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     バリントン・J・ベイリー(1937-2008)  近代など(20世紀~) Ⅴ 
バリントン・J・ベイリー(1937-2008);


バリントン・J・ベイリー、大森望訳、『時間衝突』(創元SF文庫 697-1)、東京創元社、1989
原著は
Barrington J. Bayley, Collision with Chronos (Collision Course), 1973
    小松左京『果しなき流れの果に』(1966/1973)他
バリントン・J・ベイリー、浅倉久志・他訳、『シティ5からの脱出』(ハヤカワ文庫 SF 632)、早川書房、1985
原著は
Barrington J. Bayley, The Knights of the Limits, 1978
    「宇宙の探求 The Exploration of Space 」(1972) 
    知識の蜜蜂 The Bees of Knowledge 」(1975) 
    シティ5からの脱出 Exit from City 5 」(1971) 
    洞察鏡奇譚 Me and My Antronoscope 」(1973)
  バリントン・J・ベイリー、坂井星之訳、『永劫回帰』(創元SF文庫 697-2)、東京創元社、1991
原著は
Barrington J. Bayley, The Pillars of Eternity, 1983
    ストア派、ピュータゴラース派
    ルクレーティウスと原子論
    ニーチェ、ブランキ、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ
    ポワンカレの回帰定理など
    非・時間
    神々、世界の夜を守る超自我
    輪廻からの超出
    神殿の二本の柱

■ 劉慈欣『三体』三部作(2006-2010)へのメモの頁に、「以前どこかで、時間と垂直に交差する時間というのを読んだ憶えがあります。バリントン・J・ベイリーの『宇宙の探求』(『シティ5からの脱出』所収)だとずっと思っていたのですが、ひっくり返すとそれらしい箇所が見つけられない」と記しました(→こちら)。そこからJ.W.ダンの時間論を経由して、ベイリーに戻れば『時間衝突』に行きついたのでした(→「近代など(20世紀~) Ⅲ」の頁の「ダン」の項)。

 その第9章に、

「次元などというものは存在しない。しかし、話を理解しやすくするための方便として使いたいというなら、それもよかろう。その場合には、六次元マトリクスと考えれば、可能性のあるすべての方向を描写するのにじゅうぶんだろう。時間波は、それが生じるとそうした方向のいずれへも向かうことができる - われわれの視点からいえば、前、うしろ、横、上、下、内、外 - 想像できない方向へも」(pp.193-194)

とありました。また13章でも、次のように述べられます;

「時間は前に進む、つねにひとつの方向に。しかし、本物の宇宙には、それ以外にも無数の方向がある。〈絶対現在〉がつくりだすたった三つの次元だけではなく、六次元と定義しうる。したがって、過去から未来へと進む時間流の外側には、時間の川が流れる大地に相当する、非・時間の広がりがある。現実的にいい直せば、五次元世界には、いくつものべつの地球が存在する」(p.300)。

そんな中で、

「そうしたべつの時間波のひとつがわれわれのそれと逆向きに進んでいるとしたら?」(p.88/第4章)

「われわれの遭遇した存在は、時間の中をわれわれに対して斜めに移動していた」(p.196/第9章)

とのくだりがあって、13章の p.275 以降には〈斜行存在〉が登場することでしょう。

 そもそもこの作品内の宇宙では、

「全体としての宇宙は、時間に頓着しない。まったく無関心なのだ。…(中略)…宇宙に関するかぎり、変化はないのだよ」(p.194/第9章)。

「宇宙は非・時間の無限の広がりであり、そもそも宇宙が誕生した最初の瞬間には、時間など存在さえしなかったのだから。その後、あちらこちらで、局部的な時間の流れがひとりでにはじまった。ほとんどは弱く、あるものはかなり強く、あらゆる方向に進み、たがいにあらゆる角度をとっている。ときたま、そうした時間流同士が交差することさえある。時間は、偶発的な、限られた期間だけの、ささやかなオーダーの現象にすぎないが、しかし、そのおかげで生命の存在が可能になる」(pp.164-165/第8章)。

時間は

「局所的かつ偶発的な現象としては存在する」(p.192)。

と、複数の時間の多方向性、時間流の交差だけでなく、時間の〈局所性〉という設定も出てきました。平行世界についても、

「もしも〈絶対現在〉が唯一のものではないとしたら? それならば、ほかの時間波も存在するだろう」(p.88/第4章)。

「われわれの宇宙の一瞬一瞬に対してひとつずつ、同一の宇宙が無限に存在しなければならない」(p.191/第9章)。

「回帰のつぎの段階の面倒をみるためには、無限を超えた、無限の累乗の数の宇宙が存在せねばならぬ。すでにわれわれは、超限の世界にはいっておる」(p.191/第9章)。

 この他第3章では、〈架空時間〉(p.56)、〈いま〉と〈非・いま〉(p.62)、〈静的な四次元マトリクス〉(p.67)、〈進行する現在波〉(p.68)、〈絶対現在〉(p.70)といった概念が議論されます。その中で、本作における時間のあり方とは相容れなさそうな、ベルクソンの〈生命の躍動(エラン・ヴィタール)〉(p.68)が言及されたりもする。
 第4章で〈時間と非・時間〉(p.75)、第5章には〈可変時間フィールド〉(p.109)、〈時間相の断層〉(同)などの語が見られました。


◇ ところで思い返せば、小松左京の『果しなき流れの果に』(1966)にも、

「いまかりに、われわれの認識できる、時空連続体のうち、常に一方向へしかながれていない - そして一回性(ヽヽヽ)としてしか現象し得ないような時間軸を、直線(ヽヽ)として表象しよう。幾何学のごとく簡単な定義として、この直線を一次元(ヽヽヽ)とする・…(中略)…この直線を、それに直交する方向へ移動させると、ここに時間的二次元平面(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)ができ、ここには、最初の時間軸に平行な、すべての時間軸、いいかえれば、すべて(ヽヽヽ)のパラレル・ワールドがふくまれることになる・……。
・…(中略)…
 さらにこの平面に直交する軸を考え、時間の立体座標(ヽヽヽヽ)を考える時、このZ
軸上の視点(ヽヽ)は、すべてのパラレル・ワールドを、平面上の平行線として見ることができる
・…(中略)…
 軸の導入により、時間曲面(ヽヽヽヽ)が表象され、曲面の正負が表象される。Xt、Ytが、それぞれ、無限遠において、閉じていると(ヽヽヽヽヽヽ)すれば、 - 時間は、Yt軸に平行な直線を自転軸として回転する、球体と考えられる」(文庫版、1973、pp.370-371/第10章)

とのイメージが描かれていました。この作品の場合、パラレル・ワールド群を俯瞰する位置からさらに、

上昇(ヽヽ)をはじめた。 - 滔々と流れ行く超時空間に、直交する(ヽヽヽヽ)方向へ向かって……」(p.375)

と、垂直軸での上昇が語られ、その際

「もう一つの別な宇宙 - その低次の断面(セクション)が、超空間において、逆行宇宙として認識し得るもの」(p.379)

が垣間見られたりするのでした。

 時間の〈局所性〉という概念については、→こちら(「近代など(20世紀~) Ⅵ」の頁中の荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 Part 6 ストーンオーシャン』(2000-03)へのメモで触れた、半村良『妖星伝』(1975-93)における〈意志を持った時間〉というイメージと比較することができるかもしれません。


■ 『シティ5からの脱出』で最初に置かれた「宇宙の探求」(1972)に戻ると、この短篇は、筋立てのダイナミズムを欠いた、観念小説といった類の作品で、さまざまな構造の宇宙が列挙されます。その内に時間と垂直に交差する時間という世界も含まれていたと勘違いしたわけでした。ともあれ言及される諸世界を箇条書きしておくと;

・「チェスのゲームによく似たその宇宙では、空間は、われわれの身近にある連続的で均一なそれではなく、個々に分離した無限ないしは少なくとも不定数の〝位置〟から成って」いる、〈位置転換宇宙〉(pp.16-17)

・「連続的ではあるが全方向に対称ではなく磁場のように巨大なふたつの極のあいだに懸かっている宇宙」(p.24)

・「無の大きな裂け目が端から端まで走っている立体宇宙」(p.24)

・「ある宇宙では、その中の実在は直線運動ならなんの問題もなくできるが、方向を変えるさいには、よく似ているがまったく同一ではない自己の複製が分離し、以後はそれと行をともにしなければならない」(p.24)

・「物体ないしは実在の映像が本物と同じ力や質を持つ」、〈増幅個体宇宙〉(pp.24-25)

・「行くことは来ることであり、近づくことは遠ざかることであり、さよならが今日はに等しい宇宙は無数にある」(p.25)

・「完全に一様でない空間」、「裂け目のある宇宙もそのひとつ」、「また〝束になった宇宙〟・…(中略)…そこでは宇宙がいくつもの分枝に分かれていて、その中のある共通の枝には各分枝から通信ができるが、分枝相互間の通信は必ずしも成り立たないのである。・…(中略)…この分枝宇宙は無数の世界をその中に含んでいることになる(pp.25-26)

・「時間はつねに逆転不可能とはかぎらず、ある宇宙では、自分の足跡を踏んで戻ることにより時間を遡ることができる」(p.26)

・「〝分岐する時間の宇宙〟という宇宙では、あらゆる出来ごとが、ひとつではなくたがいに同等な現実性を持ついくつかの結果を生む」(p.26)

・「拡張された因果律によってあらゆる過程や計画が、途中からさまたげられることなく完結する宇宙」(pp.26-27)

・「位置転換宇宙の一種」で、「逐次的な因果関係といったものが存在せず、あらゆることが純粋に統計的基盤にもとづいて起こる宇宙」(p.27)

・「物質が稠密で固く、金属もしくは岩(どちらかは知らない)がぎっしり埋まった無限を形成している」(p.27)

・〝折りたたみ宇宙〟ないし〝オリガミ宇宙〟=「そこの物体は、折りたたまれることによって、まったく新しい資質を展開するのである」(pp.27-28)

・「わが宇宙のような相対性に欠ける、固定した中心のまわりに構成された時空」(p.28)

・「ありとあらゆる数のひとつひとつについて少なくとも一個の宇宙があり(定理によるとあらゆる数のひとつひとつに一個以上の宇宙がある)、それら各宇宙はその固有の数に〝重心〟をおいて、級数をなして並んでいる。わが宇宙は、その重心数が〝一〟なので、級数の底近くにある(分数を重心とする宇宙もあり、ゼロを選んだ宇宙も少なくともひとつある)」(p.29)

・「級数でわれわれのすぐ上に位置する宇宙では、完全性は()という数字の属性である」(p.29)

・「さらに先へ進むと、三、四、五と無限に上へつづく整数を体現した宇宙がある。加えてそれに対応する負の整数の宇宙があり、また、あらゆる分数、無理数、虚数、それに例えば、あらゆる素数や、あらゆる奇数や、あらゆる偶数から成る群や集合や級数、あるいは、等差数列や等比数列等々を体現している宇宙もあるのだ。さらにこのややこしい現実をこえて、われわれには理解も想像もできない数ないし数体系をもとにする一種の宇宙がある。真に対称的で中心を持たない相対的な時空とは、それらすべての数に同じ比重をおく宇宙である」(p.30)

・「超限数の全域にわたる宇宙」(p.30)

・「ものがそれ自体と同一でない(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)宇宙も無数にあるのだ」(p.32)

なお本作では、錬金術、『ヘルメス・トリスメギストスのエメラルド碑板』に言及されます(p.12、p.33)。


◇ 『シティ5からの脱出』での二作目「知識の蜜蜂」(1975)では、ニーチェの永劫回帰説に言及される他(pp.63-64)、

「正の整数に最高値があるという蜜蜂の定理・…(中略)…蜜蜂は1を中心とする六本のスポークに、すべての数を放射状に配列することによって、これを成しとげる。その時かれらは、この偉大な車輪のスポークの上に、数のエッセンスを含み、その中を曲がりくねったダンスのように発散したり収束したりしながら螺旋状に進行する級数を置く。すると、これらすべての級数は最後に唯一の莫大な数に出あう。かれらの定理によれば、これが1を一方の極とする正の整数組織の反対側の極であって、これは《超1》と呼ばれる。これが、われわれの知っている数の終わりである。それから《超1》はより高級な数組織の1として使われる。しかし、蜜蜂の熟考の性質をうかがわせるような、これと正反対の学説もあって、それによると、すべての数は《充満》という数から放散してくるものであり、それゆえ、あらゆる数は潜在的にゼロである」(p.76)

というくだりがありました。


◇ 邦訳での表題作で三作目「シティ5からの脱出」(1971)では、「恒星宇宙へ - 別の名でいえば物質宇宙」(p.93)、その「物質宇宙の縁、ときにはメタギャラクシーと呼ばれるもの」(p.94)が収縮するという状況が起こっています。

「いずれ - それもかなり短期間のうちに - 素粒子は時空間の枠のなかでアイデンティティをたもてないほど小さくなり、その結果、あらゆるところですべての物質が存在から消失するだろう」(p.94)。

その原因として、

「この時空間構造の中では、物質性なるものが異常で一時的な現象にすぎない事実を、銘記する必要があります。恒星宇宙の物質性は偶然の対極として成立したもので、安定へと向かう固有の傾向はもともと備わっていなかったという確信がしだいに深まってきました。恒星宇宙は何らかの形で動かざるをえず、それゆえにかりそめのバランスが崩れた。これが物質の収縮と、最終的消滅の原因です」(p.105)

という説が唱えられます。『時間衝突』における〈時間の局所性〉に通じる発想と見なせましょうか。他方、

「この収縮は、メタギャラクシー全体に関係しているので、もし、ある存在物またはシステムが、その時点までに知られているだろう恒星宇宙の境界から外に脱出できれば、この収縮過程の場をも逃れて、生きのびることができるのではないか、という仮説がうちたてられた」(pp.94-95)。

ポール・アンダーソンの『タウ・ゼロ』が連想されたりもします。

「収縮場か、でなければメタギャラクシーそのものが、外の空間とのあいだに界面を作り上げ、それが物質の通過をはばむ障壁となるのだ」(p.95)。

「それを包みこんだ障壁が、それぞれ第一、第二境界という名で呼ばれる外側の表面と内側の表面を持っている。内側の境界は放射エネルギーを通すが、固体の通過には強い抵抗を示す。外側の境界は、動きの遅い固体なら容易に横断できるが、内側の境界からやって来る光やその他の放射を透過しない。したがって、恒星宇宙を見るためには、この二つの境界のあいだに身を置くしかない」(p.96)。

このあたりの構造はもう一つよくわかりませんが、

「この障壁の突破は、しかし、理論的には可能であり、かなりの長期間にわたって、特に強力な推進装置をとりつけた船が、つぎつぎに挑戦をつづけた」(p.95)。

 とまれ〈第二境界〉の外には、

「べつの宇宙なんて、存在しないよ(ヽヽヽヽヽ)。・…(中略)…・空間も存在しない(ヽヽヽヽヽヽヽ)無の空間もない(ヽヽヽヽヽヽ)。…(中略)…空間は物質の産物であり、物質が空間の産物ではない。恒星宇宙の外、物質のないところには、空間もやはりないのだ。シティ5がメタギャラクシーを脱出したとき(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)それは非在の場に脱出したにすぎない(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)」(p.122)。
 「世界の複数性など」の頁で触れた(→こちら)、古代の原子論者とアリストテレースの間で繰りひろげられた、世界の有限性/無限性をめぐる議論が連想されたりもします。「鞠が跳ねる - 追補」の頁で触れた(→そちら)、ストア派における世界の外の無限の空虚が思い起こすこともできるでしょう。ストア派の宇宙論は、プラトーンやアリストテレースの有限な球形宇宙と、原子論の無限空間を組みあわせたものと見なせるでしょうか。あるいは、ジャイナ教の宇宙論における〈非世界 aloka 〉と比べることもできそうです;

「〈非世界〉には無限の〈空間〉が与えられているが、しかしそこへは何人も足を踏み入れることはできない。それは、〈非世界〉の中に〈運動の条件〉と〈静止の条件〉の二種の実体が存在しないためである。〈世界〉を〈非世界〉から究極的に区別し、〈世界〉というものにその形状を与えているのは、つまりこれら二種の実体にほかならない。
〈世界〉はこのようにして、〈非世界〉という茫漠とした終わりのない連続の中に、ただぽつんとすえおかれているのである」**
* David E. Hahm, The Origines of Stoic Cosmology, Ohio State University Press, 1977, pp.103-107.
 ジャン・ブラン、有田潤訳、『ストア哲学』(文庫クセジュ 273)、白水社、1959、p.53/第2部第3章A。
 エミール・ブレイエ、江川隆男訳、『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(シリーズ・古典転生 1)、月曜社、2006、pp.73-86/第三章Ⅱ「空虚」、pp.194-201/訳者、「出来事と自然哲学 - 非歴史性のストア主義について」;第2部XIII「空虚(ケノン) - 属性の実体、あるいは〈器官なき身体〉」

**  ガネーシュ・ラルワニ、矢島道彦訳、「ジャイナ教の宇宙観」、岩田慶治・杉浦耕平編、『アジアの宇宙観』、講談社、1989、pp.95-96。
また、
 藤永伸、「ジャイナ教の国土観」、『日本佛教學會年報』、第58號、1993.5:「佛教における國土觀」、横 p.88。
 

◇ 「宇宙の探求」中に「物質が稠密で固く、金属もしくは岩(どちらかは知らない)がぎっしり埋まった無限を形成している」(p.27)という世界が挙げられていましたが、そんな世界を描いたのが、四篇目の「洞察鏡奇譚」(1973)です。
 上の〈通行不能域〉、下の〈焦熱域〉に挟まれた世界(p.137)、それを外から眺めた者は、

「宇宙は〝空間と反空間の対称性〟 - それとも、二足生物の用語を借りれば、〝空虚と固体域の対称性〟を示している。そのため、もし、宇宙のいわば〝中点〟を通過すると(超限性を語る上で正確な表現でないのはわかっているが)、そこから先は相補的な一連の空間域に入ることになり、それらの空間域では、空虚の中に物質の島が浮かんでいるのではなく、全体に充満した固体物質の中に、ときおり泡のように空虚が散在しているのだ」(p.160)

と考えます。
 劉慈欣『三体』三部作(2006-10) メモ頁への追補で触れた(→こちら)、劉慈欣の「山」(2006)と比較できることでしょう。
 同じく〈地球空洞説〉がらみということで→そちらにも挙げておきます;「通史、事典など」の頁の「iii. 地学・地誌・地図、地球空洞説など」。



■ 「知識の蜜蜂」でニーチェの永劫回帰説に言及されたことは先に触れましたが、『永劫回帰』では邦題通り、同じ事象が周期的に反復される宇宙が舞台となります。ただしニーチェの説が直接挙げられることはなく、作中に言う「コロネーダー Collonadist 」の教義は、「平静(アタラクシア)」(p.42、p.67/2章)の語や、〈火〉を始元(アルケー)と見なす点からして、ストア派の宇宙論をモデルとしているようです。

「世界は、コロネーダーたちのことばで一種の分化されていない意識をあらわす『心の火(マインド・ファイアー)』という実体のなかにあった。この心の火(マインド・ファイアー)になにかが起こった - あちこちが薄くなったり厚くなったりしはじめて、平坦ではなくなったのだ。この動きから、元素の物理的分化がはじまった。恒星宇宙が進化し、かぞえきれないほど多くの方法で元素が結合された。心の火(マインド・ファイアー)は、たとえ質、量ともに低下してもつねに存在はしたものの、おのれをおとしめ、有機生命体に顕在する個体(ヽヽ)の意識となってしまったのだ。
 かくして、宇宙は心の火(マインド・ファイアー)を出でてあるがままの姿で凝結した。だが、それはわずかな期間しかつづかなかった。幾十、幾百億年ののち、宇宙は、最終的には火 - 想像できるかぎりもっとも純粋な形態である心の火(マインド・ファイアー) - に呑みこまれてしまうまでつづく崩壊期に入った。元素はそのなかに溶けこみ、ふたたび沈んでいって目に見えなくなってしまった。このようにして世界は終わりを迎えた。だが、永遠の終わりではなかった。おなじように長い長い時が過ぎたのち、前回とまったく同様の(ヽヽヽヽヽヽヽ)変化が、ふたたびはじまったのだ。かつてそうであったとおり、目に見える宇宙がふたたび出現した。あらゆる原子が、あらゆる人々が、あらゆる出来事が、どんな細部に至るまでも前回と同じだった。永遠から永遠に至るまで、まったくちがいはなかった」(pp.43-44/2章)。

〈火〉については、〈エーテルの火〉というものも登場します;

「錬金術師たちが元素として理解している火の、とくに強力で純化された形態…(中略)…彼らはそれを〈エーテルの火〉と呼んだ」(p.55/2章)。

「錬金術はそうした派生的なコロネーダーの宇宙論のひとつではなかった」(p.54/2章)

とも述べられますが、〈エーテルの火〉と〈心の火(マインド・ファイアー)〉との異同も含めて、詳細は不明。


◇ ストア派の永劫回帰説については、たとえば;
「ストア派の主張はこうである。惑星のそれぞれが、最初宇宙が成立したときにあったその位置と縦方向においても横方向においても同じ位置に戻ってきたとき、定められた時間の周期ごとに、存在するものの燃焼と消滅が起こる。そして再びはじめから宇宙は同じ位置に戻って、星は再び同じように周回し、以前の周期に起こったことをひとつひとつ寸分違わず再現する」 * ゼノン他、中川純男訳、『初期ストア派断片集 1』(西洋古典叢書 G 017)、京都大学学術出版会、2000、p.93/断片109b。
 同、pp.92-93/断片109。
 クリュシッポス、山口義久訳、『初期ストア派断片集 3』(西洋古典叢書 G 029)、京都大学学術出版会、2002、pp.63-68/断片623-632 も参照。
 また山口義久、「ストア派宇宙論の二つの原理」、『人文学論集』、no.6、1988.3.20、p.54。
 先ほどの〈エーテルの火〉と関係があるのかどうか、

「万物はある最大の周期にしたがってアイテール化して、すべてアイテール的な火に解消すると考える」**
 
** クリュシッポス、上掲『初期ストア派断片集 3』、p.50/断片596b。  
この断片は

「クリュシッポスはその解消が実体に起こるとは認めなかったことである(それは不可能だから)。むしろ変化の意味で言われているのだという。というのは、大周期にしたがって起こる宇宙の消滅の場合に、宇宙全体の火への解消という教説を唱えて、それを宇宙の大燃焼などと呼んでいる人々は、本来的な意味での消滅とは認めておらず、自然本来的な変化という意味で消滅という呼び方をしているからである」(同上)

と続き、ストア派内部でも〈宇宙の大燃焼(エクピュローシス)〉説に関して、意見が分かれることもあったようです。
 余談になりますが、多田智満子に「エクピローシス以後」という詩がありました(『多田智満子詩集』(現代詩文庫 50)、思潮社、1972、pp.79-81)。

 さて、先にも挙げた

 David E. Hahm, The Origines of Stoic Cosmology, op.cit., pp.185-199 : "chapter VI The Cosmic Cycle"

によると、同じ事象の反復というテーマは、もともとピュータゴラース派が唱えたものだそうです(p.186);
「ある一定の周期ごとに、かつて起きたことが再び起き、およそ何一つとして新しいことは決して起きないということ」

「もしピュタゴラス派の人たちの言うことを信じて、数的に同じ出来事がまた生じるとするのであれば…(後略)」**
 
* ポルピュリオス、水地宗明訳、『ピタゴラスの生涯』、晃洋書房、2007,、p.15/19節。
 また内山勝利編、『ソクラテス以前哲学者断片集 第Ⅰ分冊』、岩波書店、1996、p.206/DK 14-8a。

** 内山勝利編、『ソクラテス以前哲学者断片集 第Ⅲ分冊』、岩波書店、1997、p.171/DK 58-34。

◇ 別の箇所では、永劫回帰が起こる仕組みを説明するため、「《(ミラー)理論》」なる説が持ちだされます(p.204/6章);

「この理論は、無限の時のなかでの物質の塊(ポイント・マス)の動きを説明するものであります。手短にいえば、時間流のなかの任意の瞬間に時間流が交差した場合、宇宙の物質塊全体の未来の状態によってつくられる世界の時間流は、鏡像のごとくに過去の状態と類似したものとなるだろう。という理論です。これを平易なことばで言うなら、じゅうぶんに長い時間が与えられれば、宇宙が周期的に再現されていることがミラー理論によって証明できるということなのです。
 哲学的に言って、この理論にはつねに足らないものがひとつあります。閉鎖系を扱う部分です。この部分によって、質量の動きに固有の機械的決定論から、未来が過去の正確な再現であると予測することができます。こうした原理を簡単に図解するために、科学が発達する以前の哲学者ルクレチウスによって歴史上最初に描かれた図解を引用することができます。ルクレチウスは、もっぱら機能的観察法によって、自然に対し多くの点でおどろくほど正確な計測をおこないました。終わりのない空間を落下していく粒子又は原子で構成される宇宙を想定したのです。粒子は落下しながら、たがいに衝突しあい、もつれあい、反発しあい、結果的にこうした非連続的状態のなかに、世界とその構成部分を包含してしまうというものです。粒子は永久に落下せねばならず、また可能性のある状態は数に限りがあるため、おなじ状態、つまりおなじ世界、おなじ生きものとおなじ出来事が、何度も何度もくりかえされなければならないことになるのです」(p.205/6章)。

 ここで気になるのはルクレーティウスが参照されていることです。彼の『物の本質について』はエピクーロス派が採用した原子論による宇宙像をつづった本です。原子論に永劫回帰説なんて出てきたっけと訝しんだのが一つ、また「図解」って何だろうというのが二点目でした。もとよりベイリーの『永劫回帰』はフィクションであり、しかも未来の話です。正確に引用しなければならないというわけではありますまい。
 他方、「終わりのない空間を落下していく粒子又は原子で構成される宇宙を想定した」という描像は、原典を忠実になぞっていると見てよいでしょう;
「有形なる物質は如何なる物を問わず、それ自身の力では上方へ昇ることも、上方へ進行することも、不可能だということである」 * ルクレーティウス、樋口勝彦訳、『物の本質について』(岩波文庫 6440-6442)、岩波書店、1961、p.70/第2巻184-215。
 そうすると、「可能性のある状態は数に限りがあるため、おなじ状態、つまりおなじ世界、おなじ生きものとおなじ出来事が、何度も何度もくりかえされなければならないことになる」という説もどこかに出てくるのでしょうか? ストア派における永劫回帰説では、宇宙が一つだからこそ同じ事象が反復される、逆にいえば、同じ事象の反復は宇宙が一つであればこそ強調されます。対するに古代の原子論では、無限の空間に無限数の世界を想定する点が、ストア派であれプラトーン主義、アリストテレース主義であれ、当時の他の世界像との大きな違いでした。
 とこうして、細かくチェックしたわけではないのですが、次の箇所に行き当たりました;

「無限の時の宏大な過去をすべてかえり見て、原子の運動が如何に複雑を極めているかを考えて見ると、現在我々が成り立っている素材たるその同一の原子は、現在配置されているのと正に同一の配置に以前も屡ゝ配置されたことがあるということを君は容易に信じ得るに至るであろうからである。それにも拘らず、我々はそれを記憶に取り戻すことはできない」(同上、p.147/第3巻830-869)。

第3巻は主に精神にまつわる諸問題を扱う巻で、引用箇所では精神の死が取りあげられています。そのため

 フランソワ・グレゴワール、渡辺照宏訳、『死後の世界』(文庫クセジュ 250)、白水社、1958、p.14

でも触れられていました。また

 Godefroid de Callataÿ, Annus Platonicus. A Study of World Cycles in Greek, Latin and Arabic Sources, Université Catholique de Louvain, Institut Orientaliste, Louvain-la-Neuve, 1996, p.83 / chapter III-A

も参照。三度

 David E. Hahm, The Origines of Stoic Cosmology,op.cit., p.188 : "chapter VI The Cosmic Cycle"

に登場願うと、すでにデーモクリトスが、
「宇宙世界は無数にある。しかもそれらのうちのいくつかは、単にそっくりであるにとどまらず、どこから見ても完全かつ絶対的にぴったり同一であり、それらの間には寸分の違いもないほどであって、人間たちもやはりそうなのである」 * 内山勝利編、『ソクラテス以前哲学者断片集 第Ⅳ分冊』、岩波書店、1998、p.79/DK 68A-81。 
と唱えていたとのことです。なおハームはこの断片とともに DK 68A-40 も挙げています。ただしそこでは、
「無限の諸宇宙世界があって、それらはさまざまな大きさをしている、とした。また、ある宇宙世界には太陽も月も存在しないが、ある宇宙にはわれわれのところよりもより大きな太陽や月が、ある宇宙にはわれわれのところよりもより多数の太陽や月が存在している、とのことである。諸宇宙世界同士の間隔は不均等で、あるところには多数存在するが、あるところには少なく、またある宇宙世界は増大しつつあり、ある宇宙世界は最盛期を迎えているが、あるものは衰退しつつある。それらは互いに衝突することによって消滅する。いくつかの宇宙世界には動物も植物も生息していず、また水分がまったくない 」 * 前掲『ソクラテス以前哲学者断片集 第Ⅳ分冊』、p.55/DK 68A-40。
 出典の邦訳;大貫隆訳、『キリスト教教父著作集 第19巻 ヒッポリュトス 全異端反駁』、教文館、2018、pp.80-81/第1巻13。
云々と、諸世界の違いが語られますが、双子世界は出てこない。

「さまざまな宇宙は互いに異なっている、ただしこの宇宙と同じ宇宙がいつか生起するだろうことも、ありえないわけではない」(David E. Hahm, op.cit.)

ということなのでしょう。
 なお、ルクレーティウスの引用箇所では、単線的な時間の前後での反復が、デーモクリトスの断片では空間的に離れた二つの世界が語られているように読めます。もっともルクレーティウスの反復世界が空間上同じ位置にあるとはかぎらないし、デーモクリトスの双子世界の併存が同時でなければならないわけでもありますまい。

 二点目の図解云々については、ウェブで見かけた原文(→こちらの12ページ目)で前後の箇所は、

"For a loose illustration of this principle, we can refer to its earliest historical exposition by the prescientific philosopher Lucretius. Working purely with inductive, observational methods, Lucretius produced an account of nature that in many respects was remarkably correct. He pictured the universe as consisting of particles or atoms falling through an endless void"

でした。邦訳の

「こうした原理を簡単に図解するために」が"For a loose illustration of this principle"、
「歴史上最初に描かれた図解」は"its earliest historical exposition"

です。動詞の"illustrate"は手もとの英和辞書に「〈本などに〉さしえ[説明図]を入れる、図解する/((実例・図・比較などによって))説明する[明らかにする]、例証する」、"exposition"は「説明、解説、注解」などとあります。『物の本質について』における記述を指すだけ、と見てもよさそうです。もとより、何らかの図解があった、と設定した虚構でもかまわない。


◇ ストア派以上に、原子なり粒子の集散によって世界を説明する原子論は、単位の数が有限であれば、その組みあわせの数も有限となり、無限の時間のなかでは反復せざるをえないという説となじみやすいのでしょうか、ニーチェの永劫回帰説でも採用されていました;
「世界を、一定量の力として、また一定数の力の中心として考えることが許される(ヽヽヽヽ)とすれば - そしてあらゆる他の考え方はあくまで疑わしく、したがって役立ちえない(ヽヽヽヽヽヽ)とすれば - 、このことから結論されるのは、世界は、その生存の大々的なさいころ遊びをつづけながらも、算定しうる一定数の結合関係を通過しなければならないということである。無限の時間のうちではあらゆる可能な結合関係がいつかはいちど達成されていたはずである。それのみではない、それらは無限回達成されていたはずである」 * 原佑訳、『権力への意志 下 ニーチェ全集 13』(ちくま学芸文庫 ニ 1-13)、筑摩書房、1993、p.540/アフォリズム1066[384](703-4)番。
また、

「エネルギー恒存の原理は永遠回帰(ヽヽヽヽ)を要請する」(同上、p.536/アフォリズム1063[381](861))。

 少し遡ってブランキ(1805-1881);
「結局、自然は、その全作品をつくって、それを《惑星=恒星系》という単一の鋳型に流し込むのに。100元素(ヽヽ)しか持ちあわせていない」
…(中略)…
「化合物に変化を持たせるあらゆる種類の多様性は、100(ヽヽヽ)というきわめて限られた数に依存しているから。したがって、異化された(ヽヽヽヽヽ)または原型(ヽヽ)の天体は、限定された数字に還元され、天体の無限は反復(ヽヽ)の無限からしか生まれてこないのである」(同、pp.90-91)。
* A.ブランキ、M.アバンスール・V.プロス編、浜本正文訳、『天体による永遠』(1872)、雁思社、1985、p.81/Ⅷ章。 

 また遡ってレチフ・ド・ラ・ブルトンヌ(1734-1806);;宇宙の
「各大転回のたびごとに、ものみなすべては、同一のものとして、同一の秩序で再開する」 * 小澤晃、「宇宙は無限に蘇る - レチフの『自然学』 -」、『鹿児島大学文科報告』、第28号、第3分冊、1993.9、p.115/Ⅳ節。
のだとして、その前提として

「人類の分子は無限にあるのではない。…(中略)…たぶん、人類全体と、今いる動物や植物を構成するのに必要な分子の、三、四倍が辛うじて存在しているのだろう。それらがすべて河のように通りすぎて、大海に注ぎ込む。それがまた汲み上げられr、雨となって、山を潤し、水源がまた水を供給し、河がまた同じ姿で現われる」(同、p.114)


との考えを踏まえていたとのことです。こうした思考の系譜は他にも、あるいはレチフとルクレーティウスの間にもあるのかもしれませんが、それは今後の課題としておきましょう。


◇ ブランキの本に対する書評でカミーユ・フラマリオン(1842-1925)は、
「元素の数が有限(ヽヽ)であるということは、この元素によって構成される実際の形態の数が、それゆえ有限であるという証明にはならないのである」 * 前掲『天体による永遠』、p.146/『国民の意見』紙、1872年3月25日。 
と批判しました。鈴木雅雄は、
「これは正当な指摘だといわざるをえない。要素の有限性とそこから作られるものの有限性とはまったく別の問題である。…(中略)…ブランキの論理が結局は科学的というより修辞的なものであるというジャック・ランシエールの意見は認めるしかないのだろう」** ** 鈴木雅雄、「星々は夢を見ない - オーギュスト・ブランキに関する覚え書き -」、『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第2分冊 英文学 フランス語フランス文学 ドイツ語ドイツ文学 ロシア語ロシア文化 中国語中国文学』、53巻、2008.2.28、p.6。 

と述べています。他方、「ロマン主義、近代など(18世紀末~19世紀)」の頁の「ニーチェ」の項でのメモに記したように(→こちら)、相対性理論と量子力学以後の物理学的宇宙論の解説書などで、〈複製のパラドックス〉や〈ポワンカレの回帰定理〉に出くわしました。ニーチェ(1844-1900)とほぼ同時代人であるといってとよさそうなアンリ・ポワンカレ(1854-1912)の〈回帰定理〉については;

「19世紀末に活躍したフランスの万能数学者ポアンカレ(36)は、1890年、三体問題に関する懸賞論文において、次のような『回帰定理』を発表しました。

   空間の位置のみに依存する力が作用している一つの質点系において、座標及び速度が無限大には増大しないことが仮定されていれば、最初仮定された配置と速度によって特徴付けられる運動状態は、一般に時間の経過に伴って、正確ではないにしても、再び任意に接近し、またしばしば任意に再帰しなければならない。(ポアンカレ『三体と運動方程式について』」[Poincaré "Sur le problème des trois corps et les équations de la dynamique"]、拙訳)

 つまり、『永劫回帰』をある種の前提のもとで、数学的に証明したのです。ポアンカレ自身は、この永劫回帰時間を見積もるようなことはしていませんでしたが、物理学者のドン・ペイジは、『回帰定理』を現実の宇宙に適用し、そこから宇宙が初期状態に戻る時間を計算しました。もちろん、いくつかの前提条件のもとではありますが、この宇宙が永劫回帰するのにかかる時間は、だいたい 年であるらしいと言うのです。これは現代版『劫年』の定義といえるかもしれません。
 とはいえ、現在の多くの人にとっては、『永劫回帰』と聞いて先ず思い出されるのは、ポアンカレではなくニーチェでしょう。ニーチェ(37)自身によれば、1881年に、病気療養で訪れたスイスのシルス・マリアのシルヴァプラナ湖畔を散策した際、巨大な尖った岩のほとりで、『永劫回帰』のアイデアが突然襲来したそうです。ポアンカレが回帰定理を発表する九年前のことでした」 * 鈴木真治、「歴史的に観た巨大数の位置づけ」、『現代思想』、vol.47-15、2019.12、pp.7-208:「特集 巨大数の世界 アルキメデスからグーゴロジーまで」、pp.87-88。太字でのポアンカレおよびニーチェの後に続く( )内の数字は、その時点での年齢;p.93註3。鈴木真治、『巨大数 岩波科学ライブラリー 253』、岩波書店、2016、pp.40-42 も参照。
 物理学的宇宙論における同じ事象の反復については、

 アレックス・ビレンケン、林田陽子訳、『多世界宇宙の探検』、2007、pp.172-199:第2部第11章「伝説のキングは生きている!」

 ジョン・D・バロウ、林一・林大訳、『宇宙論大全』、2013、pp.367-3.72:第10章「ポストモダン宇宙」中の「何もオリジナルではない宇宙」の節

 ケイティ・マック、吉田三知世訳、『宇宙の終わりに何が起こるのか』、2021、pp.168-171:第4章中の「ポアンカレの回帰定理」の節

以上、リンクを張った「近代など(20世紀~)」の頁中の各該当箇所に付したメモで触れました。また

 マックス・テグマーク、谷本真幸訳、『数学的な宇宙』、2016、pp.150-151/第Ⅰ部第6章

でも扱われていました。
 ストア派やニーチェ、ポワンカレの永劫回帰説では単線的な時間軸上の前後での反復が問題になったのに対し、物理学的宇宙論においては、先に触れたデーモクリトスの場合同様といっていいのか、空間上での離れた位置が強調されているようです。

 循環する宇宙周期というイメージは、「仏教」の頁の松山俊太郎「インドの回帰的終末説」(is、no.17、1982.6、「特集 時」)のところのメモ(→こちら)で触れたように、ヒンドゥー教や仏教それぞれの〈(カルパ)〉説、邵康節/邵雍『皇極経世書』の〈元会運世〉説はじめ、さまざまな例がありました。ただそれらにおいて同一事象の反復が想定されているのかどうか。松山俊太郎は、ヴィシュヌ神の第3のアヴァターラ「野猪」を解説する中で、
「インドの宇宙は回帰的であるから、あらゆる事象は反復すべきであるが、そのことを明言する資料が乏しいうらみがある中で、この野猪は大地女神に『前にもわたしは、このようにして、おまえを救出した』と語りかけるので、他の権化の行為も長い間には繰り返されることが類推される」  * 松山俊太郎、「ヴィシュヌ神とアヴァターラ」、『エピステーメー』、vol.1 no.2、1975.11、「特集 仮面・ペルソナ」、p.204。
再録;『松山俊太郎 蓮の宇宙』、太田出版、2016、p.220
 
と述べていました。この場合完全に同一なのか、ほぼ同じパターンなのか。他方仏教では、たとえば漢訳『仏本行集経』巻一に、
「弥勒菩薩はこの私(シャーキャムニ)よりも四十劫以上も前に菩提心を発した……」  * 渡辺照宏、『愛と平和の象徴 弥勒経 現代人の仏教 8』、筑摩書房、1966、p.164/4章。
とのくだりがあるそうです。文脈はおくとして、過去仏のもとで菩提心を発してから菩薩の位、そして仏陀となるまで、莫大な時間を経るという文言は、しばしば見かけたような気がします。いくつもの劫をまたいだ変化が想定されているわけです。壊・空・成・住の四大劫、大の三災による六十四転大劫の推移のパターンはおおむね定まっているにせよ、連なる繰り返しを貫いた事象もまた起こる。あるいは、通常なら逃れられない反復を超出することが目指されているととるべきでしょうか。


◇ ベイリーの『永劫回帰』に戻ると、同じ事象の周期的反復を強調することは、時間の否定にもつながります;

「未来は過去なんだ。なぜなら、未来はすでに数えきれないほど過去に起こっているんだからな」(p.153/5章)。

「時はけっして動かし得ぬものなのだ」(p.187/5章)。

「宇宙全体は、潜在段階にあろうと顕在段階にあろうと、この静止状態にあるのです。もっとも重要なのは、宇宙が、なにも変化しなかったという事実によって成り立っていることです」(p.249/9章)。

 『時間衝突』でも「宇宙は非・時間の無限の広がり」(p.164/第8章)と語られていたことが連想されます。いわゆる〈ブロック宇宙〉的な前提というわけです(→こちら(「近代など(20世紀~) Ⅱ」の頁のルディ・ラッカー『4次元の冒険』のところのメモ)も参照)。もっとも、その後は、『時間衝突』では複数の〈局所性〉、『永劫回帰』における単線的な時間軸での同一事象の周期的反復と、性格の異なる設定へと展開するのでした。

「われわれの宇宙がその誕生から終焉までに示す形態は、可能なかぎりすべて(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)の形態を使い果たしてはいない(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)ものと考えられ、したがって、少なくともわれわれのもの以外にも、宇宙が存在していることが想像できるのです」(p.206/6章)

というくだりもありましたが、この発想は『永劫回帰』内では展開されなかったようです(たぶん)。


◇ 『永劫回帰』の宇宙では、神が

「もし存在するならば、彼らとてわれらと同様、はかない限られた存在じゃよ」
…(中略)…
「すべての生きものは不滅じゃぞ」…(中略)…「だが、われらと同様、神々も生き、そして死なねばならん」(p.182/5章)

と語られます。ここでの神々はあくまで自然、世界の中の存在であって、宇宙を超越するものではない。この点も、ストア派の神観に通じています。ストア派の神学については、ジャン・ブラン、前掲『ストア哲学』、pp.59-63/第2部第3章B参照。

 「すべての生きものは不滅」というのは、周期ごとに回帰してきたし、するであろうことを指します。先の非時間性と同じ事態を言いかえたものと見なせましょう。

「存在するのは、自然の力と、連続的な世界の顕現のあいだに本領を発揮する、最後の手段としての絶対的な意識だけなのだ。だが、この超個人的意識でさえ、なにものも変化させることはできず、なにものかを変化させる決定すらできぬ。見えぬようにつくられたものが真の世界であり、真の世界に変化はないのだ」(pp.192-193/5章)

 やはり世界の内の存在であることに変わりはないにせよ、「絶対的な意識」・「超個人的意識」とはどんな存在を想定しているのでしょうか? 「連続的な世界の顕現のあいだに本領を発揮する」というのは、

「世界の夜を守る超自我でもそれは叶わぬ。もしも時が変えられるとしても、それは新しい種類の意識 - 自我であり、生命あるもののなかに棲み、それでいてすべてをおぼえて(ヽヽヽヽ)いられる意識 - だけに可能なのだ。そのような意識は、世界がつくられるもととなった抽象的意識以上に強烈な意識であろう」(p.194/5章)

における「世界の夜を守る超自我」・「世界がつくられるもととなった抽象的意識」に通じるのか。

「宇宙は昼間に開いて夜間に閉じるけれどそれ以上のことはなにもしない花に似ていますね。この開閉は、もちろん世界の潜在段階と顕在段階を象徴しています」(p.249/9章)

と語られる点からすると、「連続的な世界の顕現のあいだ」・「世界の夜」・世界の「潜在段階」は、仏教の四大劫説でいう空劫に相当するのかもしれません。そして「連続的な世界の顕現のあいだに本領を発揮する」「絶対的な意識」・「超個人的意識」、「世界の夜を守る超自我」、「世界がつくられるもととなった抽象的意識」は、 本書についてのメモ冒頭で引いた「世界は、コロネーダーたちのことばで一種の分化されていない意識をあらわす『心の火(マインド・ファイアー)』という実体のなかにあった」という、〈心の火(マインド・ファイアー)〉に当たると見なせそうです。

「かつて世のはじまりに、神は存在した。だが、それ以来いまに至るまで、神は存在しておらぬのだ」(p.195/5章)

という時の「神」も同様でしょうか。
 この〈心の火(マインド・ファイアー)〉は、ストア派の〈火〉・〈ロゴス〉に応じているのでしょう(ジャン・ブラン、前掲『ストア哲学』、p.61/第2部第3章B参照)。


◇ ところで「世界がつくられるもととなった抽象的意識以上に強烈な意識」と言われる場面では、「変化はない」「真の世界」にあっても、もしかして「時が変えられる」かもしれないという可能性がゼロではないことが暗示されています。実際主人公は、

「もし現在の細部のひとつが変更され得れば、結局はすべてが変更されることになる。最小の偏差は、膨大な結果が出そろうまで、どんどん蓄積されていくんだ」(p.154/5章。p.232/8章も参照)

と考えるのでした。
 ちなみにそんな主人公に対し、

「ハーキュリーズと戦うように、アトラスの足を引っぱるように、女神カーリーと格闘するように、イエスと馬上槍試合をするように、そしてイアルダバオスと戦うように」(p.192/5章)

と呼びかけられたりします。その中に出てきたイアルダバオス=ヤルダバオートは、『ヨハネのアポクリュフォン』など、グノーシス主義の一部において、悪しき造物主の名でした。


◇ 原題の『永遠の柱』について、

「宇宙の進化のくりかえしは宇宙の根元 - 万物の安定の両極 - だった。もちろんそれらは、すべての顕在的な存在が依存する極性の基本法則の、最初の実例以外のなにものでもなかった。
 象徴主義を好むコロネーダーたちは、陽と陰をあらわす直立した二本の柱でこの法則を表現した。そして、この二本の柱には、古の民間伝承に由来する名称 - ヨアヒムとボアズ(ヽヽヽヽヽヽヽヽ) - がつけられていた」(p.44/2章。p.148/5章、p.150/5章、p.213/7章)

と記されます。そして主人公は

「自分を、ヨアヒム(ヽヽヽヽ)ボアズ(ヽヽヽ)と名付けた」(p.45/2章)。

 『新共同訳聖書 聖書辞典』(新教出版社、2001)の「ボアズ」の項(p.414)を引いてみると、『列王紀』(上)7:21、『歴代志』(下)3:17 が出典として挙げられていました。ソロモン王が招いた工人ヒラム(『列王紀』(上)7:13/『聖書』、日本聖書教会、1976、p.486)は、

「青銅の柱二本を鋳た」(『列王紀』(上)7:15)、

「この柱を神殿の楼に立てた。すなわち南に柱を立てて、その名をヤキンと名づけ、北に柱を立てて、その名をボアズと名づけた」(『列王紀』(上)7:21)。

「彼はこの柱を神殿の前に、一本を南の方に、一本を北の方に立て、南の方のをヤキンと名づけ、北の方のをボアズと名づけた」(『歴代志』(下)3:17/p.606)。

 ヤキンがヨアヒムになっているのは、何か理由があるのでしょうか? ソロモンの神殿とヒラムは、フリーメイソンの象徴体系にも組みこまれたとのことです;

 セルジュ・ユタン、小関藤一郎訳、『改訂新版 秘密結社』(文庫クセジュ 199)、白水社、1972、pp.108-111/第1部第5章2の中の「ヒラムの伝説」

  W.カーク・マクナルティ、『フリーメイソン - 儀礼と象徴の旅 イメージの博物誌 27』、平凡社、1994、p.28、pp.54-55、pp.68-69

  
2025/10/21 以後、随時修正・追補
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