[7]<[6]<[5]<[4]<[3]<[2]<『ギュスターヴ・モロー研究序説』(1985) [1] | ||||||||||||||||||||||||
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Ⅲ. ヘレネー、生贄たちの眼その他 1.彼方への眼 i. ヘレネー 1880年のサロンに『ガラテア』(図144→こちら)とともに出品され、現在は所在がわからない『ヘレネー』(図167)は、トロイアの城壁に立ち、サロメ同様手に大きな花を持ち、「聖遺物匣のように宝石を象嵌した衣をつけて」(278)、遠くに視線を投げている。彼女の足もとには多くの目を伏せた、若い兵士たちの屍が山となっている。「地平は燐光のばらまかれ、血が縞をつける恐ろしい」(279)ものである。このヘレネー像は発表当時から、感ずることなく周囲に災いをまき散らす美しい女の典型と見られ、H.コシャンは「死を与える美、殺す愛の奇妙な寓意」(280)と、ユイスマンスは「それを意識することもなく、己れに近づくもの、あるいは己れを見るもの触れるもの全てに災いをもたらす悪しき神性のよう」(281)と述べている。またこの作品はかなり塗りの厚いもので、ルナンは、「おそらくは最後の、純粋にロマン主義的な作品である。そこにはステンドグラスの輝きが全てある:それは一気に描かれ、絵具をざっと流し、厚塗り、豊かなアクセントを豊富に与えられている:暖かい茶が、明暗のもととなって、激した交響楽の基調として仕え、隅々に霊感が詩人の心と画家の精神の内に、その作品にいつもあるとは限らない熱っぽさを吹き込む」と記している(282)。この作品の構図は、兵士たちの屍から城壁へと、階段をなして昇っていく背景にがっちりと支えられたヘレネーの垂直軸からなっており、こうした枠組みの堅固さが、サロン出品作用の公け向けの仕上げられた作品においても、筆致を自由にすることを可能にしたのだと思われる。ここでの筆致の自由さは、激しい運動感を伝えるものではなく、定められた枠組みの中に厚く絵具を盛り上げていくものであって、これはバロック的な習作の様式とは異なる、19世紀後半の絵画に特徴的なものである。このような平面としての画布の表面上における、絵具のマティエールを幾何学的な枠組みで支える、という構成はモネのルーアンのカテドラル、ロンドン、ヴェネツィアの連作にも見られ、さらにはモンドリアンの絵画にまで繋っていくものである(283)。こうした構成の基盤をなしているのは、絵画の平面化への傾向であり、モローにおいてもモネにおいても、まだ奥行きの暗示と完全な平面性の間で動揺している。 |
図167 《ヘレネー》 1880, PLM.199 278. Huysmans, L'art moderne, Paris, 1883, p.154. 279. id. 280. Laran, Deshaires, ibid., p.89. 281. Huysmans, ibid. 282. Renan, ibid., 1899, no.22, p.418. 283. W.Seitz, "Monet and abstract painting", College Art Jounal, Ⅰ, 1956, pp.36-37. 41. |
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ii. 遠くへの眼、クレオパトラ、シャセリオー ヘレネーは遠くを見やっている。このような視線の意味については、『勝利のスフィンクス』(図53→こちら)を観察した時、既に述べた(→こちら)。あるペン素描によるレプリカでは、彼女は『勝利のスフィンクス』同様、頭部をプロフィールで捉えられている。遠くへ投げられた視線は、<伏せられた眼>と同じく、別の世界へ向けられたものであると解することができる。ただこの場合、目は開いていながら、はっきりした対象を持っていないので、よりあてどのない性格が生じる。そこからその意味は、より曖昧なものになり、複雑な表情を持ちうることは、『サムソンとデリラ』の水彩画(図160→こちら)の中で、デリラの視線にも認められるところである。またあのデリラにも、勝利するスフィンクスにも微かに暗示されているように、対象をもたない視線は、あらゆる対象を見る視線、即ち神の視線へとその意味をずらし移行することができる。『ヘレネー』においても、彼女の垂直性の強調、「 |
284. Huysmans, ibid. 285. Mathieu, ibid., 1976, p.325. |
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サロメの持っていた蓮の花については、ユイスマンスが長々と論議しており(286)、いずれにせよ女の性の象徴であると解されている(287)。ヘレネーの持っている花が蓮かどうかは定かではないが、同じようなニュアンスを担わせられて描かれていると思われる。やはり花を手にし、遠くを見ている女性像に、1887年の頃の水彩『クレオパトラ』(図168)がある。ヘレネーの花もやや曲線を描いているが、ここでの花はクレオパトラの視線の案内を務めるかのように、長くうねっている。クレオパトラもガラテア同様、腕をからだの脇にのけている。『岩の上のサッフォー』(図39→こちら)のからだを横切る腕は、<伏せられた眼>と同値だったのである。ここでも胸の膨らみは目立たず、腰のくびれは全く見られない。画面全体の濃い色調の中で、裸身の白さだけが目立っている。胸の目立たない、腰の豊かな、ここでは足が一方しか描かれない、先細りの裸体は、ケネス・クラークの言う<もう一つの流れ>、ゴティック的裸体を思わせる(288)。これはモローの人体把握の観念性を示すとともに、『オルフェウス』水彩(図132→こちら)などに見られた人体の単純化とも合わせて、対象の再現性から画面の平面性へ、という19世紀の絵画の流れの反映でもある。 |
286. Huysmans, ibid., 1884, pp.118-119. 287. Kaplan, ibid, 1982, p.65. 図168 《クレオパトラ》 1887頃、PLM.351 288. ケネス・クラーク『ザ・ヌード』高階秀爾・佐々木英也訳、美術出版社、1971、8章。 |
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遠くへ投げられた、対象を持たない視線のモティーフの形成に大きな影響を与えたものとしては、またしてもシャセリオーの女性像が考えられる。例えば、『エステルの化粧』(図169)では、豪奢な色彩、浅い空間を埋める量感の強い身体の停止された動きが暗示する心理的な波立ちを、エステルの大きな目が投げる視線が集約している。この視線の持つ表情についてはシャセリオーは、サンドスの挙げるルーベンスの『ウェヌスの化粧』(289)(→こちらを参照)とともに、背後の縫取りのある豪華なクッションが示すように、レンブラントの『バテシバ』から学んだものと思われる。大きな目というものは、ここでエステルが高く持ち上げている柔らかな髪の表現とともに、未成熟なものへの暗示を含み、ある様式が古典的な理想性に達した時期、例えば古典期ギリシャなどよりも、そうした様式が出現してくる時期、例えばアルカイック期のギリシャや、その様式が崩壊していく時期、例えばローマ時代などにしばしば現われる。いずれの場合も高踏的貴族的な様式よりも、大衆的な様式との接触が考えられるが、様式の出現期のそれは人間と聖なるものとの距離がより近いことを、崩壊期のそれは不安定な状況に投げ出された人間の感情を暗示している。もちろん自分の立つ地盤がぐらぐらしていることを感じた人間は、力のあるものに頼ろうとするもので、ここからローマの美術は初期中世のそれへと繋って行き、新しいサイクルが始まる。非常に乱暴な図式化であるが、シャセリオーの、特に前期における大きな目と視線の担う感情は、このような崩壊期、即ち19世紀の状況を反映していると思われる。勿論、異郷に生まれたという彼の個人的な経歴も関係しているであろう。 | 図169 シャセリオー《エステルの化粧》 1841、S.89 289. Sandoz, ibid., p.188. |
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シャセリオーの『エステル』と直接関係づけられるのではないかと思われる作品に、87年の水彩『夕べ』がある(図170)。首のひねり具合い、画面に対する視線の方向、大きな目は全く同じである。視線にこめられた感情もほぼ同じであろう。ただ、シャセリオーでは画面を大きく占めていた人物が、モローでは小さく奥へ退いている。それに伴って、三日月の見える夜、山を控えた湖、高く昇る木などが形作る風景と人物は一つになり、画面全体を遠い世界のものとする。これはシャセリオーにおいても窺うことのできた平面化の傾向が一層進捗したことの現われである。シャセリオーにおいては、画面の空間は浅いものが多い。ただそこに量感のある人物を大きく配するのである。これがモロー、同じくシャセリオーに大きな影響を受けたピュヴィスになると、画面の空間は広くなるが、人物は小さく、平板なものとなり、画面全体の平面性が強くなる。 さらにモローにおける遠くへ投げられた視線のモティーフは、『勝利のスフィンクス』(図53)や『クレオパトラ』(図168)におけるように、プロフィールとともに現われることがしばしばである。『ヘレネー』(図167)の頭部は四分の三観で示されているが、彼女はエステルほど目の大きくない、メディア(図152→こちら)以来の冷たい顔立ちで、先に述べた垂直の柱のような形態とともに、人間的な表情は感じさせない。このようにシャセリオーから得られた遠くへ投げられた視線のモティーフは、モローにおいては一般に、より抽象的な、遠さを感じさせる、非人間的なものになる。 |
図170 《夕べ》 1887、PLM.353 |
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2.生贄たちの眼 モローの『ヘレネー』(図167)はある意味で、ドラクロワの『サルダナパールの死』と対をなすものである。ドラクロワのサルダナパールもまた、ヘレネー同様の冷たい表情で、自分に仕えてきた者たちが殺されて積み重なっていくのを眺めている。しかしその差は、単に<宿命の男>から<宿命の女>へと性が変わり、それにつれて犠牲者たちが女から男に変わったに留まらず(290)、プラーツによれば、ドラクロワは「火のようで劇的」なのに対してモローは「冷たく静的である。前者は動作を描き、後者は姿態を描く」。ドラクロワは「ロマン主義とその狂熱的な行動の、モローはデカダンスとその不毛な瞑想の時代の代弁者」である(291)。しかし、その「題材は殆んど同じである - 官能的で、血みどろの異国趣味だ」(292)。 『ヘレネー』において内容上、また構図上重要な役割りを果たしている、ヘレネーの足もとに積み重なる死骸の山も、ロマン派に由来するものである。それらはここで、垂直性、直線の強い画面の上部三分の二に対して、斜線と曲線から構成されて均衡をとっている。楯や冠、帽子が多くの円を描いている。彼らの顔立ちは単純化され、目を閉じたその表情は何ら苦痛の跡を留めていない。ここにいるのは戦士だけでなく、竪琴を持った詩人もいる。 屍の山のモティーフは、ローマの石棺彫刻に見られる戦闘図、トラヤヌス帝記念柱やマルクス・アウレリウス帝記念柱の浮彫り、さらにはペルガモンの大祭壇フリーズなどに遡ることのできるものだが、ロマン派においては特に、グロのナポレオンのための大画面が劈頭をなした。以後ジェリコの『メデューズ号』をはじめとして、ドラクロワ、シャセリオーなどの画面にこのモティーフはしばしば現われる。新古典派アングルの『オイディプスとスフィンクス』(図2→こちら)にもそれが現われていた。このモティーフが元来含んでいる残酷、流血事への暗示が、ロマン派では一層強調される。ジャン・クレイは、そのために作品の持つ英雄的性格が挑戦され、構図が脱中心化されるとまで言う(293)。この英雄的性格も当然重要であって、地面に水平に横たわる多くの犠牲を踏まえて、垂直に高く立つ< |
290. Praz, ibid., p.312. 291. id., p.303. 292. id. 293. Clay, ibid., p.286. |
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モローは1850年頃着手された『うつぼに投げ与えられる奴隷たち』(MGM.201)でも残酷趣味の濃厚な場面を扱っているが、累々と重なる死骸の描写を最初に大きく取り上げたのは、52年に着手され未完に終わった『求婚者たち』(MGM.19→こちら)であろう。この作品の構想はマテューが指摘するようにクテュールの『頽廃のローマ人』に発したものだが(294)、シャセリオーの『ガリア人の防禦』(1855/S.252→こちら)から借りられたと思われるオデュッセウスの矢を射る姿は(→こちら)、画面遥か奥に小さく描かれており、画面の主要部分は倒れた、あるいは逃げまどう求婚者たちによって占められている。この作品は後に拡張されたものだが、元からあった中央部分に既に、人物像がひしめいており、死んだ者も少なくない。中央の詩人の左上には、ミケランジェロの『瀕死の奴隷』(→こちら)によった人物とともに、システィナ天井画の『楽園追放』のエヴァから得られ、後にモローが何度か用いることになるポーズの人物が見られる(294b)。このモティーフの存在は、ピカールが『テスピウスの娘たち』(MGM.25)におけるシスティナ天井画から得られたモティーフの存在と、作品の制作過程の年代、即ちイタリア旅行以前か以後か、後に加えられたのか、という問題を指摘したのと(註256を見よ→こちら)、同じ問題をこの作品についてもひき起こす。 | 294. Mathieu, ibid., 1976, p.47. 294b. ライモンディの『嬰児虐殺』によるのかも知れぬ、ならば続く文章は無効になるだろう。 |
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イタリアでモローが模写したカルパッチオの『聖ゲオルギウス』(MGM.195)の地面に散らばる屍の描写が、『オイディプスとスフィンクス』(図1→こちら)のそれに強い影響を及ぼした、とマテューが指摘していることは既に触れた(補図1-2)。もっともカルパッチオのそれほど、グロテスクな描写は『オイディプスとスフィンクス』には見られず、その点では『ヒュドラ』のサロン出品作(図6→こちら)が近い(補図6)。この作品では屍が文字通り山のように積み重ねられ、それが暗がりの中に浸されているので、一層物恐ろし気な雰囲気が強い。ここに重なる屍については、キャプランが身元調査をしているので、それを引いておこう(295):前景の最も目立った犠牲者は、プッサンの『エコーとナルキッソス』、近いところではドガの『オルレアンの災厄』から、右下で岩を掴み噛みつく血まみれの人物はドラクロワの『ダンテの小舟』、左下隅のつっ伏した人物はグロの『ヤファ』の右下の人物、ヒュドラの右の水平の裸体はドラクロワの『キオス島』の中央の男、ヒュドラの左の腕を下に垂らした男はジェリコの『メデューズ号』の樽の前の黒人、この人物はまた、これは確かめられなかったのだが、18世紀、ドワイヤンのある作品の人物にも似ているという。この他にも、ヒュドラの真下にある首などは、カルパッチオの作品に想を得たのかもしれない。 | 補図1-2 図1の細部 補図6 図6の細部 →こちら( 『A-ko The ヴァーサス』(1990)のメモの頁)でも触れました 295. Kaplan, ibid., 1982, p.69. |
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この他『ディオメデス』(図285→こちら)にも屍や髑髏が転がっており、スフィンクスの連作でも屍の数が増加する。『庭園のサロメ』(図119→こちら)ではヨハネの首の無い亡骸が横たわる。オルフェウスやヨハネの首もこれに加えることができよう。<切られた首>の主題に関して、高階秀爾氏はその背景として、ロマン主義における<断片の美学>を考えている(296)。即ち、古典主義美学における人間の身体の理想に対して、ロマン派は切断された身体の一部の持つ強い効果を発見したのだという。 |
296. 高階秀爾「切られた首」、ibid., pp.315-316. |
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『神秘の花』(図171)は1890年頃の制作になる作品で、遥か遠方にまで拡がっていく風景 - ホーフシュテッターは<世界風景>と呼ぶ(297)。岩山と巨大な湖からなり、『キマイラたち』(図202→こちら)と同じ岩山の中に開いた町らしきものが見える - と晴れ渡った空の中に、巨大な百合の花が花開き、花びらの中に十字架を持った聖母が坐り、その上には聖霊の鳩が飛んでいる。花の根もとには、地面と一つであるかのように、粗い筆致で描かれた、殉教者たちがいる。彼らは目鼻立ちも描かれず、光輪だけが大きな目であるかのように増殖している。右の方には木に繋がれた聖セバスティアヌスの裸身が見える。中央右寄りで緑の衣、尻を落とし、首を上げているのは『十字架とマグダレーナ』(図336→こちら)に現われるマグダラのマリアであろう。これらの聖者たちと聖母の間を、茎をつたう赤い血が結んでいる。モローは語る(298)、 「巨大な百合の花冠が、聖処女の姿の玉座として仕える。 彼女のために死んだ全ての殉教者は、その血でこの神秘の花、純潔の象徴、を潤す」。 この構図のための水彩には、「理想の花 - カトリック教会」と記されている( 299)。 |
図171 《神秘の花》 MGM.37 297. Hofstätter, ibid., p.39. 298. MGM.37. 299. MGMd.974. |
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この聖母の堅い無表情な顔が、ヘレネーのそれであることは繰り返し述べられてきた(300)。彼女はヘレネー、さらにサロメ、クレオパトラと同じように白い花、百合であろう、を持っている。これが単なる画家の不手際-実際この作品はあまりできの良いものではなく、その点では水彩のヴァージョンの方が生き生きしている-によるものではなく、ある程度意図的なものであることは、聖母は殉教者たち、即ち<詩人>たちの血に相応しい美の典型でなければならず、モローにとって美の典型とはヘレネーの姿によって表わされるようなものであった、と考えることによって推察される。この点でヘレネーから聖処女への移行を促すきっかけになったと思われるのが、モローが80年頃制作した『聖ヘレネー』を描いた水彩である(図172)。この作品はごく普通の聖人像で、同様のものをアングルも描いている。このアングルの聖ヘレネー像(ルーヴル)については、その衣裳の豪華さの点でモローの先駆であるという研究者もいるそうだが(301)、右手に彼女の属性である十字架を持ち、左手にはキリストの頭部を表わしたメダイヨンを抱えている。ライモンディの聖ヘレネーは右手に十字架を持ち、左手は衣の裾を掴んでいる。モローの聖ヘレネーは右手に十字架と花を重ね持ち、左手にも、純潔の百合であろう、白い花を持っているが、これは聖ヘレネーの伝統的な属性ではないらしい(302)。それ故、モローが聖ヘレネーを描くにあたって、ちょうど同じ頃制作していた『ヘレネー』と、<ヘレネー>という同じ名が結びついて、その意味づけは同じではないにしても、ヘレネーが手に持っていた花を、聖ヘレネーにも勝手に持たせたものと考えることができる。さらにヘレネーと聖ヘレネーは、ポーズも画面に対して立つ角度も殆んど同じである。そして後に『神秘の花』を描く時、聖処女に教会を象徴する十字架を持たせるに際して、十字架を属性とする聖ヘレネーに関して、自分が以前描いた図像を参照し、聖ヘレネーに持たせた花を聖処女にも持たせたのである。百合は聖処女の伝統的な属性であったのだから、不都合はなかった。そして『ヘレネー』の、屍の山を足下にする美しい女、という構図もその内容ともども、『神秘の花』をそのヴァリエイションとする元型として、ここに反映したのであろう。『ヘレネー』の犠牲者たちが、安らかな、満足そうな表情をしていたことが思い出される。このようにして聖母マリアは、「あらゆる犠牲に価する美」(303)となり、マリアの側からすれば、彼女は犠牲者たちの血によって養われていることになる。即ち聖母マリアが<宿命の女>となるのである。さらに彼女が天を仰いでいるのではなく、絵を見る者の方を見つめていることは、彼女が人間ではなく、天にいる女神であることを示している。ヘレネー-マリアの変貌の過程の中で、<宿命の女>が神格化される例は、後にも見ることになるだろう。 ロマン派における屍の山のモティーフの展開の中で、<英雄>の主題が徐々に後退する傾向があったことは既に述べたが、その後に残った暗黒趣味から出発して、モローにおいて再び屍の山の上に聳え立つものが現われてくる。しかしそれはもはや人間の世界のために活動する<英雄>ではなく、自分がひき起こしたことにも関心なげな<宿命の女>であり、その存在の無目的な性格によって彼女は美の象徴、神にまで至る。一方犠牲者たちも、その死が何事か未来に貢献するのではなく、ただ彼女がそこにいる、というそのことだけのために、代償も求めずに死んでいく。 |
300. Holten, ibid., 1965, p.96. Hahlbrock, ibid., p.141. 図172 《聖ヘレネー》 1882、PLM.190 301. E.Camesasca, Tout l'œuvre peint d'Ingres, Paris, 1971, pp.110-111. 302. Réau, ibid., Ⅱ, G-O, pp.633-636. 303. Holten, ibid., 1965, p.96. |
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谷崎潤一郎の『刺青』の中に「肥料」という絵のことが語られている、「画面の中央に、若い女が桜の幹へ身を倚せて、足下に累々と れている多くの男たちの屍骸を見つめている。女の身辺を舞いつつ凱歌をうたう小鳥の群れ、女の瞳に溢れたる抑え難き誇りと歓びの色」。しかしこれはモローよりもフェリシアン・ロップスに似つかわしい。むしろ、美と屍、それを結ぶ植物、そして花という点で、梶井基次郎の「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」という幻視を思い出そう。 |
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ホーフシュテッターは『神秘の花』と『ヒュドラ』の構図、細部の類似を指摘している(304)。この点では、サロン出品作以上に、ヘラクレスの姿が消え、ヒュドラが黒い柱のように聳え立っている油彩習作(図8)がより近い。一方『神秘の花』自身も、幾つかの構想に展開していくのだが、その一つに最晩年、97年頃制作された未完の『アルゴナウタイの帰還』(図173)がある。これは船の軸に、女性的な青年たちの裸身をピラミッド状に積み上げたもので、モローはここで「ギリシャの英雄的な青春」の「夢の鎮静、そこから僅かな重々しさ、和らげられたメランコリー、まどろんだ陶酔」(305)を描こうとした。現在残されている画面は、未完成ということもあるかも知れないが、目を覆わせるような衰退ぶりを示しており、そのことが却ってこの作品を興味深いものにしているくらいである。青年たちの白い裸身はどう見ても生きているものには見えないが、この構図が『神秘の花』の下部を展開させたものであることを思えば、納得がゆく-彼らは屍なのである。これは決してこじつけではない。先に触れたように、モローは彼らを鎮静、メランコリー、まどろみの状態において構想していた。これは<伏せた眼>に関連していることを意味している。肉体はこの世に残された抜け殻にすぎない。そして眠りと死は言うまでもなく近縁したものである。このような思考が無意識にもせよ、脳裡にあったが故に、モローはアルゴ号の乗組員たちをあのように生気のないものに描かざるをえなかったのであろう。 例によってこの構想についても、油彩の大作よりも小品や水彩の方が自由である。しかし最も興味深いのは、モローの12点の彫刻(306)中のこの主題にあてられた一点であろう(図174)。「何よりも生命感と形態の豊かさが関心を惹く」(307)この作品は、多人数の群像を丸彫りにするという制約から、必然的に底の広さに対して高さは油彩に比して低くなり、また細部に注意しすぎて土台から遊離しないよう注意しなければならない。もとよりサイズの小ささということもある。であるにしても、不定形の混沌が形をとろうとうごめいているかのようなさまは、油彩大作の生気の無さと著しい対照をなしている。この彫刻は絵画の構図以上に、『神秘の花』の下部に近いが、そこでも聖母の細密な仕上げ、風景の粗っぽさに対して、絵肌のかすれたようなマティエール、褐色の調子、多くの光輪の円形などが、単に死体の山に留まらぬ、そこから植物が生い育ち、花開くような肥沃な土壌を表わしていた。『アルゴナウタイ』彫刻と『神秘の花』の下部においては、モローはより、手の自律的な動き、即ち造形家としての主体性に身を委ねていた。『アルゴナウタイ』大画面と『神秘の花』の上部においては、モローはより、理性の働きに手を従属させ、描かれる対象は描かれるべき対象として、モローという主体からは分離された客体となってしまう。この客体としての性格は、彼ら描かれた対象のこちらを見る目と視線に表わされている。 |
304. Hofstätter, ibid., p.39. 図173 《アルゴナウタイの帰還》 1897, MGM.20 305. MGM.20. 306. Holten, ibid., 1965, pp.111-120. 図174 《アルゴナウタイ》 MGM. 307. id., p.119. |
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