[2] < 『ギュスターヴ・モロー研究序説』(1985) [1] | ||||||||||||||||||||||||
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2.対峙する眼 i. ヘラクレスとヒュドラ、出現 ギュスターヴ・モローは1826年に生まれ、1898年に72才で没した。彼はその生涯において、間を置いて三期間サロンに出品しており、これを目安にその画業の展開を三ないし四期に分かつことができる。初期は1857年のイタリア旅行までで、この間1852年から55年までサロンに出品している。二年間のイタリア旅行の後しばらく間を置いて、次に1864年から69年までサロンに出品する。これを中期とし、76年から80年までのサロン出品を中心に後期とする。80年を最後にサロンへの出品を止め、以後作品を公けにしたのは、81年と86年のラ・フォンテーヌの寓話への挿絵を中心にした水彩展のみで、この時期から没するまでを晩年期とすることができよう。 初期の作品は、ドラクロワの影響を受けた動きの激しい構図に、シャセリオー風の量感豊かな人体を配したロマン派色の濃いもの(図159→こちら:《雅歌》(1853)の頁)から、プッサンの影響の強い古典主義的、というよりはアカデミックな作品へと、徐々に移って行く。 中期の作品は、『オイディプスとスフィンクス』(図1→こちら:当該作品の頁)に見られるように、縦長の構図に大きく一人か二人の人物を配したものが多い。人体は筆の跡を見せぬ、丁寧な仕上げを示し、背景はより絵画的な技法で描かれた、レオナルド風の架空の岩山である。構図はしばしば動きのない、凍結したもので、そこから単なる場面の記述以上の、文学的な暗示を抽き出そうとする。 |
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『ヘラクレスとレルネー沼のヒュドラ』(図6)は、1876年のサロンに出品した作品の一つで、後期に属している。この作品は荒涼とした岩山を背景にして、英雄と怪物が対峙しているさまを描いており、前景には怪物の犠牲者の死骸が散らばっている。この点明らかに『オイディプスとスフィンクス』の主なモティーフを展開させたものと見なすことができ、怪物から人間的な要素を取り去り、屍の数をずっと増やすなど、前作にあった物恐ろし気な雰囲気を強調している。この作品を前作と比較することによって、中期から後期への様式の展開を捉えることができる。まず、人物が小さくなり、風景の占める比重がずっと大きくなる。そして画面全体を統一された光に浸し、人物はその光に溶け込む。この光の描写はレンブラントに学んだものであろう。背景の岩山と空気の描写もずっと微妙になっている。このようにして、抽象的な観念を図式的に押しつけようとするよりも、画面の暗示的性格が強くなる。色彩の発言力も強くなり、この画面では特に、闇の中から湧き出す濃い赤が強いアクセントを担っている。 | 図6 《ヘラクレスとレルネー沼のヒュドラ》 1876、PLM.152 |
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このように画面の統一性はずっと強化されたにもかかわらず、作品の持つ緊張感が前作に比して弱まり、中途半端な印象が生じてくる。これはひとえに、対峙する視線の力が弱まったことに由来している。 先に触れた恐ろしさの強調、即ち怪物から人間の頭部を奪うことによって、オイディプスとスフィンクスの間の心理的交流、男と女の視線の多義的なニュアンスが削がれ、視線の意味が単純な力関係に還元されてしまう。そして両者の距離が拡げられることによって、視線の結合力はさらに弱くなる。両者は離れたので、それぞれ地面に立つ。前作ではスフィンクスがオイディプスの胸に飛びつくという不安定な姿勢が、視線の緊張を保証していた。それがここではなくなるのみならず、構図そのものも中途半端なものになってしまう。即ち、両者を独立して地面に立ち、しかも対峙するものとして描くために、画面の横幅が拡張するが、全体としては縦長の画面に留まっている。縦長の構図に、対等な力を持つ二本の垂直軸は多過ぎるのだ。すっきりした構図を作るには、軸を一本にするか、画面を横長のものにしなければならないであろう。そしてそのような構図を、モローは構図を模索する段階で既に見出していたのである。 |
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アカデミスムの伝統に忠実に、モローはある作品を制作するにあたって、まずざっと素描で大まかな構図を色々と試す。こうした粗描きに基づいて、あるいは平行して水彩か油彩で、あるいはその双方で色彩の配置を研究する。モローの場合他の伝統主義者に比して、色彩の役割りを重視しており、後にルオーに向かって色彩教育の重要性を説いている(54)。こうして構図が定まると、細部をモデルに従って研究し、それから最終的な習作、完成作へと進む。モローはこうした準備段階に非常な手間をかけ、多くの習作を産み、長い期間を費やす、その挙句に結局完成されずに終わるということも珍しくない。『ヒュドラ』も非常に多くの習作を残した、モローが力を込めて制作した作品で、完成作も丁寧に仕上げられている。図7 は制作の初期に属するものと思われ、なぐり描きに近いが、線を用いず木炭を擦りつけるようにして、明暗の調子を探っている。ヘラクレスの姿は殆んど見えず、黒い柱のようなヒュドラが、右側のポイントをなしている。図8 はこうした素描から発展した油彩習作で、絵具をこてで抑えつけてできたような面で構成された風景に、ヒュドラをかなり中央に近づけている。ヘラクレスの姿は全く見えず、ヒュドラはふくらみの無い、細く高い柱のように構図を支配している。構図上完成作よりもこの習作の方が遥かに統一性が高く、屍などの細部が見分けられないにもかかわらず、禍々しい雰囲気をより集中的に発している。今の作は縦長の構図で垂直軸を一本にした例だが、横長の構図の例も見出される。図9 はこれも走り描きに近い鉛筆素描だが、かなり速度のある筆を、濃いものと薄いものと二本使い分け、空間の感覚を出している。筆のスピードによって、ヘラクレスとヒュドラの間にも強い動きの交流が生じる。距離の大きさを補うかのように、ヘラクレスは左腕で、ヒュドラを指す。腕の方向性が暗示する力の大きさを支えるべく、上げられた右腿が腕に平行し、ヘラクレスの背をもう一人の人物が支える。この人物はヒュドラ退治に際して重要な役割りを果たした、従者のイオラーオスだと思われるが、完成作ではヘラクレスの垂直性、ひいては英雄性を強調するため省かれた。この素描では、構図全体が強い運動感を孕んでおり、完成作の中途半端な対峙より遥かに自然である。しかしこうした運動感、即ち対立する両者を結びつける要素は、観念的な対立、むしろ対立の観念を強調するため捨てられた。 | 54. ジョルジュ・ルオー『回想』武者小路實光訳、河出書房、1963, p.38(仏語 原文は、Mathieu, ibid., pp.221-222)。 図7 《ヒュドラ》 MGMd.2097 図8 《ヒュドラ》 MGM.190 図9 《ヒュドラ》 MGMd.2098 |
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横長の構図はしかし、おそらくは完成作以後に、何度か取り上げられた。その一つが図10で、愛人のアデライード・アレクサンドリーヌ・デュルーに与えられた水彩の一つである(55)。<デュルー・コレクション>なるものは、サロン出品用の大作ほど事細かではない、しかし明らかに単なる習作でもない、ある段階の<完成作品>を集めており、またそのことが、しばしば女性嫌いと見なされ、事実そのような発言も残しているモローの、この女性に対する気持ちを反映していると見なすことのできる点など、非常に興味深いものである。さて件の『ヒュドラ』は、横長の構図に、図9 に見られたと同じ運動感を有している。ヘラクレス、ヒュドラ双方の描写がデクの棒と言ってよいものであることもあまり気にならない。先の素描より風景の比重が大きくなり、明るい部分が拡がって、サロン出品作ほど重苦しくならず、殆んど牧歌的な雰囲気を作り出しており、それが両者の戦いに微妙なニュアンスを与えている。ここではヘラクレスもヒュドラも前に動き出しており、しかも未だかなり距たりがあって触れ合っていないことが、静かな風景と呼応して、サロン出品作のような対立の図式ではなく、運命的な時間の印象を生み出している。 | 図10 《ヒュドラ》 1876-80頃、MGM.inv.15506 55. Mathieu, "Gustave Moreau amoureux", L'Œil, no.224, 1974.3. 同、ibid., pp.157-165. 同、Gustave Moreau. Aquarelle, Fribourg, 1984, pp.88-92. を参照のこと。 |
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モローはこのように、かつて取り上げた主題を再度扱うに際して、構図を模索していた段階での、最終的に採用されなかった構想を用いることがある。この場合の構想は、構図が担わされて硬直する以前の、より自由なものであることが多く、さらに再制作の気楽さも、仕上げをより自由にする。モローも19世紀に多く見られる、仕上げの手間が制作の息吹きを窒息させてしまう画家の一人なのである。この点から逆にマテューは、モロー美術館にみられる自由な習作が実は、未来の美術館のための、一旦完成された作品のレプリカではないかという疑問を提出している(56)。 図11の構図はサロン出品作と一致し、おそらくは制作の最終段階で、光と影の関係を定めるために描かれたものと思われる。ここでは大凡の配置を定めた後、ペンをまず水平に、次いで垂直に素早く走らせたのであろう。ただその筆の動きは、モローが当初考えていた以上に、自律的に走り回って、画面を覆い尽くしてしまったのだと思われる。 |
56. Mathieu, ibid., 1984, p.76. 図11 《ヒュドラ》 MGMd.791 |
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『出現』(図101)は『ヒュドラ』と同じ1876年のサロンに出品された水彩画で、やはり対峙する視線を構図の中心に置き、そして『ヒュドラ』と同様の構図の中途半端さを見て取ることができる。ただこの作品では、対立の一方を担うヨハネが首のみで宙に浮き上がっていること、それに対しサロメが驚怖の身振りで身をのけぞらせ、左手をヨハネの首の方に差し伸ばしていること、ヘロデ、ヘロデア、楽師、刑吏らの視線が行き交じって、サロメの視線の補強をしていることなどが、構図を『ヒュドラ』より一貫したものにしようとしている。ところが他方、その分画面が『ヒュドラ』より縦長になり、主要人物二人が『オイディプスとスフィンクス』や『ヒュドラ』のように、最前景の岩や茂みによって、画面からはっきり一段奥まった平面に属するのではなく、より手前に出てきているため、せっかくの他の人物たちの支援から切り離され、そして何よりも、オイディプスとスフィンクスのように互いに不安定さをかばい合うことなく、サロメのみが不安定な、激しい演劇的な身振りで凍結されていることが、結局構図を中途半端なものに留めている。 | 図101 《出現》 PLM.159 |
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ところでこの作品では、視線の意味が変わってしまっている。『オイディプスとスフィンクス』においても、『ヒュドラ』においても、多少の差はあるにせよ、対峙する両者は同じレベルにあった。それがここでは、明らかにヨハネの視線の方が圧倒的に強く、サロメは首を縮めるようにして、辛うじて持ちこたえている。ヨハネの首は人間の、地上の世界に属するものではなく、絶対者であり、聖なるものである。その意味で、彼は地上から浮き上がったのではない。サロメの腕の差す方向から降ってきた、否むしろ、その場に、別の世界から顕現したのである。『オイディプスとスフィンクス』とその註釈を比較した際見たように、モローの絵画表現においては、上昇のヴィジョンよりも、下降のヴィジョンの方が力が強い。 | ||||||||||||||||||||||||
ハンス・H.ホーフシュテッターは、『オイディプスとスフィンクス』について、アングルにおいては手の仕種が描写の核であるのに対し、モローにおいては視線の混交が中心になると述べているが(57)、『出現』において再び、少なくともサロメに関しては、視線以上に伸ばした腕が重要である。この腕は一方で、怖れの、遮ろうとする身振りを表わしているが、同時に、サロメとヨハネの首との仲介者としての、両義的なニュアンスを持っている。この点で思い出されるのは、レニングラードにあるレンブラントの『ダナエ』(図104)であろう。出現するものがこの世ならぬものであるという主題も一致する。ただモローがこの作品を知っていたかどうか、定かではない。直接には、システィナ礼拝堂の、ミケランジェロの『アダム創造』のアダムの身振りか、あるいはシャセリオーの『マゼッパ』(図103)に示唆されたのであろう(57b)。 ところでユイスマンス以来、ヨハネの首の出現を目にしているのはサロメのみである、という解釈(58)が受け入れられている。このことはしかし、必ずしも明快ではない。と言うのは、先にも述べたように、サロメとヨハネの首の対峙は、他の人物たちの視線によって、構図上支えを得ている。特にヘロデとヘロデアは、少なくとも首だけは、ヨハネの首の方に上げている。ところが他方、サロメとヨハネの首は、『オイディプスとスフィンクス』や『ヒュドラ』のように、一段岩や茂みを置いた、その次の面に配されているのではなく、最前景に出てきている。 さらに、この二人に対して、他の人物たちは明るさをはっきり減じられている。しかも背景が無限に後退しうる野外の風景ではなく、閉じられた室内なので、全体の平面性が強められる。この平面性、それが画面の属する平面だけでなく、そのもう一つ奥の面と二つに分かれること、これが構図の曖昧さの因の一つでもあるのだが、このために前景の二人と他の人物たちが分離され、ヨハネの首を見ているのがサロメのみであるという解釈を助けることになる。結局画面のみからは、はっきりした解答は抽き出せないのだが、この解釈が疑問の余地なきものではない、ということだけ述べておこう。 |
57. H.H.Hofstätter, Gustave Moreau. Leben und Werk, Köln, 1978, p.70. 図103 シャセリオー《マゼッパ》 1851、S.131 57b. 58. J.-K.Huysmans, À rebours, 1884, (À rebours: Le dragoir aux épices, Paris, 1975), p.120. |
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『オイディプスとスフィンクス』、『ヒュドラ』、『出現』とその意味は同じではないものの、対峙する視線のモティーフは、作品の構図及び内容に対して、重要な役割りを果たしてきた。『オイディプスとスフィンクス』以前にもこのモティーフは、ドカズヴィルの教会のための『十字架の道』連作において、この多分に粗放な画面群を、多少とも興味あるものにしている(図176→こちら:《十字架の道》より《第4の留》(1862)の頁)。 このモティーフの特徴の一つは、視線が画面内の人物二人によって交わされ、しかもモローの場合、この二人は画面に対して奥行き方向に配されるのではなく、画面と平行に配されるので、交わされる視線も画面と平行に走り、画面から観る者の方へ出てくることのない、いわば閉ざされた、それだけで完結した世界に画面をしてしまうということであり、また画面の平面性を強めることにもなる。 この対峙する眼のモティーフを形成するにあたって、重要な影響を及ぼしたのは、シャセリオーの『アポロンとダフネ』(図12)であると思われる。 |
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ii. シャセリオー、線と色彩 こうしたシャセリオーの仕事の内、とりわけモローに影響を与えたのは、その女性像であろう。彼女らは豪奢な装飾を傍らに並べ、豊かな肉体を動かすでもなく、けだるげに物思いに耽っている。装飾の豪華、美の典型としての女体、その内省的性格はそのままモローの女性像にも見出される。ただし、モローにあっては、装飾が遥かに増殖する。シャセリオーにあっては豊かな量感を強調していた形態の単純化は、モローにおいては人体を貧弱な、観念的なものにしてしまい、画面全体の平面の内に溶け込む。シャセリオーの画面の持つ暖かさは、冷たい、よそよそしいものとなる。 さらに、線と色彩の綜合というシャセリオーの課題も、モローは受け継ぐことになる。モローの後期以降の、画面の奥から湧き出し、画面全体を浸すような、レンブラント風の光によるこの問題の解決は、シャセリオー後期の歩みを忠実になぞるものであろう。ただ、モローはシャセリオーより動揺の振幅がずっと大きく、最終的には細部まで精緻に仕上げられた作品と、遥かに自由で粗放なでき上がりの作品とに分裂してしまうことになる。そもそもこの線と色彩の対立は、15、6世紀におけるフィレンツェ派とヴェネツィア派の対置、17世紀におけるプッサン派とルーベンス派の対立などに見られるように、完成-未完成の問題とも絡まり合いながら、西欧近世絵画を動かしてきた重要な因子の一つであったが、19世紀において、先に完成作-習作の問題に関して述べたのと同じ理由で、強く活性化したのである。後のドガ、ルノワール、ゴーギャン、スーラといった画家たちの努力も、この問題を少なくとも一つの軸として展開したと捉えることができよう。20世紀のフォーヴとキュビスム、抒情的抽象と幾何学的抽象の対置、またしかりである。 |
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iii. アポロンとダフネ、詩人と宿命の女 シャセリオーの『アポロンとダフネ』(図12)は、1846年のアルジェリア旅行の少し前に完成したと思われ(59)、前期の様式から後期の様式への移り目に位置している。この作品では、主要人物二人は安定したピラミッドを形成し、構図はモニュマンタルなまとまりを示している。ピラミッドを構成しているのは、二人の人物のやりとりである。ダフネのポーズは全体として、先尖りの三角形を成しているが、これを曲げられた左腕と伏せられた顔が、上から下へ、と方向づけている。この方向性が、アポロンの下から見上げる、懇願の身振りとぶつかり、ダフネのアポロンに対する圧倒的な優位を示す。さらに伏せられた目は、ダフネがそのことを意識していることを感じさせ、ダフネに<宿命の女>的な性格を与えている。色彩と筆致は熱気を示し、アポロンの光輪やダフネの真横に流れる髪が、何かこの世ならぬ異変の起こっていることを示している。ヴァルベール・シュヴィヤールは述べる(60)、「アポロンとダフネは消え、寓意が立ち上がる…(中略)…永遠に逃れ去り、把え得ぬ…(中略)…理想を追う芸術家の姿が見えよう」。ヒュー・オーナーが指摘するように(61)、ここには「何か宗教的なものが暗示されている」。シャセリオーの以前の女性像の持つノスタルジックな雰囲気が、多分にシャセリオー自身の感情が移入され、彼の感情を反映していたのに対し、ここでは、構図のモニュマンタリテが導入されることによって、シャセリオー自身であるところの男、芸術家と、その視線の対象、客体である女とに、図式的に分裂してしまったのである。このような<宿命の女>と<詩人>の図式、それにまつわる非日常的な雰囲気が、モローに決定的な影響を与えたと思われる。 |
図12 シャセリオー《アポロンとダフネ》 1845、S.99 59. M.Sandoz, Théodore Chassériau, 1819-1856. Catalogue raisonné des peinture et estampes, Paris, 1974, p.210. 60. V.Chevillard, Un peintre romantique. Théodore Chassériau, Paris, 1893, p.87. 61. H.Honour, Romanticism, New York, 1979, p.308. |
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モローの扱う主題の分類に当たって、最も一般的なのは、その女性像と男性像に注目することである。モローの描く女性は、周囲に災いをもたらす、禍々しい女たちで、悪、自然を象徴するとされる。これに対しモローの描く男性は、善、精神を象徴し、現世においては受難する芸術家である。しばしば語られるほど、モローの女たちが僅かな例外を除いて、全て悪しきものでは決してないが、肯定的に捉えられる女性は皆<詩人>の範疇に属すると考えられるので、モローの描く主題は大ざっぱには、<宿命の女>と<詩人>の二つに分類することができる。晩年になると、一種の終末論的汎神論的なヴィジョンが展開してくるが、そこに現われる神性のイマージュは、ある意味で<宿命の女>の展開なので、アリ・ルナンにならって(62)、これを<宿命性
Fatalité>と呼ぶ方がよいかも知れない。もはや善悪ではなく、それを越えた聖なるものが問題になる。 さて、<宿命の女>のイマージュはマリオ・プラーツによれば(63)、古代の神話伝説にその元型を持つものの、特に19世紀中ばから後半に広く流布した表象である。19世紀前半には、自ら宿命に支配されながら、他に宿命の使いとして現われるような人物は、ミルトンのサタン以来の、特にバイロンによって代表される男性として表象されたのだが(64)、世紀中葉、ボードレールとフローベールあたりを境にして、そうした観念は女性によって代表されるようになる(65)。ボードレールには、『地獄のドン・ジュアン』のような<宿命の男>を歌った詩がある一方、『美』、『美への讃歌』、ジャンヌ・デュヴァル詩篇などには、典型的な<宿命の女>像を認めることができる。<宿命の男>にはいまだ英雄的な部分が残っているが、<宿命の女>になると、そうした上昇への志向よりも、自足した、古い女性と自然の結びつきの観念が強調される。これはどちらも、男性の目から見られた表象であることを意味するのだろう。さらにこの表象は、ボードレールの『美』や『美への讃歌』に見られるような、その神格化にまで進む。そうした例で美術史に親しいものとして、ウォルター・ペイターの『モナ・リザ』の記述を思い出すことができよう(66)。<Femme Fatale>の語の起こりについては、プラーツは述べておらず、彼の引用する文献の中にも現われない。後日を期したい。 <詩人>のイマージュは、古代のオルフェウスにおいて既に、神秘主義との結びつきを示していたが、ロマン派において、芸術家の半神格化とともに、再び活性化する。詩人は未知なるものを求める人間の象徴であり(67)、さらにそれを解釈する者でもあって、見者、僧侶、預言者と等値される(68)。神的な言語を翻訳するのは詩人の特権であって、その訳は必然的に不可解で象徴的なものになる(69)。オルフェウスの神話は、絶対の探求の記述の一つの形にすぎず、それは様々な詩人の姿に化身する(70)。 |
62. Renan, ibid., 1886.5.1, p.384, ibid.,1899, no.21, p.311, no.22, pp.59,431. 63. M.Praz, The Romantic Agony, A.Davidson 訳, London, 1970(2), 4章. 64, id., 2 章. 65. id., p.154. 66. W.ペイター『ルネサンス』別宮貞徳訳、冨山房、1977, p.131-134. Praz, ibid., pp.253-254. 67. H.B.Riffaterre, L'orphisme dans la poésie romantique, Paris, 1970,p.39. 68. id., pp.51-55. 69. id., p.72. 70. id., 2 章. |
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モローの『オイディプスとスフィンクス』は一見、シャセリオーの『アポロンとダフネ』と、描かれている関係が逆のように見える。シャセリオーでは、<宿命の女>が彼女をあがめ、とらえようとする<詩人>を上から見下ろしている。モローでは、しばしばモローの<宿命の女>の典型的な例の一つとされるスフィンクスがオイディプスを下から見上げる格好になっている。このオイディプスは、アングルのやや粗野な、写実的な男性でもなければ、ギリシャの理想的な英雄でもなく、ゴーティエによって「ギリシャのハムレット」と呼ばれた(71)ような、考え込んだ、やや頼り無い、その分近代的でもある若者で、その意味で<詩人>の範疇に属している。 しかしことはさほど単純ではない。スフィンクスは美しい女の顔を持っている。女でありながら、本来属すべき大地、母なるもの、それを表わす深淵からは飛び上がっている。また達すべき高み、男性的なるもの、それを表わすオイディプスそのものではありえない、彼女は女なのだから。深淵と高みに引き裂かれていることが彼女の本質なのであり、その不安定さが構図の本質をなしていることは、既に述べた如くである。そして安定したものよりは、不安定なものに対しての方が感情を移入しやすい。モロー自身、意識の上では何を考えていたにせよ、無意識の内にスフィンクスに感情移入していたのであろう。それゆえ彼女は構図の中央にいる。彼女は問いかけ、答えを待っている。モローが知っていたかどうかわからないが、古代の伝承には、スフィンクスが謎を教わったのは、ムーサイからであるというものがある(72)。即ち彼女は<詩人>なのである。 『出現』においても事情は同じであって、彼女は聖なるものを呼び出し、自分が呼び出したものに恐れおののく巫女であり、己れの感情を有する人間なのである。 |
71. Holten, ibid., p.27. 72. Demisch, ibid., p.97. アポロドーロス『ギリシャ神話』高津春繁訳、岩波書店、1953, 3 巻 5 の 8(p.133). |
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iv. シャセリオー、他より モローは何度かアポロンとダフネの物語を取り上げているが、その内一点はマテューによれば(73)、シャセリオーの作品をそのまま左右逆にしたものだという。シャセリオーはこの構図を版画にもしており、それは油彩と左右が逆になっているので、モローはこれを参照したものであろう。他にシャセリオーの構図の影響が指摘されているものとして、1869年のサロンに出品された水彩画『詩人と聖女』(図13)がある(74)。ジャン・ラランは詩人の顔立ち、膝をついたポーズがシャセリオーのアポロンと殆んど同じであると述べている(75)。詩人はアポロン同様大きな竪琴を背負い、聖女もダフネのように首を傾げている。ただシャセリオーの画面に見られる、二人が一つの炎となって燃え上がっているかのような激しさは、静かで落ち着いたものとなっている。これは二人が中央の柱によって隔てられたかの如く、間を開いていることに由来する。この点については、同じシャセリオーがパリのサン・メルリ教会のために描いた、『エジプトのマリアの聖体拝受』(図14)の反映を重ね見るべきであろう。画面中央に柱を置く構図は、マテューが指摘するように(76)、モローがフィレンツェのウフィッツィ美術館で模写した、マンテーニャの『割礼』から得られた。この柱の存在が、そして二人の距たりが『ヒュドラ』の場合に比べて小さく、一方が他方をかなり上から見下ろしていることなどが、『ヒュドラ』のように構図を曖昧になることを防いでいる。さらに、絵のサイズが小さいせいもあるのだろう、人物の形態がかなり単純化され、アルカイックなものになっており、『オイディプスとスフィンクス』のような緊張感はないが、視線の相互のやりとり、それに平面としての画面も非常に安定したものになっている。この絵の主題は、ハンガリーの聖エリザベートの薔薇の奇蹟の場面だが、この主題には元来詩人の登場など見られないようだ(77)。キャプランはここで、「モローの作品においてはじめて、芸術と宗教の結びつきが導入された」(78)と言う。はっきりした形で現われたのはこれがはじめてであるとしても、そのような考えはロマン派全般に普及していたものであり、モローの作品においても、詩人の霊感を扱った『ヘシオドスとムーサ』(図142→こちら:《ヘシオドスとムーサ》(1858)の頁)のような主題にも、同じ考えは既に含蓄されていたと見るべきであろう。この絵の色彩がどのようなものかわからないのは残念だが、キャプランはここでは水彩の持つ流動的な効果は全く顧みられておらず、写本挿絵の精緻さで描かれていると、と述べている(79)。なおここで聖女は、地面より二段高い台のような所に立っているが、これはモローが繰り返し用いることになる舞台装置で、『オイディプスとスフィンクス』における手前の岩や、『ヒュドラ』の茂み同様、主要人物を画面から一段奥の平面に後退させ、絵を観る者と独立した世界を作る役割りを果たす。 シャセリオーの『アポロンとダフネ』の構図を直接反映しているものとしては他に、『デーイアネイラ』(1872, PLM.128)、『メッサリーナ』(図20)、『詩人の嘆き』(図21)などを挙げることができるが、これらに共通する特徴として、シャセリオーのダフネにおいては片腕が挙げられて、構図に上昇する動きを与えていたのに、モローのヒロインたちは皆両腕をからだにつけており、物言うのは眼の動きばかりである。モローの絵画表現において上昇のヴィジョンが力を持たないことは既に述べた。このようにして彼女たちはただ降り来たるもの、神々に近づくのである。 |
73. Mathieu, ibid., p.32. 図13 《詩人と聖女(薔薇の奇蹟) 》 1868、PLM.113 74. ポール・レプリウールによる指摘。Laran, Deshaires, ibid., p.41. 75. ibid., p.42. 図14 シャセリオー《エジプトのマリアの聖体拝受》 1843、S.94B 76. Mathieu, ibid., p.109. 77. L.Réau, Iconographie de l'art chrétien, TOME Ⅲ, Iconographie des Saints, Ⅰ, A-F, Paris, 1958, p.417-421. 78. Kaplan, ibid., 1974, p.26. 79. id. 図20 《メッサリーナ》 1874、MGM.inv.13962 図21 《詩人の嘆き》 1882頃、PLM.290 |
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モローは1879年、ハンガリーの聖エリザベートの主題を再び取り上げる(図15)。ここでは聖女は完全な正面性において捉えられ、一種異様なさまを呈している。彼女はほぼ左右相称で、光輪がそれを強調する。身体も平たく押し潰されたかのように、ふくれ上がっている。ひざまづく人物
- 彼はもはや詩人ではなく、腰に剣の鞘をつけた騎士である。剣は足下に投げ出されている - も聖女の平面性に応じて、プロフィールで捉えられている。前作にみられた典雅な視線のやりとりはもはやなく、聖女は眼を上目使いに、この世ならぬ世界を見ている。これは古い聖人画の伝統に属している。騎士の方も、右手を左肩にやり、左手を聖女に礼拝する形にしている。ここにあるのは、儀式ばった、宗教儀礼の世界である。重苦しい壁龕、暗い色調、灰色の寒々とした風景がこうした雰囲気を強調する。ここでモローが関心を寄せているのは、人物相互の関係ではなく、絶対なるものに対してである。このような関心はしかし、3年ほど後にもう一度取り上げられた同じ主題の水彩(図16)では、異様に細密な、装飾的な線描への関心に席を譲っている。ところで双方の構図に現われる、ひざまずき聖女を拝む騎士のモティーフは、池上忠治先生によって、ピエロ・デルラ・フランチェスカに同じモティーフが見出されることが指摘された(80)。リミニのテンピオ・マラテスティアーノにあるピエロのシジスモンド・マラテスタとその保護聖人を描いたフレスコは(図17)は、完全なプロフィールで捉えられた、ひざをつき、両手を合わせて拝むシジスモンドを描いており、さらに、聖人は床より一段高いところにある椅子に坐っている。画面右側には、互い違いの方向に、白と黒の犬がいるが、同じ位置にモローは脱ぎ捨てられた兜を置いている。ピエロの図では犬たちの上に、円形浮彫りがあり、風景が見えるが、モローにおいても白っぽい風景が拡がっている。ただ現在のところ、モローがリミニに立ち寄ったという報告はなされていない。ところで図16
の方では騎士は、マントと胴衣の下に鎧をつけている。この点で一致するのは、ミラノのブレラ美術館にある、通称『ブレラの祭壇画』(図18)の中のウルビーノ公である。この作品は1810年にブレラに入っているので(81)、モローは1858年にミラノに立ち寄った際見ることができたであろう。ウルビーノ公も腰に剣をつけている。彼の前には篭手、その間には何か木の棒が置かれており、これを
図15 の前景に投げ出された剣と比べることができる。プロフィールで捉えられた、ひざまづき、手を合わせて拝む男のモティーフは、ピエロは他の作品でも取り上げており、他の画家の作品にもこれに近いモティーフを見出すことができる。例えばルーヴルにあるマンテーニャの『勝利の聖母』(図19)の中のゴンツァーガ候も同様のポーズを取っており、さらに彼もまた鎧をつけ、上を向いた首もモローと一致する。それにもかかわらずここでピエロの名が重要なのは、後期から晩年にかけてのモローの神秘主義的ヴィジョンの昂揚と、それに伴う形態の< |
図15 《ハンガリーの聖エリザベート(または『薔薇の奇蹟』)》 1879、PLM.188 80. リミニの作品については口頭で、ブレラの作品については、1984年11月25日 NHK教育テレビで放映された『日曜美術館』の中でその指摘が加えられた。 図17 ピエロ・デルラ・フランチェスカ《聖シジスモンドとシジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ》 1451 図18 ピエロ・デルラ・フランチェスカ《ブレラの祭壇画》 1472-74頃 81. P. de Vecchi, Tout l'œuvre peint de Piero della Francesca, Paris, 1968, p.106. 図19 マンテーニャ《勝利の聖母》 1496 82. ケネス・クラーク『風景画論』佐々木英也訳、岩崎出版社、1967, p.181. |
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晩年に入ってからもモローは、シャセリオーの『アポロンとダフネ』から出発したモティーフを、もう一度取り上げている。『詩人とセイレーン』(図22)がそれである。ここにおいて、『出現』について観察した事態が一層進行しているのを認めることができる。詩人はもはや、力も尽きたように女怪の足下に身を寄せるのみで、目を上げることもかなわない。身体のサイズからして既に詩人のそれを遥かに上回るセイレーンは、カッと目を見開き、その絶対的な視線の力でもって、詩人を支配している。首から下の明るい裸体に対して、頭部のみ影の内に浸して、眼の魔術的な力を強調する。この見開かれた目は既に、『オイディプスとスフィンクス』のスフィンクスにも現われていたが、スフィンクスが不安定な姿勢の内に、強い視線を下から投げかけて、視線の結びつきにおいて何とかオイディプスにしがみつこうとしていたのに対し、ここでは一方的に力を振り下ろすのみである。この作品は晩年のモローの関心が、絶対的なもの、この世ならぬもの、聖なるもの、そしてその力の顕現に向かっていたことをよく示している。ただこの作品では、そのような力を表わすための図式的な要素と、アカデミックな人体の再現性が一つに融け合っていない。力尽きたような詩人のポーズは、システィナ礼拝堂のミケランジェロの、『エヴァの創造』中のアダムに由来することが、オディール・セバスティアーニ=ピカールによって指摘されている(83)。 | 図22 《詩人とセイレーン》 1893、PLM.404 83. O. Sebastiani-Picard, "L'influeance de Michel-Ange sur Gustave Moreau", Revue de Louvre, no.27, 1977.3, p.143. |
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