが活躍します。

 シュヴァンクマイエルについては→こちらも参照:「オペラ座の裏から(仮)」の頁の「追補の2
 ブラザーズ・クエイについては→そちらも参照:「メソポタミア」の頁の「おまけ


 「『再会! 三重県立美術館のコレクション』展をふりかえって」(『HIll WIND』、no.3、2004/3/12)という旧稿で(→こちら [ < 三重県立美術館のサイト ])、

「推理小説や怪奇小説・幻想小説で、美術ないし美術館をモティーフにした作品を時に見けます。では寡聞ながら、未来を扱ったSFではどの程度あるのでしょうか? 過去の記録をふりかえるという形で、博物館や図書館ならいかにも登場しそうです(ウェルズ「タイムマシン」)。その中に歴史資料として、いわゆる美術作品が含まれるということもあるかもしれません。しかし博物館の一変種でありながら、審美的な体験を中核におくものとしての美術館はどうでしょう(諸星大二郎「失楽園」や菅浩江『永遠の森 博物館惑星』)?たとえば音楽に比べても、美術(館)が大きな役割をはたす、未来を舞台にしたSFが少なさそうな気がするのは、単なる勉強不足のせいではあるのでしょうが」

と書いたことがありました(
追補:劉慈欣『三体』三部作へのメモの頁でも触れました)。そこで挙げた作品は、ウェルズの「タイム・マシン」を除けば、

諸星大二郎、「失楽園」の「天堂篇」、『孔子暗黒伝 2 東夷篇』(ジャンプ・スーパー・コミックス 52)、集英社、1978

 同じ著者による→そちらを参照:「近代など(20世紀~) Ⅵ」の頁の「諸星大二郎」の項

菅浩江、『永遠の森 博物館惑星』、早川書房、2000

 さらに;

菅浩江、『不見(みず)の月 博物館惑星Ⅱ』(ハヤカワ文庫 JA ス1-7)、早川書房、2021
  2019年刊本の文庫化

菅浩江、『歓喜の歌 博物館惑星Ⅲ』(ハヤカワ文庫 JA ス1-8)、早川書房、2021
  2020年刊本の文庫化

 「Ⅰ」から→あちらで触れました:「オペラ座の裏から(仮)」の頁中
 「Ⅱ」から→あちらの2で触れました:「津の築山遊具など」の頁の「追補
 同じ著者による→あちらの3を参照:「近代など(20世紀~) Ⅵ」の頁の「菅浩江」の項


 また雰囲気は大いに異なりますが;

スティーヴン・ミルハウザー、柴田元幸訳、「バーナム博物館」、『バーナム博物館』(海外小説の誘惑 白水Uブックス 海外小説 140)、白水社、2002
原著は Steven Millhauser, "The Barnum Museum", The Barnum Museum, 1990

 同じ著者による→こちらを参照:『アッシャー家の末裔』(1928)の頁の「おまけ」.
 2015/10/11 以後、随時修正・追補
   HOME美術の話;目次ホワイト・キューブ以前の展示風景:孫引きガイド 、あるいは吸血鬼の舞踏会のために