| < vi. 道教など < 中国 Ⅱ | ||||
〈劫〉の年号、その他 メモ
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| 1.〈開劫度人〉説 「中国 Ⅱ」の頁の「vi. 道教など」の始めに挙げた(→こちら) 神塚淑子、「第二篇第三章 開劫度人説の形成」、『六朝道教思想の研究』、1999 は、 「『隋書』巻三五経籍志の道経の部は、六朝道教の教理と歴史の概要を簡略に記したものであるが、その冒頭には〈開劫度人〉の説が置かれている」(p.361) と説き起こされます。『隋書』は『史記』に始まる二十四史の一つで、その巻三五経籍志は、 「『漢書』芸文志に次ぐ第二の図書目録であるとともに、また六朝四百年間における学術文化の総合的な歴史記録として重要な意義を有している」( 興膳宏、「隋書経籍志道経序の道教教理 : 特に無上秘要との関連について」、『京都大學文學部研究紀要』、no.32、1993.3.31、p.1)。 「本篇あるいは内篇」として「経・史・子・集」という四部分類で典籍を排列した、 「そのあと附篇あるいは外篇ともいうべき形で、道経と仏経の両部に関して子目名と巻数、そして道教と仏教の教理と歴史が叙述されている」(同上)。 その「道経序」冒頭の「開劫度人」説の部分は、さいわい現代語訳で読むことができます(ただし旧漢字。旧字のフォントを見つけられなかったものは新字に置き換えました); 「道經については以下のようにいわれる。元始天尊が、宇宙の生成に先んじて生まれ、自然の氣をそなえ、(その世界は)虛無且つ深遠であって、果てがわからぬほど無邊である。そこで(天尊)は天地の崩壊、劫の終末を説いたが、それはほぼ佛經と同じである。天尊の本體は、永遠に存在して不滅であると考えられた。天地の開闢のたびに、玉京の上にいたり、窮桑の野にいたりして、祕道を傳授するが、それは『劫を開き人を度す』といわれる。とすれば劫を開闢したのは、一度ではなかったわけだ。かくして延康・赤明・龍漢・開皇があり、それがその年號である。それらの間隔は、四十一億年開いている。度されたのはいずれも天仙の上品ばかりであり、太上老君・太上丈人・天眞皇人・五方の天帝、及び諸々の仙官がいて、次々とうけつがれたが、それは俗世の人のあずかり知らぬことである」(興膳宏・川合康三、『隋書經籍志詳攷』、汲古書院、1995、pp.932-933/「道經」(一)、原文は p.932)。 「道家の説く經典も、元一の氣をそなえ、自然のまま存在しているもので、人の手で造られたのではないから、それも天尊と同じく恒久に不滅である。天地が崩壊しない間、内部に隠されて世に傳わらないが、劫の 神塚淑子の前掲論文は 「〈開劫度人〉の説は、〈開劫〉と〈度人〉の二つの柱に分けて考えることができる」(上掲「開劫度人説の形成」、p.361) として、前者を「天地の循環的再生説」(同上)、後者を「天書出現による救済説」(同、p.362)と呼び、それぞれの成立過程を追っていくことになります。とまれ〈開劫〉が前出『隋書經籍志詳攷』での「道經」(一)、〈度人〉が同(二)にあたるわけです。「方一丈」すなわち約3.03メートル四方の文字八つからなり、宙空でということでしょうか、光り輝く〈天書〉のイメージも言葉/文字/書物の宇宙論に関連して興味深いところではありますが、ここでは〈開劫〉説中に見える、劫に「延康・赤明・龍漢・開皇」という「年號」があるとの点について、メモしておきましょう。 2.〈劫〉の年号(1) ちなみに『隋書』経籍志こと「隋志」の内、 「道経と隣接する仏経の序は、隋志よりも一世紀先んずる六世紀半ばに著された魏収の『魏書』釈老志に、原拠のほぼ大半を仰いでいる…(中略)…だが道経の序については、そのもとづくところの原資料が実ははなはだ曖昧なのである。なるほど仏経の序と同じく釈老志を拠り所とした箇所も、いずれのちに見るようにないではないが、その記述全体に占める比率は、仏経の場合にくらべて遙かに小さい」(興膳宏、上掲論文、p.2)、 とされるのですが、やはり現代語訳を見ることのできる『魏書』釈老志に、劫の名について対応する箇所がありました; 「又劫数をいうが、それはおうかた仏経の諸説に類似している。延康、龍漢、赤明、開皇などが皆その[劫の]名である。その劫が終るに及んで、天地がともに壊れると称する」(魏収、塚本善隆訳注、『魏書釈老志』(東洋文庫 515)、平凡社、1990、p.298、原文は p.291)。 上掲『隋書經籍志詳攷』は註12で、 「赤明と龍漢の順序が逆になっている。この四種の劫の排列は、道教経典では、龍漢→延康→赤明→開皇となるのが通常である」(p..935) として、『無上祕要』六劫運品、『道教義樞』序、『雲笈七籤』四に引く陸修靜「靈寶經目序」からそれぞれ原文を引用しています。興膳宏の上掲論文には、『無上祕要』の卷六劫運品で『洞玄霊書教』から引用された箇所の読み下し文が載っていました; 「天尊言えらく、 「一劫の周れば、天地又た壊れて、復た光明無し。五劫の中、幽幽冥冥、二氣混沌として、運に乗じて生じ、 神塚淑子前掲論文でも、 「元嘉十四年(四三七)に書かれた陸修静の『霊宝経目序』(『雲笈七籤』巻四)に、次のような一節がある。 そもそも霊宝の文は龍漢の劫に始まった。龍漢の前の時代のことについては、それを記録したものは何もない。 延康の長い劫は、混沌として期限も定まらず、道は隠れ沈んで、宝経は現れなかった。 赤明の劫の時、天の運りがあらたまり、霊妙な文が興った。諸天はそれを大切に奉り、それぞれに科戒・経典ができた。一つの劫がめぐって、また、天の運りがあらたまった。 そのようにして五つの劫を積み、開皇の劫に及んで以後、上皇元年に、元始(天尊)が下って教えを説き、大いなる法がめぐりわたった。 …(中略)… 劫の推移は龍漢→延康→赤明→開皇の順で考えられているが、それぞれの劫の内容はここではあまり明確ではない。そこで、陸修静よりやや後輩にあたる南斉の厳東の説によってそれを補っておきたい。 厳東の説は、『度人経』四注本(『元始无量度人上品妙経四注』。道蔵第38冊-第39冊)に見える。 …(中略)… 龍漢は天地が存立していて玉字(自然に出現した教えの書)が現われ、人々の済度が行われていた時期であり、 延康は龍漢の次の時期で、天地は崩壊し、宇宙は混沌たる空無の状態に陥った時であると考えられているわけである。…(中略)… 長い暗黒の時を経て再び天地が開け、光が戻ってくるのが『赤明』である。 …(中略)… 厳東は天地が再生して赤明の劫を迎えたあとのことについては記していないが、陸修静は、そのあと天地は再び崩壊して空無の状態になり、五劫の期間を経て、もう一度再生の時を迎えるとし、それを『開皇』『上皇』と呼んでいる」(上掲書、pp.374-375。改行は当方による)。 『隋書経籍志道経序』で「それはほぼ佛經と同じである」、『魏書釈老志』で「それはおうかた仏経の諸説に類似している」と言われていたように、「これが仏教でいう kalpa の道教的転用であることは言を俟たない」(興膳宏、上掲論文、p.9)。 仏教の宇宙史では壊・空・成・住の四劫=一大劫が繰りかえされると説きますが、 「龍漢・赤明・開皇(上皇)はいずれも天地の開闢の時、すなわち『開劫』の時であり、仏教の壊劫・空劫に相当するのが延康である」(神塚淑子、上掲書、p.376)。 他方『太上諸天靈書度命妙經』(道蔵23)では、 「元始天尊が出現した劫のときには天地は形成され、元始天尊が退去した劫には天地は崩壊し、宇宙は混沌とした状態になるようである。 龍漢の劫のときには元始天尊が無形常存の君の名で出現すると、天地は生成し、日月星辰は耀き、人間の男女も現われたが、 次の延康の劫には元始天尊がこの世から退去したので、天地は破壊し、光明もなく、宇宙は眞暗闇の混沌とした状態になった。 次の赤明の劫には元始天尊が無名の君という名號で現われると、天地が再生し、日月も耀き、人間も出現した。 赤明の劫の後の五劫の間は、元始天尊が姿を現わさなかったために、天地は再び崩壊し、光明もなくなり、宇宙は暗い混沌に歸した。 そして開皇の劫になると、五篇眞文が現われ、天地も再生し、日月星辰も耀き、この時には元始天尊は元始天尊の名で出世したという。 ここでは五篇眞文がこの世に出現した時期を開皇の劫に當てているが、同じ『度命妙經』に、…(中略)…五篇眞文と靈寶經が龍漢の劫のときにこの世界に現われたようにも説いている」(小林正美、『六朝道敎史研究』(創文社東洋學叢書)、創文社、1990、447/第3篇第1章4。改行は当方による)。 元始天尊の出現・退去と結びつけられていますが、やはり延康が壊劫・空劫に相当し、また成劫・住劫にあたる赤明の劫の後、五劫の間空劫が続くという点は同じです。なお〈五篇眞文〉については、小林正美、同上、第1篇第2章「『靈寶赤書五篇眞文』の思想と成立」を参照。『玉訣妙經』では 「五篇眞文が天地未分の空洞の中に生じた書であると述べている」(小林正美、同上、p.121/3(2)c) とのことで、〈天書〉に相当するのでしょう。 なお興膳宏は上掲論文で、次のように述べています; 「いささか想像をたくましくすれば、これら四つの年号は、或いは漢末以来の実際の歴史の展開を踏まえて名づけられたものではなかっただろうか。すなわち後漢(龍漢)の滅亡後、中国全土は分裂と混乱に陥り(延康)、その混迷状態はようやく晋の全国統一によって収束を見るが(赤明)、東晋以後さらに南北に分裂し、久しくその状態がつづいていた。というのが、道教の教理が一応の体系化をなす北周までの歴史の跡である。第四の年号『開皇』は、そうした分裂と混乱がやがて最終的な統一と太平へと導かれる理想の世、仏教にいう弥勒浄土の如き未来の世として構想されたのではなかったか」(p.10)。 3.〈劫〉の年号(2) 小林正美の上掲書第3篇第1章4(2)には、道教の終末論に影響を与えたであろう仏教の仏国土の例として、 「西晉の竺法護譯『正法華經』卷三授聲聞決品には、佛弟子の大迦葉や須菩提や大迦旃延や大目犍連がそれぞれ新しく開かれた世界と劫において佛に成るように述べられている。 大迦葉が佛に成る世界の名は還明、劫の名は弘大といい、 須菩提が佛に成る世界の名は寶成、劫の名は寶音といい、 大目犍連が佛に成る世界の名は意樂、劫の名を樂滿という」(p.419。改行は当方による) と記されていました。坂本幸男・岩本裕訳注、『法華経』(上中下)(岩波文庫、岩波書店、1967)での対応箇所を挙げておくと;
佛国土だけでなく、劫にも名があるわけです。いわゆる元号にあたると見なせるでしょうか。同じく『法華経』の「五百弟子受記品第八/8 五百人の僧に対する予言」には、 「未来に於いて、パドラ=カルパに、千名より四名少ないブッダが現われるであろう」(中巻、p.97) というくだりがありました。〈パドラ=カルパ〉は漢訳での〈賢劫〉にあたり、後者の注には 「成・住・壊・空の四劫の中の住劫の中で、過去の住劫を荘厳劫、未来の住劫を星宿劫、現在の住劫を賢劫と名づける。これは二十中劫の間つづき、その中に千仏が現われるので、賢劫 bhadrakalpa と名づけられる」(中巻、p.335) とあり、成・住・壊・空の四劫=大劫は80中劫からなり、20中劫は住劫の分を指します。すぐ前の「七仏」の注では、 「釈迦以前に出現した七仏。…(中略)…この中、前の三仏は過去荘厳劫の千仏の中の後の三仏、後の四仏は現在賢劫の千仏の中の始めの四仏である」(同上) と、〈パドラ=カルパ〉の注では、 「『賢劫』と訳され、一般には Krakucchanda, Kanakamuni, Kāśyapa, Sākyamuni(以上、過去七仏の第四から第七)の四仏と未来仏としての Maitreya(上巻365頁を見よ)を合せた五仏の出現するカルパとされるが、『マハーヴァストゥ』には千仏が出現すると述べられ(iii. 330.5)、ここでは『千名より四名すくない』996名のブッダが出現すると記される」(中巻、p.364。過去の四仏は漢訳での拘留孫仏、拘那含牟尼仏、迦葉仏、釈迦牟尼仏、未来仏は弥勒)。 また中村元、『佛教語大辞典 縮刷版』(東京書籍、1981)の「賢劫」の項によると、 「現在の一大劫(成・住・異・滅の四劫)の称。千仏・千五百仏など多くの賢人が出世して衆生を救うから、かく称されるという。現在の一大劫。現在世。現在の劫。現在の住劫。いまの世。『三千仏名経』に、過去千仏の世を荘厳劫といい、現在千仏の世を賢劫といい、未来千仏の世を星宿劫という、とある。現在の住劫二十増減中に千仏が出世するので、この名がある。善劫ともいう」(中巻、p.319)。 |
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| 過去の荘厳劫→現在の賢劫→未来の星宿劫というセットなどには、どんな由来があるのか*、こうした固有名つきの劫という設定が、道教における龍漢→延康→赤明→開皇という連なりにつながっていったと見なしてよいのでしょうか? その際、「延康の長い劫は、混沌として期限も定まらず」と記されたり、赤明の劫の後の五劫の間、仏教流にいえば空劫が続くというのは、不規則さと見てよいのかどうか。「龍漢の前の時代のことについては、それを記録したものは何もない」とはいかなる事態なのか、いろいろと気になるところではあります。 |
* 『仏典解題事典』(春秋社、1966/1977)の『賢劫経』の項(p.73)、 また 竹本寿光、「過去四仏について」、『印度學佛教學研究』、vol.28 no.1、1979、pp.297-299 など参照。 |
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4.〈劫〉の長さ(2) 『隋書』経籍志道経序に「かくして延康・赤明・龍漢・開皇があり、それがその年號である。それらの間隔は、四十一億年開いている」とありました。「四十一億年」は原文では「四十一億萬載」(p.932)です。〈億万〉は数の単位としてはおかしいのでしょうが、「〈 「必ずしも日本でいう数の億とは一致しないらしい。仏典ではしばしば今日の千万のことをいう」(p.133) とありますが、これはまた別の話になるのでしょうか。 同じく「〈 神塚淑子、「霊宝経における経典神聖化の論理 - 元始旧経の『開劫度人』説をめぐって -」、『道教経典の形成と仏教』、名古屋大学出版会、2017 によると、 『元始五老赤書玉篇真文天書経』(道蔵第26冊)には 「『霊宝赤書五篇真文』が宇宙の始源の時間に由来するということや、それ自身は天上の玄都にあって常住不変であること、『玄科』によって四万劫に一度(あるいは五劫の周末に)世に出ること」 が説かれているという(p.44/2節。原文は pp.43-44)。『太上洞玄霊宝赤書玉訣妙経』(道蔵第178冊)巻下の冒頭でも、「赤書五老真文」について、 「太上道君が願い出てその文の注を作り、これを『霊宝玄科』によって四万劫に一度、至真に伝授するようになった」(p50-51/3節。原文は p.50) と述べられます。しかし「四万劫」が何年にあたるのかは記されていないのでしょうか。 小林正美の上掲書第3篇第1章3(1)には、『上淸三天正法經』 i. 「によると、劫には大劫と小劫の二種があり、小劫は九天が3600周、大劫は9900周する期間であるという。 …(中略)… 九天の一輪の期間は九天が36候を經る期間である。 そして一候の間を通過するのに36日かかるから、九天の一輪の期間は、卽ち36日の36倍の1296日(約3年七ヶ月)である。 九天の一周は360輪であるから、その期間は1296日の360倍の46萬6560日(約1278年)である。 そうすると、小劫は1278年の3600倍の460萬800年であり、 大劫は1278年の9900倍の1265萬2200年である」 (pp.438-439。改行は当方による。 〈九天〉については p.489/第3篇第2章3(1)。また垣内智之、「道教の九天」、辛賢編、『宇宙を駆ける知 天文・易・道教 知のユーラシア 4』、明治書院、2014、pp.123-148)。 ii. 「この大劫と小劫の期間は同じ、『上淸三天正法經』でも一定しておらず、 …(中略)… 一轉とは地機が四方の天源を一周することで、その期間は33日である。 一度は330轉であるから、その期間は33日の330倍の1萬890日(約31年)である。 一小劫は3300度、大劫は9300度であるから、 小劫の期間は31年の3300倍の10萬2300年、 大劫は31年の9300倍の28萬8300年である。 この地機による小劫と大劫の期間は、先の天關による小劫と大劫の期間よりはるかに短い」(p.439。改行は当方による)。 iii. 「大劫や小劫の期間の曖昧さは同じ『上淸三天正法經』の次の記載にも窺われる。 …(中略)… 日月星の三象が光輝いて以来、開皇の劫に至るまでに無數の劫を經、その間天地の興廢を繰り返した。 開皇の劫のときに九天丈人が天地の運行を測定して、唐堯(堯帝)の時が小劫の終わりの時期に當たり、堯帝以後、46の丁亥を數える頃の甲甲の年が小劫の會であると算定した。 46の丁亥とは丁亥の年を46回繰り返すことであるから、60年の46倍の2760年間を意味する。卽ち、堯帝から2760年ほど後の甲甲の年が小劫の終わりであるという。 そして堯帝から46丁亥は三劫の周であるというから、堯帝から2760年は第三小劫の終末期に當たるのであろう。 更に、55囘目の丁亥から壬申・癸巳の年までが大劫の終わりの時期であるという。 卽ち、堯帝以後、60年の55倍の3300年後に大劫の終わりが來るというのである。 この小劫や大劫の期間は先の小劫や大劫の期間よりも格段に短いであろう」(p.440。改行は当方による)。
と、いずれ41億年よりずっと小さい。 また(i)(pp.438-439)からすると、大劫=9900÷3600=2.75小劫と、いささか中途半端な数になります。 5.数(2) 小林正美は iii の頭で(p.440)、 「大劫や小劫の期間に天關と地機とによってこのような大きな差異が生ずるのも、その考えが天文學的な知識に基づくものではなく、單に三十六や三十三という數を基礎にして天地の運行を觀念的に組み立てたにすぎないからである」 と述べています。「反転的グノーシス主義、その他 メモ」の頁の「7-4. 数」でそうした観念的な数を組みあわせてできたと思しい長大な年数の例をいくつか挙げました(→そちら)。それ以外にもたとえば、「唐代の『一切道經音義妙門由来起』(道蔵1115)明道化第一に所引の『玄妙内篇』」には、 「玄元始の三氣がまだ區分のない混沌とした状態から分化して三氣に成り、更に81億年後には三氣より玄妙玉女が化生した。その玄妙玉女が三氣の變化してできた彈丸の如き物を吞み込んだ後、81年を經て、老子が玄妙玉女の左腋から生まれた。老子は生れながらにして白髪であったので、老子と呼ばれたが、老子とは老君のことであり、老君は太上の信任を得て天地を創造し、歴代の帝王の恩師となった、と記されている」(小林正美、上掲書、pp.382-383/第2篇補論2-2)。 あるいは「道教では陰より陽の数、なかでも陽の陽である数の九を重要に考える」例として; 「『雲笈七籤』巻二に、混沌から一気が生まれてから99万億99万年たって三気が化生するが、三気のあいだはそれぞれ99万億99万年だとか(混沌条)、『太上老君開天経』には洪元から混元をへて百成となり、百成から81万年(9×9)たった太初のときに、老君が天から下ってきて同経を説いたとあること(同名条)」(窪徳忠、『道教史 世界宗教史叢書 9』、山川出版社、1977、p.64/第1章2)。 こうした例はまだまだ増やせるのでしょう。やはり「反転的グノーシス主義、その他 メモ」の頁の「7-4. 数」で触れたように(→あちら)、 「緯書においては、天地開闢の始源の時間に対して強い関心が持たれている」(神塚、上掲「開劫度人説の形成」、p.362/第2篇第3章1)。 「開闢した天地についての時間的な認識は、暦法として展開する」(同上、pp.363-364)。 「天文学・暦法を介して認識される天地は、大小さまざまの周期運動を行うことをその特徴とする。緯書には四分暦の考え方にもとづいて一元4560年、一紀1520年の循環サイクルが記され、さらにその中を304年、76年といった小周期に分けて時間の循環を捉える考え方が見える。それと同時に、より大きな循環サイクル、すなわち、4560年の7倍にあたる3万1920年や64倍にあたる29万1840年などが、一周期の数値として挙げられている(『易緯乾鑿度』巻下)。この29万1840年という数値に関して、『礼斗威儀』には『29万1840歳にして太素の冥茎に反る。蓋し乃ち道の根なり』(『太平御覧』巻一所引)とある。『太素の冥茎』とは、『春秋命歴序』に『冥茎無形にして、濛鴻萌兆し、渾渾混混たり』(『文選』巻一二『江賦』所引。その宋均注に『渾渾混混とは、雛卵の未だ分かれざるなり』とある)というように、天地未分の混沌の状態の表明である。したがって、29万1840年という年数は、天地が開闢以来の巨大な一つの活動の周期を終えて、もとの混沌の状態に戻るまでの期間と考えられていることになる」(同上、pp.365-366)。 ところで上の二番目の引用に続いて、 「緯書には暦法に関する記述がしばしば見えており、それらがほとんど四分暦の立場を示しているということについては、すでに指摘がある」(同上、p.364) として、注7(p.407)で 藪内 清、『中国の天文暦法』、平凡社、1969、pp.26-34/第1部1章1~2 が参照されています。そこでは 「漢代には前後二回にわたって改暦が行われた。一は前漢の太初改暦であり、二は後漢の元和改暦である。これらの改暦は、それぞれ異なった動機から行われ、この動機の相違が採用された暦法なり、あるいは暦編纂に参画した人々の態度にいちじるしく反映しているように思われる。ここでは再度の改暦を通じて示された漢代の人々の態度を述べ、あわせて当時の一般的思潮に言及」 していました(藪内 清、同上、p.21)。 「太初改暦以前の暦法はすべて四分暦に属するものであった。周知のように、四分暦の名称は一年の長さを三六五日四分日之一ととることによる。もちろん太陰太陽暦である…(後略)…」(p.22)。 そして 「緯書にはしばしば暦法に関する記事が見える。しかも特に注目すべきことは、この暦法がほとんど四分暦であるという事実である。…(中略)…官暦とならなかった四分暦を信奉する人々は、漢末に興った讖緯説に結びつけて頽勢をもりかえそうとしたと考えられる」(p.26)。 他方、 「太初暦は、その定数からして八十一分法とも呼ばれる。すなわち、一朔望月の長さを29日81分の43*とするからである」(p.24。* 原文では分数表記)。 「太初暦は、前漢末に劉歆の手で増補されて三統暦となった」(p.27) として、 「この太初改暦の経緯については、『漢書』律暦志と『史記』暦書とにみえているが、すでに述べたように、そこに収録された暦法は全く異質のものである。すなわち、前者には太初暦もしくは三統暦が収録されるのに対し、後者には従来と同じ四分暦が収録されている」(藪内 清、「中国科学の伝統と特色」、『中国の科学 世界の名著 続1』、中央公論社、1975、p.44)。 ここで面白いのはといっていいのかどうかもわからないでいるのですが、小林正美の前掲『六朝道敎史研究』および 菊地章太、『神呪経研究 六朝道教における救済思想の形成』、研文出版、2009 はともに、『漢書』律暦志の同じ箇所を引用しています。後者によると; 「(一元[4617年]のあいだの閏年に、陰の災いと陽の災いがある。これは三統[すなわち一元]における閏年の法則であって、『易』の『九厄』は[次のように]言う。 一元が始まってから106年のあいだに陽の災いが9回あり、 続く374年のあいだに陰の災いが9回ある。 続く480のあいだに陽の災いが9回、 続く720年のあいだに陰の災いが7回、 続く720のあいだに陽の災いが7回、 続く600年のあいだに陰の災いが5回、 続く600年のあいだに陽の災いが5回、 続く480年のあいだに陰の災いが3回、 続く480年のあいだに陽の災いが3回あり、 合わせて4617年を一元として[ひとつの周期が]終了する。 [この間に]災いをやり過ごして逃れる年は4560年あり、 災いの年は57年ある)。 ここに説かれているのは、前漢の三統暦における『災歳』の思想である。それによれば、一元=三統=4617年のうちの閏年に『陰の災い』と『陽の災い』の勃発する『災いの歳』が57回あるという。『陰災』は洪水を、『陽災』は旱魃を意味するのではないか。そこでは最初の 小林正美の前掲『六朝道敎史研究』では、第3篇第1章「道教の終末論」の第1節「東晋期の道教の終末論」の2項「終末の劫災と歳歳」で、『漢書』巻二十一上、律暦志第一上から上で引用した箇所にあたる原文を引き、解説しつつ、 「道教の終末觀は佛教の劫災の思想と、前漢・劉歆の『三統暦』にいう陽九・百六の歳災の思想とに基づいている。 …(中略)… 道教の終末論における陽九・百六の歳災の思想は劉歆の『三統暦』の所説とは必ずしも合致しないが、陽九や百六の觀念はこの『三統暦』に由来するものである」(小林正美、前掲書、pp.404-405) と、菊地章太の上掲『神呪経研究 六朝道教における救済思想の形成』では、第1部第2章「劫運思想の系譜 - 讖緯文献から道教経典へ」の3項「讖緯文献から道教経典へ」で、上の引用の後、一段落はさんで、 「『災歳』を説く三統暦は前漢の劉歆によって提唱された。これは王莽が図讖を濫発して王朝簒奪をはかるうえで有力な思想的根拠を与えた観念であり、漢代の讖緯思想に連なるものである。暦法としての三統暦は、やがてその欠陥が明らかになって廃止されたが、一方で形而上学的な思惟の次元においては、その統一的な世界把握の仕方は否定されることなく、かえって神秘的な色彩をいよいよ濃厚にして、その後の中国思想のなかに継承されていった」(菊地章太、上掲書、p.6) と記していました。 6.〈元〉 『漢書』律暦志の現代語訳は; 前掲『中国の科学 世界の名著 続1』(1975)、pp。165-223;「漢書律暦志」(橋本敬造・川勝義雄訳)(pp.167-194:上、pp.195-223:下;統母/紀母/五歩/統術/紀術/歳術/ 上での引用に相当する箇所は p.191。 班固、小竹武夫訳、『漢書2 表・志 上』(ちくま学芸文庫 ハ 10-2)、筑摩書房、1998、pp.187-220:「律暦志第一上」(統母/紀母/五歩/統術/紀術/歳術/世経)、pp.220-242:訳注、pp.243-287:「律暦志第一下」、pp.288-318;訳注 上での引用に相当する箇所は p.216。 暦法と天文学については、『中国の科学 世界の名著 続1』所載の藪内 清、上掲「中国科学の伝統と特色」中の pp.22-24、pp.43-55 や藪内 清、上掲『中国の天文暦法』(1969)に加えて、 ジョゼフ・ニーダム、協力=王鈴、監修=東畑精一、藪内清、訳=吉田忠、高橋雄一、宮島一彦、橋本敬造、中山茂、山田慶児、『中国の科学と文明 第5巻 天の科学』、思索社、1991 小沢賢二、『中国天文学史研究』、汲古書院、2010 なども参照ください。 とまれ、 一元=三統=4617年 だとして、「4617」という数値は 「前暦の上元泰初から4617歳を経た元封七年になると」(『中国の科学 世界の名著 続1』、p.183。『漢書2』では p.207) というくだりで登場し、先の引用箇所の直前に、 「日法(81)を閏法(19)に乗じたものは一統の年数(1539歳)である。三統は一元の年数(4617歳)である」(『中国の科学 世界の名著 続1』、pp.190 -191。『漢書2』、p.215) とありました。少し前には 「音律によって暦を組み立てる」(『中国の科学 世界の名著 続1』、p.184。『漢書2』、p.207) として、さらに前で述べられていた 「五つの音階の基準は、黄鐘の音調から生ずる」(『中国の科学 世界の名著 続1』、p.169。『漢書2』、p.190) とあった黄鐘の管について、 「この律管の長さは9寸であり、この9に171を掛けると(1539年=56万2120日となり)、日の端数がなくなって一周期が終わり、季節・月相は同日同時刻に復帰する。こうした復帰を三たび繰りかえすと(日数が60の整数倍となり)、甲子、すなわち日の干支も始めと同一にもどってくる」(『中国の科学 世界の名著 続1』、p.184。『漢書2』、p.207)。 また 「『三統暦』の上元のときから、湯王が桀を伐った歳までは、14万1480歳であった」(『中国の科学 世界の名著 続1』、p.213。『漢書2』、p.276) とのくだりも見かけられました。少し上にも出てきた〈上元〉については; 能田忠亮・藪内 淸、『漢書律曆志の研究』(東方文化研究所報告 第19冊)、臨川書店、1947/1979、pp.78-83/2章10 を参照。そのすぐ続きには、 「この上元の外に三統曆には太極上元なるものがある。この數は始めより易數に傳會して求められてをり、2363萬9040という大數である」(同上、p.84) と記されていました。『漢書』律暦志では上巻の末尾近くになります; 「天は数の一によって水を生じ、地は二によって火を生じ、天は三によって木を生じ、地は四によって金を生じ、天は五によって土を生ずる」((『中国の科学 世界の名著 続1』、p.193。『漢書2』、pp.218-219) に始まって、詳細は本文に任せるというかまるっきりのみこめていないのですが; 3x3=9 9x2=18 18x4=72 …… 72x9=648 72x6=432 648+432=1080 1080x8=8640 8640x8=6万920 6万920x2=13万8240 3万8240x19=262万6560 に至ります。 「これだけの年数を経過すると、五つの惑星と日月とは、すべてひとところに会合する。 この会合の周期を三倍すると、787万9680になって、三統と会することになる。 この三統の会数を三倍すると、2363万9040であって、これだけの年数を経過すると、ふたたび太極上元の状態にもどってゆく。 章歳(19)を9倍し、さらに6倍した数(1026)を法(除数)とし、太極上元に復帰する周期の数を実(被除数)として、実数を法数で割った値(2万3040)は、陰と陽それぞれ1万520の合計であり、これが万物を形成する気の本質をなす数に相当する」((『中国の科学 世界の名著 続1』、p.194。改行は当方による。『漢書2』、pp.219-220)。 『漢書』律暦志では〈一元〉=4617年、〈太極上元〉=2363万9040年だとして、先に引用したように、 「緯書には四分暦の考え方にもとづいて一元4560年、一紀1520年の循環サイクルが記され、…(中略)… より大きな循環サイクル、すなわち、4560年の7倍にあたる3万1920年や64倍にあたる29万1840年などが、一周期の数値として挙げられている」 と、異なる数値が与えられていました。 辛賢、「数理宇宙論の伝統 易から太玄へ」、上掲『宇宙を駆ける知 天文・易・道教 知のユーラシア 4』、明治書院、2014、pp.57-60 なども参照。 いずれにせよ仏教由来の〈劫〉とは別に、長大な周期を表わすのに、〈元〉の語も用いられていたわけです。「中国 Ⅱ」の頁の「viii. 宋学と理気説」で挙げた(→ここ)や「〈 一元=12会=360運=4320世=12万9600年 となります。『漢書』律暦志での主な単位は閏法19年=1章、81章=1統=1539年、3統=1元=4617年というものでしたが(上掲『漢書律曆志の研究』、pp.45-47/2章6)、〈会〉という単位もあって、1会=27章=513年とのことです(『漢書2』、p.288 訳注5)。 福永光司、『道教思想史研究』、岩波書店、1987、「中国における天地崩壊の思想 - 阮籍の『大人先生歌』と杜甫の『登慈恩寺塔詩』によせて -」 では、「邵康節の循環的な宇宙論もしくは歴史観」は、 「その源流を古く漢代における象数の易学と暦算学との雑揉、代表的な著作でいえば、劉歆の『三統暦』や『世経』(いずれも『漢書』律暦志に収載)などにたどることができる。さらに彼の学説の中に道教の劫運説、したがってまた仏教の劫尽説の影響を指摘することができるであろう。『三統暦』にも『元』『会』などの語が見え、それを基準とする暦法的な世界の周期が詳細に算出されており、また『世経』ではその周期的な推移の人間世界の歴史に対する承応関係が具体的に説明されている。さらにはまた、道教の経典、たとえば上に引いた『上清三天正法経』の中には、『元の元』を開劫の時におき、そこから劫運を校推して『小劫』『小劫の会』『三劫の周』『大劫の周』などを十干十二支をまじえて算出し、小劫の時を堯舜の治世にあて、以下次第に歴史が下降して、『強臣の覇を称し、弱主の蒙塵する』衰乱の時代から『六合の冥一する改運の時』すなわち『大劫の周』に至る循環的な歴史観が説かれている」(pp.165-166/2節) と述べられていました。続いて 「ところで邵康節がその循環的・宇宙論的歴史観においてなお明言していない天地の崩壊を、明確な言葉として主張したのは南宋の朱熹であった」(p.166) とあった点は脳裡に留めておきましょう。 戻って『漢書』律暦志では〈元〉について、 「(陰陽が生じる前の)太極の根元の気は、天・地・人の三つを一つにつつみこんだものである。太極の極は中ということであり、根元の元は始めということである」(『中国の科学 世界の名著 続1』、p.174。『漢書2』、p.195)。 「元典においては、暦のはじめを元という」(『中国の科学 世界の名著 続1』、p.187。『漢書2』、p.212)。 「『春秋経』にいう元とは、一のことで、それが始まりを 等と述べられていました。 他方上での引用文の一つに「玄元始の三氣」という言い方がなされていました。余談になりますが、〈元〉には時間の単位とはまた別の用法がありました。たまたま見かけたくだりですが、 「漢代の春秋学の中心概念であった『元』の思想を受けて、前漢末から後漢の時代には、天地万物を生じ生育させる根源的なエネルギーとして、『元気』という語がしばしば使われるようになった。そして、『道→元気→天地→万物』が、中国古代の生成論として定着していく」(神塚淑子、『道教思想10講』(岩波新書 1848)、岩波書店、2020、p.70/第4講1)。 すぐ後には 「『洞玄霊宝自然九天神章経』によれば、三元(混洞太無玄・赤混太無元・冥寂玄通元)の気から、それぞれ三宝の神格(天宝君・霊宝君・神宝君)が化生した。…(中略)…三元の気も三宝の神格も、三つに分かれた形を取っているが、もともとは同一のもので、『分かれて玄・元・始の三 と、元が三倍になっていました。 戻って「漢代の春秋学の中心概念であった『元』の思想」については、 関口 順、「董仲舒における気の思想」、小野沢精一・福永光司・山井湧編、『気の思想 中国における自然観と人間観の展開』、東京大学出版会、1978、pp.171-179 戸田芳郎、「後漢を迎える時期の元気」、同上、pp.191-208 などを参照ください。戸田芳郎論文の pp.198-200 では劉歆の『三統暦』が取りあげられています。 〈元〉の概念はその後も命脈を保ったようで、たとえば近代の康 有為(1858-1927)においても重要な位置を占めていたとのことです。 小林 寛、「康有爲における『元』の思想 - 西洋近代知識・思想受容の一考察 -」、『倫理学』、4号、1986 の p.95 では漢代の何休や薫仲舒、『漢書』律暦志が言及されます。〈元気〉の語が現在の日本語で日常的に使われるのも、その一端なのでしょう。 |
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| 2026/04/08 以後、随時修正・追補 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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