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『美術史』、第122冊、1987年3月、pp.99-109

シャセリオーからギュスターヴ・モローへ

石崎勝基
結び
Résumé
おまけ;口頭発表時の原稿(1986/2/8)

 象徴主義の先駆者とされるギュスターヴ・モロー(一八二六-一八九八)は、画家としての活動の初期においてテオドール・シャセリオー(一八一九-一八五六)から大きな影響を受けた。シャセリオーは美術史上、アングルの線とドラクロワの色彩を綜合しょうとした画家とされている。彼の画風にひかれたモローは、それまで学んでいた新古典主義者ピコの教室を去るにあたって、会計検査院にあったシャセリオーの壁画の前に父親を導き、「美術学校の型にはまらない叙事詩的な芸術を作り上げたい」と語ったという(1)。その後モローは、シャセリオーのアトリエのすぐ傍に自らのアトリエを設け、この七才年長の画家と親交を結んだ。ここに、今日近代絵画の主流と考えられているロマン主義からレアリスムそして印象派へという前衛美術の系譜とは別の、しかしまた当時一般に支持されていたアカデミスム及至サロン絵画の内にも含みきれない、もう一つの流れの形成を認めることができる。
 モローを語るに際しては、シャセリオーの影響の大きさが常に指摘される。しかし、それがどの程度にまで及ぶのか、特にシャセリオーの死後の影響についてまとめた研究はいまだ見当たらない。本稿はこの問題についての一試論であり、具体的なモティーフの借用を指摘できるものの内、特に重要と思われる例を幾つか列挙していくこととする。
 ただし、最初に確認しておかなければならないことがある。第一に、現在までに公にされているモローの作品目録(2)中、シャセリオーの作品の模写とされているものは一点もない。第二に、モローが残した覚え書き(3)の中でもシャセリオーの名は一度しか現れない。この一度というのも、火災による損傷を蒙った会計検査院のシャセリオーの壁画を救うべく公に訴えることを意図した文章であり、モローが自発的に著わしたものというよりは、モローの友人でシャセリオーを高く評価していたアリ・ルナンに請われて書いたものと考えられている(4)。後年モローはシャセリオーについて尋ねられた時、二人の間は「若僧と芸術の世界で既に名を成した人間の関係でしかなかった」と答えたという(5)。二人の関係が現実にどのようなものであったにせよ、それを詳細に根拠づける資料は意外に乏しいことを銘記しておかなければならない。
 
1. J. Paladilhe , Gustave Moreau, Paris, 1971, p.10.

2. Catalogue des peintures, dessins, carton, aquarelles exposés dans les galeries du Musée Gustave Moreau, Paris, 1974(以下MGMと略)。
 Catalogue des dessins de Gustave Moreau, Paris, 1983(以下MGMd.と略。なおモロー美術館蔵で右の両カタログに掲載されていないものはMGM.hors cat.と記す)。
 P.-L. Mathieu, Gustave Moreau, sa vie, son œuvre, catalogue raisonné de l'?œuvre achevé, Paris, 1976(以下PLM.と略)。

3. L'Assembleur de rêves. Écrits complets de Gustave Moreau, Montpellier, Fontfroide, 1984.

4. id.Pp.227-228. L. Bénédite, Théodore Chassériau. Sa vie et son œuvre, Paris, 1931, pp.345-347.

5. Mathieu, op.cit., p.32.マテューは、これは信じがたいと述べている。id.



 二人が交際していた時期のモローの作品には、シャセリオーの影響が明白に現れている。当時モローは数点の鉛筆による肖像素描を制作しているが、それらの精緻かつやや柔かい筆致はシャセリオーの肖像素描の影響、というよりは模倣を示している(6)。シャセリオーはモローに二点の肖像素描を与えたことがある(7)。同様の模倣は油彩の大作でも見られる。一八五三年のサロンに出品された『雅歌』(8→こちら:当該作品の頁)は、後の評者によって「失なわれたシャセリオーの作品のレプリカのよう」と述べられた(9)。同じサロン出品になる『ダリウス』(10)にも同様のことがあてはまる。
 こうした模倣を示しているものの中から、ここでは一点の水彩画を取り上げよう(11)(挿図1)。この作品は一八五三年に着手された『テスピウスの娘たち』(12)の人物の一人を独立させて描いたものである。『テスピウスの娘たち』の当初の構想全体が同じ五三年のサロンに出品されたシャセリオーの『テピダリウム』(13→こちら:当該作品の頁)に着想を負っていることが指摘されているが(14)、この水彩画の量感を強調し形態を単純化した人体把握も、シャセリオーの人物、特に女性像を模したものである(15)。ここではさらに、様式の模倣に留まらず具体的な借用源を指摘することができる。人物の上半はやはり『テピダリウム』の左側二列目で台に両肘をのせ、顔を伏せている娘の姿に由来している(挿図2)。画面に対して手前側の右肩を少し上げ首をよせ、額を伏せ両目を閉じている姿勢から髪型まで、シャセリオーの画面から移しとられている(16)。
  6. PLM.9, 10, 11, 12, 24. Mathieu, op.cit., p.33.

7. id.またモローは、シャセリオーの横顔を描いた素描を残している。id.

8. PLM.23.

9. Mathieu, op.cit., p.44.

10. PLM.25 = MGM.223.

11. MGM.298

モロー《眠り》
図1 モロ-『眠り』、パリ、モロー美術館

12. MGM.25.

13. M. Sandoz, Théodore Chassériau 1819-1856. Catalogue raisonné des peintures et estampes, Paris, 1974(以下 MS. と略)、no.218.

14. R. von Holten, Gustave Moreau, symbolist, Stockholm, 1965, p.61.

15. ホルテンが指摘。O. S.-Picard, "L'influance de Michel-Ange sur Gustave Moreau", Revue de Louvre, no.27, 3-1977, p.151, n.15 参照。

シャセリオー《テピダリウム》1853(部分)
図2  シャセリオー『テピダリウム』(部分)、パリ、ルーヴル美術館

16.低い台に腰掛けている全身の体勢については、マルカントニオ・ライモンディの『思いに耽ける娘』を描いた銅版画(→こちら:当該作品の頁)からの影響を考えることができよう。
 この水彩には『眠り』という標題が書き込まれている。眠りや夢のイマージュはモローに限らずルドンら象徴派の図像において重要な位置を占めることになる(17)。シャセリオーの女性像は形態面以上にこの点でモローに決定的な影響を及ぼした。モローの作品には目を伏せプロフィールで捉えられた人物が繰り返し登場する。これらの人物は内的な世界への没入を暗示しているのだが、シャセリオーの『ウェヌス』(→こちら:当該作品の頁)や『スザンナ』(18→こちら:当該作品の頁)から出発したものであろう。特に『ウェヌス』はモローの『アフロディテ』に直接結びつく(19→こちら:当該作品の頁)。女神の足下にいる、腕を上げているクピドーは同主題のアングルの作品(→こちら:当該作品の頁)によるものと思われるが、女神の姿勢、特にプロフィールで捉えられた、額を伏せ目を閉じた頭部はシャセリオーから得られたものである。ただ、身体を画面に斜めに配し光と影の対比を強調したシャセリオーの女神と、首から下を平坦な面としてこちらに向けたモローの女神とからは、二人の画家としての性格の違いを読みとることができよう。この例のように直接関連するものを越えて、シャセリオーの思いに耽る女性像はモローの描く人物の一つの原型となった。例えば一八六六年のサロンに出品された『オルフェウス』(→こちら:当該作品の頁)は『ウェヌス』に多くを負っている。同様の例は少なからず見出すことができる(20)。
 シャセリオーの様式を模倣した作品は後にも散発的に現れるが(21)、他方初期のモローはシャセリオーを模した作品を制作するのと前後して、ドラクロワの影響が強いもの(22)あるいはアカデミックな傾向の作品(23)を残していることに注意しておく必要があろう。
 先に進む前に、二人の関係を考えるのに一つのヒントになるかもしれない例を挙げておこう。一八五二年に着手されたモローの『求婚者たち』(24)中の弓を射るオデュッセウスの体勢は(→こちら:当該作品の頁、細部)、シャセリオーの『ガリア人の防衛』(25)中、右から三人目の弓を射る男の姿と一致している(→こちら:当該作品の頁、細部)。ただしシャセリオーの作品は一八五三年に国の注文を受け五五年の万国博覧会に出品されたもので、モローの作品の五二年という編年(26)を信じるならば、モローの方がシャセリオーより先行している可能性が強くなる。『求婚者たち』の画面の中でオデュッセウスは、片隅に追いやられているとはいえ物語の主人公であり当初の構想に属している。両者に共通の発想源があったのか、さもなくばモローからの影響を考えることができ、いづれにせよ二人の間の密接な交渉を想定することが許されるだろう。やはり『ガリア人の防衛』との類似がマテユーによって指摘されている、一八五三年の年記のある『勝者の帰還』(27)においても同様の問題が生じる。
  
  17.H. H. Hofstätter, “L’iconographie de la peinture symbolist”, Le Symbolisme en Europe, (catalogue de l'exposition), Paris, 1976, pp.14-15.

18. MS.44, 48.

19. PLM.121. 1870年頃。Mathieu, op.cit., p.102.

20. cf., Holten, op.cit., p.60.

21. PLM.389. 1885-90年頃。

22.Mathieu, op.cit., pp.33-36.ドラクロワの影響が指摘される『ハムレット』(MGM.145. Mathieu, op.cit., p.34)はしかし、倒れた王妃の形態把撞にシャセリオーの様式の模倣を示している。

23.PLM.20, 21, 38, etc.

24.MGM.19.

25.MS.252.

26. Gustave Larroumet, Notice historique sur la vie et les œuvres de Gustave Moreau, Paris, 1901, p.36.ラルーメの編年はモローの友人・遺言執行者でありモロー美術館の実質的な創設者であるアンリ・リュツプの証言にもとづいたもので、以後の研究の基礎とされている。

27.PLM.23bis.
   



 シャセリオーは一八五六年、三十七歳の若さで没する。これよりモローは自らの様式を形成していくのだが、以後もシャセリオーの作品は強い影響を及ぼし続けた。彼の作品はその死後も、パリの各地にある装飾画はもとより多くの作品がパリに集中していた模様で、それがまず兄フレデリックのコレクション、次いで甥アルチュール・シャセリオー男爵の大コレクションとなる(28)。それ故モローは、シャセリオーの作品を見ようと思えばその機会を作るのに困ることはなかったであろう。ただ先に述べたように、直接的な資料が乏しいことを忘れてはならない。
 一八五七年から五九年までのイタリア旅行の後暫くのブランクを経て(29)、一八六四年から六九年までモローは再びサロンに出品するようになる。この時期からモローはその個性を現し始めるのだが、この間の作品では一八六九年のサロンに出品された水彩画『詩人と聖女』(30→こちら:当該作品の頁)について、シャセリオーの『アポロンとダフネ』(31)(挿図3)からの影響が指摘されている(32)。竪琴を背負い脆く詩人、額を伏せる聖女の姿がシャセリオーから借りられている。ただし二人はからだを離しており、その点では同じシャセリオーの『エジプトのマリアの聖体拝領』(→こちら:当該作品の頁)が想起される(33)。
 モローは何度かアポロンとダフネの主題を取り上げており、その内一点は、マテューによればシャセリオーの構図をそのまま左右逆にしたものだという(34)。しかし同じ構図の影響はこれだけに留まらなかった。後年の『詩人の嘆き』(35)(挿図4)において、人物二人は『詩人と聖女』の場合以上に原作に忠実でより間を詰めており、上から見下ろすムーサと下から見上げる詩人の配置はシャセリオーをそのままなぞっている。ただシャセリオーの作品に見られる燃え上がるような構図の動きは、鎮静したものとなっている。この他にも『デーイアネイラ』のための素描の一つ(36)、『メッサリーナ』(37→こち:当該作品の頁ら)、ラ・フォンテーヌの寓話への挿絵の内『娘に変身した二十日鼠』(38)、『レダ』を描いた小品の一つ(39→こちら:当該作品の頁)などの人物たちの関係が全てシャセリオーに範を得ている。
  28.Sandoz, op.cit., p.17.

29. この間に制作されたデカズヴィルのノートル・ダム教会の『十字架の道』連作(PLM.50-63. 1862年→こちら:当該作品、第4の留の頁や、そちら:当該作品、第11の留の頁など)に対しても、シャセリオーの様式の影響が据摘されている。Larroumet,op.cit., p.37.

30. PLM.113.

31. MS.99.


シャセリオー《アポロンとダフネ》1845
図3 シャセリオー『アポロンとダフネ』、パリ、ルーヴル美術館

32. Paul Leprieur, Gustave Moreau et son œuvre, Paris, 1889, pp.16-17.

33. MS.94B.両者を分かつ柱はモローがウフィッツィで模写したマンテーニヤの『割礼』によることが指摘されている。Mathieu, op.cit., p.109.

34. MGM.764
. Mathieu, op.cit., pp.32, 109.筆者未確認。シャセリオーは問題の油彩を版画にしている。MS.269.
補註 MGM.767 の誤り。申し訳ありませんでした。『シャセリオー展』図録、国立西洋美術館、2017、pp.100-101 / cat.no.29 に図版掲載。

35. PLM.290. 1882年頃。

モロー《詩人の嘆き》1882頃
図4  モロー『詩人の嘆き』、パリ、ルーヴル美術館

36. MGMd.705. 1872年頃。

37. MGM.30, etc. 1874年。

38. PLM.219. 1880-81年。

39. MGM.hors cat. P.-L. Mathieu, Gustave Moreau. Aquarelle, Fribourg, 1984, p.53に図版。
 『アポロンとダフネ』からは、上方から見下ろすもの即ち崇拝されるべきものとしての女性、それに拝脆し霊感を受けとる芸術活動一般の象徴としての詩人、視線によって結ばれる両者の関係、光輪や風が暗示する事件の聖性などの要素を読みとることができ、これらがモローに非常に大きな影響を与えたものと思われる(40)。この点で『アポロソとダフネ』の影響はさらに深く、モローが繰り返し採用した、画面内で人物二人が視線を対峙させるという構図全般の原型となったと考えることができよう。その早い例が一八六四年のサロンに出品され、モローの出世作となった『オイディプスとスフィンクス』である(41→こちら)。この作品にはアングルの同主題の先例(→こちら:当該作品の頁)をはじめとし:当該作品の頁て、幾つかの影響源を挙げることができるが(42)、スフィンクスがオイディプスの胸にしがみつき視線を交すという、この作の要となるモティーフはシャセリオーの『アポロンとダフネ』の人物二人の配置に示唆されたものであろう。こうして、オイディプスとスフィンクスの交す視線の内に闘争でもあれば牽引でもあるような関係が暗示される。この対峙の図式は以後のモローにとって重要な語彙の一つとなる。一八七六年の『ヘラクレスとヒュドラ』(→こちら:当該作品の頁)や『出現』(43→こちら:当該作品の頁)などの作品は皆この系列に属しており、男と女、人間と自然、詩人と神的なものの関係を表わすと解釈されている。この図式は、晩年のモローにおいて重要な位置を占める神性の顕現の主題に展開していくことになるだろう。
 以上の『アポロンとダフネ』から出発した作品はしかし、シャセリオーの作品で色彩と筆致が生み出した熱気を持っていない。またシャセリオーにおいては、アポロンからダフネへと人物は画面に対して浅くはあるが奥行きに配されていたのに対し、モローでは二人の人物が画面に対して平行に並べられることが多くなる。このため画面が平面として完結するとともに、人物の関係がより図式的な観念性を帯びる。さらにシャセリオーのダフネが両腕を頭上高く上げているのに対し、モローにおいて上側にいる人物はいづれも、手を頭より上に持ち上げることなく、しばしば片腕をダラリと下げている点に注意しょう。このため構図全体から動きが奪いとられる。モローの想像力において上昇のヴェクトルが重きを占めていないことの現れをここに見ることができよう(44)。このようにシャセリオーからの影響を強く受けながら、モローの作品はより鎮静した冷ややかなものとなる。画面は平面性を増し、内容は観念的な図式を暗示する。これはシャセリオーの芸術とモローの芸術との間に常に横たわる相違に他ならない。
 なお『アポロンとダフネ』は、モローの晩年に至っても発想の源であり続けた。一八九三年の『詩人とセイレーン』(45→こちら:当該作品の頁)において、竪琴を背負う詩人と足下に蹲る彼を見下ろす妖怪の配置にはシャセリオーの作品の思い出が見てとれる。ただここでは、詩人の力無げな様子、セイレーンの見開かれた目とその身の丈が詩人より数段大きいことなどに、両者の間の圧倒的な力の差を読みとることができる。モロー晩年の重要なテーマである、超人間的な力の描出という主題が反映しているのである。
  
  40. シャセリオーの研究者は、しばしばこの作品にモロー芸術の先駆けを見た。J. Laran et H. Marcel, Théodore Chasséeriau,, Paris, 1914, p.44. Bénédite, op.cit., p.244.

41. PLM.64.

42. 特に重要なものとして、古代の<若者に襲いかかるスフィンクス>の図像がある。
H. Demisch, Die Sphinx, Stuttgart, 1977, p.191 及び Toni Stooss, "Gustave Moreaus Œdipus - ein Kind seiner Zeit", Gustave Moreau Symboliste,(Katalog des Ausstellung), Kunsthaus Zürich, 1986, p.82 参照。

43. PLM.152, 159.

44. もとよりモローの画面に腕を高く上げる人物が全く現れないわけではないが、その場合でも、上げた腕が構図全体に支えられることはなく、特定の意味づけに従属していると感じさせることが多い。

45. PLM.404.

 



 一八六五年のサロンに出品された『イアソーン』(46→こちら:当該作品の頁)に関して、モローがローマで模写したソドマの『アレクサンドロスとロクサーナの結婚』(→こちら:当該作品の頁)中の婚姻の神とへフェスティオンの対からの影響が指摘されている(47)。人物が二人並び、後方の人物が前の人物の肩に手を置くという配置、イアソーンの姿勢などをモローはソドマから借りている。ところでこの作品のための素描の一つ(48)(挿図5)に目を移すと、完成作とはニュアンスが異なっている。人物二人はともに目を伏せ、メディアは後ろからイアソーンの首に腕を巻きつけ、首を傾げている。両者の間に距たりが置かれた完成作がメディアによるイアソーンの支配を陪示しているのに対し、素描は二人を一体化したものとして描いている。素描における二人の配置に対して、ソドマとは別にシャセリオーの『デスデモデモーナ』(49)(挿図6)を発想源として挙げることができる。素描のメディアとシャセリオーの侍女はその姿勢、柔かい雰囲気を与えることにおいて一致する。モローは『イアソーン』の構想を練るにあたって、最初シャセリオーの『デスデモーナ』から構図を借りて二人の恋人を一つになったものとして描こうとしたが、イアソーンとメディアの物語の悲劇的な結末やメディアの魔女という素姓に思いを及ぼし、両者の間を力の関係を暗示するものとして表わさんとし、その際ソドマの模写を参照したのであろう。制作初期の段階では自由で熱気を帯びていながら仕上げの段階で冷却するという、モローのみならず十九世紀の画家たちにしばしば見られる過程を認めることができる。先に述べたシャセリオーに対してモローでは絵の性格が冷たく観念的になるという変化も、シャセリオーとモロー二人の違いであるだけでなく、モロー自身の内部における制作初期の段階から仕上げの段階に至る推移に反映しているのである。
  46. PLM.69.

47. Leprieur, op.cit., p.48.

48. MGMd.1754.

モロー《イアーソーン》
図5 モロー『イアソーン』、パリ、モロー美術館

49. MS.119. 版画化されたもの - MS.278.

シャセリオー《デスデモーナ》1849
図6  シャセリオー『デスデモーナ』、パリ、ルーヴル美術館
 『アポロンとダフネ』の場合同様、『デスデモーナ』の及ぼした影響も『イアソーン』一作に留まらなかった。特に後の『化粧』(→こちら:当該作品の頁)では、『デスデモーナ』における女主人と侍女の関係が忠実に移されている(50)。しかしシャセリオーのヒロインの大きな目や首を傾げた様子と、モローの女性の冷たい顔立ちは両者の女性像の違いをよく窺わせる。
 『イアソーン』の素描で見た二人の人物の一体化の表現は、レダと白鳥を措いた小品の一つ(51→こちら:当該作品の頁)で繰り返される。両者の配置は『デスデモーナ』をなぞり、モローの習作の領域に属する作品特有の自由な水彩の処理が、両者を抱擁の内に溶解する。
 最後に一八六五年のサロンに出品された『若者と死』(52→こちら:当該作品の頁)に触れておこう。この作品は若くして死んだシャセリオーの思い出に捧げられたもので、彼が没した一八五六年に着手され九年後にようやく完成した。発表当時トレ=ビュルジェは同じサロン出品の『イアソーン』との構図の類似を指摘しており(53)、シャセリオーの特定の作品の影響を否定したホルテンの意見にもかかわらず(54)、二人の人物を重ね合わせた構図に『デスデモーナ』の影を見ることができるかもしれない。
 
  50. PLM.273. 1881年頃。この作品にはシャセリオーの別の作品『水浴を終えた女』(MS.146→こちら:当該作品の頁)を重ねることもできる。後者は他方、モローの『デリラ』(MGM.412→こちら:当該作品の頁)への影響が指摘されている。Sandoz, op.cit., p.288.

51. MGM.418.

52. PLM.67.

53. J. Laran et L. Deshaires, Gustave Moreau, Paris, 1913, p.31.

54. Holten, op.cit., pp.31-32.

 



 モローは一八六九年の出品以後七六年までサロンへの出品を中断している。この間の作品でシャセリオーの影響を認めることのできるものの内、先に『デーイアネイラ』や『メッサリーナ』などに触れたが、他にサッフォーの連作への影響が指摘されている(55)。ここでは両者の作品間の異同について簡単にまとめておこう。モローはサッフォーの自殺の場面を三つに分け、それぞれ数点の作品を残しているが、そのいずれもシャセリオーの先例に倣っている。最も早い作例は一八六七年の制作になり、レウカディアの岬から飛び降り淵を落ちていく女詩人を描いている(56→こちら:当該作品の頁)。同じ場面を措いたシャセリオーの作品(57→こちら:当該作品の頁)は筆致の激しいロマン派色の濃いもので、ヒロインの足の配置、散らばった髪などもモローは取り入れている。シャセリオーの構図にはグロの先例(→こちら:当該作品の頁)があるが、グロもシャセリオーもサッフォーが岬から跳躍した瞬間を捉えているのに対し、モローは六七年の作でも後の改作(58→こちら:当該作品の頁など)でも既にかなり崖を落ちたところを描いており、崖が画面の上から下まで続いている。そのためグロやシャセリオーにおける劇的な性格が抑えられることになる。他方モローは、崖から飛び立つ瞬間の人物というモティーフを同じ六七年の『キマイラ』(59→こちら:当該作品の頁)で描いている。墜落の主題は七八年の『謎を解かれたスフィンクス』(60→こちら:当該作品の頁)でも取り上げられる。
 


55. Mathieu, op.cit., p.104.

56. PLM.104.

57. MS.67.

58. PLM.193, 194, 406, etc.

59. PLM.88, 89.

60. PLM.173.
 次に、右の場面に先立つ、岬の上で思いに沈むサッフォーの姿をモローは一八七二年の水彩(61)(挿図7)等数点の作品で描いている。シャセリオーの先例(62)(挿図8)は激しい筆致と堂々たる人体の量感を示す、小品ながらモニュマンタルなものだが、これに対してモローのサッフォーは画面中央にやや距離を置いて配され、衣服や風景の描写に精緻な装飾性を示している。シャセリオーは浅い空間に量感のある人体を大きく配することが多いのに対し、モローの特に後期以降では人物は小さく、シャセリオーが重視しなかった風景の役割りが大きくなる傾向がある。やはりシャセリオーに大きな影響を受けたビュヴィス・ド・シャヴァンヌにも同じ事態が見られ、十九世紀後半、画面の平面性が強調されていくという絵画史の流れを反映しているものと見なすことができよう。
 以上二つの場面においてシャセリオーのサッフォーはいづれも目を開いているのに対し、モローのサッフォーはどちらの場面でも目を閉ざしている。このためシャセリオーのヒロインが生きた人間の感情を感じさせるのに対し、モローにあっては既に別の世界に属しているような印象を与える。またシャセリオー及びグロの作品が双方夜景であるのに対し、モローの画面はまだ明るく、彼が好んで描いた落日が見える作品もある。
 サッフォーの連作の最後の場面は彼女の亡骸が崖の下に打ち寄せられているところで、この場面を描いたシャセリオーの作品は現存していないが、残された素描(→こちら:当該作品の頁)から見てモローの構図(→こちら:当該作品の頁や、そちら:当該作品の頁)がここに想を得ているであろうことが指摘されている(63)。
 サッフォーの連作は一八六六年の『オルフェウス』とともに、詩人の死の全自然への共鳴をその主題としている。竪琴を担う詩人とその死のテーマは、宿命の女のテーマとともにモローの主題群を貫く二つの軸をなしているが、ここでもシャセリオーの先例が大きな示唆を与えたのである。
   
  61. PLM.137.

モロー《岩の上のサッフォー》1869-72頃
図7  モロー『岩の上のサッフォー』、ロンドン、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館

62. MS.128.

シャセリオー《サッフォー》1849
図8 シャセリオー『レウカディアの岬から身を投げんとするサッフォー』、パリ、ルーヴル美術館

63. Sandoz, op.cit., p.264.

 



 一八七六年から八〇年まで、モローは三たびサロンに出品するようになる。この時期にモローの様式は一応の成熟に達するのだが、この間の作品にもシャセリオーの影響を示しているものがある。七六年のサロンに出品された『聖セバスティアヌス』(64)(挿図9)には数点の改作があるが皆同じ構図で(→こちら:当該作品の頁など)、木に縛りつけられ矢を射込まれた聖者と、その左肩の後ろから顔を出し彼に語りかける天使を描いている。両者の配置の発想源として、パリのサン・ロック教会にあるシャセリオーの『エティオピアの宦官を洗礼する聖ビリポ』(65)中のビリポと天使の対を挙げることができる(挿図10)。ここでも天使は翼を拡げ、ビリポの左肩の後ろから覗き込むように顔を出し、両腕を前で交差させている。
  64. PLM.165.

モロー《聖セバスティアヌスと天使》1876頃
図9   モロー『殉教者として赦される聖セバスティアヌス』、ハーヴァード大学フォッグ美術館

65. MS.227A.

シャセリオー《エティオピアの女王の宦官を洗令する聖ピリポ》1853(部分)
図10  シャセリオー『エティオピアの宦官を洗礼する聖ビリポ』(部分)、パリ、サン・ロック教会
 モローはセバスティアヌスの殉教の場面を以前にも何度か取り上げているが(→こちら:当該作品の頁や、そちら:当該作品の頁など)、七六年作での主題は詩人の霊感、特にヘシオドスとムーサを描いたものに連なっている。モローにとって異教の詩人とキリスト教の聖者は同族であり、芸術は神的なものとの交渉という点で宗教と同じ範疇に属している(66)。それ故セバスティアヌスと天使、ヘシオドスとムーサを描いた作品双方に、同じ『声』という標題を持つものがある(67)。一八五八年、イタリア旋行中に描かれた最初のへシオドスとムーサの作例は(68→こちら:当該作品の頁)、ブルボン宮の図書室にあるドラクロワの同主題の構図(→こちら:当該作品の頁)に想を得たものと思われ、眠るヘシオドスとその上に舞い降りるムーサを向かい合わせに配している。以後の作例はその殆んどがムーサを歩むヘシオドスの背後に配し、両者を側面から捉えている。ただある水彩(69→こちら:当該作品の頁)ではムーサは休むヘシオドスの背後斜めに浮かび、シャセリオーの天使に近い配置を示しており、ヘシオドスの主題とセバスティアヌスの主題を介する位置に置くことができる。ただしこの時点では、シャセリオーの影響とともにドラクロワの影響を考えなければならない。先に触れたブルボン宮図書室の『ソクラテスとダイモーン』(→こちら:当該作品の頁)及び『アダムとエヴァの追放』の画面がやはり類似の構図を示している。ブルボン宮図書室のドラクロワの装飾にはヘシオドスとムーサ以外にも、洗礼者ヨハネの斬首(→こちら:当該作品の頁)、アレクサンドロス、オルフェウスなどの主題に関してモローが参照したと思われるものが幾つかあり、問題のへシオドスとムーサの構図にも示唆を与えた可能性がある。『セバスティアヌスと天使』になると、天使の姿勢、特にその両腕がシャセリオーの画面とより一致しており、ドラクロワあるいは古来の聖者と天使の図像を離れてシャセリオーの範に倣ったものであろう。    66. これは古来広く知られた思想であって、モロー独自のものではない。cf・H. B. Riffaterre, L'orphisme dans la poésie romantique, Paris, 1970, chap. 1-2.

67. ヘシオドスとムーサ…PLM.103, MGM.286, MGMd.624, 3136, セバスティアヌス…MGM.hors cat.(デュルー・コレクション)

68. PLM.41, 42.

69. PLM.102.

 
 シャセリオーのビリポと天使から得られたモティーフは、モロー晩年の詩人とその霊感を主題にした多くの作品にそのまま繰り返される(70)。殆んど常に天使及至ムーサは両腕を前で交差させており、モローはここに何らかの特定の意味を与えていたのではないかと考えることもできよう。晩年の詩人像における変化としては、天使及至ムーサが多くの場合小型化し、時に複数化することが挙げられる。この点で霊感の主題はモローのいう<キマイラ>の図像と結びつく。これらは人間の内なるもの、あるいは生けるものとしての自然のうごめきを具象化しょうとしたものと考えられ、晩年のモローの作品註釈に見られる自然の汎神論的な活性化のヴィジョンと関連している。一方<キマイラ>の図像への結びつきは、『キマイラたち』の前景中央の対(71→こちら当該作品の頁、細部)や『エヴァ』(72→こちら:当該作品の頁)における悪魔とエヴァのように、シャセリオーから得られた天使と聖者のモティーフを、殆んど変更なしに邪悪なものの囁きに適用する例を生み出すことになる。ここにはむしろ、当初のモローの構想であったであろう善対悪という図式が、晩年には神的なものと人間あるいは自然の対置という範疇に移行していく過程の現れを認めることができよう。このようにモロー晩年の神秘主義的な関心、人間と神性の交渉の絵画化にあたって、シャセリオーのビリポと天使のモティーフは重要な出発点を提供したと言うことができる。    70. PLM.206, 291, 345, 346, 386, 401, 405, 405bis, etc,

71. MGM.39. 1884年。ホルチンはこの対に関して、悪に満ちた画面の中で救済の可能性を晴示していると述べている(Holten op.cit., p.82}が、この<天使>は裾の間に鈎爪のある足を覗かせている。

72. PLM.337. 1880-81年頃。

 



 晩年に至っても、今迄に触れた作品以外でシャセリオーの影響を指摘できるものが見出される。『死の前の平等』(73→こちら:当該作品の頁)におけるオイディプスの肩を落とした姿は、シャセリオーの『オリーグの園のイエス』(74→こちら:当該作品の頁)のイエスあるいは『スザンナ』の版画版(75→こちら:当該作品の頁)のヒロインと比較することができる。一八八〇年の『ガラテア』(76→こちら:当該作品の頁)から派生した水彩画『ポリフェーモス』(77→こちら:当該作品の頁)について、シャセリオーの『捨てられたアリアドネー』の影響が指摘されている(78)。この作品は会計検査院の『オケアニデス』(79)とも類似している。会計検査院の壁画からほさらに、『戦さからの帰還』(80)が『ドイツ騎兵と囚われの女たち』(81)の発想源となった。大原美術館の『雅歌』(82→こちら:当該作品の頁)は同じ壁画の沈黙の寓意像(83→こちら:当該作品の頁、細部)からそのポーズを得たものであろう。双方首を一方に傾げ、傾げた方の手を口下に、もう一方の手を下げている。そして傾げた首から絵を視る者の方を見つめる目がポイントとなっている。絵の観者に真っ直向けられた視線というモティーフは、晩年のモローの作品において重要な意味を持っている。
 晩年のモローの描く世界が多分に神秘主義的な色彩を帯びていることは既に触れた。神的なものの顕現という主題を絵画化するために、モローは絵を視る者を真っ直見据える正面像のモティーフを何度か採用する。この正面像のモティーフに、中世美術やアングル(84)の例とともにシャセリオーの影響を考えることができる。モローは自宅にシャセリオーのサン・メ
リ教会の壁画(→こちら:当該作品の頁)及び姉妹像(→こちら:当該作品の頁)、ラコルデール神父像(→こちら:当該作品の頁)の写真を飾っていたという(85)。後の二点の肖像画では、シャセリオーの描く人物特有の大きな目が、観者を真っ直見つめている。硬質な肉付けと垂直性の勝った形態が視線の強さを強調する。モローは肖像画という分野に殆んど関心を示さなかったので、やはり硬い線と正面性で捉えられた晩年の自画像(86→こちら:当該作品の頁)を除けば、この二点の作品がモローの制作に直接反映しているのを認めることはできない。しかしモローが超自然的なものの顕われとして正面像の視線を強調する時、この二点の肖像画における肉体性を抑えた、意志の発現としての視線を思い出していたと考えることは、全く意味のないことでもあるまい。
 モローの作品中、左右相称の構図が現れる早い例の一つに一八七六年のサロンに出品された『へロデの前で踊るサロメ』(87→こちら:当該作品の頁)がある。この作品の背景の、画面中央に偶像を配しその左右に円柱を並べるという構成は、やはりモローが写真を飾っていたサン・メ
リ教会にあるシャセリオーの『エジプトのマリアの改心』(88)から学んだものであろう。そしてヘロデの玉座の構成はそのまま一八九五年の『ユピテルとセメレー』に受け継がれる。この作品は晩年のモローにおける正面像のモティーフの代表的な例であり、単なる古典神話の図解ではなくモロー自身の信仰を託したイコンと化している。ここでのユビテルとその右膝の上で神の威光に打たれるセメレーの姿は、モローがシャセリオーの『アポロンとダフネ』から引き出した対峙の図式に連なり、一方ユピテルとその左肩から顔を出している有翼の精霊の対は、シャセリオーのビリポと天使に発した系列に属している(89)。このようにこの作品はシャセリオーから得たモティーフを用いながら、自己のヴィジョンを達成せんとした綜合的作品というべきものなのである。
 モロー最後の構想となった『死せる竪琴』(90→こちら:当該作品の頁など)は、一八九〇年頃の『神秘の花』(91→こちら:当該作品の頁)とともに、宙高く十字架を捧げもつ人物を中央に配している。このモティーフは、シャセリオーがパリのサン・ロック教会に描いた『インド人たちに洗礼を施す聖フランチェスコ・ザビエル』(→こちら:当該作品の頁)によるものであろう(92)。この作品の異教世界に対するキリスト教の勝利という主題は、モローの註釈にも受け継がれている。ただモローの場合は完全に神話的な表現に変化している。
 
 


73. PLM.358. 1888年頃。

74. MS.54, 55.

75. MS.267.

76. PLM. 195.

77. MGM.587.

78. MS.152. Sandoz, op.cit., p.294.

79. MS.113M. 版画版…MS.290.

80. MS.113B.

81. PLM.181. 1878年頃。

82. PLM.399. 1893年。

83. MS.113H.

84. 『ユピテルとセメレー』(PLM.408 = MGM.91→こちら:当該作品の頁)に対する『ユピテルとテティス』(→こちら:当該作品の頁)の影響(Holten, op.cit., pp.86-87)。

85. MS.94, 95, 72. Mathieu, op.cit., p.32.

86. MGM.234.

87. PLM.157.

88. MS.94A.

89. このモティーフにはまた、構図全体に影響を与えたアングルの『ユピテルとテティス』におけるユーノーの姿との関連が重なっているものと思われる。

90. MGM.106, 346, etc. 1897-98年。

91. MGM.37.

92. MS.227B. 『神秘の花』についてほ、モローが以前取り上げた聖へレネーの図像(PLM.190. 1882年→こちら:当該作品の頁)との関連も考えられる。

 以上に見てきたように、モローがいまだ己れのスタイルを持たず、二人が親交を結んでいた頃のみでなく、シャセリオーの死後、モローが固有の様式を確立した時期からさらに生涯の最後に至るまで、モローはシャセリオーの作品から想を汲み続けた。はじめに述べたように、二人の交渉を直接基礎づける資料が乏しいため議論が完全なものであるとほ言えないが、今後さらに緻密な研究を進めるための輪郭を引くことはできたものと思う。
 紙数の都合上詳しく論ずることは別の磯会に譲るが、シャセリオーがモローに与えたものについて語るためには、以上の具体的なモティーフの借用の指摘とともに、影響をより綜合的な視点から観察しなければならないことを最後につけ加えておこう。
 まず内容面では、女性像とオリエンタリズムの問題が挙げられる。シャセリオーが描く女性たちの物思いに沈んだ内省的な性格、その豪奢な装飾はそのままモローの女性像に引き継がれている。ただしシャセリオーにおいて量感を強調していた形態の単純化は、モローでは人体を貧弱で観念的なものにしてしまう。シャセリオーの画面の持つ暖かさと柔かさは冷たくよそよそしいものとなるだろう。
   
 シャセリオーの描く場面は、特に一八四六年のアルジェリア旅行以前の作品において、主観的なノスタルジーを表出しており、これが彼のオリエンタリズムにドカンらの地誌的記述を主としたものとは異なる個性を与えている(93)。地誌的な現実性を排し、幻想的及至象徴的な性格を帯びたモローの風景は、このようなシャセリオーの主観的なオリエンタリズムから出発したものと系譜づけることができよう。
 以上二点はシャセリオーの影響を語る際常に指摘されるものだが、充分論じられていないものとして様式上の問題がある。冒頭で触れたように、シャセリオーはしばしばアングルの線とドラクロワの色彩を綜合しようとした画家と評価される。こうした図式を単純過ぎると斥ける研究者もいるが(94)、シャセリオーの画業の展開をこのような問題を反映しているものと見なすことは必ずしも無意味ではない。そしてモローはシャセリオーからこの課題を引き継ぎながら、最終的には綜合すべき線と色彩を根本的に分裂させてしまったのであり、一方で過剰なまでの細部を刻み込んだ作品を制作しながら、もう一方では非具象と見紛うばかりの画面、あるいは線と賦彩がずれたまま重ね合わされた<入墨>を示す画面を残すことになる。この問題については稿を改めて論じることとしたい。以上のようなモローの営みは、十九世紀中葉から後半にかけての美術の大きな流れの興味深い例の一つであるということができるだろう。

  93. J. Alazard, L'Orient et la peinture française au XIXe siècle, Paris, 1930, pp.115-116.

94. Sandoz, op.cit., pp.88-93.
追記 本稿は、修士論文『ギュスターヴ・モロー研究序説』(一九八五年一月、神戸大学に提出→こちら:当該原稿の頁)の一部に基づいて、筆者が一九八六年二月、美術史学会西支部例会において行った口頭発表の前半に手を加え作成したものである。 

Résumé

De Chassériau à Gustave Moreau

ISHIZAKI Katsumoto

 Dans sa jeunesse Gustave Moreau 1826-1898),précurseur du Symbolisme,a subi une grande influence de Théodore Chassériau(1819-1856),peintre qui s’efforcait de synthétiser la ligne d'Ingres et la couleur de Delacroix. Les œuvres de Moreau, dans la période où il fréquentait Chassériau,témoignent l'imitation évident du style de celui-ci.
 On ne peut pas scruter les rapports intimes entre ces deux hommes,car des documents concernant les relations des deux sont pauvre. Mais comparer les œuvres des deux nous fait connaître à quelle mesure d'influence Chassériau a exercé sur Moreau.Cette influence a continué non seulement du vivant de Chassériau,mais aussi après sa mort.
  De la période où Moreau a cherché et établi son propre style à ses dernières années,nous pouvons signaler les exemples dans lesquelles Moreau a obtenu la source d'inspiration aux œuvres de Chassériau. Alors souvent l’influence ne reste pas l'empreint isolé,mais sert du modèle répété pour que Moreau represente son idée abstraite dans la peinture;Apollon et Daphné de Chassériau pour la schéma d'opposition,Saint Philippe et l’'nge pour le thème d’inspiration.
 Du point de vue plus synthétique,la figure de femme,l'orientalisme subjectif et le problème stylistique de la synthèse de la ligne et de la couleur,que Moreau déchirerait fondamentalement, on peut les donner en tant que l'influence de Chassériau sur Moreau.

Bijutsushi. Journal of the Japan Art History Siciety, vol.36, no.2, March 1987, pp.99-109


その後見る機会のあった文献も含めて、修論こと『モロ序』の参考文献および文献追補→こちら:「ギュスターヴ・モロー研究序説」[14]の頁、
また、シャセリオーに関して「セリオ」君の参考文献および文献追補→そちら:「テオドール・シャセリオーに就いて」の頁の「参考文献」もあわせてご参照ください。
双方にも出ていますが、とりわけ本稿のテーマに関しては→あちら:同上中の一部、モローとの関連を取りあげたもの

 
 →おまけ:口頭発表時の原稿(1986/2/8)に続く
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