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レポート、1983年2月

テオドール・シャセリオーに就いて

石崎勝基
2017年の前置き
1. 年次
2. 初期の女性像
3. 人体の表現 etc.
4. 眼の表現
5. 空間
6. 色彩、制作過程
7. 主題
  参考文献
  文献追補 
  日本での展覧会図録抄 
  日本での画集その他抄 
  おまけ 
2017年の前置き

 2017年2月28日から5月28日まで上野の国立西洋美術館で『シャセリオー展』が開かれるという、そのちらしを元の勤め先で見た時にはおのが目を疑いました。もっとも顧みれば、これまでまとまった紹介のされたことがなかった作家の展覧会が催されるのは、必ずしも珍しいことでもない。ユベール・ロベール、ハンマースホイ、スピリアールト……。敏感に反応したのは、昔の研究テーマがシャセリオーに関わるところがあったからなのでしょう。
 当方が卒業論文(1981)、修士論文(1985)で扱ったのはギュスターヴ・モローなのですが、そのモローや、またピュヴィス・ド・シャヴァンヌに大きな影響を与えたとされるのがシャセリオーです。さらに新古典主義の領袖アングル門下で神童として将来を嘱望されながら、その宿敵と見なされていたドラクロワとロマン主義の陣営に与した画家でもあります。その点にも関連して、いわゆるオリエンタリズムの流れに棹差しもした。何よりその作品では、人物は男女問わず眼がむやみに大きく、からだは丸みを帯びて柔らかさと硬さがない交ぜになった奇妙な雰囲気をまとっています。
 卒論(→こちら)でもしょっぱなでシャセリオーの作品を引きあいに出したのですが、大学の図書館にシュヴィヤールとマルセル&ラランのモノグラフィー、サンドスのカタログ・レゾネが収められていたこともあって、そういえば修論の準備段階の一つとしてシャセリオーについての年度末レポートを書いたことがあったっけなと、担当教官の朱で真っ赤になったそれを引っ張りだしてみれば、冷や汗だらだら、全身をかきむしり、壁に頭を10度ほど打ちつけ、七転八倒匍匐前進、床をゴロゴロしたくなるような代物ではありました。書いた本人から見てという条件つきではあれ、ここまでくればいっそ面白がるべきではないかと、何を血迷ったか恥の上塗り世の情け、シャセリオー展で興味を持った人がアクセスしてくれるかもという助平根性も手伝って、ここに掲載する次第です。
 とはいえ、モロー美術館目当てにほんのひと月ほどパリに初めて赴いたのは1984年のことですから、この時点では下の日本での展覧会図録抄にも挙げた大阪・梅田はナビオ・ギャラリーでの 『フランス近代絵画 女性美の饗宴』展(1983)に出品された《聖処女》(1839)くらいしか実物は見ていないはずです。大学の図書館で見当たらなかったベネディットの二巻本も読んでいない。文中何度か色が判らない等と記しているのは、色刷りの図版があまり見つけられなかったためでした。シャセリオーの全体像をとらえているとは言いがたく(とりわけ壁画の問題)、今にすればあれあれおいおいぐげげげげ……という箇所もひとつならず見受けられます。なのできちんとしたテクストを読みたい方は、西洋美術館の『シャセリオー展』図録をご覧ください。
 
 誤字脱字、鉤括弧の上下*、作品タイトルを《 》で囲んだこと、固有名詞や文献の表記などを除いて、原文には変更を加えていません。また元のレポートには図版はつけていませんでしたが、ここでは附しておきます。その内いくつかは(額ないしその一部が映りこんでいる)、33年前に実物から撮ったもので、ぶれていたり歪んでいたりてかっていたり黄ばんでいたりなどなどしますが、ご容赦ください。きちんとした図版を見たい方は下掲の画集・図録類やウェブでお探しください。例によって画像の上でクリックすると拡大画像とデータのページが表示されます。  * このレポートは横書きの400字詰め原稿用紙に書いたのですが(文献こみで30枚、元気だ)、その際鉤括弧は 「 」 ではなく ∟ ˥ としていました。そういうものだと思っていたわけです。担当教官も気になったらしく、後にどんな風に調べたのか、大阪(市?)の慣習らしいとわざわざ教えてくれたことが思いだされたりするのでした。 
 2017/4/2

1.年次


 まず、目安となる年代を幾つか記して置く。テオドール・シャセリオーは、1819年に生まれ、1856年37才で没す。1830年の末にアングルのアトリエに入り、1836年に初めて官展(サロン)に出品。1837年に白耳義(ベルギー)へ、40年に伊太利(イタリア)へ、46年にアルジェリアへ旅行している。1843年に巴里(パリ)のサン・メリ教会の(図9)、48年に会計検査院の、53年にサン・ロック教会の、55年にサン・フィリップ・デュ・ルール教会の(図13)、それぞれ装飾を完成している。

2. 初期の女性像


 シャセリオーの個性が最初に形を取るのは、1839年の官展に出品された《海のウェヌス》(1)(図1)と《水浴のスザンナ》(2)(図4)に於てである。
 《海のウェヌス》は、海から上がるウェヌス(ウェヌス・アナデュオメネ)の伝統的な図像に倣った物で、両腕を挙げて髪の毛を絞り束ねる、と云う姿態(ポーズ)はティツィアーノ(3)、アングル(4)の同主題の作品(図2)、ドラクロワのブルボン宮王の間の《セーヌ河》に見られる。ただ是等の作例では、首を傾げ、片腕は頭の高さ、片腕は肩の高さかそれより下で髪を握っているのに対し、シャセリオーの女神は両腕を高く挙げると云う不自然な姿態(ポーズ)を示しており、腕から腰を通って足へ連なる曲線、そして真っ直に下る髪の流れが強調される。この垂直に下る髪はモローの《ガラテア》(5)(→こちらを参照:当該作品の頁)に再現される事に成るだろう。アングルの作品が正面像なのに対し、シャセリオーでは顔は完全な側面観(プロフィール)で、腰をやや右に捻っている。是は曲線のうねりを強めると共に、二次元的な平面ではない、量感(ヴォリューム)、空間の印象を生み出す。この印象を助けるのが光と影による肉付けである。アングルの作品には影は殆んど無く、裸体の賦彩と背景の賦彩は切り紙の様にはっきり区別されている。シャセリオーでは右半身の影から左半身の光の当たった部分が浮き出し、背景と裸体を統一する。画面全体は単彩(モノクローム)調子(トーン)の変化に成っている。この調子の柔かさ、女神の伏せた、影に入った顔などが、画面をアングルの如き「純粋なアラベスクから隔て…(中略)…形の無い思考が彼女の夢想の内に漂い、美しい小さな顔の上に情熱と憂い(メランコリー)と静謐が交り込む」(6)。
 完成作の為の習作(7)(図3)を見て置くと、姿態(ポーズ)は完成作とほぼ同じだが、曲線のうねりは完成作ほど強調されていない。腰の括れも完成作の方がきつく、更に右へ強く突き出ている。シャセリオーが屡々(しばしば)、「態とらしい(マニエレ)」「誇張」「奇妙な(ビザール)」などと評された(8)のが思い出されよう。両足の位置も習作の方が安定している。光と影による肉付けも、習作では殆んど見られないが、アングルほど肉体と背景の色は分離せず、調子も明るい。掠れた様な筆触が、完成作よりも画面を安定させている。
 同じ年出品の《水浴のスザンナ》(図4)も頭をやや傾げた、物思わし気な女性を中央に配している。モローの《オルフェウスの首を抱くトラキアの娘》(9)(こちらを参照:当該作品の頁)の源はここだろう。姿態(ポーズ)は《ウェヌス》ほど不自然ではなく、顔や装飾などの細部が描き込まれ、背景が木立ちで拡がりを閉じている事などから、画面の纏まりはこちらの方が落ち着いている(形態(フォルム)の誇張は習作(10)と石版画(11)(図5)に見られる)。ただ光と影が全体を浸し、平面ならぬ空間の印象を生み出す。色はかなり暗いが、裸体の金色、水の深緑、衣の紅などは《ウェヌス》ほど単彩の観を与えない。暗い緑の木立ち、その片隅に空を開き、中央に人体、赤の衣、と云った色の配置はプリュードンの《ジョゼフィーヌ》(12)や《ウェヌスとアドニス》(13)等を思い起こさせよう。
 この二作が、「ノスタルジー」「物憂げな」「悲しみ」「夢の中」云々と形容されるシャセリオーの一連の女性像の発端を成す。何よりモローに直接繋がるのは、シャセリオーのこの部分である。後の幾つかの作例を見て行こう。
 1842年の官展に出品された《エステルの化粧》(14)(図6):右側の黒人の侍女はルーベンスの《ウェヌスの化粧》(15)(→こちらを参照:当該作品の頁)からその儘もたらされた。ドラクロワの《アルジェの女達》(16)も思い出される。エステルの腕輪や首飾りの豪奢な効果は《スザンナ》の延長であると共に、ルーベンスや、ルーベンスの源であるティツィアーノの《鏡を見るウェヌス》(17)(→こちらを参照:当該作品の頁)にも由るのだろう。前景に人物を大きく三人配し、その直ぐ後ろはクッションで埋めている為、殆んど奥行が無い。それ故、光と影で空間を満たす必要が無くなり、画面は先の二作よりずっと明るい。個々の色がはっきり顕われ、豪華な、清新な調子を醸す。しかし、三人の躰が豊かな量感(ヴォリューム)を持ち、各々何らかの動作をしている事によって、そこに空間が作り出される。但しその動作は単純に連繋して行かず、また儀礼的なので、空間は流れず静止し、不安、或いは期待と云った何らかの感情を孕む。量感(ヴォリューム)の豊かさがもたらす重さの印象も是を助けよう。エステルが画面中央からやや左寄りに置かれ、両腕を挙げ、下半身は左に、上半身は右に捻っている(躰の右側の仕上げ、左端の侍女の差し出す壺との関係は少しおかしい。左端の女の姿態はモローの《オルフェウス》や《庭園のサロメ》(18)(→こちらを参照:当該作品の頁)に結び付く)。豊かな肉付け、その関節毎の括れ、特に細い腰や静かな面立ちとの不均衡(アンバランス)が、シャセリオーの女性特有の情調を醸す。それを更に強調するのが、エステルの大きな青い眼と、額に掛かる金髪である。
 髪の毛は世紀末芸術の呪物(フェティッシュ)と成る。女性の肌を直接外なる世界に晒さず、柔かく守る物として、未だ社会の法に規制されない、女性の、同時に宇宙の若さを徴する。また別の面から見ればそれは、非人間的な物としての、死や吸血鬼の表象とも結び付く。特に前髪は若さの印象と結び付くが、その点で大きな眼の力と共にシャセリオーのエステルと並べ得るのは、アングルの《シャルル・ポール・ジョアイム・ルティエールの肖像》(19)(図7)であろう。所でシャセリオーは、後年に成ると女性の長い髪を描くことが少なく成る。一つにはアルジェリア旅行以後、度々取り上げられる東方(オリエント)に於て、女性は大概頭に何か巻いていると云う事にもよるのだろうが、男性の占める比重が大きく成る事(決して女性が描かれなく成ると云うのではない)と考え合わせると、彼の画境の変化が窺えよう。
 1845年オデオン座休憩室に展示された《アポロンとダフネ》(20)(図8)では女性の心像(イマージュ)が今迄とやや異なる。構図の組み立ては明快で(石版にした物(21)では、人物の比率がやや小さく成り、アポロンの脛が下向きになった事、木の葉が太い線で描かれ、纏まりは更に良く成っている)、色は《エステル》よりは暗いが、葉の濃い緑、人体や竪琴の金色、衣の赤が目の詰まった筆触を見せて描かれ、かなりの熱気を示し、それが場面を非日常的な物にしている。左腕をダフネの腰に巻き、右腕を伸ばすアポロンの上半身はプッサンの同主題の作品(22)にも見られるが、プッサンの褐色の光と影に浸された重い語り口とも、ポ
ライオーロ(23)の童話的な軽やかさとも違って、ダフネの姿勢の上昇感と、豊かな量感(ヴォリューム)の躰の重さ、アポロン、根に変じつつある脚、それに伏せられた顔、瞼などの引き止めようとする力が作る緊張感、そして色彩の熱気、構図の単純さが画面に、逸話的ではないにしても或る意味で物語的な性格を与えている。今迄述べたシャセリオー描く女性が幾分被害者的、或いは被害者となる素質がある、と云った相を呈していたのに対して、ここではアポロンと云う相手役がいる事、構図其物によって――例えば折り曲げた左腕は、上から下へと云う動きをもたらす。彼女の顔は「もはや恐怖ではなく、永遠の不動がもたらす静けさを纏っている」(24)。ここには世紀末の「宿命の女(ファンム・ファタール)」の萌芽が見える。「アポロンとダフネは消え、寓意(アレゴリー)が立ち上がる…(中略)…永遠に逃れ去り、把え得ぬ…(中略)…理想を追う芸術家の姿が見えよう」(25)。ここには「何か宗教的な物が暗示されているのだ」(26)。
  1. パリ、ルーヴル、M. Sandoz, catalogue raisonné、no.44(以下、M.S.cat. と略)

シャセリオー《海のウェヌス》1838
図1 《海のウェヌス》 1838

2. ルーヴル、
M.S.cat.48

3. エディンバラ、スコットランド・ナショアル・ギャラリー寄託

4. シャンティー、コンデ美術館

アングル《ウェヌス・アナデュオメネ》 1808/48
図2 アングル《海から上がるウェヌス(ウェヌス・アナデュオメネ)》 1808/1848

5. パリ、ロベール・ルベル・コレクション、etc.

6.
H. Focillon, La peinture au XIXe siècle, p.294

7. パリ、個人像、
M.S.cat.45

シャセリオー《海のウェヌス(習作)》c1837-38
図3 《海のウェヌス(習作)》 1837-38頃

8.
M. Sandoz, ibid., p.441-445

シャセリオー《水浴のスザンナ》1839
図4 《水浴のスザンナ》 1839

9. ルーヴル、etc.

10. ルーヴル、
M.S.cat.49

11.
M.S.cat.267

シャセリオー《水浴のスザンナ》(石版画) 1838-39
図5 《水浴のスザンナ》 1838-39

12. ルーヴル

13. ロンドン、ウォーレス・コレクション

14. ルーヴル、
M.S.cat.89

シャセリオー《エステルの化粧》1841
図6 《エステルの化粧》 1841

15. リヒテンシュタイン、ヴァドゥス美術館、M.
Sandoz, ibid., p.32, 188

16. ルーヴル

17. ワシントン、ナショナル・ギャラリー

18. パリ、個人蔵

19. 鉛筆。パリ、装飾美術館

アングル《シャルル・ルティエールの肖像》 1818
図7 アングル《シャルル・ルティエールの肖像》 1818

20. ルーヴル、
M.S.cat.99

シャセリオー《アポロンとダフネ》1845
図8 《アポロンとダフネ》 1845

21.
M.S.cat.269

22. ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク

23. ロンドン、ナショナル・ギャラリー

24.
V. Chevillard, Théodore Chassériau, p.86

25.
id., p.87

26.
Hugh Honour, Romanticism, New York, 1979/1981, p.308

3. 人体の表現 etc.


 シャセリオー描く女性の特徴の一つはその官能性に在るが、それは女性の躰が豊かな量感(ヴォリューム)を持つ事、そこから生ずる肉体の重さの印象に由来する。先に列挙した形容がその儘当て嵌りそうなボッティチェ
リの女性との基本的な違いもここに在る。
 この量感(ヴォリューム)は、一つには丸みを帯びた輪郭による形態の単純化(当時屡々デッサンが不正確だと評された)、次に輪郭に沿ってやはり単純な影の帯を附して肉付けする事によって得られる。是は腕などに特によく見られ、裸体でも衣を着けていても、また油彩でも素描でも変わらない(水彩は全く見られず、何も言えない)。衣服の描写も、躰に対してややゆとりのある位に描かれ、衣の襞は幅が広く、浅い事が多く鋭角的なジグザグは殆んど見られない。「貧弱にしない、惨めな、愛の無い肉付けをしない、全てを素直に、しかし広い塊量(マッス)の大いさの内に包み込む事」(27)。ここから肉体の重さが、延いては「憂い(メランコリー)、官能的、時に記念碑的(モニュメンタル)」(28)な性格が生じる。
 シャセリオーの周囲で女性の表現に重きを置いたのはまずアングルだが、アングルの女性が影の無い、従って空気の無い平面上のアラベスクとして描き出されたのに対し、シャセリオーの女性は身に大気を纏っている。ドラクロワの画業の中では女性は必ずしも大きな位置を占めていない。しかし、ドラクロワの女性の屡々被害者的な気分はシャセリオーに近い物がある。ただ、ドラクロワの肉付けはもっと複雑で、画面の持つ状況によって変化する。それだけ画面全体に溶け込んでいるのであり、ドラクロワの空間はシャセリオーより遥かに広い。その内では、初期の《サクレ・クールの聖母》習作(29)の肉付けなどやや近い(ここで、前景の左右の人物を躰の半ばで切っているが、是はシャセリオーのサン・メリ教会の《埃及(エジプト)のマリアの回心》(30)(図9)にも現われる)。またシャセリオーの女性は、躰を半分に折り曲げたりと云った激しい身振りは殆んど示さない。両腕を挙げて嘆いていても(31)、形の単純化の故もあって、殆んど象徴的な性格を帯びる。形の動きは抑えて(しかし不動ではない)心理的な動きを作ろうとするのだ。形の単純化、歪曲(デフォルマシオン)の点でもドラクロワは先んじている。特に版画に於て著しい。ただこの点では、ドラクロワの形態以上に、羅馬(ローマ)の競馬を描いた諸作等に於けるジェリコーのがっしりした、浮彫的な量感(ヴォリューム)を持った形態が思い起こされる。是等の作品に於て、ジェリコーははっきりした黒い線で輪郭を取っているが、この技法をシャセリオーは習作類で採用する(32)。ただ、「女性はジェリコーの芸術には殆んど現われない」(33)。この点をシャセリオーが補う事になるだろう。
 形の単純化、歪曲(デフォルマシオン)と云うのはアカデミスムの理想的な線及び形、筆の跡を見せない滑らかな賦彩、即ち連続する明暗の推移とそれに従った色の配分、その線と明暗の穏当な統一と云う要素と対比される。初期のアングルが非難されたのは、線の要素を極端に前面に押し出したからだった。アカデミスムの丁寧な仕上げは、絵の再現性を高め、逸話的な性格を強める事に成る。既にダヴィッドの主題画は《戴冠式》(34)を除いて、浅い舞台状の空間で、左右相称による静止よりは、一方向への流れ、即ち時間性を秘めた構成によって、記念碑的(モニュメンタル)であるよりは逸話的であった。ダヴィッド以後、1820年代迄の新古典主義は屡々光と影の強い対照を用いて劇的な演出を行なう(35)。更に英国の初期ラファエル前派の一種の色調分割を通して世紀後半官学派(ポンピエ)はギラギラした色彩を手に入れる。再現性の高さは容易に写実主義と結び付き、それが理想性と対比されれば表現主義的な誇張に移行する。是はウィールツ(→こちらも参照:ヴィールツ《早すぎた埋葬》(1854)の頁)やベックリン(→こちらも参照:ベックリーン《トリートーンとネーッレーイデス》(1877)の頁)、シュトゥックに見られるが、既にダヴィッドの《警士達がブルートゥスの元に息子達の死骸を持ち帰る》(36)や《サビーニの女達》(37)(中央の正面を視る女や子供等)に現われ、ダヴィッドはフラクスマンやフュスリから影響を受けている。表現主義性、形の歪曲(デフォルマシオン)では画家の表現欲求が度々画家の根気の無さと結び付く。それ故大作ではアカデミックな仕上げを見せる画家が小品などで素朴風(プリミティフ)な傾向を示す、と云う事が屡々起こる。モローがその例の一つに成ろう。この様な逸話性・文学性と云うのは、前衛的な動きと対立する以上に、前衛がそこから浮かび上がってくる基層の如き物として、19世紀の新古典派、浪漫派、写実派、象徴派のみならずマニエリスム、バロックから超現実主義(シュルレアリスム)、ポップ・アートを貫いて流れている。

 


27. シャセリオーの覚え書より、V. Chevillard, ibid., p.224

28.
Julius Kaplan, Gustave Moreau, Los Angeles, 1974, p.11

29. フランス、個人蔵

30.
M.S.cat.94A

シャセリオー《エジプトの聖マリアの回心》《エジプトの聖マリアの埋葬》1843
図9 上:《エジプトの聖マリアの回心》、下:《エジプトの聖マリアの埋葬》 1843

31. 《十字架降下》、1842年、ロワール、サン・テティエンヌ、ノートル・ダム教会。
M.S.cat.92

32.
M. Sandoz, ibid., p.168, 320. id.,“Chassériau (1819-1856), quelques œuvres inédites ou peu connues publiées à l'occasion du centenaire de la mort de l'artiste”, 1958/2, p.111

33.
Kenneth Clark, The Romantic Rebellion, New York, 1973, p.177

34. ルーヴル

35.
J. J. L. Whiteley, “Light and Shade in French Neo-Classicism”, The Burlington Magazine, no.873, 1975

36. ルーヴル

37. ルーヴル

4. 眼の表現


 《エステル》(図6)の画面を統一しているのは、何よりも主人公(ヒロイン)の大きな眼とその投げ掛ける視線である。シャセリオーの人物は屡々大きな眼に重点が置かれている、是は男性でも同じで、その為例えば会計検査院の《秩序》(38)の様に甚だ頼り無く成って了う事がある。アルジェリアでの粗描(スケッチ)でも「屡々ノスタルジックな視線に重きが置かれている」(39)。覚え書には「美しい青い、悲し気な眼、目の上に隈、少し窪んでいる…」(40)と云った節が見える。当時の評でも是は言及され、肖像、主題画を問わずシャセリオーの特徴の一つと成っている。
 肖像画を除けば、一般にシャセリオーの人物はその大きな眼を絵を観る者に直接投げ付ける事は少なく、視線を有らぬ方へ向けて物思いに耽っている様に見える。主題画の女性像に是がよく当て嵌るが、アルジェリア旅行以後の東方(オリエント)に題を取った物で、一人か二人の女性を描いた作や、街角の、屡々馬の登場する情景を描いた作には、視線を観る者の方に向けている人物が現われる。是等には肖像画的乃至粗描(スケッチ)的な性格が、一つには強い。是は《温浴室(テピダリウム)》(41)(図21)にも或る程度言えよう。会計検査院の壁画では、寓意像と云う性格が特に強い《沈黙》(42)(→こちらを参照:当該作品の頁)《秩序と力》《平和》(43)等が視線をこちらへ向けている。
 肖像画では《ラコルデール》(44)(図11)や《二人の姉妹》(45)(図10)等で視線の強さが目立つ。所で肖像画では「シャセリオーはアングル派であり続け、仕上げの伝統的な美しさを気に掛け、大胆な制作には走らない」(46)とは云え(但し筆の動きを見せる《Dの肖像》(47)、《アンヌ・マルコット・ド・キヴィエール》(48)は例外)シャセリオーの肖像画はアングルに比べると光と影、大気に気を使っている事、人物の形態の垂直性が強い事などから、人物は己れの周りに或る空間を纏っている。素描(デッサン)の肖像でも事情は同じである。
 美術の歴史の内で、大きな眼に何らかの表現上の役割が担わされたのは、まず埃及(エジプト)やメソポタミア、希臘(ギリシア)の各アルカイック期、初期中世の如き或る様式の展開の始まる時期に見られる。ここでは大きな眼は人間と聖なる物の直接的な交渉の象徴と成る。是に対して、羅馬(ローマ)の肖像彫刻、絵画に於る大きな眼は、一つの洗練された様式、そして世界の分裂、崩壊の指標である。眼は傷つき易い、脆い物だから、大きな眼は痛々しさ、当所(あてど)の無さ、手の届かぬ物への憧憬と云った感情値を帯びる。近世ではミケランジェロのシスティナ礼拝堂天井画、ポントルモ、パルミジャニーノ、ブロンツィーノ等マニエリストの元で眼は斯様な表情を持つ。次に大きな眼が印象的なのはルーベンスだが、ここでは彼の芸術の肯定的な性格がバロックの流動性と共に観る者の方へ溢れ出したのだとでも言えるだろう。シャセリオーに近い所では、先に見たダヴィッドで表現主義的な誇張を以て眼が表情を持つ。ダヴィッドの源にはフラクスマンやフュスリ(更にブレイク)等英吉利(イギリス)の芸術家達がいる。もっと近いのジェリコーで、彼の肖像画では、石の様に堅い肉付けと明暗の中で大きな眼が光っている。是が《狂人》の連作の表現に進んで行き、ドラクロワの《自由の女神》(49)の男達の眼にも再現される。
 モローに成ると、シャセリオーの《ウェヌス》や《アポロンとダフネ》に見られた、眼を伏せている物か、登場人物同士が画面と平行に視線を交わし合っている物が多く成る。大きく開いた眼が現われるのは晩年の《ユピテルとセメレー》(50)(→こちらを参照:当該作品の頁)だが、ここでは当時の象徴派絵画と共に、眼はこの世ならざる物の示現と成る。

 


38. 断片、ルーヴル。M.S.cat.113G

39.
J. Alazard, L'orient et la peinture française, p.107

40.
V. Chevillard, ibid., p.251

41. ルーヴル。
M.S.cat.218

42. 断片、ルーヴル。
M.S.cat.113H

43.
id., M.S.cat.113I

44. ルーヴル。
M.S.cat.72

45.
id., M.S.cat.95

シャセリオー《二人の姉妹》1843
図10 《二人の姉妹》 1843

46.
M. Sandoz, ibid., p.248

47. パリ、外務省。
M.S.cat.156

48. 所在不明。
M.S.cat.213

49. ルーヴル

50. パリ、ギュスターヴ・モロー美術館

5. 空間


 先に取り上げた幾つかの作品は、平面的に成って了わない限りで、餘り広くない空間を作り出していた。《ラコルデール》(図11)では人体や顔の形態、背景も単純化され、色も全くの単彩(モノクローム)に成っているが、それは中景右側の僧に於て特に著しい。二人は各々白と黒の衣を着け、是は主人公の白と黒を繰り返しているのだが、黒衣の僧は頭布で顔を全く隠し、白衣の僧の顔の造作は極端に単純化され、殆んど装飾的な模様(パターン)と化している。《アリ・ベン・アーメド、コンスタンティンの教主(カリフ)と伴の者達》(51)(図12)でも主人公の右の人物が極端に明るく成り、更にマントに覆われた教主(カリフ)の右腕、右足の短縮は教主を矮人の様に見せ、絵上部を区切る槍と共に奥行を殆んど失わせている。是迄見て来た作品は孰れも人物の餘り多くない物だが、大作でも事情は変わらない。1842年の《十字架降下》、サン・メリ教会の装飾(図9)、サン・ロック教会装飾(52)(→こちらを参照:当該作品の頁)、1855年の《ガリアの防御》(53)(→こちらを参照:当該作品の頁)の様な縦長の画面では、多く前景に大きく人物をギッシリ詰めて、背景は空以外殆んど見えない事が多い。1841年の《トロイアの女達》(54)の如き横長の画面で、シャセリオーは時に古典的な調和を達成する。群像は画面と平行に後退する面上に配されている。サン・フィリップ・デュ・ルール教会の装飾(55)(図13)は極端に横長の画面を要請されたのだが、中央の十字架降下の場面を頂に背の低い二等辺三角形を成し、古典的な均衡を以て人物が配されている。奥行の暗示は当然排される。人物は(グループ)毎に分節され、それが全体の秩序に明快に参加している。今は断片しか残っていない会計検査院の壁画もその様な物だったと思われる。アルジェリアの騎兵達を描いた大画面(56)は、人物が激しい動きを見せる事があっても、飽く迄前景の枠内で、前景と中後景は区別されている。色の関係がどの様に成っているのかは判らないが。
 この様にシャセリオーの画面は、餘り深くない空間に、記念碑的(モニュメンタル)な人体が配される事が多く、深奥性の暗示は働かない。またシャセリオーの画面に於ては、自然も重要な役割を果していない。彼は伊太利(イタリア)旅行時に風景や植物の粗描(スケッチ)をしたと云うが、植物が画面に現われる時は多く「様式化」(57)されている。またアルジェリア旅行に於ても彼は、「ドラクロワ同様何よりも人間の(タイプ)、逸話的な場面に関心を抱いたので、決して風景に対してではない。彼の絵の内にアルジェリアの自然が現われても…(中略)…それは大した性格を持っていない」(58)(油彩では、所在不明の植物の習作と(59)と装飾の為の花束の図(60)の二点のみが自然を独立して扱った作品で、後者は色は判らないが、絵具を大変厚く塗り上げた物で、「花はそれ自身の為に描かれるのではなく、花一般の印象が持つ感情」(61)を喚起しようとしている)。
 モローやシャヴァンヌに成ると、人物は画面全体に対して小さく成り、シャセリオーの人体が持っていた量感(ヴォリューム)を失い、以後画面の平面性を強めて行く。
 1840年の官展に拒否された《アクタイオンに驚くディアーナ》(62)(図14)はシャセリオーとしては奥行を強調した例外に属する。前景に背を向けた人物を配する構図は、後の幾つかの画面に現われ、またフリードリッヒが屡々用いた所である。背を向けたディアーナの裸体は、頭の向き以外ヨルダーンスの《豊饒の寓意》(63)からその儘持ち来られた。またルーヴルには中央に背を向けた女を二人配したフォンテーヌブロー派の《ディアーナとアクタイオン》がある。ただ両作とも餘り奥行は持っていない。シャセリオーでは前景のディアーナと侍女が視線を左奥の鹿と化したアクタイオンに向ける事によって、奥行を作り出している。ただ、前景とアクタイオン迄の距離がかなり大きい事、左方に躰を曲げた侍女が画面の左右を切り離し、更に画面右側のニンフ達が皆頭を垂れて右方を向いている為、空間が分裂し、非常に奇妙な印象を与える。背の高い、細っそりした垂直性の強い人体の繰り返し、背に光を負って鹿頭の異形が遠くからこちらへやって来る事などが、画面に一種密儀的な雰囲気を与えている。色は判らないが、ゴーティエは「沈む陽の効果」(64)と記している。画面の左右を結び付けるのは、右前景で水から上がろうと腕を挙げ、眼を左方に向けているニンフだが、顔の下半分を腕が隠し、大きな眼の役割を強めている。是に近い姿態(ポーズ)を、システィナ礼拝堂天井画の《楽園追放》と《エバの創造》の間の男子裸像が示している。似通った姿勢の人体を繰り返すのは、フラクスマン(こちらを参照:フラクスマン《神曲地獄篇第23歌 偽善者たち》(1807)の頁)やフュスリ、ブレイクに屡々見られ、ダヴィッドが《ホラティウス兄弟の誓い》(65)(→こちらを参照:当該作品の頁)や《レオニダス》(66)(→こちらを参照:当該作品の頁)で是を取り入れる。「繰り返しの斯様な使用はフラクスマンからスーラの《シャユ》迄古典的芸術に於て現われる事に成る」(67)。極端に大きさの尺度の異なる人体を並置して、空間に奇妙な効果を与えるのも、フラクスマンやフュスリの度々行なう所である。ダヴィッドの《ブルートゥス》や《レオニダス》には分裂した、或いは混乱した空間が見られる。ドラクロワの空間も、「バロックの組織された、はっきり境界を持つ運動とは大変異なった物である」(68)。《キオス島の虐殺》(69)や《アルジェの女達》では一目で構図の骨組を了解する事はできない。逆にはっきりした構図を避ける事によって、何らかの拡がりを生み出している。また《サルダナパールの死》(70)は一見明瞭な対角線構図を持つ様に見えるが、前景はどこが地面かはっきりしないほど混雑しており、奥行を示す空間の中に、左下の馬その他完全な側面観(プロフィール)が挿入されたりと、必ずしも単純ではない。当時のフォンテーヌブロー宮の装飾の修復の波紋(71)と共に、新古典主義、浪漫派絵画がマニエリスムに浸されていた物であった事を思わせる。
 《ディアーナとアクタイオン》と同じ年に制作された《海の精(ネレイデス)達に岩に縛られるアンドロメダ》(72)(図15)は水妖達の気取った仕種、曲線のアラベスクが非常に奇妙な印象を与える。是等の作品や《ウェヌス》(図1)、初期のブロンツィーノに影響された肖像画(73)等を思い合わせると、初期のシャセリオーにマニエリスティックな傾向が強かった事が伺われよう。

  シャセリオー《ラコルデール》1840
図11 《ラコルデール》 1840

51. ヴェルサイユ宮。M.S.cat.101

シャセリオー《アリ・ベン・アーメド、コンスタンティーヌのカリフと伴の者たち》1845
図12 《アリ・ベン・アーメド、コンスタンティンの教主(カリフ)と伴の者達》 1845

52.
M.S.cat.227

53. クレルモン・フェラン市美術館、
M.S.cat.252

54. 焼失。
M.S.cat.90

55.
M.S.cat.244

シャセリオー《十字架降下》1855
図13 《十字架降下》 1855

56.
M.S.cat.174, 216 など

57.
M. Sandoz, ibid., p.186, 298

58.
J. Alazard, ibid., p.111

59.
M.S.cat.86

60. パレ・ル・フルズィル城、
M.S.cat.217

61.
M. Sandoz, ibid., p.352

62. パリ、私蔵。
M.S.cat.62

シャセリオー《アクタイオーンに驚くディアーナ》1840
図14 《ディアーナとアクタイオン》 1840

63. ブリュッセル、王立美術館。
M. Sandoz, ibid., p.30, 160

64.
M. Sandoz, ibid., p.31, 160

65. ルーヴル

66.
id.

67.
K. Clark, ibid., p.25

68.
id., p.220

69. ルーヴル

70.
id.

71.
M. Sandoz, “Les peintures de la renaissance à Fontainebleau et le maniérisme italien”, 1970

72. パリ、私蔵。M.S.cat.64

シャセリオー《ネーレーイスによって岩に縛りつけられるアンドロメダー》1840
図15 海の精(ネレイデス)達に岩に縛られるアンドロメダ》 1840

73.
M.S.cat.10, 13 など

6. 色彩、制作過程


 《ウェヌス》(図1)《ラコルデール》(図11)《コンスタンティンの教主》(図12)と云った作品の色は、どれも単彩(モノクローム)に近い物であった。その中で光と影が《ウェヌス》では柔かく、《ラコルデール》では厳しく肉付けを行なう。是に対して、未だ暗いが《スザンナ》(図4)、そして《エステル》(図6)《二人の姉妹》(図10)では赤や緑その他の色が一つ一つはっきり、大きな面として配されている。覚え書に、「調子(トーン)に於ては混合しない事、自然はモザイクの如く描かれる……」(74)また「固有色は、烈しい(ヴィーヴ)物なら、何よりも好ましい物であり、最初に得るべき物であり、美を表わすに最も適した物である」(75)。当時の評には「色の激しさを彼は習慣にしている様だ」(76)云々とある。
 《アポロンとダフネ》(図8)では更に、筆触が画面に現われ、色の熱気を高めている。1850-51年の官展に出品された《サッフォー》(77)(図16)では筆の跡が更にはっきりし、絵具を厚く盛り上げ、画面の熱気、人体の重さを強調している。この熱気、質感(マティエール)の重さ延いては記念碑性(モニュマンタリテ)がシャセリオーの色の特徴ではないかと思われる。モローの色は輝きはより強いが、もっと冷たい、ドラクロワの色、形はもっと自由に動く。この重さそして熱は、非常に厚い絵具を、厚い儘で筆が動こうとする所から生じる。是等を必ずしも目に快くない色の組み合わせが助長する。《サッフォー》の主題、画因(モティーフ)はモローがその儘取り上げ、繰り返す事に成るが、そこにはこの様な重さも熱ももはや無い。
 一般には「習作の、それ故私用の様式でしかない物が、芸術家の公の様式と成る」(78)。同じ年出品の《デスデモーナ》(79)(図17)に対して、終始シャセリオーを弁護してきたゴーティエでさえ、「制作の粗雑さ」(80)を嘆いている。シャセリオーがはっきり斯様な作風に移って行くのは、アルジェリア旅行以後である。彼の覚え書には、「まず絵具を盛る(アンパテ)、次にその上に軽く描く(パンドル)」(81)とある。この点に就いてトレも、輪郭を引いてからその内に平らな色を配する通常の手順とは逆に、シャセリオーは「まず彼の(イマージュ)の形を色の関係と光の推移によって表わし、形が輝いたなら、黒の線と線のデッサンの力強い強勢(アクセント)によって輪郭を囲む」(82)と記している。後にモローも、色の上に線を載せると云う方法を取るが、彼にあっては往々色と線は全く分裂して了うだろう。所で、シャセリオーが残した未完成作乃至習作(83)を見ると、地の大約の調子を決めた後、太い黒で大体の骨組を描き、その中に白か何か明るい色で肉付けして行く。《サッフォー》の様な作品に見える筆致は、肉付けの際の物がその儘残っている様だ。また《サッフォー》と同じ1849年に制作された《バルコニーのユダヤ娘達》(84)(図18)などには、黒の輪郭が残っている。先に述べた様に是はジェリコーに由来する。同じ年の《モロッコの踊り子達》(85)(図19)や《後宮(ハーレム)での入浴》(86)(図20)では、主要な人物以外は省略が著しい。
 1853年の《温浴室(テピダリウム)》(図21)の如き大作では、仕上げは丁寧だが、衣紋等の細部では、筆の跡が見て取れる。レオナルドかラファエルロを思わせる建築の枠組、但し視点はやや右寄りで、前景の人物の配置も少し右の方が後退している。それを右端の背を見せる女の姿が抑える。中央の二人の姿勢はティツィアーノの《ウェヌスとアドニス》(87)にやや近い、立って腕を伸ばしている女の方は、四年前のクーテュールの《頽廃の羅馬(ローマ)人》(88)に左右逆だがそっくりの物が見られる。中央を空けて左右に人物を並べるのは、既にサン・メリ教会装飾に見え、後にモローが《テスピウスの娘達》(89)で繰り返す。前景の人物以外は影の中に入り、全体は単彩(モノクローム)に近いが、基調となる暗い赤が熱を醸し、緑や前景の明るさが強勢(アクセント)を与えている。他の大作の色は判らないが、晩年に向かうにつれ、光と影、明暗法が重視され、バロック的な性格を強めて行くらしい。
 シャセリオーの死の年の《スザンナと長老達》(90)(図22)では、赤、緑、黄、肌色の対比がかなり強く、全体も明るい。仕上げは丁寧で、人体も単純化され、量感(ヴォリューム)に富み、しかし浅い浮彫層に定着している。シャセリオー最後の作品と云う未完の《後宮(ハーレム)の内部》(91)(図23)は単彩(モノクローム)に近い。先に製作過程に就いて述べた事がここでも見て取れる。19世紀に特に表面に浮かび上がった、レオナルドとミケランジェロ以来の完成と未完成、仕上がった(フィニ)出来た(フェ)形象性(フィグラツィオン)先形象(プレフィグラツィオン)の問題が、シャセリオーに於ても大きな位置を占めているのだ。

  74. V. Chevillard, ibid., p.224

75.
V. Chevillard, ibid., p.239

76.
M. Sandoz, ibid., p.442

77. ルーヴル。
M.S.cat.128

シャセリオー《サッフォー》1849
図16 《サッフォー》 1849

78.
M. Sandoz, ibid., p.262

79. ルーヴル。
M.S.cat.119

シャセリオー《デスデモーナ》1849
図17 《デスデモーナ》 1849

80.
M. Sandoz, ibid., p.65

81.
V. Chevillard, ibid., p.238

82.
id., p.104

83.
M.S.cat.117, 134, 180, 181, 182, 184, 186 など

84. ルーヴル。
M.S.cat.139

シャセリオー《バルコニーのユダヤ娘たち》1849
図18 《バルコニーのユダヤ娘たち》 1849

85.
id. M.S.cat.140

シャセリオー《ムーア人の踊り子たち》1849
図19 《モロッコの踊り子たち》 1849

86.
id. M.S.cat.146

シャセリオー《ハーレムでの入浴》1849
図20 《ハーレムでの入浴》 1849

シャセリオー《テピダリウム》1853
図21 《テピダリウム》 1853

87. ロンドン、ナショナル・ギャラリー

88. ルーヴル

89. ギュスターヴ・モロー美術館

90. ルーヴル。
M.S.cat.262

シャセリオー《スザンナと長老たち》1856
図22 《スザンナと長老たち》 1856

91.
id. M.S.cat.265

シャセリオー《ハーレムの内部》1856
図23 《ハーレムの内部》 1856

7. 主題


 シャセリオーの描いた主題は、肖像画以外には、旧約、福音書、聖人伝、神話、古代史、シェイクスピア、それに会計検査院の寓意図で、現代に取材した物は、東方(オリエント)を描いた物以外は油彩では殆んど無い(覚え書の内には「革命の情景」の計画(92)がある)。但し彼はアルジェリアに於ても、ドラクロワ同様古代を発見したのであり、東方(オリエント)を描いた作品に於て彼の脳裡に在ったのは、「現実の内に詩を見出す事」(93)であり、「…いつか人間の歴史から、その生から引き出された全く単純な主題を作る事…」(94)であった。彼にとって「芸術の目的(イデー)とは制作(エグゼキュシオン)、在る所の物の知的な再現(ルプロデュクシオン)」(95)だが、また芸術とは「魂の内に在る物を目に見える様表わす」(96)事でもある。左様に、アルジェリア旅行以後の作品よりも、旅行以前に東方(オリエント)を扱った《スザンナ》や《エステル》の方が、夢想の度合いは強いのだ。「美は真実である」(97)。後の作品では古典的な記念碑性(モニュマンタリテ)が求められて行く。孰れにせよ、結局の所「観念(イデー)(フォルム)の上に在る以上に、形が観念の上に在る」(98)のだろう。

 


92. V. Chevillard, ibid., p.246

93.
id., p.262

94.
id., p.260

95.
id., p.263

96.
J. Alazard, ibid., p.112

97.
V. Chevillard, ibid., p.263

98.
id., p.259

参考文献

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Chevillard, V., “Théodore Chassériau”, La Revue de l’art ancien et moderne, 1898/5/10

Marcel, Henri et Laran, Jean, Chassériau, (L'art de notre temps), Paris, 1914

Guiffrey, Jean, “Les peintures décoratives de Chassériau à l’ancienne Cour des Comptes”, Beaux-Arts. Revue d’informatioon artistique, 1926/9/15

Linzeler, André, “Les peintures de la Cour des Comptes dans l'œuvre de Chassériau”, id.

Focillon, Henri, La peinture au XIXe siècle. Le retour à l’Antique - Le Romantisme, Paris, 1927

Alazard, Jean, L'orient et la peinture française au XIXe siècle, d’Eugène Delacroix à Auguste Renoir, Paris, 1930

Ternois, Daniel, “Les collections d'Ingres”, Art de France. Revue annuelles de l’art ancien et moderne, no.2, 1962

Sandoz, Marc, “Chassériau (1819-1856), quelques œuvres inédites ou peu connues publiées à l'occasion du centenaire de la mort de l'artiste”, Gazette des Beaux-Arts, 1958/2

Sandoz, Marc, “Les peintures de la renaissance à Fontainebleau et le maniérisme italien, sources possibles de Théodore Chassériau et des premiers romantiques français”, Gazette des Beaux-Arts, 1970/1

Sandoz, Marc, Théodore Chassériau 1819-1856. Catalogue raisonné des peintures et estampes, Paris, 1974

Haskel, Francis, “'Théodore Chassériau 1819-1856. Catalogue raisonné des peintures et estampes' by Marc Sandoz“, The Burlington Magazine, no.882, 1976/9

・その後見る機会のあった文献;

Aglaus Bouvenne, Théodore Chassériau : Souvenirs et Indiscrétions, Les amis de Théodore Chaséériau, Paris. 1884/2011
  Préface de Carmen Miranda-Levy et avertissement de Jean-Baptiste Nouvion

Ary Renan, “Théodore Chassériau et les peintures du Palais de la Cour des Comptes”, Gazette des Beaux-Arts, 1898/2

Léonce Bénédite, Théodore Chassériau. Sa vie et son œuvre, 2 tomes, Paris, 1931, manuscrit inédit publié par André Dezarrois

Catalogue de l'exposition Chassériau 1819-1856, Musée de l'Orangerie, 1933
  Préface de Jean-Louis Vaudoyer

Catalogue de l'exposition Théodore Chassériau 1819-1856. Dessins, Musée du Louvre, Cabinet des Dessins, 1957
  Jacqueline Bouchot-Saupique, "Les dessins de Théodore Chassériau au Cabinet des dessins du Louvre"
  "Extraits d'unn conférence sur Chassériau"

G, M. Doyon, The Mural Painting of Théodore Chassériau, Ph.D. Dissertation for Boston University, 1964

Gérard Maurice Doyon, “The Positions of the Panels Decorated by Théodore Chassériau at the Former Cour des Comptes in Paris”, Gazette des Beaux-Arts, no.1200, 1969/1

André Devèche, L'Eglise Saint-Philippe du Roule de Paris, Paris, 1975

Jay M. Fisher, Catalogue of the exhibition Théodore Chassériau. Illustrations for Othello, The Baltimore Museum of Art, 1980

Catalogue sommaire illustré des peintures du musée du Louvre et du musée d'Orsay. Ⅲ École française. A-K, Éditions de la Réunion des musées nationaux, Paris, 1986, pp.128-135

Louis-Antoine Prat, Dessins de Théodore Chassériau 1819-1856, (Musée du Louvre, Cabinet des Dessins . Inventaire général des dessins. École française), 2 tomes., Paris, 1988

Louis-Antoine Prat, Théodore Chassériau 1819-1856. Dessins conservés en dehors du Louvre (Cahiers du dessin français - no.5), Galerie de Bayser Éditeur, Paris, 1988 (*以下、Prat dehors cat. と略)

Théophile Gautier, Critique d'art, Extraits des salons (1833-1872), Textes choisis, présentés et annotés par Marie-Hélène Girard, Séguier, Paris, 1994, pp.93-110 (1844, 1852, 1853)


喜多崎親、「パリのサン=ロック聖堂洗礼盤礼拝堂壁画に就いて―テオドール・シャセリオーの宗教画に見るオリエンタリズム―」、『美術史研究』、no.32、1994/12
(喜多崎親、『聖性の転位 一九世紀フランスに於ける宗教画の変貌』、三元社、2011、「第二章 オリエント化されるキリスト教世界 テオドール・シャセリオーのサン=ロック聖堂洗礼盤礼拝堂壁画に見る性差と人種」)


橋秀文、『ドラクロワとシャセリオーの版画』(双書 美術の泉 84)、岩崎美術社、1995

Louis-Antoine Prat, “Théodore Chassériau : œuvres réapparues”, Revue de l’art, no.125, 1999/3

Christine Peltre, Théodore Chassériau, Paris, 2001

Catalogue de l'exposition Chassériau. Un autre romantisme, Galeries nationales du Grand Palais, Paris, Musée des Beaux-Arts de Strasbourg, The Metropolitan Museum of Art, New York, 2002-2003
  Le commossariat de l'exposition, "Introduction. La minute heureuse"
  Louis-Antoine Prat, "L'Indien et le Chinois, ou les deux Byzantins"
  Stéphane Guégan, "Entre Paris et Alger : un croyant obstiné?"
  Christine Peltre, "Résurrection et métamorphose : Chassériau autour de 1900"
  Catalogue
    Vincent Pomarède, "1819-1843 Un talent précoce, un jeune homme pressé", "1844-1848 Les annés de la Cour des comptes", "1849-1856 Un jeune dieu chargé de tristesse"

Chassériau. Un autre romantisme, (Louvre. Conférences et colloques), Paris, 2002, Actes du colloque organisé par le musée du Louvre, le 16 mars 2002
  Jonathan Ribner, "Théodore Chassériau and the Anti-Heroic Mode under the July Monarchy"
  Bruno Foucart, "Chassériau et le thème du Christ au jardin des Oliviers. Entre romanticisme et orthodoxie"
  Loui-Antoine Prat, "Notules graphiques"
  Bruno Chenique, "Chassériau : la haine des femmes"
  Valérie Goupil, "Peinture et parure"
  François Mélonio, "Le choc des civilisations : Chassériau et Tocqueville en Algérie"
  Sarga Moussa, "Arabes et Juives. Mythes et représentations"
  Christine Peltre, "L'armée d'Afrique"
  Todd Porterfield, "Les Baptêmes de Chassériau"
  Peter Benson Miller, "Models from the Atlas. Théodore Chassériau's La Défense des Gaules and the 1855 Exposition universelle"
  Stéphane Guégan, "L'Algérie au cœur. Note sur un tableau perdu"

『シャセリオー展 19世紀フランス・ロマン主義の異才』展図録、国立西洋美術館、2017
  ジャン=バティスト・ヌヴィオン、「熱く気高き心」
  陣岡めぐみ、「異国の香り-テオドール・シャセリオー」
  ヴァンサン・ポマレッド、「『この季節の空はすばらしく、海は凍てついたように静かだ』-テオドール・シャセリオーと自然」
  ステファヌ・ゲガン、「アルジェリアを心に-失われた絵画についての覚書」
  カタログ


 こちらでも挙げました:「ギュスターヴ・モロー研究序説 [14] 」の頁の「文献追補」中の「日本での展覧会図録抄


モローとの絡みで;

Catalogue de l'exposition Quand Moreau signait Chassériau, (Carnet d'études 3), École nationale supérieur des beaux-arts, Paris, 2005

 細目は→こちら:「ギュスターヴ・モロー研究序説」[14]の頁の「文献追補」中の「展覧会図録ないしそれに準じるもの

Martinho Alves da Costa Junior, "A presença de Chassériau em Moreau (La présence de Chassériau chez Moreau)", Revista de História da Arte e Arqueologia, número 14, julho-dezembro/2010, pp.5-19

 →そちらにも挙げました:「ギュスターヴ・モロー研究序説」[14]の頁の「文献追補」中の「論文、単行本など

Christine Peltre, "La Sulamite et 《Marie la Noire》. De Théodore Chassériau à Gustave Moreau", Catalogue de l'exposition La Sulamite dévoilée. Genèse du Cantique des cantiques de Gustave Moreau, Musée des beaux-arts de Dijon, 2011

 掲載図録の細目は→あちら:「ギュスターヴ・モロー研究序説」[14]の頁の「文献追補」中の「展覧会図録ないしそれに準じるもの


以下、ロマン主義、オリエンタリズムその他で気がついたもの;

Donald A. Rosenthal, Catalogue of the exhibition Orientalism. The Near East in French Painting 1800-1880, Memoriaal Art Gallery of the University of Rochester, Neuberger Museum, State University of New York at Purchase, 1982, pp.57-61 / fig.57-61 (出品作は fig.59, 60=cat.nos.10-11)

Catalogue de l'exposition L'aquarelle en France au XIXe siècle. Dessin du musée du Louvre, Musée du Louvre, 1983, pp.23-28 / cat.nos.21-27

Mary Anne Stevens ed., Catalogue of the exhibition The Orientalists : Delacroix to Matisse. European Painters in North Africa and the Near East, Royal Academy of Arts, London, 1984, p.61, p.120 / cat.no.8

Catalogue de l'exposition Les mots dans le dessin, Musée du Louvre, 1986, pp.93-96 / cat.nos.102-104, pp.98-100 / cat.nos.108-109, p.105 / cat.no.116

Catalogue de l'exposition Copier créer. De Turner à Picasso : 300 œuvres inspirées par les maîtres du Louvre, Musée du Louvre, 1993, pp.96-97 / cat.nos.40-41, p.147 / fig.89B

Catalogue de l'exposition Les années romantiques. La peinture française de 1815 à 1850, Musée des Beaux-Arts de Nanates, Galeries nationales du Grand Palais, Palazzo Gotico, Plaisance, 1995-96, pls.101-103, 132, 136, 148, 162-163, pp.343-347 / cat.nos.26-33, p.454

Gérard-Georges Lemaire, L'univers des orientalistes, Éditions Place des Victoires, Paris, 2000, pp.223-227

Catalogue de l'exposition Manet Velázquez. La manière espagnole au XIXe siècle, Musée d'Orsay, Paris, The Metropolitan Museum of Art, New York, 2002-2003, p.248 / fig.149, p.364 / cat.no.46

Catalogue de l'exposition L'Europe des esprits, ou la fascination de l'occulte, 1750-1950, Musée d'Art moderne et contemporain de la Ville de Strasbourg, et Zentrum Paul Klee, Berne, 2011-2012, p.80, p.86

・目に止まった範囲内でしかありませんが、シャセリオーの作品が出品された日本での展覧会図録;

 まず、これは未見なのですが、『シャセリオー展 19世紀フランス・ロマン主義の異才』展図録、国立西洋美術館、2017、p.148 (cat.nos.55, 58) によると、
『フランス美術展』、東京国立博物館、他、1954-55 に
  cat.no.34 《アレクシ・ド・トクヴィルの肖像》、1850,
M.S.cat.155
が出品されたとのことです。


『19世紀フランス巨匠名品展』、東京銀座サン・モトヤマ本店、1968
  cat.no.7 《キリスト教徒の殉難》、
M.S.cat.70

『19世紀フランス巨匠展』、東京日本橋高島屋6階美術画廊、1970
  cat.no.3 《キリスト教徒の殉難》、
M.S.cat.70

『フランス近代絵画 女性美の饗宴―フラゴナールからルノワールへ―』、大阪・梅田、ナビオ・ギャラリー、1983
  cat.no.絵画18 《聖処女》、1839、
M.S.cat.51

『モローと象徴主義の画家たち』、山梨県立美術館、神奈川県立近代美術館、三重県立美術館、1984-85
  pp.40-41/cat.no.9 《ヘロとアンドロス》、1849以後、
M.S.cat.185

『サン・ドニ美術館名品展』、東急東横店アートホール、エンドーチェーン、熊本県立美術館、ナビオ美術館、北九州市立美術館、岡山県総合文化センター、1986-87
  pp.44-45, 163/cat.no.14 《若い女》、c.1840、額に
”Attribué à Chassériau”
  pp.46-47, 163/cat.no.15 《バンクォーの亡霊》、1854、
M.S.cat.237

『ル・アーブル美術館展』、倉敷市立美術館、ナビオ美術館、豊橋西武、佐賀県立美術館、、熊本県立美術館、東急本店、1988-89
  pp.28-29/cat.no.6 《アラブの水飼い場》、1851、
M.S.cat.176

『ボストン美術館展 19世紀フランス絵画の名作』、京都市美術館、1989
  pp.37、139 / cat.no.15 《水から上がるヴィーナス》、1842、リトグラフ、
M.S.cat.266

『ル・サロンの巨匠たち フランス絵画の精華』、福岡市美術館、京都国立近代美術館、1989
  pp.113, 244-246/cat.no.83 《カバリュス嬢の肖像》、1848、
M.S.cat.115

『リヨン美術館特別展 栄光のフランス近代美術』、東京都美術館、北九州市立美術館、1989-1990
  pp.62, 200-201/cat.no.28 《コンスタンティーヌの水飲み場に寄るアラブの騎手》、1851、
M.S.cat.170

『オルレアン美術館所蔵 フランス素描・水彩名作展 16世紀から20世紀まで』、神奈川県立近代美術館、栃木県立美術館、船橋アート・フォーラム、1990
  pp.89, 150-151/cat.no.114 《「サッフォー」のための女性の習作》、鉛筆、Prat dehors cat.159

『サンフランシスコ美術館名品展』、東京都美術館、福岡市美術館、大阪市立美術館、そごう美術館、1992
  p.176/cat.no.76 《アレクサンドル・ムルシ》、18550、黒鉛、Prat dehors cat.210

『フランス絵画 黄金の19世紀 ルーアン美術館展』、三越美術館・新宿、福岡市美術館、芸術の森美術館、静岡県立美術館、千葉そごう美術館、川崎市市民ミュージアム、近鉄百貨店阿倍野店・近鉄アート館、1993
  pp.82-83, 176-177/cat.no.34 《ローマ皇帝アウグストゥスとその奴隷》、1855-56、
M.S.cat.261

『ルーヴル美術館200年展』、神戸市立美術館、横浜美術館、1993
  pp.176-177/cat.no.62 《アラブ騎兵の戦い》、1856、
M.S.cat.144

『19, 20世紀ヨーロッパ美術にみる 物語の世界』、群馬県立近代美術館、1996
  pp.33, 87 / cat.no.I-19 《オセロー》(全16点より6点)、1844(1900刊)、町田、
M.S.cat.275, 276, 279, 281, 283, 284(図版は no.279)

『ヒューストン美術館展 ― ルネサンスからセザンヌ、マティスまで ―』、愛媛県美術館、千葉県立美術館、三重県立美術館、福岡市美術館、1999
  pp.162-163/cat.no.55 《羊を伴ったコンスタンティーヌの女性と少女》、1849、
M.S.cat.138
 (→下の「おまけ」を参照)

『オルレアン美術館展 ― ロココからエコール・ド・パリまで ―』、宇都宮美術館、横浜・そごう美術館、北海道立函館美術館、呉市立美術館、大丸ミュージアム・梅田、北九州市立美術館、1999
  pp.132-133/cat.no.50 《バッカスの巫女とサテュロス》、1840-41、
M.S.cat.132

『ウィンスロップ・コレクション フォッグ美術館所蔵19世紀イギリス・フランス絵画 夢想と現実のあわいに』、国立西洋美術館、2002
  pp.96-97/cat.no.15 《仲間の死体を運ぶアラブの騎兵たち》、1850、
M.S.cat.174
  pp.98-99/cat.no.16 《アラブの騎兵の戦い》、1855、
M.S.cat.143
  +p.262(作家解説)

『ヴィクトル・ユゴーとロマン派展 ユゴー生誕200周年記念』、東京富士美術館、サントリーミュージアム[天保山]、2004-05
  p.196/cat.no.4-14 《…嬢の肖像》、1848、
M.S.cat.115

『ルーヴル美術館展 19世紀フランス絵画 ― 新古典主義からロマン主義へ』、横浜美術館、京都市美術館、2005 (pp.213-214)
  pp.56-57/cat.no.12 《海から上がるヴィーナス》、1838、
M.S.cat.44
  pp.92-93/cat.no.28 《風呂から上がるムーア人の女》、1854、
M.S.cat.148
  pp.94-95/cat.no.29 《アラブの騎士の戦い》、1856、
M.S.cat.144
  pp.112-113/cat.no.37 《白馬の左側面》、
M.S.cat.168

『ルーヴル美術館展 ― 地中海 四千年のものがたり』、東京都美術館、2013
  表紙、pp.214-215/cat.no.251 《バルコニーにいるアルジェのユダヤ女性たち》、1849、M.S.cat.139
  p.216/cat.no.250 《モロッコの踊り子たち:薄布の踊り》、1849、M.S.cat.140


・やはり漏れは多々あることでしょうが、画集、定期刊行物の類から;

森口多里、『近代美術』、東京堂、1937、p.69

リヒヤルド・ムウテル、木下杢太郎譯、『十九世紀佛國繪畫史』(甲鳥學書 6)、甲鳥書林、1943(初版:1919、pp.54-57)、pp.44-46
  図12 《姉妹》、
M.S.cat.95
  図13 《Hennet 夫人》(図版頁では《Hannet 夫人》と表記)、素描、Prat dehors cat.45
  図14 《マクベスと三妖女》、
M.S.cat.239
  図15 《Ahasver 王の為に装う Esther》、
M.S.cat.89

大岡信、「フランス・ロマンティシズム 〈4〉」、『藝術新潮』、1963/8
  p.129 《化粧するエステル》、1842、
M.S.cat.89
(大岡信、『装飾と非装飾』、晶文社、1973、pp.27-32;「ロマン主義の領土 - フランス・ロマン主義絵画を中心に」の「4」。p.33 に対面して《化粧するエステル》のモノクロ図版あり)

坂本満、坂崎乙郎、佐々木英也、『近代世界美術全集 1 近代絵画の先駆者たち』(現代教養文庫 451)、社会思想社、1964
  pp.82-83 《エステルの化粧》、1842、
M.S.cat.89 (坂崎乙郎、「三 ロマン派」内の挿図)
  pp.184-185 《水浴のスザンナ》、1839、
M.S.cat.48 (「名作鑑賞」内、坂崎乙郎)

近藤不二、『カローラ版 世界美術全集 第8巻 アングル/ドラクロワ他』、河出書房、1967
  no.75 《バルコニーのユダヤ人》、1849、
M.S.cat.139
  no.76 《サッフォー》、1849、
M.S.cat.128
  no.77 《スザンナと長老》、1856、
M.S.cat.262
  +p.117(作品解説) 同ページに挿図 《コサックの酋長マゼッパの死》、1851、
M.S.cat.131

『世界の美術館 28 シカゴ美術館』、講談社、1970
  no.6 《サラセン人と十字軍》、c.1840-50、
M.S.cat.E
  no.107 《シャセリオー男爵夫人の肖像》、1846/7月、素描、Prat dehors cat.144

馬杉宗夫、『ファブリ-研秀 世界美術全集 第8巻 ダヴィッド/アングル/ドラクロワ/ジェリコー/シャッセリオー』、研秀出版株式会社、1977
  no.64 《海のヴィーナス》、1838、
M.S.cat.45
  no.65 《ラコルデールの肖像》、1840、
M.S.cat.72
  no.66 《アハシュエロス王のもとへ行かんとするエステルの化粧》、1842、
M.S.cat.89
  no.67 《モロッコの踊り子たち》、1849、
M.S.cat.140
  no.68 《二人の姉妹》、1843、
M.S.cat.95
  no.69 《コンスタンティンの教主(カリフ)》、1845、
M.S.cat.101
  no.70 《ハーレムの内部(習作)》、1856(未完成)、
M.S.cat.265
  +p.95(作家解説)、 p.105(作品解説)

大島清次、『週刊朝日百科 世界の美術 3 ドラクロワ アングル ジェリコー』、朝日新聞社、1978/4/16
  p.5-78 《エステルの化粧》、1842、
M.S.cat.89

『全集 美術のなかの裸婦 3 神話・神々をめぐる女たち』、集英社、1979
  no.31 《アポロンとダフネ》、1846以前、
M.S.cat.99(p.102;高橋裕子)

『全集 美術のなかの裸婦 9 風俗と女性たち』、集英社、1979
  no.26 《テピダリウム》、1853、
M.S.cat.218(p.100;湊典子)
  no.49 《後宮での入浴》、1849、
M.S.cat.146(p.108;馬渕明子)

『全集 美術のなかの裸婦 1 神話・美の女神ヴィーナス』、集英社、1980
  no.7 《海からあがるヴィーナス》、1838、
M.S.cat.44(p.91;馬渕明子)

『全集 美術のなかの裸婦 5 聖書の女性たち』、集英社、1980
  no.40 《スザンナと長老たち》、1839、
M.S.cat.48(pp.106-107;馬渕明子)
  no.43 《エステルの化粧》、1842、
M.S.cat.89(p.108;馬渕明子)

『世界の美術 4 人物Ⅲ(裸体/自画像)』、株式会社ぎょうせい、1980
  no.11 《海より上がるヴィーナス》、1838、
M.S.cat.44(p.22;小林利延)

『世界の美術 5 人物Ⅳ(群像)』、株式会社ぎょうせい、1980
  no.33 《ふたりの姉妹》、1843、
M.S.cat.95(p.66;小林利延)

ジャン・クレイ、高階秀爾監訳、『ロマン派』、中央公論社、1990
  p.51 《自画像》、1835、Ms.cat.14
  p.134 《海のヴィーナス》、1838、
M.S.cat.44
      《アポロンとダフネ》、1844、
M.S.cat.99
  p.135 《エステルの化粧》、1841、
M.S.cat.89

髙橋明也、「画家とモデル十選 西欧の近代絵画から ⑦ テオドール・シャセリオー『泉の傍らで眠る浴女』」、『日本経済新聞』、1997/2/7
  1850、
M.S.cat.154

諸川春樹監修、『【カラー版】西洋絵画の主題物語 Ⅰ 聖書編』、美術出版社、1997
  p.48 《エステルの化粧》、1841、
M.S.cat.89

エリー・フォール、與謝野文子訳、『美術史 5 近代美術[Ⅱ]』、国書刊行会、2009、pp.74-75
  p.74/図215 《歴史》、
M.S.cat.113H
      図216 《葡萄の収穫》(部分)、
M.S.cat.113L

気谷誠、『西洋挿絵見聞録 製本・挿絵・蔵書票』、アーツアンドクラフツ、2009、pp.108-110:「デスデモーナのハンカチ ロマン派編」
  p.109 《オセロー(Oh! Oh! Oh!)》、
M.S.cat.284

春燈社編、『怖くて美しい名画』、辰己出版、2020
  p.025 《エステルの化粧》、1841、
M.S.cat.89
  p.056 《アポロとダフネ》、1846、M.S.cat.99

山田五郎、『魔性 闇の西洋美術史〈2〉』(アルケミスト双書)、創元社、2021
  p.40 《アポロンとダフネ》、1844、
M.S.cat.99

おまけ


 上のレポート(略称「セリオ」君、略称の由来は『シャセリオー展』展図録、国立西洋美術館、2017、p.135 参照)の後、
年度末レポートもう一本をはさんで(→こちらに載せました:「ギュスターヴ・モローの制作過程を巡って」、1984)、
修士論文『ギュスターヴ・モロー研究序説』、1985.1.16、神戸大学大学院文学研究科提出
「シャセリオーからギュスターヴ・モローへ」、『美術史』、no.122、1987.3
「マティスからモローへ - デッサンと色彩の永遠の葛藤、そしてサオシュヤントは来ない」、『研究論集』、no.4、2005.3.3
  就中 pp.50-54:「4-1. モローからシャセリオーへ」
と続くわけですが、修論こと略称『モロ序』と「シャセモロ」についてはまた考えるとして、「マティモロ」は元の勤め先のサイトに掲載されていますので、関心がありましたらご覧ください(→そちら[ < 三重県立美術館のサイト ])。
追記 『モロ序』も結局載せました→あちら。「シャセモロ」は→ここ
 ここでは上にも挙げた『ヒューストン美術館展』(1999.7.17~8.22)が元の勤め先で開催された際(→そこを参照[ < 同上]、またあそこ(フェラーラ派《ソロモン王とシバの女王の会見》(1470-73頃)の頁)、共催の新聞に載った作品解説を;


シャセリオー《羊を伴ったコンスタンティーヌの女性と少女》1849
Cat..no.55
テオドール・シャセリオー
『羊を伴ったコンスタンティーヌの女性と少女』
1849年、油彩・板
29.4×37.1cm

 中近東の風物をエキゾチックな色彩で描いた画面は、十九世紀のオリエンタリズムの典型的な所産である。ところでエドワード・サイードは、オリエンタリズムなるものが、現地での生活・他者の現実を省みることのない、つまるところ西欧の植民地主義的な欲望の投影に他ならないと批判した。この作品も、そうした制約の外に出るものではない。
 ただ、ドラクロワを例外に、当時流布していた多くの絵はがき的な同類からこの画面を区別する点があるとすれば、それは、濃密な色彩とそこから生じる抒情性であろう。
 シャセリオーはしばしば、新古典主義の領袖アングルの線と、ロマン主義の旗頭ドラクロワの色彩を綜合しようとした画家と位置づけられる。そうした図式がどこまで作家の全体像をとらえうるかは問題だが、うねる線による柔らかく、同時に単純化された量感の表現は、ある程度まで先の形容をうなずかせなくもない。
 しかしこの画面の核をなすのは、何よりも、濃密な色彩であろう。無地に近い茶色の壁と黒い帽子を上部の歯止めとして、そこから流れだすかのように、さまざまな色が、凹凸や模様をともなって配される。床の軽快な処理は、色を手前に流れださせずにいない。濃
く暖かい色の交響は、温度の高さと空気の密度を伝え、彼が描く人物特有の大きな目と相まって、見る側の視線を射かえすような存在感をもたらしている。
(県立美術館学芸員・石崎勝基)

『讀賣新聞』(三重版)、1999年8月4日、「欧州600年の美 ヒューストン美術館展-③」


 →こちら(『マクベス』(1948)の「おまけ」)や、あちら(『オセロ』(1952)の「おまけ」)にもシャセリオーの作品を載せました
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