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[5]<[]<[]<[]<『ギュスターヴ・モロー研究序説』(1985) [1]
Ⅱ. 2. ii. 入墨 
    iii. 以後 - レプリカ 
    iv. 以後 - 出現 
    v. 以前以後、連作 
ii. 入墨

 『ヘロデ王の前で踊るサロメ』の完成作(図62→こちら)において、細かい対象を輪郭どる線が、一旦賦彩を施した、その上から描き加えられており、それがモローにおいて、線の領分と色彩の領分が乖離していることを暗示していることは、既に述べた(→こちら)。そのような事態を一層明瞭に示している例が、やはり『サロメ』のための習作の中にある。いわゆる『<入墨>のサロメ』がそれである(図95)。
 構図は、上部が拡張される以前のものである。背景の建築は、先に見た油彩習作(図87→こちら)より、一層緻密に仕上げられている。金色の光も、あれほど強くはないが、建築や刑吏を照らしている。背景は人物も含めて、茶から赤、黄に至る単一のトーンに浸されているが、その中でサロメだけが真っ白な裸体をさらしている。彼女の肉付けは、遠くから見ると、大理石の薄浮彫りのように見える。ポーズは踵をつけ、右足を大きく退いた弛緩したもので、先に見た薄衣をまとったサロメを描いた素描(図76→こちら)と一致する。足はきちんと仕上げられていないが、その指は長い。右手は後から描き直されている。足の位置も同じ時に変えられて、仕上げられずに残されたのだろう。彼女は長い衣を左腕に巻きつけ、地面に垂らしているが、その薄く明るい青が、全体の調子と白い裸体の間で、よく映えている。
 

モロー《踊るサロメ(入墨のサロメ・刺青のサロメ)》

図95  《踊るサロメ》 MGM.211
 このように、かなり丁寧な肉付けを施して仕上げられた画面の上に、その賦彩とはっきりずれを見せて、細かい装飾の輪郭が描き込まれている。サロメのからだの上とその右側の部分は黒で、右端と左端の柱とヘロデアの上には白で描き込まれたこの線は、肥痩や動きを全く示さない、ただ細密に輪郭づけるためだけの抽象的なアラベスクで、背後の賦彩された部分と、全く空間上の関連を有していない。左端の柱とヘロデアに描かれた線は、同じ平面に属している。この全く表情のない冷たい線が、モローの描いた女性中例外的に、頭の小さいすらりとした、優雅なプロポーションを持っている、このサロメの白い裸身の上に重ねられている様は、何か奇妙な、エロティックな気分さえかもし出している。この<入墨>は、おそらく、賦彩が仕上げられてからすぐに描き足されたのではなく、手や足が描き直されたのと同じ時期に、しばらく放っておかれていた画布に、つけ加えられたものであろう。
    
 『オイディプスとスフィンクス』(図1→こちら)が発表された当時、注目された点の一つは、その輪郭の黒い線であった(193)。このような黒の輪郭は、シャセリオーの作品、特に習作類に見られるが、それをサンドスは、ジェリコに由来するものと指摘している(194)。そこでジェリコの作品から、そうした黒の線の現われているものを眺めて見ると、線が塗られた色の、僅かに内側にひかれている箇所を、少なからず見出すことができる。このことから、これらの輪郭が、先にひかれてからその内側に色が塗られたのではなく、先に賦彩された、その上にひかれたものであることがわかる。もとよりこれは、モローの<入墨>のように、絵の表面にならどこでも顔を出すといったものではなく、縁取ることによって、縁取られた形態の浮彫り的な堅固なヴォリュームを強調するためのものである。ジェリコの油彩習作を見ると、光と影が強く対比され、粘土を内側から捏ね上げたような形態のつくり方を示しており、強い輪郭で枠取らなければ、形態が不定形に膨れ上がってしまう、ということを感じさせる。   193. Laran, Deshaires, ibid., p.25.

194. Sandoz, ibid., p.168. 320.
 シャセリオーについては、テオフィル・トレがつとに、輪郭を引いてからその内に色を配する通常の手順とは逆に、シャセリオーは「まず彼のイマージュの形を、色の関係と光の推移によって表わし、形が輝いたなら、黒の線と線のデッサンの力強いアクセントによって、輪郭を囲む」と述べている(195)。
 若い頃モローはフロマンタンへの手紙の中で、「私は最も難しいことから始める、即ち線と内側の肉付けだ、それにとても力強くアクセントをつけ、次いで思い切り自由に色の流れで覆い、全てを恐れず掃き、物を粗描きとして扱うのだ」と書いている(196)。キャプランは、後期になるとモローは線の枠組みを省いて、直接画布に色彩で当たるようになる、と考える(197)。他方マテューは、非常に自由な処理を示す作品でもX線写真で見ると、はっきりした素描が絵具の層の下に認められることから、若い頃の制作の手順は、後になっても変わっていないと見る(198)。いずれにせよ、こうした下絵はまだ、公けの基準からすれば完成作とは言えないので、その上から細部を描き込まなければならない。
 
  195. Chevillard, ibid., p.104.

196. Wright, Moiosy, ibid., p.87.
1856年12月8日の手紙。

197. Kaplan, ibid., 1972, p.50.

198. Mathieu, ibid., 1976, p.202.
 
 賦彩を施した上から線で細部を描き込むという手順は、モローほど極端な現われ方をしていないにしても、細かい部分を探せば、他の画家、時代の作品にも見出すことができる。例えば、ウィーンにあるホルバインの『ジェイン・シーモア像』では、袖口とスカートの布地の上に、文様の線が描き込まれている。上腕にかけているレースも、はっきりした輪郭で網目が描かれている。パルミジャニーノの『アンテア』でも、スカートの部分に黒い線で、文様の輪郭が描かれている。こうした衣服や何かの布の上に、線で描かれた装飾的な刺繍、というモティーフは他にも多く見出され、ジョゼ・ピエールがモローの<入墨>と関係づける、マティスの作品(199)にまで至っている。ターナーの幾つかの作品では、建築物や船などが、色の上から輪郭づけられている。『金棺出現図』の中の、木に掛けられた白い袋を縁取る黒い線を思い出そう。
 20世紀の絵画では、線と色彩が互いを限定し合わず、自由に動いて、一つの平面を形成するといった例は少なくない。「彩色された部分が輪郭線からはみ出し、同じ対象が二つの色調に分割されていることがデュフィの作品にはよくある。…(中略)…デュフィは色彩というものは、フォルムを限定するための強くしなやかな輪郭線から独立すべきであると主張した。彼は見ている対象が動いた後も、ほんの一瞬ではあるが色彩はその場に残ると述べている。すなわち線は色彩に比べ、より速く移動すると判断したのである」(200)。
  199. Paladhile, Pierre, ibid., p.151.

200.
『スイス・プチパレ美術館秘蔵展 フランス近代絵画』大阪、1983, カタログ96番解説。
  
 他に挙げておかなければならないのは、セザンヌの作品に現われる線と色彩のずれである。これはあまりにも性質が異なるものであるが故に、比較することによって、モローの<入墨>の特質を浮かび上がらせてくれるだろう。セザンヌのそうした例を見て気がつくのは、線と色のずれにもかかわらず、絵が緊密な空間を形成していることである。これは、セザンヌにおける線と色のずれが、目が対象に対して固定した位置にあるのではなく、視点を移動しながら対象を把握することに由来する。即ち線と色の面の変化にしたがって、見る者の視点も移動し、その視点が移動する空間そのものを体験することになる。それ故、線と色彩の二元的対立などは、問題ではない。それが問題になるのが、モローの場合である。モローにあっては、視点は絵の前で不動である。線のある平面と色彩のある平面は、一つの空間を形成せずに、ただ二つの平面を重ね合わせているだけなのだ。これは、平面の連続で奥行きを暗示する、線遠近法の原理にのっとりながら、それを不連続なものに分裂させてしまった、ということができる。ここから、<入墨>によって感じさせられる、奇妙な異和感が生じる。

 『ヘロデ王の前で踊るサロメ』に見たように、<入墨>は習作の領域のみならず、完成作の細部にも現われている。これはモローにおける、線の領域と色彩の領域との間に走った、亀裂の深さを物語るものと解せよう。
     
 色彩と線のモンタージュ、というモローの制作過程をよく物語る例としては、『入墨のサロメ』以外に、『アレクサンドロスの凱旋』(図96)を挙げることができるだろう。インドを征服した若き王にインドの住人たちが貢ぎ物を持ってきたところを描いたこの絵は、遠くから見ると、褐色と青みがかった白い山に囲まれた、緑と赤の地面を下にした、青い湖と白い寺院を描いた、色彩の非常に鮮やかな風景画という風に見える。それだけここでは、色彩の輝きが強いのである。絵に近づくと、こまごまとした細部が、まだ整理されないままに描き込まれているのが見えてくる。画面の底辺中央から左寄りにいる三人の女たちは、輪郭の内側に丁寧に肌色が施されている。この部分から推測して、この絵はもし完成されたなら、かなり異様なものになっただろうと思われる。女たちの描き方は、インドの細密画の流儀を、そのまま移したものである。すぐ右上にいる輿に乗っている人物は、白の絵具を塗りつけただけである。逆に、画面右下の隅にいる人物たちは輪郭だけで、向こう側が透けている。彼らと、先の三人の女たちの間を結ぶ、玉座の台になっている部分の側面は、赤が塗った上に、輪郭を施し、その文様の間に、青だけ塗り入れてある。同じく、画面中央やや右寄りの、巨大な立像の仏も青く塗られているが、右隣のエジプトのベス神の彫像は輪郭だけで、後ろの山が透けている。アレクサンドロスの上から左にかけて、エローラのカイラーサナータ寺を模したと思われる、岩石寺院の輪郭が描かれているが、その左側は岩山が透けたままなのに、アレクサンドロスの頭上あたりは、白が入れられているために、唐突に石窟が開けたかのように見える。また前景の人物たちから中景の人物たちへは、スケールが急激に飛躍している。画面左端に至っては、寺院と大きさを競うかのような、巨大な花や象が描かれている。こうした様相についてホーフシュテッターは、「様々な空間の層が浸透し合う」と述べている(201)。『オイディプスとスフィンクス』においても、オイディプスの周囲の空間が不明瞭で、平面化への強い傾斜が暗示されていたが、ここではそれが、積極的に空間を混乱させて、画面に非現実的な性格を与えようとしているとしか思えない。そうした点に気づいたからこそ、モローは画面をこの段階で放置したのであろう。これがあらゆる細部にわたって仕上げられたなら、画面内の細部同士の関係は、どうにも収拾のつかないものになってしまう。それはこの設定が、奥行きを要求していることによる。それゆえ同じ時期に制作されていた『ユピテルとセメレー』(図268→こちら)のみが、正面性と左右相称を示す平面的な構図を採用することによって、細部の増殖と完成を一致させることができたのである。『アレクサンドロス』はこの状態で中断されていてこそ、幻想的な空間であり続けることができる。    モロー《アレクサンドロス大王の勝利》1890
図96  《アレクサンドロス大王の勝利》 MGM.70

201. Hofstätter, ibid., p.167.
 一方空間の混乱そのものは何に由来するかと考えると、各細部がそれぞれあまりに増殖して、自らの権利を要求し始め、モローがそれらを大きな画面の中で整理できなかったことが、その理由だと思われる。モローは単純に、巨大な画面を細かく仕上げることに倦いてしまったのではない。画布に移された<入墨>による細部が示すように、アレクサンドロスの玉座や寺院の建築、象の群れのような細部それぞれについては、細かな装飾を施して、モローは嬉々として習作を制作している。その一例が図97で、画面右下の端にそのまま移されている。ここではあまり肥痩のない線で、装飾的なアラベスクを描くことに、いかにも楽し気である。人物の形態は線の動きに従属している。ホルテンはモローのこうしたアラベスクが、マティスのそれの元型であると述べている(202)。ここでは色彩は不要であり、むしろ色彩がつけられれば、線の動きを破壊してしまうだろう。またこの素描はこれだけで自足しており、より大きな画面の部分として従属させることは、素描の力を削ぎ、他方画面全体をいたずらに煩瑣にするだけである。この絵の色彩を見ると、筆致はかなり粗放なもので、それが画面が大きいために、集中的な効果を生み出せないでいて、細部細部に絵具の塊まりを塗りつけただけに終わっているところが少なくない。これもまた、細部細部に焦点が分散してしまったことに由来する。それでもこの画面が人をひきつけるところがあるのは、一つは細部間の関係が、かなり<入墨>に留まっているため、大きな色の塊まりの集まりとして形造られた画面の下の層に支えられて、不可思議なものとして楽しむことができる点に、そしてもう一つは、そのような大きな色の塊まりの間で、中央の白と、そこに<入墨>された寺院が要になって、画面を引き締めている、という点にある。この部分が要であり得るのは、北インドのカジュラーホに見られる型のヒンドゥー教寺院を模したと思われる寺院の細密な装飾が、地が白であることによって、線自体としての特性を殺されていないからである。ちなみに中世のヒンドゥー教寺院というのは、そのこまごまとした表面と、大地から生え出たかのようなマティエールによって、モローの作品世界と最もよく合致する建築様式であろう。それ故彼はここで、山の中から生え出したかのように、あちこちに寺院を積み重ねているのである。    モロー《アレクサンドロスの勝利のための人物たちの習作》
図97  《『アレクサンドロス』の中の人物》 MGMd.3228

202. Holten, ibid., 1965, p.152.
 
 <入墨>の特質を、単に奇異な印象を与えるに留まらず、積極的に活かして成功している作品に『一角獣たち』(図98)がある。ここでも左前景の立っている女性が、豪華で細密な装飾のついた衣服と帽子を身に着けている。しかしよく見ると(図99)、この装飾は線だけであって、一つ一つ肉付けされておらず、地の部分は白、赤、オレンジ色の平旦な色の塊まりである。ところでここでの<入墨>は、『入墨のサロメ』の場合のように、人体の上に位置するものも、空間的に離れているはずの建築の上に位置するものも一緒になって、色彩の属する平面を形成するのとは異なり、衣服や盃のようなそれが属している対象から溢れ出すことなく、対象全体の輪郭の内に納まっている。それ故、線の平面と色の平面が分離してしまうには至らない。また、<入墨>の地の部分に限らず、この絵全体も、非常に鮮やかで透明な色彩、赤、白、青、緑、藍、茶の大きな塊まりによって構成されている。ただ細密な装飾があるために、あまり抽象的な性格はあまり目立たない。これらの色彩はあまりに鮮やかで、非人間的な冷たさを感じさせるので、それを緩和すべく、前景の裸婦の膚色が、烟ったような肉付けで配される。こうした色彩構成の装飾的性格を、<入墨>が一方で具象的なものに緩和し、他方それ自身の装飾性が画面全体のそれに調和する。そうした画面の装飾性が最も顕著に現われているのは、前景の立つ女の横顔であろう。そして色彩の鮮やかさと装飾の緻密さから生じるのは、何よりも画面そのものの、豪奢な性格である。    モロー《一角獣たち》1885-88頃
図98  《一角獣たち》  MGM.213


モロー《一角獣たち》1885-88頃(部分)
図99  同細部
 画面の装飾的性格のために、主題に特に重要性は付与されていないように感じられる。ホーフシュテッターは、裸婦と着衣の女の対比に、さらに衣裳がヴェネツィア風であるとして、ティツィアーノの『天上の愛と地上の愛』と同じ意味が込められているのではないかと述べる(203)。いずれにせよ、この作品はしばしば指摘されるように、1883年からクリュニイ美術館で公開された、『一角獣と貴婦人』のタピスリから出発したものである(204)。モローは他にも、一角獣一匹に一人の裸婦の構図を幾つか描いている(MGM.189 など)。また、クリュニイのタピスリは全て、一角獣とともに獅子を配しているが、その点を補償するかのように、ラ・フォンテーヌの寓話の内『恋する獅子』(PLM.204)を、一角獣を描いたものと、全く同じ構図で描いている。これらの画面で、そして『一角獣たち』の裸婦が被っている赤い帽子が、クラナッハの裸婦たちが被っているそれに由来することも指摘されている(205)。また左の立っている女が、ピサネロとの類似を示すことも指摘されている(206)。
 この作品のもつ装飾性、宝石細工のような豪奢さは、マテューが言うように(207)、「ただ秩序と美、豪奢、靜謐そして快楽」そのものであり、宝石の輝きをもつ色彩とマティエール、<地底世界>的な閉鎖性は、モローの晩年作の典型をなしている。ところで、先のボードレールの詩句をその標題とするマティスの作品は、やはり画面の上まで届く樹木を垂直軸にし、画面右下から左上に海岸線が横切り、岸辺には帆を畳んだ船が見え、前景で何人かの人物が食器を拡げている。もとよりこれは、やはりよく似たモティーフを示し、横長の構図の点でも一致する、自身同じボードレールの詩句から出発したと指摘される、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの『快き国』(208)の影響が指摘されているらしい。さらにモローの構図も同様のモティーフ、そして雰囲気を示している点で、1882年のサロンに出品されたピュヴィスの作品に影響されたと考えることもできよう。ただ構図の類似とともに、豪奢な色彩の点で-ピュヴィスから色彩を学ぶことはできまい、そしてマティスが採用している新印象主義の影響は言うまでもないが-、マティスがモローのこの作品に示唆された点があると言うことはできないのか、不勉強のためマティスの研究者がどう言っているのか見ていないが、疑問として提出しておきたい。
 <入墨>に話を戻せば、この作品における<入墨>は、線だけで肉付けがなされていないことによって、色面としての色彩の鮮やかさを削ぐことをせず、色彩は大きな面であることによって、線に干渉してそれを重苦しくしてしまわないですんでいる。線と色はお互いの独立を守り、それぞれの表現力を自由に伸ばしながら、一致して装飾的な画面を形成しているのである。

 
  203. Hofstätter, ibid., p.131.

204. Holten, ibid., 1965, p.60.

205.
『モローと象徴主義の画家たち』展カタログ、山梨、神奈川、三重、1984- 1985, p.118, cat.no.85 解説(Mathieu).

206. Holten ibid., 1965, p.61, Mathieu, ibid., 1976, p.155.

207. Mathieu, ibid., 1976, p.155.

208. Puvis de Chavannnes, ibid., p.174.
   
iii. 以後 - レプリカ

 モローは『ヘロデ王の前で踊るサロメ』から、水彩でレプリカを二点作っている。一点はサロン出品作の構図を忠実に繰り返したものだが、水彩のにじみがかなり強調されている。もう一点(図100)は、1886年の制作になるものだが、画面の上部を拡張する以前の構図に戻っている。左右もつめられ、ほとんどわからないくらいに先の尖ったアーチを二つ半上部に配し、画面全体の構築的性格が強い。人体の形態、肉付けも単純化されたもので、壮大さはないが、構図の凝集力はサロン出品作より遥かに強い。色彩は不明だが、技法は鉛筆の線の上に水彩を施し、金と白いグアッシュでアクセントをつけたということで、淡彩に近い、線と形態の力を削がないものだと思われる。

 
 

モロー《踊るサロメ》1886
図100  《踊るサロメ》 PLM.341 
iv. 以後 - 出現

 『出現』(図101)については既に触れた(→こちら)。この水彩は『ヘロデ王の前で踊るサロメ』と同じ1876年のサロンに出品されたもので、物語はこれに続く場面を描いていることになるが、舞台はイスラム的なアーチとインド的な装飾を持つローマ風の大建築から、ペルシャはイスファハン風のイスラム建築に代わっている。ただし壁龕の奥には偶像があり、古代末の諸神混淆(サンクレティスム)を反映したエフェソスのディアーナとミトラス教の偶像に代わって、「十字の円光をつけた仏像」(209)が座を占めている。画面はかなり明るくなり、水彩という技法の故もあって、油彩の重苦しさは消えている。それに従って色彩の力も強くなっている。未完成の部分は残っているが(210)、全体の描写は緻密で、壁を仕切る水平垂直の線が強く平面性を押し出し、イスラム建築の範にならって装飾は平面の表面を覆うものに留まり、『踊るサロメ』のように奥深さの暗示と構図の平面性の間で動揺することはない。
 血まみれの首と背景のイスラム建築という組み合わせは、高階秀爾氏の指摘するように、アンリ・ルニョーの、1870年のサロンに同じ作者の『サロメ』とともに出品された、『グラナダのモール人の王の支配下における裁判なしの処刑』に想を得たものであろう(211)。ただし『出現』における片側に寄せた大きな壁龕、それを太い柱が区切り、残りの画面を平らな壁が占める、という建築の配置については、その発想源としてレンブラントの、ルーヴルの『エマオの食事』(図102)を挙げておきたい。こうした舞台の設定のみならず、一度死んだはずの者が、壁龕の前で光とともに出現し、それを見た者が身をのけぞらせて驚く、という内容面においても一致する。ヨハネとキリストの重ね合わせについては、言うまでもなかろう。
  モロー《出現》1876
図101  《出現》 PLM.159

209. Mathieu, ibid., 1976, p.124.

210. id., p.126, 268
481.

211.
高階秀爾「マラルメと造形美術」(ibid.), pp.338-339.

レンブラント《エマオの巡礼者たち》1648
図102  レンブラント《エマオの食事》 1648

シャセリオー《気絶したマゼッパを見つけるコサックの娘》1851
図103  シャセリオー《マゼッパ》 1851、S.131
こちらで扱っています


レンブラント《ダナエー》1636-50
図104  レンブラント《ダナエ》 1636-50
こちらで扱っています

 ヨハネの断たれた首が舞い上がる、という構想がモローの独創であることは繰り返し述べられてきた。これはルドンに甚大な影響を与えることになるが、ホルテンはルドンにおける目の浮遊のモティーフに関連して、神の全能の象徴としての、浮遊する目という図像を描いた16世紀の版画を挙げている(212)。モローにおけるヨハネの首がとりわけ視線を担うものであることは既に述べた。ユイスマンスもこれを、「踊り子の上にひきつるように視線を注ぐ、ガラスの眼球」と形容しており(213)、モローもそうした図像を知っていたのかも知れない。ここでのヨハネの視線が、絶対者のそれであることも既に触れた通りである。絵画においては、盆にのせたヨハネの首だけをその主題とする、という図像が存在し、特にレオナルドの周辺でそうしたものが盛んに制作されたらしく、ルーヴルにもアンドレア・ソラリオの作品がある(214)。これもルドンが繰り返すことになる図像だが、モローもそうしたものを知っていたであろう。
 <切られた首>という主題は、モローは既にその『オルフェウス』(図123→こちら)において扱っており、このモローの二つの作品が、世紀末の絵画にこの主題を普及させることになる(215)。この主題の19世紀後半における展開を研究したジャン-ピエール・ルヴェルソーは(216)、この主題の先例として、ネルヴァルの記述したカゾットのヴィジョンをその先蹤とし、続いてジェリコの死体置場の研究、ゴーティエの詩などを挙げている。ルヴェルソーは挙げていないが、キーツの『イザベ
ラ』においても、殺された恋人の首を切り取り接吻する女、首から生え育つめぼうきの木が主題になっている。ルヴェルソーはモローと関係づけてはいないが、これらの内『出現』にとって重要ではなかったかと思われるのが、ボードレールの『女殉教者』である。その中では、切られた女の首が、その「不死なる形態」で、逃げ回る彼女を殺した夫に憑き続けるさまがうたわれている。のみならずこの詩には、「私たちの目を鎖に繋ぐ」だの、「茫として白い視線」だの、靴下どめの「金剛石の視線」だのといった、目と視線に関するオプセッションが感じられる。また「首のない屍が川のように」「赤い生ける血」を流し、「それを敷布が吸い込む」さまを、『出現』さらに『サロメ』の床の上の赤と比較することもできる。『出現』における首の浮遊については、ハイネの『アッタトロル』の中で、「子供のように笑いながら」「まり投げのように」ヘロデアが空中に投げ上げるヨハネの首の描写の影響が指摘されていることを先に触れた。ハイネ自身は、これをドイツの民間伝説から取材している(217)。首が空中に舞い上がるという図像は、ユゴーに先例がある(図105)。1857年と記された『公正』がそれで、血の流れる道の上、背景にギロチンを配し、叫ぶように口を開けた首が空中を昇って行く。ユゴーのデッサンは、63年、75年にも公けにされているが(218)、モローにこれを見る機会があったかどうかは定かではない。マラルメの『聖ヨハネの雅歌』との関係については議論があることも、既に触れた。
 
  212. Holten ibid., 1965, p.161.

213. Huysmans, ibid., 119.

214. A.O.d.Chiesa, Tout l'œuvre peint de Leonard de Vinci, Paris, 1968, p.112.

215.
高階秀爾「切られた首」(ibid.), pp.305-307.

216. J.-P.Reverseau, "Pour une étude du thème de la tête coupée dans la littérature et la peinture dans la seconde partie du XIX siècle", Gazette des Beaux-Arts, 1972.9.

217. Zagona, ibid., pp.34-35.

ユゴー《公正(正義)》1857
図105  ユゴー《公正》 1857

218. Victor Hugo dessinateur, Paris, 1963, p.29. 《Justitia》
は、図202 (p. 93).
 
 『出現』の構図の初期の段階を示している素描に図106 がある。サロメとヨハネの首の位置の左右は逆で、両者の間隔もずっと近寄っており、高低の差も殆んどない。画面全体に対して人物の比重も大きい。まず、人物の関係が考えられ、背景や装飾が増殖するのは後のことなのである。サロメはからだをほぼ正面に向け、右手を首にやって肘を上げ、左腕は突っ張ったように下ろしている。完成作よりも無防備になっているわけで、首の放つ力の大きさがより強調されている。ヨハネの首はここでもプロフィールで、やはり強い光を放っている。背景には暗い戸口と階段が見え、斬首が踊りの場とは別のところで行なわれ、サロメもそこに降りて来ていることを示している。この方が伝承には忠実である。完成作では、舞台はヘロデやヘロデアのいる広間に移っている。素描では両者の直接的な力の関係が強調されていたのが、完成作ではより図式的なものに変わっている。
 図107 は油彩による習作である。人物の位置、建築の設定は完成作とほぼ同じだが、空間がより宏壮なものになっている。習作の領域に属するものとして、マティエールの輝きが強いが、全体の褐色の調子は『ヘロデ王の前で踊るサロメ』に近いものである。完成作との相違は、油彩と水彩という技法の違いに由来するものと思われる。背景の建築には<入墨>が施されている。
  
  モロー《出現》
図106  《出現》 MGMd.2691 

モロー《出現》
図107  《出現》 MGM.222
 モローは『出現』に油彩のレプリカを二点制作している。一点(図108)は油彩習作とほぼ同じ空間の広さを示しているが、マティエールの輝きは消え、色彩はより単調で不調和なものになっている。ヨハネの首から滴る血の量がずっと増え、油彩習作のアーチが水平の に代わり、その上に彫刻が施されている。右端には、キャプランが『サロメ』においてレンブラントの版画(図68→こちら)に由来させた吊りランプが再び現われている。完成作には見えず、油彩習作では影の塊まりのようだった黒豹が、サロメの足下で彼女を見上げている。全体に、空間の広くなった舞台に対する仕上げを、処理し切れていないという感がある。もう一点のレプリカでも(図109)、滴る血が長く延びている。塗りの厚い、重苦しい制作のようだが、柱や落ちる血など画面全体の垂直性が強調され、これを何本もの水平線が支える。これは水彩完成作における、微妙な平面性への配慮といったものではなく、多分に観念的で強引なもので、モローが先のレプリカほどにも、制作に熱を感じなくなっていることを示している。にもかかわらず、このような要素が競合して、新しいヴィジョンを作り出しており、先のレプリカより興味深いものになっている。即ち垂直性の強調と制作の重苦しさに呼応して、サロメの姿勢が斜めにのけぞったものから、垂直に立てられる。からだの前面は画面の方に向けられず、全身が真横から見られている。彼女はもはやヨハネの首を見ておらず、目を伏せ、額を下げている。ここでのサロメのポーズは『ヘロデ王の前で踊るサロメ』(図62→こちら)のそれに近いものだが、あれほど堂々としてもいないし、気取ったものでもない。より額を伏せたその姿勢は敬虔といってよいもので、むしろ『旅人オイディプス』(図48→こちら)のそれに近い。オイディプスのあの姿勢が、シャセリオーに由来することは既に触れた。ヨハネの首との間隔は広くなって祭壇をもはや隠さず、光も弱くなる。ただ血だけが長く滴り落ちている。ここにはもはや対峙はなく、ヨハネの首が圧倒的な力を振るっているわけではない、その点で『旅人オイディプス』と異なる。この首は、<出現>したのではなく、巫女たるサロメによって呼び出されたのだ。しかしまた、ここでは逆にサロメが場面を支配するようになったわけでもない。彼女は巫女、即ち神に仕える者にすぎない。そしてもしその神が画面に現われているとすれば、それは首の後退によってその全身をあらわにした、中央の偶像がそれであろう。『ヘロデ王の前で踊るサロメ』の中で、ヘロデの姿を借りて背景にまぎれていた古い神が、その力を取り戻し始めたのである。その力を完全な充溢において復活するのを見るのは、『ユピテルとセメレー』(図268→こちら)を待たねばならない。
 
  モロー《出現》1876頃
図108  《出現》 1876頃、PLM.160

モロー《出現》1876頃
図109  《出現》 1876頃、PLM.161
 
v. 以前以後、連作

 モローは『踊るサロメ』と『出現』以外にも、サロメの主題を扱っている。物語の上では、『踊るサロメ』と『出現』の間に起こる場面を描いているのが、『牢獄のサロメ』である(図110)。マテューはこの構図が、連作中最も早いものであると述べている(219)。ここでもレンブラントの『エマオの食事』(図102)を思わせる、アーチ、柱、平面の配置が見られるが、アーチは階段に通じており、左の平面はずっと奥の部屋で、ヨハネが処刑されている。モローには珍しいこうした空間構成は、明らかに17世紀オランダの室内画に想を得たものであろう。階段と考え込む人物の組み合わせは、ルーヴルにあるレンブラントの『階段のある哲学者』(→こちらを参照)から出発しているのかもしれない。左の狭いすきまからヨハネの斬首が見える設定は、先に触れた56年のピュヴィス・ド・シャヴァンヌの『ヨハネを処刑させるサロメ』(図67→こちら)を思い出させる。首すじに左手を当て、首を傾げて物思いに耽けるサロメの姿は、先に『踊るサロメ』の中央の偶像とその左右の柱の配置について、影響を考えたシャセリオーの『エジプトのマリアの回心』(図65→こちら)におけるマリアのポーズから得られたものであろう。 
 

モロー《牢獄のサロメ》、別称《薔薇を手にするサロメ》1873-76
図110  《牢獄のサロメ》  1873-76、PLM.164

219. 『モローと象徴主義の画家たち』ibid., p.99.
 この場面に続くのは、結局完成作には至らなかった、『ヨハネ斬首』(図111)の構図であろう。処刑は終わったところで、首のない死体が地面に横たわっている。刑吏は剣を地面に立てそれを伸ばした腕で支え、右手を腰に当てた闘士のポーズで、サロメを見送っている。サロメは首を載せた盆を抱え、顔をやや伏せ加減にし、やや後姿を見せて獄舎を出ていく。『牢獄のサロメ』より空間が広く、垂直水平の枠組みが強調されている。もう少しサロメに近寄ったのが、図112 の素描で、ちょうど首を取り上げたところだろう。サロメの身体は、腕や脚などきちんと描き込まれていないが、浮彫り的なヴォリュームの強い単純化されたものである。地面に横たわる首の無い死体と立っている人物の関係は、ドラクロワの『ヨハネ斬首』(図113)を思わせる。背後には『庭園のサロメ』(図119→こちら)に現われる洗水盤がある。ヨハネの首を抱くサロメの上半身を大きく扱った構図も何点かある(図114)。画面左上には画中画のように、刑吏とヨハネの胴が見える。ホルテンがイタリア・ルネサンスの構図を思わせると言うように(220)、ヨハネの首を受け取るサロメを大きく描いた作例は、ルーヴルにあるベルナルディーノ・ルイーニの作品その他、豊富に見出される。モローのサロメの物語に対する関心は、そうした絵に現われたサロメとヨハネの関係に興味を抱いたところからはじまったのかもしれない。この素描では、サロメはヨハネの首を愛し気に見つめている。民間伝説に流布し、ハイネが『アッタトロル』の中で印象的に描いた、ヨハネに対するヘロデアないしサロメの恋、という物語の解釈(221)がここにも現われているのである。そしてこうした微妙な、優しい関係がモローにおいて『サロメ』の連作以前に既に、『オルフェウス』(図123→こちら)の首と娘の関係にも現われていることは、モローの関心がまず、物語のこうした面に向けられていたことを示唆しているように思われる。なおこの二点の素描は、後に述べる『庭園のサロメ』の出発点となったものと思われる。『庭園のサロメ』の後のヴァリエイションである『柱のサロメ』(図115)も、可憐な娘を描いている。彼女は裾の大きく開いた大胆な衣を着けている。    モロー《洗礼者ヨハネの斬首》
図111  《洗礼者ヨハネの斬首》 MGM.189

モロー《ヨハネの首を持つサロメ》
図112  《ヨハネの首を持つサロメ》 MGMd.2690

ドラクロワ《洗礼者ヨハネの斬首》1846-47 ブルボン宮図書室
図113  ドラクロワ《洗礼者ヨハネの斬首》

モロー《洗礼者ヨハネの首を見つめるサロメのための習作》
図114  《ヨハネの首を見つめるサロメ》 MGMd.3476

220. Holten, ibid., 1961, p.72.

221. Zagona, ibid., pp.34-35.

モロー《(柱の)サロメ》1885-90頃
図115  《柱のサロメ》 1885-90頃、PLM.381
 こうして『牢獄のサロメ』から首を抱くサロメまで、物語の順序に従って連作を辿ってくると、それが『出現』に描かれた状況と必ずしもぴったり一致しないことに気づく。そうした様相がさらにはっきりしてくるのが、物語の続く場面を描いたと思われる、幾つかの構図である。図116 は『宙に盆に置いたヨハネの首を差し上げるサロメ』を描いている。足下には黒豹がやはり前脚を上げてからだを起こし、右には洗水盤が描かれてある。首の上には鳩がおり、別のヴァージョンでは光を発しており、聖霊の象徴である。「宙に生贄であるかのように、盆を差し上げる」(222)サロメの姿は、サロメを巫女と見なすことに合致する。サロメが生贄を捧げるのが、聖霊の鳩によって表わされるキリスト教の神であることは何ら不都合ではなく、絵を描いているモローにとって、それが絶対の神であれば良かったのである。ただこの場面が、踊りが終わったすぐ後で、首が「出現」したあの場面とどう一致するかは、必ずしも明快ではない。もちろん筋をつけることはできる。一つはこれが「出現」に先立つ場面で、首が舞い上がるべく、彼女はそれを差し上げていると考えること、もう一つは、この世のものではないものを呼び出すこと、「出現」に成功したので、天に差し上げて喜びを示している、と考えることができる。しかしこうした筋道を考えなければならないこと自体に、既に問題がある。場面毎に舞台設定やサロメの衣裳が変わっていることも思い出そう。その典型が、『踊るサロメ』と『出現』における建築の変化である。この二点は同じ年のサロンに出品されているのである(設置場所は油彩と水彩では違っていたのだろうが、ゾラはこの年のサロン評の中で『出現』については言及していない(223))。こうした事情がさらにはっきりしてくるのが、モローが1888年に仕上げた、かなり制作の粗い『ヘロデア-サロメ』(図117)というグアッシュを加えた水彩画で、ここではヘロデアは遠くを見、サロメは目を伏せて、それぞれからだを休めて物思いに耽っている。ヨハネの首は床の上に置かれ、まだ光を放っている。あるいは、しばしばコンスタンタン・ギースを思い出させると形容される水彩では(図118)、「サロメは夜会服を着た社交界の人間で、嘲るようにヨハネの首を見つめている」(224)。
 例えばシリーズになっている物語、小説でも映画でも良いが、を読む時、以前の話で起こったはずの状況が次の話に影響を与えず、一番最初の話に戻ったかのように、主人公とその設定だけ同じで、話そのものは別のものということがよくある。これは読む側にとっては、そのシリーズに関しては、一つの話と次の話を読む間に実際にどれだけ時間がたっているかに関わりなく、内的な時間が経過していないのに、物語を作る側では、一つ一つの話は内的な時間の変化に即して作られるため、以前の時点で作り上げた設定が、現在の時点での必然性と必ずしも一致するとは限らないために生じる事態である。サロメの連作においても、またスフィンクスの連作においても、作品の一点一点が、以前に描かれた場面と必ずしも一致しない、独立した性格を示そうとしており、ホルテンの言うような、「映画における如く、一つの行動の展開を相継ぐ」(225)ものとして連続している、と言うことはできない。それでもモローが、スフィンクスなりサロメなりの性格に強い関心を抱いたことは事実であって、彼はその時点その時点で、対象である人物の内に読みとったものを絵画に表わそうとしたのである。そしてその時描かれる内容、あるいは画面の要求するところに従って、設定は変えられる。ある時間の内で展開するできごとを、別の時間に属する視点から、元の時間からすれば永遠の視点から、さまざまな角度から取り上げたのが、モローにおける連作であり、<継起の原理>なのである。

 
  モロー《(盆に置いた聖ヨハネの首を宙に差し上げる)サロメ》1885頃
図116  《宙に盆に置いたヨハネの首を差し上げるサロメ》 1885頃、PLM.329

222. Mathieu, ibid., 1976, p.128.

223. Zola, "Lettres de Paris. Deux expositions d'art au moi de Mai", ibid., pp.963-964.

モロー《ヘロデア-サロメ》1888
図117  《ヘロデア-サロメ》 1888, PLM.357

モロー《サロメ》
図118  《サロメ》 MGM.351

224. Holten, ibid., 1961, p.72.

225. id.
 
  
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