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顔のない眼
Les yeux sans visage
    1960年、フランス・イタリア 
 監督   ジョルジュ・フランジュ 
 撮影   オイゲン・シュフタン 
編集   ジルベール・ナト 
 プロダクション・デザイン   オーギュスト・カプリエ 
 美術   マルゴ・カプリエ 
    約1時間30分 
画面比:横×縦    1.66:1 *
    モノクロ 

LD
* 手もとのソフトでは1.33:1
………………………

 本作は確か大昔にTVで放映された時に見た記憶があるのですが、むしろその後に読んだ下掲の澁澤龍彦のエッセイによって印象に刻みつけられました。とはいえレイザー・ディスク化されたのを見た際にはもう一つピンと来なかったというのは、こちらの見る目の問題はいうまでもないとして、おそらく超自然現象が起きないからかもしれません。かなりしんどい気分にさせてくれる場面があるのに、お化けが出てこないのではたまったものではありません。もっとも今回再見してみれば、主な舞台となる館内がなかなか面白い曲がりくねり方をしています。手短かにとりあげることとしましょう。

 撮影のオイゲン・シュフタンは、この後ロバート・ロッセン監督でポール・ニューマン主演の『ハスラー』(1961)に続き、同じロッセン監督による伝説的な作品『リリス』(1964)を手がけています。こちらも本作に劣らず実にいやあな映画です(下掲の稲生平太郎・高橋洋、『映画の生体解剖 恐怖と恍惚のシネマガイド』、2014、pp.97-101 を参照)。やはりお化けは出てきません。
 ジャン・ルドンの原作を本人たちとともに脚色したボワロー&ナルスジャックは二人組の探偵作家ですが、その作品がアンリ=ジョルジュ・クルーゾーの『悪魔のような女』(1955)やヒチコックの『めまい』(1958)などとして映画化されことでも知られています。双方お化けは出てきません。なのでいやあな感じが残ります。
 アリダ・ヴァリは『リサと悪魔』(1973)のところでも触れましたが、『第三の男』(1949、監督:キャロル・リード)や『夏の嵐』(1954、監督:ルキノ・ヴィスコンティ)などに出演しつつ、本作、後に『リサと悪魔』、『サスペリア』(1977、監督:ダリオ・アルジェント)などのいわゆるジャンル映画にも出演している(喜んでかどうかは知らず)奇特な俳優です。後の2つにはお化けが出てきます。『リサと悪魔』はいわずとしれたマリオ・バーヴァ後期の佳作、『サスペリア』は過剰な残酷描写がいやあな感じですが、アルジェントの他のジャッロとは違ってお化けが出てくるのでほっとできます。
 教授役のピエール・ブラッスールはマルセル・カルネの『天井桟敷の人々』(1945)にも出ていた俳優さん。
 ヒロインを務めるエディット・スコブは後にレオ・カラックスの『ポンヌフの恋人』(1991)などの他、『ヴィドック』(2001、監督:ピトフ)や『ジェヴォーダンの獣』(2001、監督:クリストフ・ガンズ)といったこちら寄りの作品で助演しているそうです。いつか確認することといたしましょう。『ヴィドック』にはお化けが出てきます。こちらも残酷描写が過剰ですが、お化けのおかげで一息つけます。『ジェヴォーダンの獣』のお化けはたしか贋ものだったかと思いますが、馬鹿な映画なので許容できます。

 話を戻すと、タイトル・バックでは夜の道を走る自動車の窓から、後ろを見た眺めが流れていきます。モーリス・ジャールの音楽はどことなくサーカス風です。
 本編に入ればやはり自動車を運転するアリダ・ヴァリの姿が映される。彼女は死体を川に投げ捨てます。
 続いて医学教授(ピエール・ブラッスール)が移植に関する講義を開いている。彼の娘が事故にあったと囁かれます。
 教授は警察に呼ばれる。
遺体安置室への廊下を主観カメラが前進します。 『顔のない眼』 1960 約10分:遺体安置所への廊下
 パリの市街です。アリダ・ヴァリが部屋探しする娘エドナ(ジュリエット・メニエル)の後をつける。
 墓地です。教授の娘の葬儀が行なわれています。娘には婚約者(フランソワ・ゲラン)がいました。教授の共同研究者とのことです。またアリダ・ヴァリは教授の秘書。しかしまだ名前はわかりません。
 教授と秘書が車で門を入り、病院を通り過ぎてさらに奥、約17分にしてジェヌシエ教授の館が登場します。
『顔のない眼』 1960 約17分:館、外観  車とともにカメラが右から左へ動き、林に囲まれた館の正面が映される。左右を小塔にはさまれた、2階建てに窓つき破風の館です。手前には池がある。外観全景が映されるのはここだけでした。
 秘書をおろして車は館の右側に回ります。玄関部分から道がくだりになって車庫の扉が見えます。地下にあたるのでしょう。
 教授は車庫で車から降りて、左側の扉の中に入る。少し進んで数段上がります。あがった先にも扉がある。また階段の左には、粗石積みの低い石垣があり、その上に金属の手すりが立ててあります。手すりの右下はくるりと丸められている。その影が右の壁に落ちています。 『顔のない眼』 1960 約18分:車庫からの階段と扉口+欄干の影
 階段上の扉から入ると、また狭い一部屋をはさんで、先に扉があります。
 次いで左側の扉口から出てくる。右へ進みます。このあたりは内装が豊かに整えられています
追補:扉のすぐ右に、末広がりの台座の上に伸びる円柱のようなものが映りますが、これは何なのでしょうか。表面はつやつやとして陶磁器のようにも見え、二段になった装飾が施されています。最初は陶製ストーヴかとも思いましたが、ここは廊下のようですし、階段室までのさほど長くもない間に、後二台配されていました。階段室近くのものでは、壁に半ば埋めこむようになっていることがわかります。→あちらもご覧ください:「カッヘルオーフェン - 怪奇城の調度より」)。
『顔のない眼』 1960 約18分:車庫からの扉口の先の一階廊下+円形付け柱状装飾
奥にピアノの見える部屋への扉口が開いていますが、
さらに右へ、階段室です。
 階段は進んできた廊下の正面にあって、まずやや右上へ上がり、10段ほどで踊り場となる。そこから左に折れていきます。ちなみに階段室の左側へ進むとおそらく玄関だと思われますが、そちらは映されませんでした。
『顔のない眼』 1960 約19分:一階廊下から階段室へ+円形付け柱状装飾
 下からの仰角に換わります。階段は上でさらに左へと湾曲しています。奥の壁上方に方形の飾り窓が2つ並んでいます。天井から吹抜の半ばにシャンデリアが吊されている。 『顔のない眼』 1960 約19分:階段室、下から
 階段をのぼりきると、あがって右にも扉がありますが、吹抜に面して左へと回廊が伸びています。 『顔のない眼』 1960 約19分:階段から二階吹抜歩廊へ
その突きあたりの扉に教授は入っていく。 
 中は少し進んで、また右に階段が上がっています。このあたりは先の階段室より簡素な佇まいです。階段は右上に10段ほど上り、踊り場を経て右へ折れます。
 また踊り場です。また右上に折れる。1階から2階への主階段といい、この副階段といい、筒状の空間をぐるっと回るように巡らされているようです(
追補:また一階も二階も天井がずいぶん高いことになる)。壁の上にはやはり飾り窓があり、こちらは抽象的な紋様でした。
『顔のない眼』 1960 約19分:二階から三階への階段
 あがると左に少し進んで扉があります。3階ということになります。実は宏壮な古城等を舞台にした映画でも、2階より上が登場することは必ずしも多くありません。セット設営の都合などの事情がからんでくるのでしょう。本作では3階のみならず、先に出てきた車庫の地下ないし半地下 - こちらは後にさらなる展開を見せてくれることでしょう - までふるまってくれるのですから、この点をとっても記憶に値するというべきなのでしょう追補:→「怪奇城の高い所(中篇) - 三階以上など」の頁でも触れました)。
 さて、部屋に入るとカメラだけが前進します。ベッドに娘クリスティアヌ(エディット・スコブ)がうつぶせになっています。彼女はしばらくの間後ろ向きのままです。教授が話しかける。追って秘書が仮面を手に入ってきます。約25分にして前向きになりますが、仮面をつけての姿です。秘書は自分の手術は成功したといって慰めますが、娘はけがだけだ、自分には顔がないと応える。

 教授と秘書が退室した後、クリスティアヌも部屋を出ます。扉の先は少し間を置いて腰板を張った壁です。廊下を進み、副階段をおり、2階回廊まで来ます。
吹抜の下を見てから、 『顔のない眼』 1960 約26分:二階吹抜歩廊から階段を見下ろす+欄干の影
回廊に面した扉から中に入る。
 中の向かって奥には暖炉とその上に大きな鏡があります。鏡は真っ暗になっている。その右に扉があります。暖炉の向かいに電話機が置いてある。電話をかけますが、相手の声だけ聞いて自らは話さない。相手は婚約者のジャックでした。見上げると大きな肖像画がかかっています。クリスティアヌがモデルなのでしょう。残念ながら達者な絵とはいえません追補:→「怪奇城の画廊(中篇)」でも少し触れています)

 劇場か何かで切符を買うために並んでいたエドナに秘書が声をかけます。エッフェル塔の見える広場を経て、カフェで二人が落ちあう。秘書は部屋が見つかったといって、
『顔のない眼』 1960 約30分:街+ドームをのせた三階建ての建物 ドームを載せた3階建ての建物の前で車に乗せます。
交差する鉄道橋の下をくぐり、森を抜ける。踏切にカメラが前進します。パリへ電車で20分とのことです。
 館の上階から教授が、下の曲がりくねる道を車が進んでくるさまを見下ろしています。エドナが館の前で車から降りる。館の向かいは丘です。
『顔のない眼』 1960 約32分:館の前面、下から 館の前面を下から見上げます。
たくさんの犬が吠えている。
 秘書に案内されて入るとピアノのある部屋でした。教授もいます。エドナは不安に駆られたのか、遠いのはちょっと、約束があると逃げだしたそうで、教授はさっさと麻酔薬をかがせてしまいます。


 2階回廊が下から見上げられる。暗い。クリスティアヌが見下ろしています。
階段をおりてくる。右の壁に大きく欄干の影が落ちており、そこを抜けます。カメラは右・下へ振られる。 『顔のない眼』 1960 約35分:主階段+欄干の影
 エドナを抱えた教授と秘書が廊下の奥へ進みます。低垣階段を経て、車庫に入る。右奥に戸棚があります。奥は隠し扉になっていました。思わず喝采をあげたくなりますが、この後は皆当たり前のように出入りすることになるでしょう。
 エドナを中へ入れて二人は出てきます。車の影にクリスティアヌが身を潜めています。彼女は隠し扉の中に入る。奥はすぐ向かいに煉瓦壁が見えます。
 暗い廊下です。ゆるい半円アーチがいくつか横切っています。奥の突きあたりには7~8段あがって扉が見える。クリスティアヌは奥から手前へ進み、左に消えます。この廊下はまだ出番がありますので、覚えておきましょう。 『顔のない眼』 1960 約38分:地下、ゆるい半円アーチの廊下
 正面に大きな鉄扉が待っています。これは左へ滑る。中は手術室でした。扉口のクリスティアヌを右寄りに映した後、カメラは室内を右から左へとパンします。手術台が2つ並んでおり、左にエドナが横たえられている。並んだ手術台というと同年の『生血を吸う女』(8月30日イタリア公開、本作は1月11日フランス公開)や『亡霊の復讐』(1965)等のイタリア映画が連想されずにはいません(先立つフレーダの『吸血鬼』(1957)ではどうでしたっけ?)。
 背を向けたクリスティアヌが左から奥へ、エドナのかたわらでいったん止まり、またさらに奥へ進みます。通路に続いている。少し進むと今度は小さめの鉄扉があり、その中に入ります。
 灯りのスイッチを入れると、台形の柱+梁がいくつも横切る奥へ伸びた部屋が正面からとらえられる。中央を通路に、左右にはいくつも檻が並んでいます。檻の形が少し変わっていて、後の場面と合わせると、壁から浅い三角が突きでる部分を本体に、上方では上すぼまりになっているというものです。中央の床でその影が交わっています。 『顔のない眼』 1960 約39分:地下、台形の部屋+犬の檻群
 檻には犬たちがいれられていました。クリスティアヌは一匹ずつ撫でていきます。仲好しのようです。
 手術室に戻ります。大きな椀状のライトがあります。仮面を外すと、エドナの顔を撫でます。エドナが目を覚まします。クリスティアヌの顔がぼんやりと映される。エドナは悲鳴を上げます。


 約43分、手術の場面です。いやに丁寧に描かれます。音楽はありません。顔の皮を剥ぎ、剥がれた顔も一瞬ですが映されます。これはしんどい。

 捨て犬を教授が受けとっています。あんなに集めてどうするんだろうと思わずにいられません。
『顔のない眼』 1960 約48分:地下への勝手口  低くなった半円アーチの出入り口があり、奥まって扉口になっています。犬を連れて中に入る。
 廊下です。台形の柱+梁がいくつも横切っています。ただし檻の部屋よりずっと幅が狭い。この廊下も後で出番がありますので、先の半円アーチ廊下と区別して覚えておきましょう。1階の廊下、2階回廊、地下ないし半地下の廊下2種、後に3階廊下も映ります。この点をとっても記憶に値するというべきなのでしょう。 『顔のない眼』 1960 約48分:地下、台形の廊下
 床は浅い奥深の段がくだりになっているようです。手前を左に折れると、先に檻の部屋があります。
 連れてきた犬を檻の1つに入れます。犬をいじめるわけではありませんが、優しいというわけでもないようです。
 台形廊下から秘書が入ってきます。 『顔のない眼』 1960 約49分:地下、台形の部屋から台形の廊下
少なくとも日本語字幕では約51分にして、ようやく名前がルイーズだとわかります。教授は手術の結果に不安を抱いています。ルイーズがいつもしている首輪の下に傷跡の隠されていることもわかります。

 病室のベッドにエドナが横たわっています。頭部は包帯で巻かれています。殺そうというわけではないようですが、その後どうするつもりなのでしょうか。入ってきたルイーズをエドナは殴り倒し、
半円アーチの廊下を通り、 『顔のない眼』 1960 約52分:地下、ゆるい半円アーチの廊下
車庫に出ます。車庫の扉の下から戻ってきた車の光が洩れるのを見て、低垣階段の方へ向かいます。
 主階段が上から見下ろされます。壁に欄干の影が落ちている。 『顔のない眼』 1960 約53分:主階段、上から+欄干の影
2階回廊へ、
次いで副階段をのぼるさまが上から見下ろされます。右の壁にやはり欄干の影が落ちています。光はやはり下にある吊されたランプからのものです。壁の窓は真っ暗に見える。 『顔のない眼』 1960 約53分:副階段、上から+欄干の影
 逃れるエドナと交互に、ルイーズに知らされた教授が追ってきます。副階段についた時は下から見上げられ、この際は窓の紋様がきちんと見えます。
 幅の狭い廊下です。左右の壁には腰板が張られている。途中でカーテンが片側に寄せられています。突きあたりには扉が見える(追補:→「怪奇城の高い所(中篇) - 三階以上など」の頁でも触れました)。 『顔のない眼』 1960 約53分:三階廊下
左手前から教授が現われ、背を向け奥へ進む。半ばで右をのぞきこみます。
 その時悲鳴が聞こえてくる。さらに奥へ進み、また右に入っていく。子供部屋のようです。クリスティアナが使ったいたものでしょうか。窓が開いて風が吹きこみます。窓に駆けより下を見ると、エドナが倒れていました。ここまでで約54分です。

 教授とルイーズが墓地に行きます。クリスティアヌの納骨堂の床板をあけ、その中にエドナの死体を落とす。ルイーズは耳を塞いでいます。
 警察でエドナの友人が証言している。同じ部屋の別の机では万引き娘が訊問されています。


 館の食堂です。やはり後ろ向きで映されたクリスティアヌが約59分にして、仮面をつけない顔で映されます。目を見開いたような、いささか人形めいた強ばりを感じさせる。
 ルイーズが天使みたいというと、クリスティアヌは天使?そうかしらと答えます。本篇自体とは別の話になりますが、下掲の澁澤の解釈と合わせると、なかなかに感慨深いものがあります。
 教授は出かける前に、化粧したのかね?と問い、チェックします。何か不審げです。
 病院へと夜の道を歩む教授はルイーズに、手術は失敗だったという。
 動画ではなく静止した顔写真を連ねることで、症状が徐々に悪化してくさまが伝えられます。これもかなりしんどい。

 ルイーズが仮面を手に部屋に入ってきます。クリスティアヌは床でうつぶせになっています。
 手術室では教授が犬を実験台にしています。犬では全て成功したとのことです。
 クリスティアヌが肖像画の部屋に入ってきます。ジャックに電話をかける。ジャックの部屋にはピカソ展のポスターが貼ってあります。ルイーズが電話を切ってしまいます。クリスティアヌは死にたいという。

 警察にジャックが連絡します。首輪で傷跡を隠す女性のことをエドナの友人が証言したと聞いて、心当たりを覚えます。
 いったん放免された万引き娘(ベアトリス・アルタリバ)が召還され、囮になることを持ちかけられます。
 ブロンドに染め、入院します。名前はポーレットでした。
 教授とジャックが子供を診察します。この場面は本筋に関係ありません。どういう意図なのでしょうか?
 ポーレットが脳波検査等を受けます。
 教授は自室です。疲れているようです。
 異常がないと診察されたポーレットが退院します。
『顔のない眼』 1960 約1時間17分:病院、一階 手前左に受付 『顔のない眼』 1960 約1時間18分:病院、一階 右に受付
バス停に向かうところをルイーズが車に乗せる。

 手術室です。ポーレットが手術台にのせられています。ルイーズが病院に客が来たと教授に告げる。
『顔のない眼』 1960 約1時間21分:病院、玄関前 教授は出ます。
すみのソファでクリスティアヌがうずくまっています。
 客は刑事たちでした。ポーレットが退院したと聞いて退散します。ジャックも消沈気味です。ジャックも彼とともに捜査に乗りだした刑事たちも、結局本篇中では役に立たず仕舞いでした。

 手術室です。ポーレットが目覚めます。縛られていて動けません。クリスティアヌがメスを手にとって近づきます。ポーレットは悲鳴を上げますが、クリスティアヌは縛めを切って解放します。ルイーズが入ってくる。クリスティアヌはその首をメスで刺します。ルイーズは「なぜ?」と涙を落とし、壁の角にもたれかかる。そのまま崩れ落ち、首をがくっと落とします。この間クリスティアヌは口をききません。
 ポーレットは半円アーチの廊下を奥へ逃げていきます。
 一方クリスティアヌは手術室の奥へ向かいます。
檻を次々と開けていく。 『顔のない眼』 1960 約1時間26分:地下、台形の部屋+犬の檻群
犬たちは台形廊下へ走っていきます。
 戻ってきた教授が半円アーチ口の前で音を聞き止め、扉を開きます。飛びだしてきた犬に咬みつかれる。他の犬たちも追いつき、皆して教授を引き裂きます。
 台形廊下の手前・右には大きな鳥籠がありました。 『顔のない眼』 1960 約1時間27分:地下、台形の部屋から台形の廊下+犬と鳥籠
クリスティアヌはそれも開いて、鳥たちを放ちます。皆白鳩です。1羽だけクリスティアヌの肩に止まります。
 半円アーチ口からクリスティアヌが出てきます。手に鳩を止まらせています。そのまま木立を奥へ向かう。手に鳩を止まらせたままで、まわりにも鳩たちが飛び交っています。


 冒頭で触れた澁澤龍彦の文章は、クリスティアヌは仮面の力によって
「人間性を脱却し、天使性に接近する」(p.372)
と説きます。
「すでにして、彼女は植皮手術を欲しない。…(中略)…殺人によって、彼女は完全に天使の属性を獲得する。さればこそ、物語の論理的必然によって、彼女はどうしても鳥籠の鳥を放ち、腕に鳥をとまらせなければならない(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)のである」(p.373)。
 この解釈はけっこう説得力があるように思われます。現実には逃げだしたポーレットが通報し、警察が来てルイーズや教授の死体を発見し、全てを知らされたジャックは何を思うのか……となるだろうことも想像できますが、映画は夜の森に鳩たちとともにクリスティアヌが消えるところで終わります。人でなくなった仮面の女は人ならざるものの世界へと移行する。そのための通過儀礼としてさんざんしんどいものを見せられてきたわけです。映画の中の世界をずるずると現実の世界に接続せず、すぱっと切断したことをこそ諒とすべきでしょう。
 敷衍してみましょう。クライマックスが半地下ないし地下の手術室周辺で展開するのも、通過儀礼の舞台というにふさわしい。地下とは冥界の謂いにほかなりますまい。一度死んだクリスティアヌは顔を奪われた。顔は社会に対し各個人が呈示しなければならない記号であり、つまりクリスティアヌがつけることになったのとは別の形での仮面です。ただこの時点では、コミュニケーションの媒体である声は残されている。その意味では人間の圏域に片脚を残しています。ただ婚約者との意思の疎通は封じられており、その点で社会からはすでに半歩はみだしている。クライマックスにおいてクリスティアヌが言葉を発しないのは、儀礼の最中は守らなければならない決めごとであるとともに、人間界からの離脱を示してもいるのでしょう。人間とは言葉を交わさないけれど、犬や鳩となら通じあうこともできるわけです。その際離脱を成就するためには、クリスティアヌにもっとも親身に接したルイーズを自ら手にかけなければならない。感情をうまく伝えられなかった教授は犬たちに任せておけばよい。いずれにせよすでに押しつぶされかかっていた二人を殺すことは、軛からの解放でもあるのかもしれません。
 手術室からは2つの廊下が伸びています。一方は半円アーチの廊下で、車庫に通じている。車庫は人間の社会につながっているのでしょう。だから解き放たれたポーレットはそちらに向かう。ただし車庫からうまく出られないと、エドナのように上階にのぼるしかなくなってしまいます。上階に出口はなく、脱出の方法は窓からの墜落のみなのでした。
 他方もう一つの台形廊下は森に通じています。犬たちがそこを走り、鳥たちとともにクリスティアヌが向かう森は、個別性、ひいては社会性・人間性を引き受けることのない仮面たちが交感する世界なのでしょう。
 とこんな風にまとめると、何となくわかったような気になってしまいますが、何より大切なのは、1階から3階、そして半地下ないし地下までの垂直の積層と、それらをつなぐ階段や廊下を人物たちや人外の仮面、そして犬や鳥が往き来すること、より正確にはそうした往き来を可能にするだけの空間の分岐があること、この点を忘れてはなりますまい。

 
Cf.,

澁澤龍彦、「仮面について - 現代ミステリー映画論-」(1961)、『澁澤龍彦集成 Ⅶ 文明論・芸術論篇』、桃源社、1970、pp.367-374、とりわけ pp.372-373

 →こちらでも挙げました:『恋人たち』(1958)の頁中

 同じ著者による→そちらを参照:「通史、事典など」の頁の「おまけ」

The Horror Movies, 2、1986、p.76

黒沢清+篠崎誠、『黒沢清の恐怖の映画史』、2003、pp.161-165

西村安弘、「顔のないモンスター/『オペラの怪人』(1924)から『顔のない眼へ』(1959)へ」、『東京工芸大学芸術学紀要』、11巻、2005、pp.39-45 [ < 東京工芸大学学術リポジトリ ]

 →こちらでも挙げました:『オペラの怪人』(1925)の頁の「おまけ


稲生平太郎・高橋洋、『映画の生体解剖 恐怖と恍惚のシネマガイド』、2014、p.34、pp.39-40

中原昌也、「『顔のない眼』とグラン・ギニョール ~ 『エクソシスト』以前の恐怖映画」、『怖い、映画 別冊映画秘宝』(洋泉社MOOK)、洋泉社、2018.11、pp.10-15

Cathal Tohill & Pete Tombs, Immoral Tales. European Sex and Horror Movies 1956-1984, 1995, pp.22-23

Danny Shipka, Perverse Titillation. The Exploitation Cinema of Italy, Spain and France, 1960-1980, 2011, pp.266-269, 272

Jonathan Rigby, Studies in Terror. Landmarks of Horror Cinema, 2011, pp.100-101

Jonathan Rigby, Euro Gothic: Classics of Continental Horror Cinema, 2016, pp.75-78

 アリダ・ヴァリについて;

加藤幹郎、『映画の領分 映像と音響のポイエーシス』、フィルムアート社、2002、第1部2「風のような女たち 女優頌」中の pp.57-58:「アリダ・ヴァリ(1921- ) 人生の知恵」

おまけ

牧野修、「スキンダンスの階梯」、『ファントム・ケーブル』、2003、pp.193-225

 《顔のない眼》なる者たちが登場します。


 澁澤龍彦の上掲の文章中、本作に関する箇所はけっこう印象に残っていたのでしょう、下記の拙稿でも引きあいに出したことがありました;

『三重県立美術館ニュース』、no.145、2012.1.13、「三重県立美術館 カルトクイズ 第140回 回答」 [ <まぐまぐ!のサイト ]


追補 「2019年4月15日より無料バックナンバーの公開を停止しております」とのことでリンク切れなので、以下に転載しておきましょう。この記事のネタである上掲の『イケムラレイコ展』については→あちらを参照 [ < 三重県立美術館のサイト ];

三重県立美術館 カルトクイズ 第140回  回答

前回の問題はこちら ⇒
 イケムラレイコ展で県民ギャラリー奥に展示されている5点のタブローは、現在の作風が確立する以前の段階をしめすとともに、同時代の新表現主義ないしニューペインティングとの共振をうかがわせるものです。
 さて、その内、向かいあわせに展示された《思考》(1985、cat.no.12)と《さかな》(1985、cat.no.13)には、スタイル以外にある共通点があります。
 それはどんなことでしょうか? ヒントは〈一対〉です。

答え ⇒ 対になるモティーフが、明暗を反転させて、左右に配されている。

 《さかな》では白い大きな魚が主役ですが、画面の上の方、左右にシャフトのような(と言っていいんでしょうか?)金具が一つずつ描かれており、しかも暗い部分と明るい部分の布置が左右で逆になっています。

 何なんだろうと思いつつ《思考》に目を移すと、人物の耳から枝が生えだしているのですが、右の枝は白っぽく、左の耳からは2本飛びでている内、下の方は暗色で描かれています。

 おやと《さかな》に目をもどせば、上のシャフトだけでなく、下の方、魚の両側に木が描かれており、右の木は暗く、左の木は明るい。そして右の暗い木のまわりは左の木と同じ薄紫で、左の薄紫の木のまわりは左の木と同じ暗色で埋められているのです。ちなみに上のシャフトと下の木では、明るい暗いが左右で逆になっています。

 そこでもう一度《思考》をふりかえると、人物の頭上に二匹の獣が浮かんでいるのですが、隣りあった二匹の内、向かって左の獣の目は明るく、右の獣の目は暗い。

 《さかな》と《思考》はともにアクリル絵具が用いられており、同じコーナーにかけられた残り3点の油彩に比べると、絵肌がやや艶消しなのも興味深いところですが、それはともかく、油彩3点でも同様の対を見出すことができます。
 《満月のミルクの井戸》(1986、cat.no.82)では、左右に配された人物の仮面のような頭部二つが、右は明るく、左は暗い(上下も逆転しています)。それに応じて、頭部をとり囲むひずんだ円のような帯が、右半分は暗く、左半分は明るいと、明るい暗いがやはり逆になっています。またこの画面では、左上の角あたりと右下の角あたりがともに、青に暗色をのせるという、同様の処理を施されています。
 《樹》(1986、cat.no.81)には二本の樹が描かれていますが、右の樹の上の方は暗く、左の樹の上の方は白を塗ってあります。
 残る《無題》(1986、cat.no.83)では、これまでの例ほどはっきりした対を認めることはできません。ただあえて言えば、中央に横たわる人物のお腹あたりから上に伸びる樹が暗いのに対し、人物の脚の間から左下に向かって斜めに白が伸びている点を、対応例と見なしてよいかどうか。

 他の作例を確認しないと、明暗を反転させた対という仕組みが、この時期のイケムラの特徴といえるかどうかは決められません。ただ、今回展示されている5点だけとっても、異なる主題の作品にくりかえし用いられている以上、何か特定の意味を担うものというよりは、画面づくりのための工夫と見なすべきでしょう。
 明暗の対比というのはルネサンス以来の伝統では、立体感を出すため肉づけに用いられますが、上の5点ではいずれも、対になるモティーフはほぼ同じ平面上に並置されており、また画面全体も奥行きのある空間を描こうとはしていません。むしろ逆に、絵の表面に貼りつくような形で二つに分かれた明と暗を左右に配することで、構図の平面性を確保しつつ、同時に揺さぶろうともしているのではないでしょうか。
 この時期のイケムラの作品は、それゆえ、勢いにまかせただけのものではなく、その勢いを活かすための工夫をこらしてもいるわけです。

 さてここからは、おなじみこじつけコーナーです。

 以降のイケムラの作品において、明暗が反転した対というモティーフは姿を消したようですが、その名残が散発的に認められはしないでしょうか。

 少なくとも今回の展示に際しては、対をなすものとして出品されたのが、《うさぎの柱 M》(1992、cat.no.98)と《うさぎの柱》(1992、cat.no.99)です。前者は第1室後半、後者は休憩ロビーと離れた位置にありながら、一直線上に並べられ、前者では兎の耳(?)が閉じており、後者では開いています。

 同じく、柳原記念館ロビーには《白い眠り》(2010、cat.no.188)と《きつねヘッド》(2010、cat.no.189)が、隣りあって展示されています。一見よく似たこの二点は、しかし、左側の前者とちがって右側の後者は、仮面のように裏側を欠いています。

 対ということですぐに思いいたるのは、第1室後半に展示された《鳥を持った二重の像》(1998/2006、cat.no.148)でしょう。ちなみにこの作品は、シャセリオーの《姉妹》(1843、ルーヴル美術館)を連想させずにいません。

 これほどはっきりしていませんが、《赤いライオンとともに横たわる》(2009-10、cat.no.186、第3室)や《真珠の女》(2010-11、cat.no.198、第4室)では、メインになる人物に寄り添う、あるいはとり憑くかのような存在が描かれています。
 142号のクイズ137回の解答で、前者についてゴーギャンの《処女性の喪失、あるいは春の目覚め》(1890-91)や《マナオ・トゥパパウ(死者の霊が見張る)》(1892)、フュスリの《夢魔》(1781/1782-91)を、後者についてゴーギャンの木彫を引きあいに出しましたが、また、モローの《聖セバスティアヌスと天使》(1876頃、岐阜県美術館、など→参考)や一連の〈キマイラ〉の図像(→参考)が思いだされもすることでした。
 モローのイメージはさらに、先ほど名前の出たシャセリオーの《エチオピア女王の宦官に洗礼を施す聖ピリポ》(1853、聖ロック教会、パリ)に由来するものと思われます。シャセリオーやモローでは聖人と天使がぴったりくっつくのですが、聖人に語りかける天使という対自体は伝統的な図像で、当館のムリーリョ《アレクサンドリアの聖カタリナ》などもその一例です
 (岐阜県美術館のモロー《聖セバスティアヌスと天使》の画像は⇒
http://www.kenbi.pref.gifu.lg.jp/page3185.php
 ムリーリョ《アレクサンドリアの聖カタリナ》の画像は⇒
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/da/shozou/detail.asp?authorname=7&prePageNum=5&mngnum=0001812 )。

 ところでモローの《聖セバスティアヌスと天使》や一連の〈キマイラ〉と記しましたが、モローにおいて〈キマイラ〉とは、欲望を象徴する誘惑者にほかならず、つまりフュスリの夢魔同様、悪しき存在なのです。ただモローの画面ではしばしば、聖者と天使、誘惑されるものとキマイラがほとんど同じような体勢で描かれます。その意味で、作者の意図にもかかわらず、そこには善悪の彼岸が胚胎していると解釈することもできるでしょう。

 話がとりとめなくなってきましたが、最後にもう一つ、とりとめもないこじつけを追加させてください。
 《鳥を持った二重の像》においても二重になった少女は一羽ずつ小鳥を抱いていますが、《二羽の鳥をかかえた黄色い服》(1996、cat.no.120、柳原記念館B室)で、首のない少女の肩にとまった小鳥は、《思考》ともども、モローの天使/キマイラを思わせます。もっともこの作品では、タイトルどおり背中にもう一羽小鳥がいるので(少女の腕も前に二つ、背に一つで計3本ある)、これを少女と鳥の対というのは無理があるのですが。

 ただこの作品を前に思いださずにいられなかったのが、『顔のない眼』というフランス映画(1959、ジョルジュ・フランジュ監督)、正確には、この映画に対する澁澤龍彦の評でした。ありがちな残酷劇というべきこの映画のラスト・シーンで、事故のため顔を失った仮面のヒロインは、小鳥たちと戯れながら歩み去っていきます。そこに澁澤は、
「…(前略)…仮面の魔力によって、人間性を脱却し、天使性に接近する」
さまを見てとったのです。
「殺人によって、彼女は完全に天使の属性を獲得する。さればこそ、物語の論理的必然によって、彼女はどうしても鳥籠の鳥を放ち、腕に鳥をとまらせなければならないのである」(「仮面について ― 現代ミステリー映画論 ―」(1961)、『澁澤龍彦集成 第Ⅶ巻』、桃源社、1970、pp.372-373)。

 はてさて、イケムラの少女たちは、どのような存在なのでしょうか?

 
 2015/8/22 以後、随時修正・追補
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