卒業論文、1981年1月6日 関西大学文学部哲学科美学美術史専攻提出 |
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ギュスターヴ・モローに就いて
石崎勝基 |
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2017年の前置き 羞恥恥辱含羞!いけない見本シリーズその5です。卒業論文まで載せるつもりはなかったのですが、やはり当初載せるつもりのなかったその4・修論こと略称『モロ序』の作業をしこしこしていると、ブリヂストンの《化粧》も西洋美術館の《ピエタ》もちらっと触れこそするものの、図版が出てこないではありませんか。当時国内で実物を見ることができたのは、上の二点、同じく西洋美術館の《聖チェチーリア》、大原の《雅歌》の計四点で、《ピエタ》以外は水彩なので常時展示はされていなかったはずですが、そんなことに気づきもせず、倉敷と東京までのこのこ出かけ、しかしなぜか見ることはできたとの憶えがあります。勘違いかもしれません。つまりこの四点以外は図版でしか知らないはずで、それでいて好き勝手な書きっぷりには、怖いもの知らずというか、ほとほと感心するばかりです。 とまれ、『モロ序』にはアングル - シャセリオー - モローのウェヌス三竦みもなければ、モロー - ルドンのキュクロープス競演もありません。《公園の散策》、いわんやクリヴェッリにレンブラント《姦淫の女》、アングル《玉座のナポレオン一世》、ターナー、セリュジエ《護符》も登場せずじまいでした。というわけで、それらを挿図に載っけるためだけに、もはや恥も外聞も吹く風涼し、咲いて何の愁いがありましょう、掲載することにいたします(縦横比など画像の不備に変わりはないのですが)。 規定に従い本文は400字詰め縦書き原稿用紙で50枚でしたが、加えて目次と凡例で2枚、註16枚強、参考文献3枚強に図版58点、ただし註は枡目より細かく書きこんでいるので、字数は多い。 またその1・略称「セリオ」君(1983)のさらに前なので、漢字だらけ・ルビ満載です。それでいて語彙豊かならず、文末は不統一、中身は張り扇が飛び交い放題ですが、担当教官が書きこんだしごくもっともな数多のチェックにもかかわらず、誤字脱字、作品タイトルを《 》で囲んだこと、固有名詞や文献の表記、若干の改行などを除いて、原文には変更を加えていません。 例によって画像の上でクリックすると拡大画像とデータのページが表示されます。画像の色はもとより、縦横比など、問題があるかもしれません。尚本サイト内に挿図がある場合は、「(→こちら)」としてリンクさせました。 本稿をもってシリーズ第1部・手書きレポートの段は、30数年後の前置きともども一応の締めとなります。第1部に載せたのは筆者以外に1名、多くて2~3人しか見ることもなかったものですが、続く第2部「OCRでいこう!」は一応印刷されており、筆者と編集者以外、可能性としてはもう少し多くの人目に触れる機会があったはずではあるものの、実態がどうだったかは杳として知れない原稿を4~5本挙げる予定です。光学式文字読取ことOCRソフトとして手もとのパソコンには「読んde!!ココ」が入っているのですが、うまく読みとってくれるかどうか次第で、変更になるかもしれません。その後第3部・著作権切れ泰西美術等400字前後解説輯、昔の観光スナップに使えるものがないかの家捜しを経て、賑やかし工事は一段落、古城入り怪奇映画巡りを再開できればと思うのですが、はてさて、いかが相成りますことやら。 |
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2017/7/24 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
註は行の右に、(1)、 (2)、…と |
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序 |
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註1
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Ⅰ.シャセリオー モローは修業の始め、ダヴィッドの弟子ピコの教室に学ぶが(2)、直き其処を出てシャセリオーの門を叩き、大きな影響を受けました。 シャセリオーは、美術史の上ではアングルの線とドラクロワの色を折衷した画家とされる。絵画の流れに於て、線と色の対立が意識されるのは |
2. 他にピコの元で学んだ者には、カバネル、ブグロー、其にヨンキント 3. ゴーガンは、「形と色の綜合」と 4. J. Kaplan, Gustave Moreau (参3), p.11. |
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《エステルの化粧》(図1) - アングルの絵を巡った後で此の作品に来ると、豊麗な色彩に目を打たれる - 青、赤、焦茶、緑、金、 |
図1 シャセリオー《エステルの化粧》 1841 5. 美術史の上で女性の大きな眼と云うと、ルーベンスの名が浮かびますが、あの健康よりシャセリオーが近いのは、パルミジャニーノの《アンテアの肖像》(1530代後半、ナポリ、国立カーポディモンテ美術館)や青木繁《大穴牟知命》(1905、東京、ブリヂストン美術館)でしょう。《アンテア》では理想化・単純化された形態の中で、大きな眼が手 6. ボードレールの、何が描いてあるのか分らない程遠くから見ても訴えるものを持つ 7. 大岡、「フランス・ロマンティシズム(4)」(参23)、p.131。 |
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《一角獣》(図2)はモロー後期の代表作の一つである。白、赤、藍、緑、茶等が《エステル》同様大きく置かれ、是等稍甲高い色彩を右前の裸婦の暈した様な柔かい肌が落ち着けている。背景の大まかな処理に対して、前景は微細な |
図2 モロー《一角獣》 1885-88頃 左下に署名 MGM.213 8. |
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作例をもう一つ - アングルの《ウェヌス》(図3)は正面から捉えた女体の輪郭が主眼だろう。併し上半身と脚は |
図3 アングル《 図4 シャセリオー《海のウェヌス》 1838 図5 モロー《アフロディテ》 1870頃 右下に署名 PLM.121 9. 此の手法をモローは他でも使っており、《妖精とグリフォン》(図54)では透明感を強めるのに成功しているが、《雅歌》(図29)では 10. 「…シャセリオーの女性表現はモローに比べるとより官能的な姿と、豊かな体躯を持っている。…シャセリオーにおいて、女性は愛の行為の後の物憂さを見せているのに対し、モローでは、美しい女は近づき難く、マラルメの言葉を借りるなら、『処女である故の恐怖心』に自ら磨きをかけているのである」、P.L.マチュー、 |
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以上、モローがシャセリオーから受け取った物を纏めると - アングルの線とドラクロワの色の綜合と云う課題、其処から生ずる神秘化された異郷趣味(11)と豪奢な女性像(12)、と成ろう。 |
11. P.L.マチューは、モローがドラクロワやシャセリオーと違って、東方世界から衝撃を受けず、一層遠方に霊感を仰いだとしているが、シャセリオーに於て.既に東方はドラクロワよりも内面化されていたのを、モローが一層押し進めたのだ、と見たい、P.L.マチュー、ibid.,
p.34. 12. 「…モローの女性観は明らかにシャセリオーから来ている。女性は美しい獣であり、夢見がちで、上の空で、動きがなく、宝石で飾り立てられ、壮麗な衣服をまとっている。…」、P.L.マチュー、ibid., p.32. |
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Ⅱ. 中期 初期のモローは、ドラクロワ、シャセリオーの影響を強く受け、烈しい筆致で浪漫派的な主題を描いたり、古典派的な様式で神話を扱ったりしている。此の頃着手した大作では繁雑な迄の寓意的要素と静謐が後のモローを予告している(13)。 |
13. |
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1857年から2年間、彼はイタリア旅行に出掛け、多くの絵画を模写しており、その中で彼が最も熱を入れたのは、ティツィアーノとカルパッチオであった(14)。この旅行の収穫としては他に、コローめく瑞々しい風景画がある(15)。 1864年から68年迄、モローは再び |
14. P.L.マチュー、ibid., pp.14, 66, 69, 77. ドガが手紙で「色彩好きのあなた」と当時のモローに呼び掛けている、同上、p.67。マチューはピコの教室時代既に「ヴェネツィア派へのはっきりした偏愛」が現われていると指摘している、同上、p.28。反対に中期の作品への影響が 15. この時期の幾つかの作品(図37~40)に就いては、Ⅲ章2節3) で言及する。 |
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先ずアングルの作品 - 視る者の目に入るのは堂々とした男性の躰である。画面の中心に左の脇 - 上腕 - 腿が作る三角形が置かれ、脇の斜線には右上の雲の見える崖、前へ出した左下腕、右下からスフィンクスの足元への線が、左上腕には左上の洞穴の縁、スフィンクスの躰、槍、崖の線と逃げる男が アングルの与えた |
図6 アングル《スフィンクスの謎を解くオイディプス》 1808-25 16. 此の作品は元は一層平坦で影の無かったのを、注文者が苦言したので後から上の要素を追加したのだと云う、R.ローゼンブラム、『アングル』(参63)、p.80。因みにローゼンブラムは、アングルの制作を平面的線 - 抽象 - イタリア・プリミティヴと質感の細密描写 - 写実 - フランドル・プリミティヴの相克の上に見ている、同上、pp.24-34。本稿註29参照。 図7 モロー《オイディプスとスフィンクス》 1864 左下に署名 PLM.64 17. 同じ様な円柱をモローは屡々導入しており、垂直性の強い画面の中、斜めに置かれた形態(多く女体)の流れを差し止め、時間を静止させている、図29、30、46、47、54 及び 2、5、13、16、23、24、26、31、42、43、49、56、57 参照。 18. テオフィル・ゴーティエの評、江原順編訳、「モローの言葉とモローについて述べられた言葉」(参38)、p.187。 |
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中期のモローの作品は,アングルに比べれば色調に目を向けているとは言え - 特に背景、大旨古典派的な技法 - 線の優位、滑かな賦彩 - で描かれ、静寂の中人物が大きな位置を占め、構図や |
19. モローは絵の解釈は見る者に 20. 「大なり小なり意味ありげな細部のこうした積み重ねが、見る者に、…作品の絵画としての特質から目をそむけさせ、文学的で凝りすぎの図像学的探求へと向かわせてしまうのである」。P.L.マチュー、ibid., p.96. 亦当時W.ビュルジェと云う人はモローの作品を「判じ絵」と評し、《オイディプスとスフィンクス》に就いて次の様に述べたと云う、「…ギリシャやギリシャの伝説についてしゃべる気を起こさせるばかりで、絵そのものについては考えさせもしない」。同上、pp.96, 84. |
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《オルフェウスの首を持つトラキアの娘》(図8)は当時の作の一つ、中央左寄りに立つ少女は左を向いて頭を垂れ、背景の岩山と共に右方に大きく空間を開いている。背景は《オイディプスとスフィンクス》の延長で省略した筆で描かれ、 先の《アフロディテ》(図5)にせよ此の水彩にせよ、 |
図8 モロー《オルフェウスの首を持つトラキアの娘》 1865 左下に署名 PLM.71 図9 モロー《オルフェウス》 1864 左下に署名 PLM.73 21. モローとルドンに就いては、本稿註40 及び「結び」参照。 22. 《オイディプスとスフィンクス》、《オルフェウス》は夫々、モローの主題の二本の柱である〈 《オイディプスとスフィンクス》に見る様に、〈 |
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Ⅲ. 後期 1. 必要な豪奢さ 1) 宝石細工 《ユピテルとセメレー》(図13)は、モローの遺言とも云われる大作です。此の絵を見て先ず感ずるのは、異様な迄の細部の集積だろう、暗い光の中で輝く色彩を纏い、円を基本にした其等は無数の眼と化して観者の方を見詰め、画面全体の秩序を破って |
図13 モロー《ユピテルとセメレー》 1894-95 右下に署名 MGM.91 PLM.408 23. マックス・エルンストの《沈黙の眼》(1943-44、セント・ルイス、ワシントン大学)が思い出される。実際、エルンストの《沈黙の眼》や《雨後のヨーロッパⅡ》(1940-42、ハートフォード、ウッズワース文庫)の如きデカルコマニーを応用した風景画は、鮮やかな色彩で微細な迄に描かれた細部が自立して生動する様に見える点、ダリやタンギー以上に、モローに共通する所がある様に思われる。 24. 「厳しい左右相称の構図は雑多な細部を統一へと収斂させる役割を果している」。P.L.マチュー、ibid., p.182。モローが構図の参考にした物として北方ルネサンスの祭壇画の模写が残っている(→こちら:件の模写の頁)。様々な装飾に囲まれた玉座に父なる神が坐り(=ユピテル)、その右膝に御子が坐っている(=セメレー)。左手は、Α、ω と書かれた本を持ち(=竪琴)、その上に聖霊の鳩がのっている(=背後から顔を出している翼のある女人 - 天使かそれともヘラか?)。Kaplan に依ればモローがこの作品から借りたのは「全体の絵画的な霊感、ヒエラルキーの 25. ヘカテーは左前で頭上に月を頂き、目を見開いて 26. |
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この作品は、モローを形容するのに |
27. 亦は「金銀細工師」。例えばP.L.マチュー、ibid., p.126(《出現》(図23)に就いて)、p.148(シャルル・ブラン、ラ・フォンテーヌ寓話挿絵に就いて)、p.155(エドモン・ド・ゴンクール)、etc.
亦ポール・ヴァレリー、吉田健一訳、『ドガに就て - ドガ・ダンス・デッサン』、筑摩書房、1977、p.60(ドガ)、D.ゲラン編、ibid.,
p.59(ゴーガン)等々。モロー自身〈美しい無力 la belle inertie 〉と共に、〈必要な豪奢さ la richess nécessaire 〉を自らの原則としていたと云う、大岡信、「ギュスターヴ・モロー論 - アラベスクへの愛」(参17)、p.56 註10 及び P.L.マチュー、ibid.,
p.178 他。 |
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《玉座のナポレオン一世》(図12)は、モローが参考にしたと思われる《ユピテルとテティス》(図11)(28)の原型であるアングルの作品 - 玆でも正面性と左右相称を基本にした構図に、精緻な細密描写が蒼白な顔面と対照されて、近付き難い荘厳さを漂わせている。玆での細密描写は、正確な |
図12 アングル《玉座のナポレオン一世》 1806 図11 アングル《ユピテルに懇願するテティス》 1811 28. 《ユピテルとテティス》の大神は、ナポレオン一世(図12)の豪華な衣裳が厳粛さを高めていたのに比べると |
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北方的な物を感じさせる(29)アングルに対して、南からクリヴェリの作品(図10)(30) - アングルの光や質感の再現の代りに、玆では線が支配している。硬質な線が枠組を決め、その中に色が与えられて行く。アングルに 扨モローはアングルの様に質感再現が目的に成っている |
29. 発表当時、この作品はゴシック的と評され、ファン・アイク(ヤン)の影響(就中ガン祭壇画内側上段中央の《父なる神》)が指摘されたと云う、R.ローゼンブラム、ibid.,
p.68。先に見た(註16)ローゼンブラムの図式に従えば、この作品は細密描写 - 写実 - フランドル・プリミティヴの側に、《ウェヌス》(図3)、《オイディプス》(図6)は線
- 抽象 - イタリア・プリミティヴの側に属すると言えよう。事実、《ナポレオン》では線の働きは画面で 図10 クリヴェリ《受胎告知》 1486 30. 玆にクリヴェリを持ち出したのは、リヒャルト・ムーテルが「 |
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モローが |
31. 図16 モロー《ダヴィデ》 1878 右下に署名 PLM.171 |
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ドラクロワ - 先ず目に入るのは、中央の大きな白壁である。此の白は左右の蔭に連続的に移って行く、と云うよりは強く対照される事に依って光と モロー - 前景が |
図17 ドラクロワ《モロッコにおけろユダヤ人の結婚式》 1839 図19 モロー《ヘロデ王の前で踊るサロメ》 1876 左下に署名 PLM.157 32. 「この時亦、彼は絵画の堅固な、明瞭な構造に豊富さの感覚を作り出す為、光と影の錯綜した戯れと輝く色彩を使い始めた。これは特に、光が物体を打ちその細部を埋める所で明らかである。結果形は限定を失い、近くから見た時は形ははっきりせず、遠くから見た時に焦点が合う事になる(右に懸かっているランプ)。画面は単彩の背景に 33. モローの言、同上、p.144 に掲載。 |
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ドラクロワが色彩の |
34. P.L.マチュー、ibid., p.34. 35. レンブラントとの直接の関係に就いては、充分調べ得なかった。既に1846年ピコの教室でのレンブラントの模写が残っている(j. Kaplan, ibid., p.11 及び cat.2)。亦 Kaplan は《サロメ》のアーチに懸けられたランプは、モローが複製を所有していたレンブラントのエッチング《イエスが金貸しを寺院から追い払う》(1635、大英博物館)から借りたのだろう、と云う、同上、p.34→こちら:件の作品の頁。後に1885年頃彼はネーデルランドに旅行するが、是はレンブラント研究の為とされている(足取りはよく判っていない、P.L.マチュー、ibid., p.171)。亦弟子達に対してレンブラントを賞揚している、同上、p.200 及びG.ルオー、『回想』(参61)、p.48。本稿註41参照。 36. ゲオルク・ジンメル、髙橋義孝訳、『レンブラント - 藝術哲学的試論』、筑摩書房、1979、pp.196-207。敷衍すると - バロックの光は画面の外から入って外へ流れて行く事に依って無限を暗示し、観者と結び付く。カラヴァッジオやジョルジュ・ド・ラ・トゥールの光は影とくっきり対照される事に依って、形態を浮かび上がらせる。対するにレンブラントの光は、画面の外に流れ出る事なく影と「 37. 《放蕩息子の帰宅》、1663頃、レニングラード、エルミタージュ美術館、《家族の肖像》、1668-69、ドイツ、国立アントン・ウルリッヒ公美術館、《ユダヤの花嫁》、1668、アムステルダム国立美術館、等。 38. 図2、14、22、31、46 等参照。 図18 レンブラント《姦淫の女》 1644 39. とすれば、《ユピテルとセメレー》(図13)でモローは、再び観者と接触しようと試みたのかも知れない。 40. ルドンはレンブラントの名に於て、モローの非人間性 - 「視覚的 41. 「レンブラント風の作品に深紅色その他の豪華な色合いを配してみた。すると、色彩であれ、色調であれ、この親しげで深い詩情を壊さずに、何ら積極的なものをこの物憂げな調和の中に挿入するのは不可能であるということが理解できた」。モローの言、P.L.マチュー、ibid., p.220. 即ち彼は「豪華な色合い」と「深い詩情」をレンブラントの様に調和させる事が出来ず、やむを得ず前者の探求を専らとした、と解釈するのは附会に過ぎるだろうか。 |
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2) 線から色へ 《聖セバスティアヌスとその拷問架》(図24)は1870年頃の作品で - 《アフロディテ》(図5)と同じ頃 - 寧ろ中期に属するが、先に述べた様に小品ではモローはより自由に振舞う。中期の作品の背景(図7、8)に使われた手法の拡張だが、色彩の輝きが遥かに強い。画面は大旨水平に厚く塗られた |
図24 モロー《聖セバスティアヌスとその拷問架》 1870頃 右下に署名 PLM.126 42. モローは宗教的主題を扱う場合、処理を単純にすると指摘されている、P.L.マチュー、ibid., pp.90, 104, 171. Kaplan, ibid., p.43. |
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《ヘラクレスとレルネー沼の |
図25 モロー《ヘラクレスとレルネー沼の 43. Kaplan, ibid., p.42. 44. 同上。 45. 此の主題では、素描や水彩に |
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《庭園のサロメ》(図26)は1878年の作品 - 《ヘラクレスと水蛇》で全体の色調に息抜きが欠ける様な所があったが、此の作品に至ると砂糖細工めいて人に |
図26 モロー《庭園のサロメ》 1878 右下に署名 PLM.176 |
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《ピエタ》(図28)は《サロメ》等(図19、25)と同じ年の小品だが、《庭園のサロメ》以上に線は震える色に埋もれんとしている。両者の筆が自由に成る程、モローとドラクロワは相近付くが、ドラクロワに比較すれば(図27)、先に述べた事が再確認されるかも知れない
- 目を射る白、赤、緑、黄と云った色彩は、連続する明暗の中から浮かび上がって来ると云うより、他の色との交渉に依って強め合っている。緑の山と聖母、 |
図28 モロー《ピエタ》 1876 右下に署名 PLM.148 図27 ドラクロワ《キリストの埋葬》 1848 |
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《雅歌》(図29)は晩年の宝石細工師モローの典型と見える - が、丁寧な筆致が見えるのは躰の肉付けだけで(過ぎる程だ(46))、他は |
図29 モロー《雅歌》 1893 左下に署名 PLM.399 46. 本稿註9参照。 |
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《化粧》(図30)は《雅歌》以前の作品だが、背景が明るいので個々の色の独立が強く、絵具の流動も大きい。構図は似た様な垂直を強調した無機体と女体の柔かさの対照だが、硬直した肉付けはなく、下半身は全く立体感を欠いている。線が占めるのは背景の枠と顔・手のみで、他は色の流れに依って表わされている。衣の装飾も《雅歌》では未だ線的な輪郭性が見えたのに、《化粧》の其は色の有機的な増殖だ。併し上部に物憂気な、高慢そうな女の顔が描かれている事に依って、画面は観者から退き、見られる対象と化す。 《化粧》はモローが |
図30 モロー《化粧》 1885-90頃 右下に署名 PLM.385 |
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2. 色彩の夢想 1) エボーシュ 最初の《一角獣》(図2)を除いて、今迄言及した作品は全て、モローが完成作と認めて 《ユピテルとセメレー》(図13)を、その繁雑な迄の細部の輪郭付けに由ってモロー美術館の一つの極とするなら、もう片方の極は《エボーシュ》とのみ呼ばれる(48)作品群である - 玆には色彩のみがある。 |
47. 是等は全て、P.L.マチューの『完成作品カタログ』に列挙されている。版画その他を含めて計473点に成る。巴里のモロー美術館はモローが遺言で国家に寄贈したもので、1902年受諾された。油彩800点、水彩350点、素描と模写7000点以上と云う。マチューのカタログにはモロー美術館の作品が《ユピテルとセメレー》等7点あるが、是等は後に持主に依って寄贈されたか、発表当時売れなかったもの。尚モローの作品の未完成に就いては、本稿註51参照。 48. 辞書に依ると - ébauche 女性名詞 ①(絵画・彫刻・文学などの)粗造り:下ごしらえ、粗削り:下書、下絵、粗描:(小説などの)草案。 ②ほのかな輪郭、かすかな形。是等の作品は「色彩の研究」と呼ぶ事もある様だ、竹本、「異教詩人の竪琴」(参8),p.76、その図20。 |
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先ず一点(図31) - 最初に気を取られたのは氷色とでも称すべき白だ、目の詰まった様な凝縮性は厚塗りの |
図31 モロー《 49. H. H. Hofstätter, Gustave Moreau (参6), p.159. |
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次の作(図32)では窓を開く白が無く、息苦しさが募る。横長の画面で水平方向が意識され、赤と青の拮抗が目に入る。上部の褐色も二分され、筆触から見ると左半が右半に凭れ掛っている。補色の赤と緑は熔け合わず、暖色の赤と黄が引き合うのを寒色の青と緑が遮っている。この絵でも粘る様な |
図32 モロー《エボーシュ》 MGM.1139 |
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今の二作では上下 - 前後のある三次元を見る事が出来たが、この作品(図33)では奥行は全く失われ、上下は下に重い紫、上に黄や赤が昇っているから |
図33 モロー《エボーシュ》 1890頃 MGM. 50. 「…形を成さない色をつけたもの…この色にしても明瞭に天と地面と奥行の構成を持っていて、モローがすべて舞台の上の想像の世界を描いていることを示していました」。池辺、『近代絵画のはなし』(参54)、p.104。後半の意見は兎も角(註57参照)、前半は玆に挙げた作品に代表される様に、必ずしも一般的ではない。「どの方向からみても殆んど破綻なく見られる」のが造形力の証しだと云う見解は一応置くとしても(小倉、「現代の眼からみたモロー」(参17)、p.68)、一体 |
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註51. モローが是等の作品をどの様に考えていたのか分っていない、 ・「それらが決して単なる習作や筆のすさびでなかったことは、例えば『スケッチE』や『死せる竪琴』にその例が見られるように、モローが自らはっきりと署名を入れていることから証明されよう。モローにとってこれらの作品は、当時としては公式に発表することのできないものであったにせよ、明確に意識された『完成作』でありその意味では彼は最初の抽象画家のひとりであったといってもよいのである」。高階、「ギュスターヴ・モロー」(参25)、p.147。 「…明らかにサインしている作品がある。大作の『死せる竪琴』『ガラテア』(図57?)などがそれで、G.M.のサインがみられる。ということは、彼は作品のこの段階において、すでに或るイメージの完成を確認していたことを意味するのであろう。これはセザンヌにもしばしば見られるが、両者とも、いわば未完の完成を知っていたことで、むしろ作家のヴィジョンの強さを立証しているとみてもいいと思う」、小倉、ibid., p.68。 ・マチューは題名を見つける事の出来る作品のある事を指摘し、一方「純粋な色の遊びであると認めざるを得ない」作品の存する事も認めるが、亦 「彼の色彩習作に現代のノン・フィギュラティフの先駆を見ることは、単なる様式的な系譜として以上には、あやまりだろう。おそらくそれはつねになんらかの主題として構想されている。…しかしそれだけに一方、習作の段階をへて、コンポジションを描きこめば描きこむほど、モローは想像力の…未分化な全体性から遠ざかる危険にさらされていたようだ。おそらくモロー自身、この矛盾に気づいていた。未完の作品のおびただしさはそれを語っているように思われる」。宮川、ibid., p.63. 「この画家が多くの未完の画を残しており、これらの作品から最後まで描き上げたくないという意識的な企図を推論することができる…モローは観念論的な内容をレアリスム的な歪曲をつくして造形する…ことの矛盾を感じ、彼の〈完成した〉作品を妥協の産物と見倣していたのにちがいない。モローがおびただしい作品を最後まで描き上げなかったのは、彼にとってはそれが十分に完成したものであったからであった。…だが、モローを初期フォーヴィストと見ることも、タシスムの先駆者と見ることも、ともに誤った解釈であろう。…モローの ・「絵のスケッチ状の状態は、モローの制作方法を反映し、亦彼の議論の的になっている『非具象の』油彩スケッチの機能を明らかにする。絵の最も印象的な所は注意深く描かれた細部である。モローの後の完成された絵は、これが充分に仕上げられたであろうことを示唆する、非常に精密にされた形態で満たされたろう。細部の一枚の準備素描が、装飾の性質を暗示する。形態と装飾的な細部は色の域の上から加えられる - 素描が最初で賦彩はその後、と云うアカデミックな方法と違って、モローは、しかし彼のイメージを色調の広い域によって思考したのだ、調和が置かれて始めて彼は形像の細部を加え始めた。この技法は全く新しいものではないが(モローは既に《サロメ》の習作(図20、22)で使用している)、《アレクサンドロス》(→こちら)は大きな、完全な絵画に この意見は、モローの最も「抽象的な」作品は全て油彩である事(少なくとも今迄見る事の出来た限りでは)、モローの制作過程(に関しては、P.L.マチュー、ibid., pp.193-206)を踏まえている事からも、説得力がある。併し、モローの意識は亦別だ。結論を出す前に、モローの芸術観を一瞥して置きたい - ・理想主義 - 「私は自分が触れるものも見るものも信じない、私は自分に見えないもの、そして自分が感じるものだけを信じる。…」、大岡訳、ibid., p.54. 同じ様な発言はフリードリッヒ、ゴーガン、キリコ、クレー等幾らでも探し出せよう。 「芸術は高め、高尚にし、徳化するものでなければならない…」、P.L.マチュー、ibid., p.217. ・純粋造形 - 「構図において、精神と 「ある画面が、なんらかの対象を再現しておらず、また、なんの感情をも描きあらわしていないにしても、その画面は、なお装飾としての独特な価値をもっている」。坂崎訳(参51)、p.32。 「諸君がルーヴルへ行き、ヴェロネーゼの作品《カナの饗宴》やコレッジオの作品《ユピテルとアンティオペ》の画面の背景から、仮りに任意の一辺を切りとって、これを枠にはめ、識者に示したとする。するとその人は、主題も構図も対象もはっきりとしない彩色された一片を前にして、即座にこういうだろう。 - これを描いた人は、疑いもなく真の絵描きだと -」、同上、p.340。 この発言は、ボードレールのドラクロワ評 - 遠くから云々 - (註6 及びゴーガン、D.ゲラン編、ibid., p.167)と対にする事が出来よう。 「画面に描かれる非現実的な任意の色調は、主題の非現実的な性格からして生み出されるべきものでは少しもなく、美しさという観点から選びだされた色彩の必然性に立って、画家によって創り出されるべきものである」。坂崎訳(参51)、同上、p.33。 平行する見解 - ゴーガン「音楽の姉妹である絵画は、形と色彩だけを糧にして生きている」。D.ゲラン編、ibid., p.94. ドニ「絵画作品とは裸婦とか、戦場の馬とか、その他なんらかの逸話的なものである前に、本質的に、ある一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平坦な表面である」。高階訳(参50)、p.111。 アウグスト・エンデル「われわれは今や完全に新しい芸術の入口に立っている。それは何ものも意味せず、何ものも再現せず、しかも音楽のひびきがそうであるようにわれわれの魂を深く動かすことのできるような形態を持った芸術である」(1896)。高階秀爾、『芸術空間の系譜』、鹿島出版会、1967、p.164。 ・純粋造形による内面表現 - 「線、アラベスク、造形的な諸手段によって、思想を喚起すること、これこそ私の目標だ」。大岡訳、ibid., p.52. 「私は生涯、私が画家としては文学的でありすぎるという、誤った馬鹿馬鹿しい意見に、あまりにも苦しめられてきました。…これらすべてのことは、言葉による説明を必要としないものです。この絵の意味は、造形作品を少しでも解読できる人にとっては、じつに明瞭であります。必要なことは、ただ、少しばかり夢みることであって…」、同上、p.51。 「色彩を考え、それについて想像力を持たねばならぬ。もし想像力を欠くなら、美しい色彩を出すことは決してできない。…色彩は考えられ、夢みられ、想像されねばなるまい」。同上、p.56。 「芸術とは、造形性のみを手段として、内的感情を厳しく追及することにほかならない」。高階訳(参17)、ibid., p.65 「私の内にはあるものが支配的な位置を占めている。それは抽象へのたいへん強い熱情と誘惑だ。人間の感情や情熱の表現は私にとって確かに非常に興味深いものである。しかし、こうした魂や精神の動きを表現するよりも、どこに結びついてよいか分からぬ内なる輝きを、いわば目に見えるものにすることの方が私には向いている。この輝きは、一見何の意味もないような外見のうちに、何かしら神聖なものを持っていて、純粋造形の驚くべき効果で翻訳されると、本当に霊妙な、崇高と言っていいほどの地平を開いてみせてくれるのだ」。P.L.マチュー、ibid., p.182. 所で、玆での「抽象」と云う言葉の使い方は、ゴーガンの「あまり自然に即して描いてはいけない。芸術は一個の抽象なのだ。自然の前で夢みつつ、そこから抽象を引き出したまえ」(D.ゲラン編、ibid., p.36)に近いが、恐らくゴーガンの方が一層技法に結び付いていたろう。ベルナール、ゴーガン、ゴッホ等の「抽象」と云う用語に就いては、二見、『抽象の形成』(参66)、pp.22-24, 30. 「この小品の印象は畢竟色調、色価、基本的な線の選択の内に在る。其等が構図に 平行する見解 - ドニ「形態と感動との間には密接な 同「音や色や、言葉は、外界の再現ということのほかに、それ自身で、奇蹟にも似た表現的価値を持っている」。高階訳(参50)、p.50。 諸感覚の ゴーガン「形と色彩によってなんと美しい思想を表現できることか!」、D.ゲラン編、ibid., p.37. 同「音楽が考えさせる様に観念やイメージの助けを借りず、ただ私たちの頭脳と、このような色彩と線の配列との間にある神秘的な関連だけから、考えさせるものでなければならないんです」。同上、p.143。 同「やれやれ、文学的な手段ではなく、絵画固有の手段を用いて、自分の思想を表現しようとすると、絵とはなんとむずかしいものか!」、同上、p.173。 同「画家の文学性とは特殊なものであって、文学作品をフォルムによって説明したり、翻訳することじゃない。要するに絵においては、音楽がやっているように、描写するより暗示しようと努めるべきなのだ」。同上、p.326。 同「何よりもまず理知的な ー ということは『文学的』とは違う - 画家」。高階訳(参29)、p.144。 カンディンスキーも、「文学的」でなく「純芸術的」と云っている、カンディンスキー、西田秀穂訳、『芸術における精神的なもの』、美術出版社、1958,p.79。 是はボードレールの「哲学的芸術」と「純粋芸術」(恐らくドラクロワが頭に在ったろう)の区別に呼応するだろう、ボードレール、ibid., pp.249-259. ・モローに戻って - 「私は自分自身の為に制作する時だけ幸せを感じるくらい自分の芸術を愛している」。P.L.マチュー、ibid., pp.26, 147. 「…常に健全で正統な批判の声…は、私の試みるものすべてを、疑わせしめ、私の想像力が狂気と耄碌に境を接するものだと囁くのだ」。同上、pp.20、147。 この発言を、「・純粋造形 -」とした項の 「構図において…」と並べて見ると、少なくともモローの内に於て、理想主義的な芸術観と純粋造形の探求との間に対立 - 緊張があったことが判る。 (ラ・フォンテーヌ寓話挿絵に就いて)「この小さな水彩画というものは、手早く仕事を仕上げた時にだけ満足すべき結果が得られるということを、私に教えてくれた」。同上、p.16。 「簡素にし滑らかで綺麗な仕上げから遠ざかること。現代の傾向は我々を手段の簡易化、表現内容の複雑化へと導いてゆく…これからの芸術では、まだ曖昧な大衆教育が少しずつ成長してゆくにつれ、注意深く仕上げにまで推し進めたり、完成させたりする必要はもうなくなる。…将来の芸術は(すでにブーグローその他の方法論を告発しているが)、我々は単なる指示、荒描き、そして様々な印象の多様性のみを要求するようになるだろう。完成させることはまだできようが、それは完成という感じを伴わぬ完成なのだ」。同上、p.222。 ゴーガン「二流の画家はいつも、仕上げの知識と称するものに首をつっこみすぎると思います。きわめて巧みな筆さばきはすべて、マティエールを思い出させることによって、想像的な作品を損うだけです。ごく抽象的な教えを適切に、しかもごく単純な形で用いることのできる人間だけが、真に偉大な芸術家なのです」。G.ゲラン編、ibid., p.66。 同「あまり仕上げすぎないようにしたまえ。印象というものは、永続性のないものだから、仕上っていない細部をあとになっていじくりまわすと、最初のほとばしりが損われてしまう。そんなことをすれば熔岩の熱をさましてしまい、もえたぎる血を石に変えてしまうことになる」。同上、p.328。 以上を見た上で、本題に帰ろう - 「…二つの理由 - もちろん近似的な理由に過ぎないが - をあげておきたい。ひとつは、モローの方法が、その初期の制作以来、色彩言語の体系と、線的言語の体系を明瞭に区別し、事実、その両者をいわばモンタージュすることによってひとつの作品を成立せしめたという事実である。 - したがって、彼のエボーシュとはいわゆる下書きつまり推移段階というより、それ自身の価値を主張しうるもの、少なくとも独立の可能性をあたえられた作品であったということができる。それ故、晩年のある日、可能性に気づいたモローが署名し額縁に入れ彼自身にとっての完成作とみなしたということも充分にありうるのである。もうひとつの理由とは、…幻想性からみいだされる。叙事詩的想像力は、個々の事象の積木細工によって構築される。…状況の論理的、写実的な配置が必要なのである。ところが、幻想の世界にとっては、現実的論理は不必要である。写実的な状況描写ではなく、むしろ心理的なニュアンスが重要となる。そして、前者においては、現実的なフォルムを示すために線が重視され、後者においては色彩言語により重点がおかれるのはまたとうぜんといわねばならない。自然と心理的内奥の神秘を描くためには、具体的なフォルムや線は、むしろ障害とさえなりうるだろう。とりわけモローにとっては、線は、細部を固定するための装飾的な体系を意味した。したがって、彼の幻想が強化される程度に応じて、確定性への要求が後退し、線がその価値を徐々に失いはじめたこともまた必然的なことであったといわねばならない。モローがその新たな価値をどの程度に評価したかはわからないにしても、ひそかに意識したことも事実だろう」。中山、ibid., p.8. 玆では、上の見解に従い、Kaplan の意見も認めた上で、モローが《エボーシュ》類の独立した価値を、積極的ではないにしても、「ひそかに意識」していた、と見たい。併し常に頭に置かねばならないのは、作者の意向と結果は必ずしも一致しないと云う事であり判断は常に先ず結果に対して為されざるを得ないとすれば、モローが「芸術家個人はどんな場合でも公けになってはならないのであり、その人となりが作品の背景に完全に消えてしまうことが望ましい」と考えたとする時(P.L.マチュー、ibid., pp.184, 23)、彼も同じ事を意識していたと言えないだろうか。 所で、右に挙げた 本文でドラクロワとモローは筆が自由に成る程相近付く(即ち下絵類に於て)と書いたが、ドラクロワ自身は完成作では下絵の生気が失われる事を認めながらも、完成作の方に価値を置いていた、阿部良雄、「ドラクロワ - 〈未完の美学〉」、pp.71-72、『絵画が偉大であった時代』、小沢書店、1980 所収。亦ボードレールがコローの作品に就いて「 |
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2) 19世紀の先抽象画 19世紀の絵画からモロー以外にも、抽象絵画の先駆と見倣し得る様な作品を幾つか、拾い出す事が出来る:自然観察 → 晩年のターナー(図34)、モネ、綜合主義 → セリュジエ《 |
52. 是等の作品は、美術史全体の流れが抽象への趨勢に在った事を念頭に置きながら見なければならないだろう。 坂崎『抽象の源流』(参18)は他に、ユゴー、ストリンドベリのデッサン、ドガ晩年の風景画、ロダンの彫刻等を挙げている。 ヴァン・ド・ヴェルド《抽象的コンポジション》は1890、オランダ、クレラ・ミュラー美術館、高階、『世紀末芸術』、p.137。装飾的な曲線の輪郭に暗い青、黄等を配した作品で、球根か何かを思わせる。実際、別の所では《果実の装飾または植物の構成》と題されていた、S.T.マドセン、高階秀爾・千足伸行訳、『アール・ヌーヴォー』、平凡社、1975、p.269。 他に、作品を見る機会を得られなかったが、アウグスト・ジャコメッティ(1877-1947)と云う画家が、線から色への展開に依って抽象に達した、と云う、「象徴主義の画家たち」(参45)、p.71。 所で、〈自然観察〉、〈綜合主義〉と書いても勿論絶対的ではなく、セリュジエの《護符》は |
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先ず、 ターナーでは全てが連続していたのに、セリュジエでは個々の色が分離し、固有の価値を主張している。色と色の境界は線としてはっきり現われる。筆触は画面に沿ってベタ塗りで、静寂と平面性を与え、其が一層色の固有の輝きを強調する。画面の何処にも |
図34 ターナー《光と色(ゲーテの色彩論)》 1843 図35 セリュジエ《 |
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ターナーやモネの作品に対して、よく「靄に霞んだ様な」と云う形容が使われる。即ち一切が連続しているのだ。是はターナーの暖色と寒色を対照させた作品でも(53)、ターナーより平面性・個々の色が強く成るモネでも(54)同じで、是等を統一するのは筆触であり其処から光の印象が生まれる。対するセリュジエは、色調の連続に依ってではなく、色の対比にその効果を負っている、ターナーが光とすればセリュジエは色の絵画である。一切を融即させるターナーがその制作に統一された感情の反映を直接感じさせるのに対し、色の効果を明瞭にする為に沈静と線の要素が現われて来るセリュジエは、絵画形式 |
53. 例えば、《戦艦テメレール》、1838、ロンドン、ナショナル・ギャラリー。 54. ターナーに就いては、彼が浪漫派の画家であると云う事と、彼が如何に自然観察に熱心であったかと云う事が、同時に強調されている、K.クラーク、『風景画論』、pp.159-163等。クラークは、ターナーと印象派の違いとして、「色の種類を極度に制限し、きわめて微妙な明暗の差によって多様な色彩を暗示しようとした」ターナーを「 55. セリュジエのこの作品は、ポン・タヴェンの〈愛の森〉にゴーガンと一緒に写生に言った彼が、次の様なゴーガンの指示に忠実に従う事で成立した - 「あの樹はいったい何に見えるかね。多少赤みがかって見える?よろしい、それなら画面には真っ赤な色を置きたまえ - それからその影は?どちらかといえば青みがかっているね。それでは君のパレット中の最も美しい青を画面に置きたまえ…」、高階訳(参50)、p.99。ゴーガンはゴッホにも同じ様な事を言っているが - 「へえー、山は青かったかね、それなら生の青をぶちこめ」、二見、ibid., p.54 - D.ゲラン編、ibid., pp.184-185 に次の様な章句が見られる(1896-97) - 「純粋な色彩だ…そしてそのために、すべてを犠牲にしなければならない。青みを帯びた灰色という固有色を持つ木の幹は、純粋の青となる。…色の強度が、それぞれの色の性質を示すだろう。…これが嘘の真実なのだ。…なぜなら、それは、真実のもの(光、力、偉大さ)の感覚を与えるからだ。…つまり聴く目の言葉としての色彩について、想像力の飛翔を助け、私たちの夢を色どり、無限と神秘に通じる扉をひらく、その暗示力(A.ドラロッシュの言葉)についてだ。…つまり描くのではなく、色彩自体から、その固有な性質から、その内的で神秘的で謎めいた力から流れ出る音楽的な感覚を与えるようにしなければならぬ。巧みなハーモニーを用いることによって、人は象徴をつくり出す。音楽と同様、 56. 浪漫主義も象徴主義も、後の 浪漫派:フュスリとブレイクはマニエリスム、ターナーとコンスタブルは前印象派、ラファエル前派第1期は 象徴派:ピュヴィ・ド・シャヴァンヌを先駆にゴーガン、ポン・タヴェン派、ナビ派は綜合主義、ホードラーも是に近いが彼やベックリンからシュトゥック、クリンガーへと移るに従って自然主義→官学派と動き、クノップフやデルヴィルはラファエル前派 - 官学派、トーロップはアール・ヌーヴォー、セガンティーニは点描法、クリムトに至ると官学派、アール・ヌーヴォー、綜合主義のごた混ぜである。他に印象派と表現主義の狭間にルドン、アンソール、ムンクの如き一匹狼の色彩家たちがおり、全ては密接な関係を取り合っている。亦浪漫派と象徴派を繋ぐ者として、モロー始めシャヴァンヌ、ルドン、ベックリン、ロセッティ、バーン=ジョーンズ等の名が挙げられる - |
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扨モローの抽象画(図31~33)を両者と並べるとどうなるだろう - 一つ一つの色が純粋に抽出され、固有の価値を主張している点、明らかにセリュジエに近い、或いは其以上と言っても良い。所でセリュジエでは色面の拡がりは、二次元上を流れる各々独立した色が互いに交渉して限定し合い、其処に線が生まれる様に見える。是はモローに比べると明らかに成る事で、モローの色はセリュジエ以上に自由だが、その自由さが却って色の動くのが三次元である事を感じさせる。即ちセリュジエでは展開が飽く迄二次元上で成される為、色同士が直接接触する境界は一次元の線に成らざるを得なかった。モローでは色斑が色斑の儘でいる為、 |
57. 本稿註50参照。 図36 ルドン《聖ゲオルギウスと竜》 1907-10頃 58. 是等抽象の先駆者達と現代の抽象絵画との違いは何処にあるのだろうか - 一番単純な答えは、何とか対象を探し出せると云う事で、対象を見分け得ると云う事は画面を分割させ、本文で述べた様な理由と共に、地 - 空白の意識が見られない事と相俟って、三次元の空間を感じさせ、20世紀絵画に比べると重苦しさを与える。即ち二次元ならぬ三次元の空間とそれに滲透する空気の意識が感じられるのだ - しかし是ではセリュジエの《護符》もモローの図33も充分説明したことにはならないだろう、この問題は玆では残して置きたい。 |
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中期に於てモローは線的な様式にも拘らず、アングルが純粋に造形的な探求で満足していたのに比べれば、内的な物 - 古典派の天下りの普遍性ではなく、個性の目を通した上での普遍 - を表わそう、とした点でドラクロワ、シャセリオーを受け継いで浪漫派の画家であった。その際、線的静的な様式は観念の暗示、普遍化を強める点象徴派への一歩を踏み出したと云えるが、未だ線の白日化は観念を担い切れず、文学性が目についていた。 後期、増大する色はレンブラントの光に依って線と一応の綜合が果された。そして現われた幻想世界は、絵画要素自体 - 細部の寓意的意味ではなく、細部の集積其物が幻想性を伝えると云う時、象徴性へ更に一歩推し進めたと云えるだろうが(59)、寧ろ観者から遠退く異郷性は、最後の浪漫派と呼ぶのが相応しかろう。 最後の大作《ユピテルとセメレー》(図13)では、繁雑な迄の線と神秘な色の綜合が表出力を高め、象徴性を高める一方、小品や 次章では、《エボーシュ》とⅢ-2)章で見た作品との間隙を埋めましょう。 |
59. 註51で述べた様にモローは、「観者が彼自身の様に個々の細部を詮索する事は望まず、逆に視る者は彼の絵画をフォルムによって呼び起こされ、其がもたらす応答によって理解できるだろう、と仮定していた」(Kaplan,
ibid., p.53)。絵画要素自体に依る喚起、と云う目的を彼は同時代人と共有していたにも拘らず、本文で述べた様な彼の方法に対して、セリュジエを始めとする「19世紀末の象徴主義者たち
- 例えばナビ派 - の様式的な規準は、屡々心像と茫漠と結び付けられて区別出来ない程の、形と色の単純化であった」(同上)。この技法 - |
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3) 色から線へ モローはその初期以来小品や |
図37 モロー《スコットランドの騎士》 1855頃 MGM.138 60. ドラクロワは《タム・オシャンター》と云う主題を1825年以後繰り返し扱ったが、1849年以後の最後の作のスケッチを、モローはドラクロワのアトリエで見たであろう、と云う、P.L.ibid., p.36. 61. 1808-09、ベルリン、シャルロッテンブルク宮。この作品に就いては、H.リュッツェラー、『抽象絵画』(参67)、pp.40-41。リュッツェラーは、フリードリッヒと 62. 1903、チューリッヒ、ビューレ。コレクション。因みに、カンディンスキーは1906年モロー美術館を訪れたと云う、坂崎、『抽象の源流』、p.208。 |
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モローは |
63. P.L.マチュー、ibid., p.14. 図39 モロー《イタリアの風景》 MGM. 図40 モロー《風景》 左下に署名 MGM.328 |
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《東方三博士の後を追う天使たち》(図38)は帰国後直ぐの作、殆んど 以上は初期から中期にかけての作品だが、中期でも下絵の類では筆使いは自由に成る(64)。以下に示すのは年代の判らない物が殆んどだが、大旨後期から晩年に属するだろう。 |
図38 モロー《東方三博士の後を追う天使たち》 1860 下に署名 MGM.797 64. 例えば、《イアソンとメディア》(1865,ルーヴル→こちら:件の作品の頁)に就いて、レントゲン写真で見出された下塗りは、「大胆で自在な筆致による極めて自由なタッチと垂直線を強調した背景下絵 - 多くの点でドラクロワを思わせる技法」を示すと云う、P.L.マチュー、ibid., p.110. 亦、Kaplan, ibid. に複製されている《青年と死》(1856-65、ケンブリッジ、フォッグ美術館)の下絵(1865頃、MGM.cat.642 - 図15、白黒)や《オイディプスとスフィンクス》水彩(1860頃、MGM.cat.569 - 図31、白黒→こちら:件の作品の頁)も同様。所で、先に示した四点(図37-40)は皆単彩に近い物だが、是が初期 - 中期の下絵類に一般に妥当するのかは、この時期の作品を充分色刷りで見ていないので、何とも言えない。 |
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i. 油彩 《勝利のスフィンクスのいる風景》(図41) - 中央に女面獣の翼と鳥が見える。筆触は垂直性を強調し、空の色が褐色や |
図41 モロー《勝利のスフィンクスのいる風景》 MGM. |
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《聖チェチリア》(図42)も同然だが、筆触のザラ付きが少ないので垂直感が更に強く、窓の部分と画面の下縁を水平に引摺り、聖女の三角が両者を結び、目差の仰視と天使の俯瞰の助けを借りて、上昇感と底にいると云う感情の緊張を作り出す。聖女は |
図42 モロー《聖チェチーリア》 MGM. hors cat. |
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《公園の散策》(図43)も《騎士》(図37)以来の直線的な筆致が用いられているが、稍単調で、左下部は浮いて了い、赤も充分輝かない。併し其丈にガランとした室内に対する石段から開放部は瑞々しく、筆触の有機性が目立つ。うねる様な |
図43 モロー《公園の散策》 MGM.224 |
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《パルクと死の天使》(図45) - 今迄の作品では厚い絵具を引張って塗っていたのに対し、玆では捏ねて盛り重ねた様に見える。 所でG.シュミットはドーミエを色調の画家として印象派以降の色彩の絵画と対比させている(66)。モローの此の絵でも空の色や黄、橙、赤は固有の価値で輝いている。併し是等の色彩は、褐色と青に依って全体の色調が定められた中でこそ輝くのであって、寧ろレンブラントに学んだ物だろう。 |
図45 モロー《パルクと死の天使》 1890 MGM.84 図44 ドーミエ《ドン・キホーテとサンチョ・パンサ》 1865頃 65. この作品の説明は、G.シュミット、ibid., pp.23-26 に負うている。但しこの本の図版(1850頃、バーゼル美術館)は、玆に挙げたものと同じではない。因みにドーミエの絵画も、註51で触れた〈先形象〉の歴史に組み入れられるべき物だろう。 66. 同上、pp.29-30…。 |
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《出現》(図46)と題されているからには、サロメ連作(図19~23、26)に含まれるのだろう。闇の中から黄金と赤が輝き渡り、金色は流れ落ちて女体に変ずる。先の作(図19)以上にレンブラント(図18)に近いのがこの絵だろう。色彩の輝きと深みを保障しているのは闇なのだ。では先に述べた違いはどうだろう - レンブラントでは画面下縁が闇に沈んでいるにも拘らず。 |
図46 モロー《出現》 MGM.661 |
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《エウリュディケの墓の上のオルフェウス》(図47)は、《パルクと死の天使》等と共に、モローの作品の内では表現主義的傾向の強い類に属する(67)。画面全体を暗い調子が覆い、空、森、地面は一種の点描で、墓所や池の周囲の直線的な筆致と対照され、各々重く鮮やかな色彩を響かせる。全体に黒を混濁させる事で、悲嘆の表現を強めている。池岸
- 土手の斜線は詩人を地中へ誘ない、墓所と枯木の垂直線が緊張を高める。左では月が |
図47 モロー《エウリュディケの墓の上のオルフェウス》 1890 左下に署名 MGM.194 67. この二つの作品は、1890年没した彼の恋人アデレイード・アレクサンドリーヌ・デュルーへの挽歌として描かれたと云う、P.L.マチュー、ibid., p.161. 68. この作品の傾向を更に推し進めた物として、《十字架とマグダレーナ》(MGM.→こちら:件の作品の頁)を挙げる事が出来る。寒々とした白い空の元、冷たい厚塗の緑の山の元に、重たげ気な十字架と二本の柱が立っている。十字架の中心からは光が発し、右の方を白い鳥が数羽飛んでいる。根元に堅い線で描かれたマグダラのマリアが坐り、その褐色に白と赤を付した姿は「血まみれの尼僧」と云う言葉を思い出させる。堅い形態と殆んど毒々しい許の色彩の印象は凄惨と言って良く、その雰囲気は《聖チェチーリア》(図42)に稍近い。 |
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ii. 水彩 油彩では |
69. 本稿註51の Kaplan, ibid., p.50 と中山、ibid., p.8 の引用、P.L.マチューの指定した箇所(p.193)、及び本稿Ⅲ章2節3)-iii
後半参照。 70. 図9、13、24、26、28、38、42、43、45、47、48、52、53 等、参照。「なお、モローは天成の素描家ではなかったと言い添えておこう。彼の描線はしばしばかなり月並みで、一般に余裕や力強さに欠けている」。P.L.マチュー、ibid., p.195. 彼の素描に就いて pp.195-199. とは言え、《ヘラクレスと水蛇》の素描を始め、魅力のある物も見出されるが、玆では割愛した。 |
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《聖アントニウスの誘惑》(図48)は、地の見える上に焦茶を基調に、透明な青、緑、黄、赤を殆んど奥行無く自由に散らして |
図48 モロー《聖アントニウスの誘惑》 左下に署名 MGM.525 71. H.H.Hofstätter, Gustave Moreau, p.160. |
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《水畔》(図49) - 両端の垂直が画面を窓の様に見せ、青の後退と相俟って奥行を与えている。朱の堆積が必然的に頂上で線の顔を描き出したのか、線が画面の底から朱を呼び寄せたのか、分らない程両者は緊密に結び会っている。左の朱に対して、右で浮遊する赤が(鳥?) |
図49 モロー《水畔》 左下に署名 MGM.588 |
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《ガニュメデス》(図50) - 濃淡をもって流れる黒に、冷たい白は拡がりを与え、青、橙、赤が暗鬱さを強める。白が浮かばせる鷲と少年は、空の不定形に対比されるその翼の鋭角性が、線を呼ぶ境界線上に在り、悲劇を奏でる。 | 図50 モロー《ガニュメデス》 左下に署名 MGM.521 |
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《放蕩息子》(図51) - 冷たく透き徹った青の中で炎の固まりの様な赤が一点置かれている。青の補色に近い茶は青を強めながら赤と結び、赤の補色である緑は赤を強めながら青と結び、茶と緑は色相が接近し合って画面を整える。横長の画面と左端の垂直に依って強められた左上の水平線が、右半の繁みを生動させ、馬と人の輪郭と成って完成する。青は主人公の今迄の境遇の冷たさ、茶は家庭の暖かさを表わすのだろうか。 | 図51 モロー《放蕩息子》 左下に署名 MGM.417 |
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図52 モロー《 |
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《夕の声》(図53) - 水平線の地上に垂直の三美神或いは奏楽の天使が顕現し、浮遊と逆三角が降臨を表わす。正面性と左右相称は自然を聖化する。両脇の垂直は稍強過ぎる様に見えるが、《騎士》(図37)以来の水平の賦彩は、玆では地を生かしている事と、掠れた様な筆触、複数の色を混和している事で夢幻的な感じを出している。その水平に強調されて鮮やかな青、赤、黄、緑の天女達が舞い降りる。線は色に依って描かれた、とでも云う風に見える。 | 図53 モロー《夕の声》 左下に署名 MGM.288 |
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《妖精とグリフォン》(図54) - 暗い洞窟でお |
図54 モロー《妖精とグリフォン》 左下に署名 MGM.299 |
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《蜻蛉 キマイラの為の習作》(図55) - 緑を基調にした薄い暈が画面を覆い、羽を横切る幻の様な草の大きさの比率が情景を幻想にする。乙女の太過ぎる輪郭は聊か重いにしても、蜻蛉の羽の拡がりは其を緩和し、却って蜻蛉の胴の重た気な曲線を正当化して、画面に溶け入ろうとする羽と相俟って、浮遊感を助長している。此の作や《妖精とグリフォン》では線の果す役割が大きいが、余計な細部に迄口を出して、色を押し込めようとはしていない。是等の作品をもって、《化粧》(図30)や《ピエタ》(図28)と交差させる事が出来るだろう。 モローが最も自由に振舞ったと覚しい是等小品(72)、及び油彩は併し、飽く迄異郷の神話世界に留まっている。色彩と舞台の幻想性は視る者の世界に侵入して来ず、人物達は観者とは無縁な静寂の中に沈んでいる。 |
図55 モロー《蜻蛉 キマイラの為の習作》 右下に署名 MGM.390 72. 玆に挙げた水彩8点には全て署名がある。因みに、此の文章に掲げたモロー美術館の作品29点の内、カタログ番号の分らなかった物6点(図15、31、33、39、41、42)を除けば、図2、13、14、38、40、47、48、49、50、51、52、53、54、55、57 の15点は署名を有し、図20、21、22、32、37、43、45、46 の8点には無いらしい。 |
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iii. 完成作と下絵 モロー美術館には所謂完成作、の下絵 《ユピテルとセメレー》(図13~15) - 《セメレー》なる一枚(図14)は、ゴッホを思わせる透明な青(73)が印象的で、冷たく無限に開くのを、黒々とした 恐らく言及したのとは逆の順序で制作されたこの三図を、時間順に並べて見ると |
図14 モロー《セメレー》 1889 左下に署名 MGM.94 73. 《夜のカフェテラス》、1888,クレラ・ミュラー美術館、《烏のいる麦畑》、1890、アムステルダム市立美術館。 図15 モロー《エボーシュ》 MGM.1135 74. この絵は、ドイツ浪漫派の風景画 - フリードリッヒの《山中の十字架》(1811頃、デュッセルドルフ市立美術館)の様な作品 - を思い出させる。 |
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《サロメ》(図19~23)の場合、よりはっきりモローの制作過程が窺われる。最も早いのは色と |
図21 モロー《ヘロデ王の前で踊るサロメ》 1876 MGM.83 |
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次に《出現》の一枚(図22)(75) - 空間が拡がっているが、線遠近法に依るのではなく、人物が小さく成り亦前作より背景から浮かび上がった分奥行が暗示された事と、金色の光が一層拡がって暗部と交錯する為である。輝く |
図22 モロー《出現》 1875頃 MGM.222 図23 モロー《出現》 1876 左下に署名 PLM.159 75. 《出現》は《ヘロデ王の前で踊るサロメ》と主題を異にするが、この作は油彩で、最終作の水彩(図23)よりも背景が《サロメ》の完成作(図19)に近いので、玆で持ち出した(尚、サロメの主題には《庭園のサロメ》(図26))の様な |
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次の作(図20)の背景は図21程度に狭められ、輪郭・肉付けは施されたが光度は落とされ、全体の色調とヘロデの周囲の赤は合っていない憾みが在る。併し玆で目を引くのは、〈入墨〉である。《出現》(図22)で既に、背景に線で輪郭付けが行われていたが、線と色彩はずれを示している。其が玆では更に明瞭で、サロメの白い躰と画面左に賦彩に関係なく描かれた線は非常に奇妙な印象を与え、背景が暗くされたのは是を強調する為ではないか、と思えて来る程だ。稍大理石めくが、モローの女性の内では申し分の無い |
図20 モロー《踊るサロメ(入墨のサロメ)》 1876頃 MGM.211 76. モローの女性は屡々あまりすっきりとはしていない姿態を見せる。《一角獣》(図2)の裸婦は帽子のせいか、頭が重い、《アフロディテ》(図5)も頭でっかちで左腕の短縮はうまくいっておらず、《サロメ》(図19)は腕があまりに太いし、よく見れば胴も可也長い、グリフォンに守られた妖精(図54)も稍頭が大きい、蜻蛉に乗る乙女(図55)は腰が豊かに過ぎ、《ガラテア》(図56)も出品当時不格好だったのを手直ししたのだと云う(PLM.cat.195 解説)。以上の裸婦、殊に《化粧》(図30)や《雅歌》(図29)での乳房の貧弱さを思えば、ケネス・クラークが「小さな乳房、先細りの長い手足、また16世紀の幾分ふくらんだ腹部」(K.クラーク、『ザ・ヌード』、p.192)と纏めた「ゴシック的裸体像」のこだまを感じさせる。 |
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先の《一角獣》(図2)で触れた如く、〈入墨〉はモローには稀でなく、完成作にすら見る事が出来る(77)。制作過程の上から言えば、今迄の作で見て来た色彩と、多数の素描で探求された線とが玆で重ね合わされ、ずれが調整されて完成作に至ったのだ。併し大切なのは、目の前に在るのがこの状態である事、そして其処から受ける印象だろう。輪郭と賦彩が一致しないのは必ずしも珍しい事ではないが、その場合線は色彩の運動に従って自らも運動を得、一つの空間に統一されている事が多い(78)。対してモローの入墨が奇妙な感じを与えるとすれば、自由な色彩の上に何ら生動を持たない堅い、唯限定付ける為丈の装飾的な線が重ねられて、空間を二重化するからだろう。この入墨に見られる様に、アール・ヌーヴォーの有機的な線と違って、モローの線は元々堅さの窺える物で、細かく成る程に命を失う。《オイディプスとスフィンクス》(図7)やウェヌス(図5)で既にアングル(図6、3)やシャセリオー(図4、1)に比べると柔軟を欠いていたが、ヘラクレス(図25)や《出現》(図23)は聊か |
77. 《ダヴィデ》(図16)の細部、《ユピテルとセメレー》(図13)の胸の装飾、等。 78. モロー自身の作品にも、その例を見る事が出来る、図48、51、54。 79. 本稿註70で挙げた作例を参照。こう云った傾向は、はっきり意識的なゴーガン、ゴッホ、スーラを置いても、モローと同じく再現的な傾向を認め得るピュヴィス・ド・シャヴァンヌやベックリン、ホードラー、ロセッティにも見られるのは、一つに写実主義的な影響もあるのだろうが(ベックリン)、其以上に形態自体の表現力、と云う綜合主義への流れを表わすものなのだろうか。 80. 本稿註51で引いたモローの言葉(「・モローに戻って - 」とした所の)「…常に健全で…」を思い出されたい。 81. 「つまり初期の作品では、ひとつのものとして合成されていた線の体系と色斑の体系が、今や分離し始めるのである。『一角獣(と貴婦人)』(本稿での図2)では色彩と刺青がみごとにモンタージュされている。しかし、1876年のサロンに出品された『踊るサロメ』(図19)のもうひとつのヴァリアント(図20)では、柱列やサロメの白い裸身の上の刺青は、その下の色彩の部分とのあいだに僅かながらずれを生じているのである。これはモンタージュのずれ、失敗ではなく、むしろ意識的なずれであると思われる。この作品は未完成作であり、刺青状の装飾線は金によって仕上げられるはずであったと推定されている。しかし、モローがここで筆を止めてしまったのは、モンタージュのずれの奇異な美しさを発見したからであろう。…晩年のモローの作品では、刺青はしだいに消え去っていった。自由になった色彩は、大胆な筆触によって、線の呪縛から解き放たれた活力を展開し始める。このことはすでに、『踊るサロメ』のヴァリアントで、刺青のモンタージュのずれが生じたときに予見されたことである。分解が始まるや否や、それは不可抗的に進行する。最終的にモローは、線か色彩のどちらかをとらざるをえないのである。答えは簡単であった。固体的であるがために永遠なるものをとるか、溶融する白熱状態の恍惚であるからこそ、永遠の一瞬であるものを選ぶかという問いかけに対して、モローの応答は最初から予定されていたといってよい」。中山、「20世紀絵画への予兆」(参33)、p.65。 併し答えはそれ程簡単だったろうか - 註80 - 「モローはつとにおのれの色彩感覚が対象を着実にとらえるデッサン以上に奔放であり、一歩あやまれば画面を台無しにするていの情熱的な気質を蔵している事実に気づいていたのではないか…実際モローのデッサンは達筆というよりはどこかもどかしく、遂にはじっくりと腰をすえて丹念に最初から描きなおすといった諦念の姿勢がよみとれるのである。おそらくモローは色彩を制御すべく、可能な限りデコラティーブな線の要素をとり入れたのではなかろうか」。坂崎、『抽象の源流』、p.206。 |
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結び 図式化すれば、次の様に言えるかも知れません - シャセリオーに於て、綜合せんとされたアングルの線とドラクロワの色は、線は色に押される事に依って官能を得、色は線に閉じ込められる事に依って内圧を高めて神秘を発散した。線と色の綜合と云う課題を受け継いだモローは、中期では線の支配に服していた色が圧力を高めるに従って、線は益々細かく成って色を押さえ付けんとし、その分、色は圧力を高めて輝きを発し、《サロメ》(図19)から《ユピテルとセメレー》(図13)に至る作品で、線と色との綜合と云う問題に一応の解答を提出した。併し圧力を ルドンの《 モローも |
図56 モロー《ガラテア》 1880 右下に署名 PLM.195 図58 ルドン《 図57 モロー《ガラテア》 右下に署名 MGM.100 |
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参考文献 順不同。(参 )として番号を示したのは、筆者の同じ物を指す。 1. Musée Gustave Moreau, Paris, 1974 2. Pierre-Louis Mathieu, Gustave Moreau, Leben und Werk mit Œuvre-Katalog, Fribourg, 1976 ( ← Paris, 1976) 3. Kaplan, Julius, Gustave Moreau, Los Angeles, 1974 4. Alexandrian, Sarane, Gustave Moreau's Univers, New York, 1975 ( ← Paris, 1975) 5. Selz, Jean, Gustave Moreau, New York, 1979 6. Hofstätter, Hans H., Gustave Moreau. Leben und Werk, Köln, 1978 (→参7) 7. 〃 、種村季弘訳、『象徴主義と世紀末芸術』、美術出版社、1970 (→参6) 8. 『モロー 新潮美術文庫 35』、解説:竹本忠雄、新潮社、1975 9. モロー/ルドン/ルソー 『世界美術全集 15』、解説:坂崎乙郎、河出書房、1967 (→参18) 10. 『モロー 世界の素描 21』、解説:坂崎乙郎、講談社、1979 (→参18) 11. 『モロー・ルドン 世界美術全集 25 』、解説:小倉忠夫、小学館、1979 (→参17) 12. 『モロー・ルドン・ムンク・アンソール・キルヒナー 世界美術全集 16』、解説:嘉門安雄、研秀出版、1978 (→参71) 13. モローとルドン 『週刊朝日百科 世界の美術 17』、解説:東野芳明、澁澤龍彦 (→参20)、末永照和 (→参45)、朝日新聞社、1978 14. 『ムンクとルドン カンヴァス世界の名画 13 』、解説:西澤信彌、福永武彦 (→参21)、中央公論社、1974 15. 『世界美術 14 近代』、解説:大島清次他、講談社、1965 16. ジュリアーノ・ブリガンティ、高階秀爾訳、『19世紀の夢と幻想 現代の絵画 7』、ファブリ・平凡社、1974 17. 『別冊みづゑ』、no.42、1964.12:「特集 ギュスターヴ・モロー」、執筆:富永惣一 (→参22)、大岡信 (→参23)、宮川淳 (→参24)、高階秀爾 (→参25)、小倉忠夫 (→参11)、前田常作 (→参30) 18. 坂崎乙郎、『抽象の源流 その先駆者たち』、三彩社、1968 (→参9、10、49、51) 19. 澁澤龍彦、「密封された神話の宇宙 ギュスターヴ・モロオ展を見て」、『幻想の画廊から』、美術出版社、1967 (→参20) 20. 〃 、「ビザンティンの薄明あるいはギュスターヴ・モローの偏執」、『みづゑ』、no.822、1973.9-10 及び 『幻想の彼方へ』、美術出版社、1976 (→参13、19) 21. 福永武彦、「ギュスタヴ・モロー」、『藝術の慰め』、講談社、1965 (→参14) 22. 富永惣一、「異色の画家ギュスターヴ・モロー」、『世界』、no.231、1965.3 (→参17) 23. 大岡信、「フランス・ロマンティシズム 〈4〉」及び「 〈7〉」、『藝術新潮』、1963.8 及び 11 (→参17) 24. 宮川淳、「スタロバンスキーの余白に モローをめぐる引用と注」、『美術史とその 25. 高階秀爾、「ギュスターヴ・モロー その芸術の系譜」、『美の回廊』、美術公論社、1980 (→参17、26、27、28、29、50) 26. 〃 、「『サロメ』 - イコノロジー的試論」、『西欧芸術の精神』、青土社、1979 (→参25) 27. 〃 、「切られた首 - 世紀末想像力の一側面」、『西欧芸術の精神』、青土社、1979 (→参25) 28. 〃 、「マラルメと造型美術」、『西欧芸術の精神』、青土社、1979 (→参25) 29. 〃 、『世紀末芸術』(紀伊國屋新書 A-1)、紀伊國屋書店、1963 (→参25) 30. 前田常作、「追求の執念」、『朝日ジャーナル』、1964.11.8 (→参17) 31. 野村太郎、「ギュスタヴ・モロー 世紀末の幻視者たち 1」、『みづゑ』、no.706、1963.12 32. 中山公男、「モローの竪琴 - 象徴・幻想・抽象 - 」、『みづゑ』、no.718、1964.12 (→参34所収) 33. 〃 、 「20世紀絵画への予兆 - モローの役割」、『みづゑ』、no.822、1973.9-10 (→参34所収) 34. 〃 、「ギュスターヴ・モロー その人と芸術」、『モローの竪琴』、小沢書店、1987 (→参32、33) 35. 窪田般彌、「モロー - 孤独な幻視者」、『ロココと世紀末』、青土社、1978 36. 北嶋廣敏、「モロー パリのカフェからⅥ」、『美の沐浴』、湯川書房、1978 37. ジャン・パリス、岩崎力訳、『空間と視線』、美術公論社、1974 38. アンドレ・ブルトン、宮川淳訳、「ギュスターヴ・モロー」、『美術手帖』、no.382、1974.6 39. J.K.ユイスマン、澁澤龍彦訳、『さかしま』、『澁澤龍彦集成Ⅵ』、桃源社、1970 40. ジェフリー・マイヤーズ、松岡和子訳、「ギュスターヴ・モローと『さかしま』」、『絵画と文学』、白水社、1980 41. 朝比奈諠、「モローとユイスマンス - 『出現』をめぐって - 」、『ふらんす』、2-1979 及び 『フランス 絵画と文学』、小沢書店、1980 42. 岡田隆彦、「モロオとユイスマンス」、『美術散歩50章』、大和書房、1979 43. 河村錠一郎、「世紀末とサロメの系譜」、『ビアズリーと世紀末』、青土社、1980 44. ジョン・ミルナー、吉田正俊訳、『象徴派とデカダン派の美術』、PARCO出版局、1976 45. 『美術手帖』、vol.29 no.415、1977.1:「特集 象徴主義の画家たち」、執筆:海野弘、末永照和 (→参13)、他 46. 『美術手帖』、vol.28 no.402、1976.1:「特集 ナビ派 色彩の預言者たち」、執筆:高階秀爾 (→参25)、潮江宏三、他 47. レナート・バリルリ、宮川淳訳、『フランスにおける象徴主義 現代の絵画 6』、ファブリ・平凡社、1974 48. レナータ・ネグリ、若桑みどり訳、『ボナールとナビ派 現代の絵画 8』、ファブリ・平凡社、1974 49. 『近代絵画の先駆者たち 近代世界美術全集 1』、執筆:坂崎乙郎 (→参18)、坂本満、社会思想社、1964 50. 『ゴッホ、ゴーガンとその周辺 近代世界美術全集 4』、執筆:宮川淳 (→参24)、高階秀爾 (→参25)、社会思想社、1963 51. 『マチス、ルオーと表現主義 近代世界美術全集 6』、執筆:坂崎乙郎 (→参18)、社会思想社、1963 52. リヒャルト・ムウテル、木下杢太郎訳、『十九世紀佛國繪畫史』、日本美術学院、1918 53. 森口多里、『近代美術』、東京堂、1937 54. 池辺一郎、『近代絵画のはなし - ロマン派から抽象派まで』、南窓社、1965 (→参55) 55. 〃 、『ルドン-夢の生涯 幻想芸術の極致』、読売新聞社、1977 (→参54) 56. 粟津則雄、『ルドン 生と死の幻想』(美術選書)、美術出版社、1966 (→参57) 57. 〃 、「眼と意識」、『ヨハネの微笑 近代芸術断想』、小沢書店、1980 (→参56) 58. マルセル・ブリヨン、坂崎乙郎訳、『幻想芸術』、紀伊國屋書店、1968 59. ルイ・ヴァックス、窪田般彌訳、『幻想の美学』(文庫クセジュ 310)、白水社、1961 60. ジョルジュ・バタイユ、森本和夫訳、『エロスの涙』、現代思潮社、1976 61. ジョルジュ・ルオー、武者小路實光訳、『回想』、座右宝刊行会、1953 (→参62) 62. 〃 、 〃 、 『芸術と人生』、座右宝刊行会、1976 (→参61) 63. ロバート・ローゼンブラム、中山公男訳、『アングル 世界の巨匠シリーズ』、美術出版社、1970 64. ゲオルク・シュミット、中村二柄訳、『近代絵画の見かた - ドーミエからシャガールまで - 』、社会思想社、1960 65. ヨーゼフ・ガントナー、中村二柄訳、「近世美術における未完成の諸形式」、J. A. シュモル編、『芸術における未完成』、岩崎美術社、1971 66. 二見史郎、『抽象の形成』、紀伊國屋書店、1970 67. ハインリヒ・リュッツェラー、西田秀穂訳、『抽象絵画 - 意味と限界 - 』、美術出版社、1973 次の2冊は怠惰の為読了する事が出来なかった、書名のみ記して置く。 68. Hahlbrock, Peter, Gustave Moreau oder das Unbehagen in der Natur, Berlin,1976 69. Noël, Bernard, Gustave Moreau, Paris, 1979 清書を終えてから見た物として - 70. 宇佐見英治、「震撼の美 - モロー展をみて - 」、『藝術新潮』、vol.15 no.12、1964.12 71. 嘉門安雄、「モロー随想主題をめぐって」、『美術手帖』、1965.1 (→参12) その後見る機会のあった文献も含めて、修論こと『モロ序』の参考文献および文献追補→あちら:「ギュスターヴ・モロー研究序説」[14]、また、シャセリオーに関して「セリオ」君の参考文献および文献追補→こちら:「テオドール・シャセリオーに就いて」の頁の「参考文献」もあわせてご参照ください。 |
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