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    怪奇城閑話
怪奇城の図面

  プロローグ
  1 映画と建築図面、地図など
  2 模型、建築図面
  3 平面図・立面図
   4 立図、指図、絵図
   5 探偵小説と間取り図
   6 怪奇映画と建築図面など


 プロローグ
 『ゼンダ城の虜』(1937)で、王が幽閉された城に主人公が潜入するに先だち、城の一階の平面図をひろげて、忍びこむ経路を検討する場面がありました(→こちら)。その頁では「セットと一致するものかどうかはよくわかりませんでした」と記したのですが、図面の右上には「濠 MOAT」、その左下の広い部屋に「大広間 GREAT HALL」と書きこまれ、大広間の右下の角は螺旋階段になっています。大広間と螺旋階段の位置は、本篇中に登場したものと合っているように思われます。 『ゼンダ城の虜』 1937、約1時間17分:城1階の平面図
 図面の左上、濠に薄く平行線がかかっていて、書きこまれた文字は判読できないのですが、これが跳ね橋だとすると、大広間の左に接する大きく縦長の空間の上辺が玄関にあたるのか。また大広間の左上の角から延びる小さめの空間は、跳ね橋を操作する装置のあったところなのでしょうか。しかしこのあたりはもう一つはっきりしません。そのかぎりで、ただ、この図面はまるっきり適当に作られたわけではなく、ある程度セットの配置と一致するものと見てよいでしょうか(追補:→「怪奇城の肖像(後篇)」の頁でも触れました)。


 1 映画と建築図面、地図など

 潜入し、場合によっては攻略すべき建物の図面を示し、作戦の細部を検討する、あるいは説明するという場面は、敵の要塞を攻め落とすことが主題となる戦争映画や、泥棒映画あたりで見かけることができそうです。
 右に挙げたのは、ジャン・ギャヴァンとアラン・ドロンが共演した泥棒映画『地下室のメロディー』(1963、監督:アンリ・ヴェルヌイユ)で、主人公たちが金庫のあるカジノの図面を見ながら、潜入方法を確認している場面です。 『地下室のメロディー』 1963、約1時間7分;カジノの図面
 こうした例はまだまだありそうです。右に挙げたのは、本サイトで取りあげた作品から、『大盗賊』(1963)の一場面です(→そちら)。えらく簡略ではありますが、やはりまるっきりでたらめというわけではないようです。この場面に続いて、主人公は凧で城に空から潜入するのでした。 『大盗賊』 1963 約1時間8分:城の見取図
『ルパン三世 カリオストロの城』 1979 約29分:城と湖周辺の航空写真  空からといえば、これは図面ではありませんが、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)に、潜入すべき城周辺が空から見下ろされたかと思うと、人差し指がにゅっと伸びてきて、航空写真だとわかるというくだりがありました(→あちら)。巨視的な眺めがミニチュアである写真に入れ替わるという、気の効いた場面ですが、写真も対象を縮小模型化するという点で、図面に通じているように思われます。 
 航空写真といえば、地図と結びつけることもできそうです。ここでの話の流れからすると、宝の隠し場所を記した地図などが思い浮かんだりもします。ポーの「黄金虫」(1843)のように暗号がからんでくることもあるでしょう。
『グーニーズ』 1985 約16分:宝の隠し場所の地図 スティーヴンソンの『宝島』(1883)などを映像化したものであれば、地図が映る場面も出てきそうです。左に挙げたのは『グーニーズ』(1985、監督:リチャード・ドナー)に登場した、宝のありかを記す地図です(追補:怪奇城の高い所(前篇) - 屋根裏など」の頁でも触れました)。
『ドラキュラ血の味』 1970 約30分:廃教会への地図  細かいところはわからないものの、少なくとも見かけは精密そうな『グーニーズ』の地図に対し、宝のありかを示すものではありませんが、こちらはいかにも粗っぽい、手描きの地図です。『ドラキュラ血の味』(1970)に出てきた(→そこ)、集合場所を報せるためのものでした。子どもが描いたという設定ではありませんが、寺本潔『子ども世界の地図 秘密基地・子ども道・お化け屋敷の織りなす空間』(黎明書房、1988)の第Ⅱ章「手描き地図の発達」が連想されたりもします。
『わが青春のマリアンヌ』 1955 約19分:呼出状の絵地図  こちらは『わが青春のマリアンヌ』(1955)で、「盗賊団」が主人公を呼びだす際、つけてあった絵地図です(→そこの2)。 
『シンドバッド黄金の航海』 1973 約18分:穴の先の部屋 壁の円型図と銘板の影の重ねあわせ  『シンドバッド黄金の航海』(1973)では、隠し地下室の壁画に、争奪の対象だった銘板の影を落とすと、海図として読みとれるものになるのでした(→あそこ)。

 2 模型、建築図面

 建物の話に戻ると、Henry A. Millon, "Models in Renaissance Architecture" ( Edited by Henry A. Millon, Italian Renaissance Architecture. From Brunelleschi to Michelangelo, Thames and Hudson, London, 1994/1996 ) には、イタリア・ルネサンス期に制作された建築物の木製模型の図版が何点も掲載されていました。ファサードだけの模型、全体の模型、断面をあらわにしたものなど、とても興味深いものです。
ただここでは、やはり同論文に掲載され、この論文を収録した本自体の表紙にも部分図が載せられたもので、建築家、この場合ミケランジェロが、施主、この場合教皇パウルス4世に、サン・ピエトロ大聖堂の模型を見せるところを描いた、パシニャーノの油彩を挙げておきましょう。けっこう大きいことがわかります。木製模型が描かれた部分も足しておきます→こっち  パシニャーノ《ミケランジェロがパウルス4世にサン・ピエトロ大聖堂の模型を見せる》 1618-19年
パシニャーノ(1559-1638)
《ミケランジェロがパウルス4世にサン・ピエトロ大聖堂の模型を見せる》 1618-19年

* 画像をクリックすると、拡大画像とデータが表示されます。
 施主と建築家が建物ないしその模型や図面を前にするさまというと、ブリューゲルの《バベルの塔》の前景が連想されたりもします(細部は→そっち)。高橋巌編『ブリューゲル リッツォーリ版世界美術全集8』(集英社、1974)の解説には、
「前景の手前に、ブリューゲルはニムロデ王と従者たちを描き込み、建築家が王に建築のプランを説明している一方、石切り職人たちは精出して仕事をしている」(p.106 / cat.no.46)
とありました。
 
ブリューゲル《バベルの塔》(ウィーン) 1563年
ブリューゲル (c.1525/30-1569)
《バベルの塔》(ウィーン) 1563年
 この絵には図面や模型は見あたりませんが、建築家や施主は出てこないものの、建物の外観ではなく、その構造に対応する図面と立体が建物の前に描きこまれているのが、エッシャー(1898-1972)の《物見の塔》(1958)です。図版は公式サイト M.C.Escher. The Official Website Gallery のコーナーで Belvedere, 1958 として見ることができます。また;

 岩成達也訳、『M.C.エッシャー 数学的魔術の世界』、河出書房新社、1976、図74、作品解説(M.C.エッシャー) pp.11-12/no.74

 M.C.エッシャー、坂根厳夫訳、『無限を求めて エッシャー、自作を語る』(朝日選書 502)、朝日新聞社、1994、pp.106-107
 ブルーノ・エルンスト、坂根厳夫訳、『エッシャーの宇宙』、朝日新聞社、1983、pp136-139

なども参照。そういえば昔、「第2回具象絵画ビエンナーレより+ミニ用語解説《カプリッチオ》+館蔵品から/表紙・裏表紙解説」(『友の会だより』、第15号、1987.7.10、p.6)なる原稿の中で(→こちら三重県立美術館のサイト )、

「本館蔵のエッシャーの『物見の塔』(裏表紙図版)も、図像上カプリッチオ或いは透視法の見本図の系譜に属している。左下の図面と模型を見比べる人物は、かつての建築画に現れる技師の像を思い起こさせる」

なんて書いたことがありました。
 
『デモンズ'95』 1994 約17分:ベックリーン《死の島》の模型  模型に戻って、建物だけの模型ではないのですが、『デモンズ'95』(1994、監督:ミケーレ・ソアヴィ)では、ベックリーンの《死の島》(→そっちも参照)の模型が見られました(→あっち:『デモンズ3』(1989)の頁、また→あっちの2:「怪奇城の画廊(完結篇)」の頁)。 
 『帝都物語』(1988、監督:実相寺昭雄)には、巨大で真っ白な東京の模型が登場しました。輪郭線は直線で、しかし全体は不規則な形をなしています。全体の台はさらに、六つに分割されるのでした。個々の建物の模型も欠いてはいません。
『帝都物語』 1988 約20分:東京の模型 『帝都物語』 1988 約22分:分割された東京の模型
追補;
嶋﨑礼、「ゴシック期のフランス・ドイツで作られた模型や模型らしきもの」、『日本建築学会 建築と模型 [若手奨励] 特別研究委員会報告書』、2022.2、pp.45-54 [ < 嶋﨑礼 - マイポータルresearchmap

 同じ著者による→こちらを参照:「怪奇城の外濠 Ⅱ」の頁の「廊下など」)



 3 平面図・立面図

 「オペラ座の裏から(仮)」の頁の→このあたりでも引いたのですが、遡って、紀元前33~22年頃に著されたとされる『ウィトルーウィウス 建築書』の第1書第2章2に、

「ディスポシティオーとは、物をぴったりと配置することであり、その組合わせによって作品を質を以て立派につくり上げることである。ディスポシティオーの姿 - ギリシア語でイデアイといわれるもの - はこれである、すなわち平面図・立面図・背景図。平面図とは、コムパスと定規を度に適って併用し、それによって敷地面に図形が設定されるものをいう。立面図とは、建て上げ面の像であって、度に適った割付けで描かれた建物のあるべき姿である。また、背景図は、正面と遠ざかって行く側面の模図であって、コムパスの中心に向かってすべての線が集中しているものである」
  森田慶一訳註、『ウィトルーウィウス 建築書』、1979、p.11

とありました。「平面図・立面図・背景図」の原文は
"ichnographia orthographia scaenographia"、英訳では "ichnography, orthography, and scenography"となるとのことです(日本語版ウィキペディアの「ウィトルウィウス」の頁(→あっち)の一番下にある「外部リンク」からリンクされたラテン語原文や英訳より)。最後の〈背景図〉は、古典古代における実態はさておき、後に舞台背景・透視図と見なされるもので、「オペラ座の裏から(仮)」の頁で近世以降の例を少しばかりかじりました。立面図の一種ということになるのか、断面図についてもやはり同じ頁の→そのあたりで触れました。

 前掲 Henry A. Millon, "Models in Renaissance Architecture" によると、ルーヴル美術館が所蔵する古代メソポタミアはラガシュの王グデア(前21世紀)の像が膝にのせた銘板には、神殿の囲いか都市の壁の平面図が刻まれているとのことです(p.19)。同じく北西イタリアはトリーノのエジプト博物館には、エジプト新王国第20王朝(前1186-1069)のラメセス4世(前1153-1147)の墳墓の平面図を描いたパピルス、またユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンは、Ghorâb (グローブ Gurob ?)から出土した新王国第18王朝(前1550-1295)時代のパピルスで、格子上に神殿の正面と側面の立面図を配したものを所蔵しています(同上)。同書 p.20 下に前者、p.20 上および p.21 に後者の図版が掲載されているのですが、保存状態のため慣れぬ者にはなかなか読みとりがたい。
 ラビブ・ハバシュ、吉村作治訳、『エジプトのオベリスク』、六興出版、1985
では、1875年に発見され、現在はニューヨークのブルックリン博物館が所蔵する、新王国・第19王朝のセティ一世(紀元前1294-1279年在位)がヘリオポリスに建設した神殿正面にあった門の模型について述べられ(pp.104-106)、復元前(p.104/写真19)および復元後の写真(p.107/写真20)が載せてありました;
「古代エジプトでは、王が命じた建物のように重要な建築計画の場合、建築家はまず見本用の模型を作成して参考にした。このヘリオポリスの大型模型はそのような模型の一つだと考えられる」(p.106)。

 
 くだって、「ザンクト・ガレンの修道院図書室に保存された、カロリング朝時代の修道院の理想的平面図」があります。「これはヨーロッパにおいて実際の建築計画を記した設計図として、13世紀以前に遡る唯一のものである」(W.ブラウンフェルス、渡辺鴻訳、『[図説]西欧の修道院建築』、2009、p.65)とのことです。「実際の建築計画を記した設計図」といっても、
「この図面依頼者は、あくまで理想的原型をつくることを求めていた。彼はこのように完全な修道院が実現できるとは考えてはおらず、またこの計画を具体化しようともしていない」(同、p.69)。
《ザンクト・ガレン、修道院の理想的平面図》 816-836年
《ザンクト・ガレン、修道院の理想的平面図》 816-836年
 中世初期の建築史を見れば必ず出くわす資料なのでしょう、ふりかえればアンリ・フォシヨンの『西欧の芸術1 ロマネスク(上)』(神沢栄三・長谷川太郎・高田勇・加藤邦男訳、SD選書 114、鹿島出版会、1976)の第1部第1章Ⅰの原注7 (pp.31-32)および p.77 の22図や、ハンス・エリッヒ・クーバッハ、『図説世界建築史 7 ロマネスク建築』(飯田喜四郎訳、本の友社、1996)の pp.230-231、p.238 でふれられていました。とはいえかけらほどにも憶えていなかったのはもはや言挙げするだけの手間も惜しまれようほどに、ここで引きあいにだすにいたったのは、ごく最近田中久美子、『世界でもっとも美しい装飾写本』(エムディーエヌコーポレーション、2019)で見かけて間もないから以上ではありません(p.84/図1)。ともあれブラウンフェルスの前掲書が、この平面図のために、「第3章 ザンクト・ガレンのユートピア」をまるまる捧げています。

 「およそ1230年を下らない頃にヴィラール・ド・オヌクールによって始められ、13世紀中頃、いちおう完成、その後1270~80年頃にかけてマスター1およびマスター2による加筆が終わったと見てよいだろう」(藤本康雄、『ヴィラール・ド・オヌクールの画帖』、SD選書 72、鹿島出版会、1972、p.21)とされる、『ヴィラール・ド・オヌクールの画帖』には、
 「ランの塔平面」(同上、pp.66-69:図版18a)、
 「ランの塔立面」(同上、pp.70-71、p..73:図版19)、
 「シトー会型平面」および「カンブレ大聖堂平面」(同上、pp.90-94:図版28b-c)、
 「二重回廊内陣」および「(モーのサン・ファロンの内陣)」(同上、pp.94-99:図版29a-b)、
 「ヴォーセル平面図」(同上、pp.106-107:図版33a)、
 「方形平面と天井リブ」(同上、p.151、p.155:図版41a)
などを見ることができます。ヴィラールの画帖およびその内の「ラン大聖堂の塔」について、以下も参照;
 西田雅嗣、「『描く』ことと『建てる』ことの間 - 『構想する』中世の建築図」、並木誠士編、『描かれた都市と建築』(KYOTO Design Lab Library 1)、昭和堂、2017、pp.119-140
 
 話変わって、立面図に関し、本サイトで取りあげた作品であれば、『インフェルノ』(1980)に登場したものを思い浮かべることができるでしょうか(→こちら)。 『インフェルノ』 1980 約4分:集合住宅の立面図

 4 立図、指図、絵図

 ところで橋本毅彦『描かれた技術 科学のかたち サイエンス・イコノロジーの世界』(東京大学出版会、2008)の「Ⅰ 技術の風景」中の「職人の風景」で、川越の喜多院が蔵する《職人尽絵屛風》が紹介されていました。 
図1の刀匠の仕事場に続いて、図2として宮大工の仕事場が取りあげられています(pp.6-9)。
「棟梁の背後には、大工道具を入れた道具箱があり、その道具箱の後ろには一枚の絵を描いた板がかけられている。この絵は大工職人たちが作ろうとする建物の姿を描いたものであり、今日の設計図に相当するものである。…(中略)…平面図は『指図』、立面図は『立図』と呼ばれた」(p.7)。
全図からあまり大きくなっていないのですが、立図の部分画像も一応足しておきます→そちら
 
狩野吉信《職人尽絵屏風》より《番匠師》 1615年前後
狩野吉信(1552-1640)
《職人尽絵屏風》より《番匠師》 1615年前後
 大河直躬、『番匠 ものと人間の文化史』(法政大学出版局、1971)も本図に触れた後(p.212)、

「ところで、このような本格的設計図による建築工事が行なわれ始めたのも、中世末期の十六世紀後半ごろからであり、それ以前の中世の工事では、図面による正確な設計は行なわれなかったと考えられる。…(中略)…
 しかし建築工事において、全く図面なしでは工事を進めることはできない。…(中略)…
 かんたんな間取り図の形式の図面を用いることは、わが国の建築工事ではかなり古くから行なわれていた。たとえば正倉院に、東大寺の三面僧房の間取りを麻布に墨書きした大きな図がある。これは柱位置と間仕切りの線を示したかんたんな表現法のものであるが、奈良時代の東大寺造営のときに使用されたものと推定されている」(p.213)

と述べています。「東大寺の三面僧房」の間取り図は川上貢、『建築指図を読む』(中央公論美術出版、1988)の巻頭に配された「建築図面の変遷」(1971)では《東大寺講堂院図》と記されていました(p.6)。とまれ、大河直躬『番匠』からの上のくだりは、「第11章 棟梁と木割書」中の「設計図について」(pp.212-217)という節から引いたものです。他方、橋本毅彦の「職人の風景」に戻ると、最後に、

「建家の間取りの外側にちょうど壁の部分をかたどった型紙が糊付けされ、この紙の壁を折り立てることによって、これから建てられる家屋の様子を現前に想像することができるような『起こし絵図』と呼ばれるものがある。…(中略)…われわれにとっては一見雑誌の付録の紙のおもちゃのようにも見える代物だが、今日の建築家も作るモデルに相当するものであり、設計者、施工者、依頼者の間で共通了解を生み出すための大変よい機能を果たしたことだろう」(p.9)

と述べて結んでいます。先に触れたルネサンス期イタリアの木製模型ともども、大きな流れをなしているのでしょう。立体の模型にせよ平面にせよ、ここでは不見識のためヨーロッパや日本のほんの数例にしか触れられませんでしたが、中国、インド、イラン、アフリカ、アメリカ大陸などなどなど、さまざまな例があるはずです。なお、「今日の建築家も作るモデル」については、

 松本文夫編、『MODELS 建築模型の博物都市』、東京大学出版会、2010

なども参照ください。

 川上貢の前掲「建築図面の変遷」は、

「先年、京都国立博物館で『古絵図』特別展が開催され、古代から中世末までの種々な古絵図が出品展示された。それらの中に、建築絵図の分類があり、社寺建築の設計図いわゆる指図が三点含まれていた(1)。この数は、出品絵数からみるときわめて少数であり、他の信仰絵図や経済絵図が多数を占めていたのと大きい対照を示している」(p.5)

と書き出しています。註1 に挙げられている京都国立博物館『古絵図特別展覧会図録』(昭和44/1969年)は未見なのですが、難波田徹、『古絵図 日本の美術 No.72』(至文堂、1972)を見ると、序に当たる「古絵図 - その歴史性と絵画性」の最後で、

「…(前略)…残された問題に建物の実際を描いた建築指図がある。…(中略)…ここではこのような建築指図については除外し、なんらかの絵画的表現のあるものを対象としたことをあらかじめお断りして置く」(p.18)

と、作例二点を挿図にしつつ(同頁、第18-19図)、但し書きしていました。そのかぎりで〈建築指図〉も〈古絵図〉に包摂されるわけです。では建築指図以外の古絵図で、「絵画的表現のあるもの」はといえば、

信仰絵図  (1) 宮曼荼羅 
  (2) 社寺参詣曼荼羅 
  (3) 社寺絵図 
  (4) 結界絵図 
経済絵図  (1) 社寺領牓示(ぼうじ)絵図 
  (2) 荘園図

が挙げられていました(pp.17-18)。近いところでは(?)三重県総合博物で開催された『祈りと癒しの地 熊野』展(2014)に出品されていた《熊野観心十界曼荼羅》や《那智参詣曼荼羅》が思いだされます(図録の2章「熊野比丘尼と熊野観心十界曼荼羅」(pp.29-56、「作品解説」:pp.98-103。また下坂守、『参詣曼荼羅 日本の美術 No.331』(至文堂、1993)も参照)。建物や地形、地図や絵が交わる領域として、興味を惹かれるところであります(追補:→「怪奇城の肖像(前篇)」の頁でも触れました)。
 また『週刊 絵で知る日本史 22 築城図屛風・城絵図』(集英社、2011.4.7)のタイトルにあるように、〈城絵図〉というカテゴリーもあるそうです。「『城絵図』とは縄張図をもとに作られた見取り図で、城と城下が美しい色彩で描かれている」(p.3)。同書 pp.24-25 に「日本の城郭① 城絵図篇」のコーナーがあって、説明入りの吹出が加えられているものの、4点の作例が図版として紹介されています。p.25 下左に掲載されているのは「津城『御城下分見間絵図(ごじょうしもぶんけんえず)』」(1719/享保4年、個人蔵)でした。津在住なので記しておきましょう。
 
追補;また、

『歴史群像シリーズ よみがえる日本の城 26 城絵図を読む』、学習研究社、2006
 城絵図とは 種類と目的/城攻めに使われた正保城絵図//
 城絵図の読み方;立地/
  縄張;曲輪の配置/付随する曲輪/曲輪の連結/虎口の防御/塁線の屈曲//
 縄張の変化と発達;中世の城の縄張/戦国大名による縄張の違い/統一政権による縄張の完成//
 実戦に見る城の縄張[中世];箕輪城/長篠城/高天神城//
 築城の名人たち;太田道灌/馬場信房/高山右近/黒田孝高/加藤清正/丹羽長重/藤堂高虎//
 軍学による城の縄張//
 実戦に見る城の縄張[近世];長岡城/会津若松城/松前城・五稜郭//
 連載コラム 城を造っていたころの日本 大工の知恵に挑戦など、
 64ページ。



 5 探偵小説と間取り図

 フィクションと建物の図面の話に戻れば、忘れてならないのは、本格探偵小説ないし推理小説における見取り図・間取り図でしょう。いつ頃から図面が挿入されるようになったのでしょうか? 例によって中身はまるっきり憶えていないのですが、たとえばコナン・ドイルのホームズものをぱらぱら繰ってみると、
 「海軍条約文書事件」(1893、延原謙訳、『シャーロック・ホームズの思い出』、新潮文庫、新潮社、1953、p.248)

 「プライオリ学校」(1904、延原謙訳、『シャーロック・ホームズの帰還』、新潮文庫、新潮社、1953、p.119)
に載っていました。後者は地図といった方がいいか。
 ガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』(1907、平岡敦訳、創元推理文庫 M ル 2-1、東京創元社、2020)
には p.69 と p.180 の 2箇所、いくつも出てくるとどこかで見かけたような気がする
 ヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』(1928、井上勇訳、創元推理文庫 106、東京創元社、1959)では p.46、p.49、p.95、p.137、p.240 と、5箇所に出てきます(
追補:p.46の「グリーン家二階の見取り図」には→こちら(「怪奇城の高い所(中篇) - 三階以上など」の頁でも触れました)。
 小栗虫太郎の処女作「完全犯罪」(1933、『白蟻 小栗虫太郎傑作選 Ⅱ』、現代教養文庫 887、社会思想社、1976)
でも二度見られました(p.18、p.42)。
 『黒死館殺人事件』(1934、【「新青年」版】』、作品社、2017)
では松野一夫の挿絵や物品の説明図は別にして、 「第二篇」で p.82、p.98、「第三篇」で p.148、「第五篇」で p.253、「第七篇」で p.321、「第八篇」で p.366 と、計6図になります。ちなみに「第二篇」p.65 には、「空間曲率に関するアインシュタインとヴァン・ジッターの間に交された、論争」(p.64)を図示したものが載せられていました。
 これらは文字通り氷山の一角にすぎないとして、作者によって作品に組みこまれたもの以外に、「ミステリーを読みながら、その記述をもとに解析し、建物の全体像を実際の建築図面に落とし込む」(p.3)なんていう感涙ものの本もありました;

安井俊夫、『犯行現場の作り方』、メディアファクトリー、2006


 仮の理屈を立ててみるなら、本格探偵小説・推理小説における見取り図は、物語の内に位置しつつ、そこで流れる時間の進行をいったん棚上げして、局所的ではあれ舞台である空間を鳥瞰します。物語の外、メタ=レヴェルに出てしまうのではなく、あくまでその内部で、二段ベッドかロフトよろしく、お話の空間や時間を複層化する役割を果たすとでもいえるでしょうか。

 本格探偵小説は一応、超自然現象を排除するものと見なせるでしょう。『地下室のメロディー』のような泥棒映画、『ゼンダ城の虜』や『ルパン三世 カリオストロの城』など敵陣に潜入する話、『グーニーズ』を始めとする宝探しの物語などでも、超自然現象はお呼びではありませんでした。とはいえ〈館もの〉を内に抱える本格探偵小説は、そもそもゴシック・ロマンスの末裔でもあります。怪奇映画に分類されるわけではないものの、上に挙げた『大盗賊』、『シンドバッド黄金の航海』、『帝都物語』などでは魔術や妖術が猛威を振るっていました。『ドラキュラ血の味』、『デモンズ'95』、『インフェルノ』は立派な怪奇映画です。最後の三作で見られたのはそれぞれ、手描き地図、模型、立面図でした。それでは、平面図の出てくる作品にどんなものがあったでしょうか?


 6 怪奇映画と建築図面など
 
 当サイトで見た乏しい例からではありますが、まず『たたり』(1963)では、屋敷の調査を企てた博士(リチャード・ジョンスン)が平面図を虫眼鏡で検分していました(→あちら)。あちこちに書込があります。平面図の建物はけっこう複雑な形状をしているのでしょうか、虫眼鏡のすぐ左には、七角形の部屋らしきものが見えます。ネル(ジュリー・ハリス)が同じ部屋に入ってきて、平面図についてはそれで終わりでした。 『たたり』 1963 約47分:博士が見ていた平面図、館のものか?
 『ワルプルギスの夜 - ウルフVSヴァンパイア -』(1971)では、狼男でもあるダニンスキー(ポール・ナッチー)が廃墟になった教会だか修道院の平面図を調べていました(→こなた)。吸血鬼の隠れ家がどこにあるのか、ヒントを探していたのです。図面はバシリカ式の教会のものとは違っていると見てよいでしょうか。 『ワルプルギスの夜 - ウルフVSヴァンパイア -』 1971 約1時間15分:教会の図面
 『処刑男爵』(1972)で、ペーター(アントニオ・カンタフォラ)が祖父の家で見つけたという文書のうちに、城の平面図があったようです(→そなた)。現状では見あたらない部屋が平面図に記されており、そこからペーターは隠し通路・隠し部屋の存在を推測します。 『処刑男爵』 1972 約22分:城の図面
 『デモンズ3』(1989)では、司教が教会の歴史に隠された秘密を調べる一環として、平面図を虫眼鏡で調べていました(→あなたおよびここ)。図面の画面に映った部分はバシリカ式教会の東側のように見えます。ペンによる書込があちこちにあります。 『デモンズ' 3』 1989 約34分:司教の机*教会の平面図

 画面に出てくる建物ないしセットにどこまで対応しているのか定かではありませんが、ぼろぼろに古びて見えたり、折り畳んだ跡が残っていたり、書込があったりする点で、逆に、これらの平面図は映画製作に合わせて作られたもののように思われるのですが、どうなのでしょうか? 仮にそうだとして、図の部分には何か手本にしたものがあったのでしょうか?
 『グーニーズ』のような宝探しを主題にした話を除いて、図面はちらっと示されるだけで、その後お話の中で詳しく扱われることはありません。大筋から見ると必ずしも必須のものではないと見なしてよいのか、それでもこれらがはさまれることで、たいがいは宏壮として複雑な、超自然現象が起こったりもする建物のリアリティが、下から支えられているととることができるのか。
 深読みに弄してみましょう。『ルパン三世 カリオストロの城』に出てくる航空写真のところで触れたように、極大のパノラマと極小の模型との往還というと、華厳の因陀羅網(→ここも参照:「仏教 Ⅱ」の頁)とともに、ピエール=マクシム・シュールいうところの〈ガリヴァー・コンプレックス〉を援用した澁澤龍彦の「胡桃の中の世界」が連想されたりもします(→そこも参照:「バロックなど(17世紀)」の頁の「シラノ・ド・ベルジュラック」の項)。比較的見た目に近い立面図や模型、空中写真などに比べれば、視点が真上ないし真下に位置し、屋根や壁が崩れ落ちでもしないかぎり、図に描かれたような状態で人目に触れることもないであろう平面図の場合、見た目と落差があって、図の具体的な見え方と思い浮かべられるべき建物との間に何らかの変換の手続きを組みこまねばならないがゆえに、その落差を往き来する運動がいっそうのエネルギーを充填される、と見なすことはできるでしょうか。
 高さという縦軸、すなわち三つめの次元をゼロにまで圧縮することで、逆に、紙面という形で三次元の空間内に放りこまれた時、圧縮された分だけ非連続に跳躍することが可能になるのではないか。二次元の平面図と三次元の建物との間には次元の非連続な飛躍があって、本格探偵小説・推理小説における見取り図のところで触れたように、両者を包摂する世界は複層化される。
 また、パシニャーノの《ミケランジェロがパウルス4世にサン・ピエトロ大聖堂の模型を見せる》(1618-19)やブリューゲルの《バベルの塔》(1563)、エッシャーの《物見の塔》(1958)のところで触れたように、図面や模型は、施主や建築家、施工者、使用者、あるいは後の研究者たちの視線が交わるスクリーンのようなものと見なせるかもしれません。さまざまな視線をいったん受けとめ、それから反射して送り返すことで、三次元の建物を実現するのでしょう。怪奇映画の場合、そこに超自然現象の火種が宿されたりもすることになるのでした(模型の話は「津の築山遊具など」の頁でも触れました→あそこ)。
2021/08/11 以後、随時修正・追補
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