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Ⅱ. サロメ、伏せられた眼その他 
  1. ヘロデ王の前で踊るサロメ 
    i. モロー、ドラクロワ、必要な豊かさ 
    ii. シャセリオー、サロメ 
    iii. レンブラント他、地中世界 
  2. サロメの物語 
    i. 以前、騎士 
Ⅱ.サロメ、伏せられた眼その他

1.ヘロデ王の前で踊るサロメ
i. モロー、ドラクロワ、必要な豊かさ


 モローが1876年のサロンに出品した『ヘロデ王の前で踊るサロメ』(図62)は、キャプランの述べるように、その構図の主要な点をドラクロワの『ユダヤ人の結婚式』(図63)から借りてきていると思われる(150)。脇をつけた右手を首もとにやり、目を閉じて面を伏せ、伸ばした左腕を上げる踊り子のポーズは殆んど同じで、彼女の頭部をプロフィールで捉え、画面下半分の左寄りに配し、画面の上半分をそっくり建築の空間にあてるという、構図全体の骨格も一致する。それだけにしかし、違いもはっきり目につく。ドラクロワの画面でまず目を打つのは、光が強く照り返る白い壁と、左右の影に入った部分との強い対比であり、それをはっきりした緑が強調し、この緑には補色である赤がバランスをとる。このような大胆な光と影の対比は、ドラクロワの作品においても以後見あたらない。これに対しモローの画面は、仄暗い闇に沈んでおり、光は奥の高いところで洩れているにすぎず、ドラクロワが描く強い太陽の光に対し、閉ざされた巨大な建築の中を、小さな明かりが照らしているのみである。その結果色彩も、ドラクロワのように白、緑、朱、濃褐色が大きな塊まりとして配されるのではなく、全体に濃褐色のモノトーンに近く、その中から赤や、上部の光の青が、浮かび上がってはすぐ沈んでいく。どこか遠い世界の出来事であるかのような、神秘的な雰囲気がかもし出される。ドラクロワの画面では、一階とバルコニーを区切る緑の帯が、きちんとした線遠近法的な空間を設定している。これに応じて、前景に三人の背中を向けた人物が配され、彼らの視線と一緒に、絵を見る者の視線も、画面奥行き方向に進んで行く。前景の人物と突き当たりの壁の間には、多くの人物が埋められる。彼らは数が多いというそのことによって、画面に対してサイズが小さくなり、一人一人独立した形態としてではなく、それぞれの間をつないで行く鎖の輪として把握される。この作品ではそれが、ややうるさ過ぎるのではないか、という感すらある。人物から人物へと伝えられていく動きが、画面に生気を与え、描かれている人物たちの間にあるざわめきを絵を見る者に伝える。踊り子の腕を挙げた身振りは、それだけで孤立したものではなく、こうじたざわめきの帰結であり、頂点なのだ。しかしそれも決して声高なものとならないのは、画面の上半分が大きく開けられているからである。他方今度は上半分が重過ぎるものにならないよう、ヴェロネーゼあたりから学んだモティーフであろう、バルコニーから何人か頭を出している。モローの絵は、ドラクロワのそれより遥かに広い空間を設定しているにもかかわらず、以外に平面的である。ここにはサロメの位置している面と、ヘロデや刑吏が横に並んでいる面の二つしかない。画面上部で連なるアーチの間を通って行く光は、画面の奥に向かって進んでいるのではなく、画面の左上から右下の方へ斜めに、画面と平行に走っている。サロメが左から出てくることによって目立たなくされているとはいえ、上部のアーチ、ヘロデの玉座、その上の三体の偶像がほぼ左右相称をなしていることが、平面性を強めている。この平面性にもかかわらず、空間の巨大さの印象を生み出すのは、画面上半を巨大なアーチが連なっているからである。これを平板な書割りにしない役割りは、人物を小さくして、トーンを統一していることによって果たされている。この統一されたトーンによる空気の描出はまた、空間の奥深さのイリュージョンを生み出す役割りも担っている。最前景は空けて、画面とサロメの属する面との間に一段階設けることによって、画面、サロメの属する平面、ヘロデたちの属する平面、そして上部の建築によって暗示される奥深さへの移行を自然なものにするとともに(しかしこれは必ずしも成功していない、これは一つに、ヘロデの頭部の高さで、画面の上と下とを分かつかのように、祭壇衝立の上部の帯が走っていることによる)、場面を見る者の世界から切り離された、別の世界に仕立てあげる。画面がドラクロワの横長から縦長になったことが、空間の巨大さ奥深さの暗示を抽き出すとともに、幾本も聳える柱によって画面全体の垂直性、そして人物の垂直性を強める。それが人物と人物の間の横のつながりを断ち、それぞれ孤立したものとなる。人物から人物へ伝えられるざわめきは消え、静寂と沈黙が支配する。場面の自然らしさに代わって、意味あり気であること、暗示性が打ち出される。人物一人一人からも動きが奪われ、サロメの爪先立ちのポーズ、風になびく衣の裾もその場で凍結するが、その姿勢の不安定さが、上げられた腕の語りかけを強調し、一切が静止した空間の中に、何事かが起こることを告げ知らせる。彼女は巫女なのだ。
 
 




モロー《ヘロデ王の前で踊るサロメ》1876
図62  《ヘロデ王の前で踊るサロメ》 1876、PLM.157

ドラクロワ《モロッコでのユダヤ人の結婚式》1837頃
図63  ドラクロワ《ユダヤ人の結婚式》 1837頃

150. Kaplan, ibid., 1974, p.34.
 最後に、ドラクロワの画面で印象的なのは、上に何もない白い壁が大きく中央を占めていることである。これとバランスをとるために、人物が小さく、過剰なほど多く配されるが、人物一人一人は量感のあるマッスとして捉えられている。先に述べた色彩の配置も、同じ事を意味している。これに対しモローにおいては、画面の上から下まで、建築も人物もびっしり細かい装飾で覆われている(補図62)。平坦な面としてバランスをとっているのは、刑吏の右横の部分と床だけで、床は水平の面としても、画面全体の垂直性とバランスをとっている。装飾の細密さによってまず、空間の奥深さのイリュージョンが強められる。表面を細かい装飾が覆っているそのことによって、折り畳まれた襞の間に隠された、表面積の大きさが暗示される。そして輪郭づけられた細部一つ一つに光が反射することによって、画面全体の光と影、大気の描写の統一が得られる。もちろんそのためには、19世紀のサロン絵画における細密描写におけるように、細部が空気のない、強い光の下にさらけ出されてはならず、画面全体がまず、統一されたトーンの下に調整されていなければならない。こうした光の用法は、明らかにレンブラントから学ばれたものである。ところで細部を輪郭づける線は、画面上部の光の明るい部分などにはっきり現われているように、細かく精緻ではあるが、細く弱々しいもので、光に浮き上がっているように見える。実際制作の順序としては、ざっとした事物の配置を決めて、明暗に従って賦彩を施した後、それを邪魔しないよう上から輪郭を描き込んだようだ。『オイディプスとスフィンクス』(図1→こちら:当該作品の頁)においては、同じく硬張ってはいたが、人体の大きなマッスを支えるため、堅い、強いものでなければならなかった線が、ここでは細かく小さなものを描くことで、さらに硬直した、生気のないものとなってしまったのだ。よりはっきりした仕上げを要求される人体も、殆んど線を使わず処理されて亡霊と化したヘロデを除けば、刑吏、特に左肩から腕にかけて、それにヘロデアの頭部は、線が強過ぎて硬張り、サロメも腕は太過ぎて木の棒のようになり、腰の位置は低過ぎ、爪先立った足の描写はいい加減で体重を支えられるとは到底信じられない。宝石をちりばめた豪華な衣服で何とかごまかしている、といったところであろう。しかしそうした線の弱さによって、細部は光と影の中で揺れ動くように見え、そこにある空間の感覚を作り出している。キャプランは言う、『サロメ』において光と影の強調と、線による輪郭づけという「二つの異なる技法が共存し、それが精緻な要素と不定形な要素との間に、振動の感覚を作り出している。実にこの振動が、人物たちの静止と争いつつ、絵の喚起的で、神秘的な力の視覚的基盤をなしている」(151)。線の弱さは、作品そのものの弱さを引き起こしながら、正にそのことによって絵に非現実的な性格を与える。この絵の中で線が堅固なのは、最上部の巨大なアーチとそこから下がる柱だけで、これが構図を支配し、画面に閉ざされた性格を与える。さらに線の弱さと細かさは、光の描写を仲介させることによって、色彩、というよりはマティエールに大きな比重を与える。画面全体に、特に上半分はかなりの厚塗りとなっている。これは先に述べた、シャセリオー以来の、線と色彩の融合の問題に対する一つの解決なのだ。それがシャセリオーにおける如く、モニュマンタルな形態の創造によってなされるのではなく、線と色彩が一旦全く別々のものとして分離され、その後重ね合わ(モンタージュ)されること(152)、その結果線も色彩も内から充実した形態を描き出すのではなく、画面の平面性に忠実な、前者は観念的で抽象的なものに、後者は絵具の物質性を強調したものになる点に、19世紀後半の絵画史的状況のサンプルをうかがい見ることができる。   モロー《ヘロデ王の前で踊るサロメ》1876(部分)
補図62 図62の細部

151. id., p.35.

152. Holten, ibid., p.132.
中山公男「ギュスターヴ・モロー」(『モローの 竪琴』、小沢書店、1980)、pp.16-18,etc.
 もとより細密な装飾が持つ第一の機能は、その豪奢さによって、画面に非現実的な性格を与えることにある。これがルナンの挙げるモローの二つの制作原理の第二、<必要な豊かさ la richesse nécessaire>である(153)。ルナンはモロー自身の文章を引用している(154)、     153. Renan, ibid.,1899, no.21, pp.202-204.

154. id., p.203.

  
 「巨匠たちに相談したまえ。彼らは私たちに、芸術を貧しくしないよう忠告してくれる。いつも彼らはその絵の中に、知る限りの最も豊かなもの、最も輝かしいもの、最も珍稀なもの、時に最も奇妙なものを持ち込んできた、彼らの周りで、貴重で素晴らしいとされる全てのものをだ。彼らの感情の中では、主題を溢れかえる装飾の処方の内に配することが、それを高貴なものにすることなのだ、彼らの敬意、彼らの敬虔さは、秣槽の下に遠方の貢物をもたらした、東方の三博士たちのそれに似ている。彼らの描いた聖母像を見よ、それは最も高い美に関する彼らの夢の化肉なのだ:何という装身具、何という王冠、何という宝玉、長衣の裾の何たる刺繍、何という玉座の彫刻! そして聖なる人物たちの脱ぎ捨てた衣裳の何という見事さ! 彼らを圧し潰すように重たげな縫取りはしかし、レンブラントの大司祭たちを写実的な似姿にすると言えるだろうか? ヴァン・エイクの聖処女たちの王族の奢侈は、これらの高貴な人物たちの終油の秘蹟か瞑想を妨げると言われるだろうか? 逆に、豪華な調度も装飾品さえも、過去の巨匠たちの作品の内に組み込まれて、数えようもない価を繰り拡げ、主題の抽象的な方向を強めるのだ、そしてこれら素朴な天才たちは、その構図の内に未知の、ありそうもないが魅惑的な動物たち、摘みとられた花々、知られざる果実の輪飾り、高貴で優雅な動物たちを投げ入れる。フランドルの者であろうとウンブリアの者であろうと、ヴェネツィアの者であれケルンの者であれ、巨匠たちは現実を越えた宇宙を創造しようと努める。彼らは突飛で驚くべき、空、雲、地所、建築に眺望を想像するところまで行った。カルパッチオやメムリンクは、聖ウルスラを歩き回らせるのに、何という街を打ち建てたことだろう。クロード・ロランはその小さなクレオパトラのために、何というタルサを築いたことか! ロンバルディアの画家たちはサファイアの中に、何という谷を切り開いたことだろう! 結局至る所美術館の壁の上には、大理石と黄金に彫り刻まれたような人工の世界、<必然的>に架空の空間に開かれた、何という窓があることか」。
   
ii. シャセリオー、サロメ

 モローの作品とドラクロワの作品の間には、自身ドラクロワの作品に影響されたと思われる、シャセリオーの『モロッコの踊り子たち』(図64)が介在しているであろう。モローはここから、背景のアーチに構図を支配させることや、画面を暗い調子の内に統一し、その中で色彩を輝かせることについての示唆を得たと思われる。ドラクロワ、シャセリオーからモローへと至る道のりで、人物が一人一人、徐々に独立してゆくのを認めることができる。ドラクロワからシャセリオーに進むと、人物が大きくなり、モローではまた小さくなるが、これはこれらの画家たちの他の作品にも認められる傾向である。シャセリオーの人体は、ドラクロワに比してかなり単純化され、量塊感の強いものだが、モローになると薄っぺらで観念的なものになってしまう。シャセリオーからは他にも、パリのサン・メ
リ教会の『エジプトのマリアの回心』(図65)から、画面の中央に偶像を配し、その左右に円柱を並べる構成を学んだと思われる。
 
  シャセリオー《ムーア人の踊り子たち》1849
図64  シャセリオー《モロッコの踊り子たち》 1849S.140

シャセリオー《エジプトの聖マリアの回心》《エジプトの聖マリアの埋葬》1843
図65  シャセリオー《;エジプトのマリアの回心》 1843、S.94A
 サロメと洗礼者ヨハネの物語は、造形美術においては、西暦1000年以降中世及びルネサンスにおいて、やや風俗画的な扱いで繰り返し取り上げられた後、再び関心を持って扱われるようになるのは、19世紀においてである(155)。19世紀におけるサロメの物語への関心は、造形美術に限られるものではなく、文学の分野にも現われており、その方面では1847年に仏訳されたハイネの『アッタ・トロル』がその先頭を切り、以後マラルメ、テオドール・バンヴィル、フローベール、ラフォルグ、ワイルドなど豊かな成果を生む(156)。これらの内、ハイネの『アッタ・トロル』については、つとにルナンが『庭園のサロメ』(図119→こちら:当該作品の頁)と比較しており(157)、さらに『出現』(図101→こちら:当該作品の頁)への影響も指摘されている(158)。マラルメの『エロディアード』は1864年に着手されたが生前は未完に終わったもので、『場面』の部分のみ69年に公けにされたものだが(159)、生前公けにはならなかった『聖ヨハネの雅歌』がモローの『出現』に影響されたとかされていないとか(160)、逆にマラルメの詩が何らかの形でモローに伝わって、『出現』の構想に影響を与えたとかの議論がある(161)。フローベールの『三つの物語』の内の『ヘロデア』は1876年の秋に執筆にとりかかっており、モローの作品は同じ年の春に開かれたサロンに出品されているので、フローベール自身は述べていないが、モローの作品に示唆を受けているのではないか、と見る向きもある(162)。他方フローベールの『サランボー』がモローのサロメ像に影響していることは、ユイスマンスの言及(163)以来認められている。このユイスマンスの『さかしま』の中のモローの作品の記述を通して、モローのサロメはワイルドはじめ、世紀末の芸術に大きな影響を与えることになる。    155. H.G.Zagona, The legend of Salome and the principle of Art for Art's sake, Genève, 1960, pp.21-23. 高階秀爾「『サロメ』 - イコノロ ジー的試論」(『西欧芸術の精神』、青土社、1979)、pp.281-288.

156. Zagona, ibid., chapitre 2
以下。

157. Renan, ibid., 1886.5.1, p.391.

158. Mathieu, ibid., 1976, p.124.

159. Zagona, ibid., pp.43-44.

160. id., p,94-96.

161.
高階秀爾「切られた首 - 世紀末的想像力の一側面」(ibid.), pp.319-320.

162. 高階秀爾「サロメ」(ibid.), pp.289-290. 他に Kaplan, ibid., 1974, p. 57 70.

163. Huysmans, ibid., p.118.
 造形美術の分野では、ドラクロワの1847年に完成したブルボン宮の図書室の装飾中に『ヨハネの斬首』(図113→こちら:件の作品の頁)があるのをはじめとして、1870年のサロンにピュヴィス・ド・シャヴァンヌの『ヨハネ斬首』(図66)、アンリ・ルニョーの『サロメ』が、72年のサロンにアンリ=レオポル・レヴィの『ヘロデア』が出品されている。ドラクロワの作品は、首切り役人からヨハネの首を盆に受け取るサロメを描いており、おそらくモローの『庭園のサロメ』等に影響を与えている。ピュヴィスの作品は、処刑の瞬間を描いたもので、おそらく同じ場面を扱ったレンブラントの銅版画から出発したと思われるが、中央に真正面を向いたヨハネを、その左右に刑吏とサロメを描いた奇妙な構図で、発表当時「中国風ビザンティン風」などと非難された(164)。ピュヴィスは以前にも同じ主題を扱っており(図67)、前景に大きくサロメ、左の奥に斬首の場面を描いた、極端な距離の飛躍を示す初期にしばしば用いられる空間構成を示しているが、高く腕を挙げたサロメのポーズが、モローのそれと類似している。1856年に制作されたこの構図のレプリカがずっとピュヴィスのもとに留まっており(165)、二人はピュヴィスが、モローの邪気の感じられないカリカチュア像を描くほどのつき合いがあったので(166)、モローにはこの絵を見る機会があったと思われる。ルニョーの『サロメ』は異国風の衣裳をつけた黒髪の娘が、剣と盆を膝に載せて坐っているところを描いた肖像画的なもので、白黒の図版でみると、写真と見間違うようなサロン絵画で、モローに特に影響を与えたとは思えない。ザゴーナはこの絵を、「主題をサディスティックな放縦において解釈した最初のもの」(167)と見ているが、これは疑問なしとしない。レヴィの作品はどういうものかわからないが、ヘロデアにヨハネの首を差し出すサロメを描いており、他の人物が立ち騒いでいる中、サロメのみ落ち着いているという。彼はこの作品で成功を博し、レジオン・ドヌール勲章を獲得した(168)。
 
  ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《洗礼者ヨハネの斬首》1869
図66  ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《洗礼者ヨハネの斬首》 1869

164. Puvis de Chavannnes 1824-1898, Paris, Otawa, 1976-1977, p.102.

ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《洗礼者ヨハネを斬首させるサロメ》1856
図67  ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《洗礼者ヨハネを斬首させるサロメ》 1856

165. id., p.46.

166. id., pp.248-249.

167. Zagona, ibid., p.91.

168. id., p.93
16. 
iii. レンブラント他、地中世界

 『ヘロデ王の前で踊るサロメ』において、非常に重要な役割りを果たしている光と影の描写がレンブラントに負うことは既に触れた。そこでレンブラントの作品を見廻してみると、モローの構図によく似たものとして、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある『キリストと姦淫の女』(→こちら:当該作品の頁)が見出される。ここでも縦長の構図の下半分に人物を集め、上半部は深い闇の中から微細な彫刻を施された建築物が、光に明滅するように浮かび上がっている。レンブラントの構図は対角線方向に奥行きを強調しており、その闇はモローのそれより遥かに濃く、深いが。ただしモローがこの作品を見る機会があったかどうかは、不明である。キャプランはモローの構図上の出典として、レンブラントの銅版画『金貸しを寺院から追い払うキリスト』(図68)を挙げている。「そこでは小さな人物たちが、巨大な建築の舞台の中に置かれている。モローはこの版画の写真を所有しており、アーチに枠取られた吊りランプは、モローの絵の中の枠取られたランプと彫像に似ている」(169)。一方マテューは、「建築のシンメトリーは、モローがローマで模写したラファエ
ロの『神殿から追放されるヘリオドロス』のそれを思い出させる」(170)と述べている。実際そこでは、画面中央に、鋼でできたかのような円筒形アーチが、幾つも重なって後退しており、それを太い柱が支えている。他にシャセリオーの二つの作品が、モローに影響を与えているであろうことも、既に述べた。 
 

レンブラント《金貸しを寺院から追い払うキリスト》1635
図68  レンブラント《金貸しを寺院から追い払うキリスト》

169. Kaplan, ibid., 1982, p.57.

170. Mathieu, ibid., 1976, p.124.
 巨大なアーチが幾重にも重なって、舞台の巨大さ、奥深さを暗示していること、それがレンブラント風の闇に浸されていること、これらが画面に神秘的な、非現実的な様相を与えている。こうした点で右に述べた作品以外に、モローに強い影響を与えたであろうものとして挙げたいのは、ピラネージの『牢獄』である(図69)。フランスのロマン派において、ピラネージの『牢獄』は、ド・クインシーの『阿片吸引者の告白』の中のコールリッジの陳述を通して、よく知られていた(171)。光と影、巨大なアーチや柱、階段が錯綜するピラネージの迷宮が、『サロメ』の巨大な、神秘的な神殿に反映されている、と考えることはこじつけではないであろう。ただ『牢獄』の中の特定の一枚が、モローに直接模されている、ということはないようだ。そもそもピラネージの建築は全て、画面に対して斜めに配されており、そのことによって画面の外へも無限に拡がっているかのような印象を生み出している。またモローのアーチは、先がやや尖ったペルシャ風のものだが、その他エフェソスのディアーナだのミトラス教の偶像だの、さまざまな時代や地域の要素を折衷している。モローはその手記の中で、プッサンの画面に現われた設定のアナクロニスムを援用して、考古学的再構成を要求する「常識の調和」に対して、「最も対立する、離れた諸文明を一緒に混ぜ合わせる」「想像力の調和」を擁護している(172)。こうした点を捉えてマテューは、「彼の装飾過多や、借用における折衷主義への傾向は、彼が、パリのオペラ座の建築家、シャルル・ガルニエと全く同時代人であることを思い出させる」(173)と述べている。ガルニエやオペラ座については何も言えないが、『サロメ』に見られる、折衷が幻視性にまで至る建築描写についてはむしろ、バヴァリア王ルートヴィッヒⅡ世が造営させた幾つかの城や、そのいとこであるフェルディナンドⅡ世が作らせたポルトガルのシントラ・ペナの城、郵便夫シュヴァルの『夢の宮殿(パレ・イデアル)』を思い出すべきであろう。アントニオ・ガウディの建築をこれに加えてもよい。特にフェルディナンド・シュヴァルの『夢の宮殿』は、中世ヒンドゥー教の寺院建築やモンス・デシデリオの建築画とともに、<裏返しのグロッタ>とでも称すべく、バシュラール的意味での大地的、むしろ地中世界的な想像力を示しており、その点でモローの作品世界と一致している(補註)。そこでは土のマティエールから出発して、常にそこに留まりながら、よく整理され、無駄を省いた理想的な形態に達することなく、あくまで土という元素の稠密なマティエールをその表面で、混沌(カオス)の過剰さに分割させるのだ。『サロメ』でも、レンブラントに学んだ褐色のトーンと全体の仄暗さ、表面の整理されない過剰さ、内側に潜り込むような宝石の輝き、そして画面の閉ざされた性格、マティエールと描かれる細部の稠密さなどが、巨大な洞窟の中にでもいるような印象を与える。このような<地中世界>的な性格が、室内画のみならず、風景描写にも見出されることは後に述べよう。
 
  ピラネージ《牢獄》 第2版15図 1761
図69  ピラネージ《牢獄ⅩⅤ》


171. ジョルジュ・プーレ「ピラネージとフランス・ロマン派の詩人たち」(『三 つのロマン的神話学試論』金子博訳、審美社、1975)、さらに、ヨルゲン・ アンデルセン「巨大な夢 - 英国におけるピラネージの影響」井手弘之訳、 『ユリイカ』、1983.3. 

172. Kaplan, ibid., 1982, p.64.

173. Mathieu, ibid., 1976, p.253.


補註 〈地中世界〉的、〈地底世界〉的という形容について→こちらで触れました:「怪奇城の地下」の頁
2.サロメの物語
i. 以前、騎士


 踊るサロメのポーズは、はじめからドラクロワの踊り子を模したものに決っていたわけではない。図70 は、正面から見た踊り子のポーズを示している。彼女は右肩を僅かに引き、首を左に傾け、目を閉じている。両腕は肩の高さで交差させ、左手に蓮の花を持っている。頭部は丁寧に明暗を施し、右腰から右脚にかけては輪郭だけの、モデルを前にした素描である。右側には殆んど同じポーズの、小さい素描がある。こちらは影をきつくつけ、両肘が下がっている。このポーズが単なる試験的な一段階に留まらなかったことは、同じポーズのサロメを描いた、かなり大きな未完の油彩が示している(図71)。ここではサロメは目を開き、絵を見る者の方を見ている。写真が悪いのでよくわからないが、サロメの右側の狭いスペースにヘロデやヘロデアを押し込めてあるようで、特にヘロデアは冷たい顔立ちで描かれ、口元を隠して目を見開いている。
 このポーズから展開したと思われる別の素描は(図72)、肘を折った右手を首もとにやり、左腕を挙げたサロメを描いており、最終的なポーズが決定した後で、事によったらサロン出品作が完成した後に描かれたものかもしれない。仕上げの精巧さもそのことを示唆しているようだ。この素描では細密な装飾が、色彩に席を譲る必要がないために、平面として完結した精緻なでき上がりを示している。殆んどおなじ構図に色彩をつけた、と言うより、つけようとした水彩があるが(図73)、白い部分が多く残り、またそれに準じる薄い塗りのみが施されている部分がかなり大きいのは、画家が、これ以上色を干渉させると、線のアラベスクが描き出した構図を駄目にしてしまうことを意識したからである、と推測できよう。それでも既に形態はやや弛緩し、全体に縦に引き伸ばされている。同じような例は、1860年の『オイディプスとスフィンクス』のための素描と、同じ構図の水彩画にも観察されたが(図23、24)、ここでもモローにおける線の領域と色彩の領域の分裂、それぞれの自立性を読みとることができる。

 
  モロー《踊るサロメのための習作》
図70  《踊るサロメ》 MGMd.3315

モロー《サロメ》1872頃
図71  《サロメ》 MGM.79

モロー《踊るサロメ》
図72  《踊るサロメ》 MGMd.1644

モロー《サロメ》
図73  《サロメ》 MGMinv.13963
 右に見た作例が、踊り子のポーズが決定する前のものなのか、それとも後のヴァリエイションなのか、必ずしも結論は出せない。図74 はほぼ完成作に近い、プロフィールで捉えた、やはりモデルによる裸体習作である。右上にはモデルの名前と住所が書き込んである。最終的なポーズとの違いは、未だ踵をつけていることである。図75 では踵が上げられる。とたんにポーズ全体に抑揚がつく。首をより前に伏せ、腕を少し上げる。肩を引き、腰に力が入る。右足はそのまま、左足を少し後ろに引く。身体全体に緊張感があり、それは彼女が裸体であるからだと思われる。こうしてポーズが定まった後は、<服を着せていく>ことが問題となり、<踵を上げる>ということは、単なる観念と化してしまうだろう。即ち以後のポーズ研究は、完成作に至るまで、体重を支えるためにどうしても必要であった、右足と左足の間隔が狭まってしまい、彼女が立っていられることを、納得させることが不可能になってしまう。例外をなしているのは図76 だが、ここでは足の間隔を拡げるとともに再び踵がつけられ、それとともにからだ全体が弛緩し、柔らかな曲線のアラベスクを辿ることが主眼となる。からだ全体にまといつく薄衣も、そのことを補助する。全身の弛緩は爪先にまで及び、足の指が、ホルテンは言う、「獣の脚」のように長くなる(174)。マテューは同じような比例がアングル(『アンジェリカ』)や、ドラクロワ(『メディア』)にも見られることを指摘するが(175)、であるならば、モローが異常でないことになるのか、それとも彼らが皆異常なのか、結論を出すためには、古今東西のあらゆる女の足の指の表現を調べなければならない。なおこの素描が、踵の上下が定まる前に描かれたのか後のものなのか、例によって決定することはできないが、素描のよく仕上げられた性格からみて、完成作のための習作というよりは、独立した作品として、サロン出品作のための作業とは、平行した位置を占めると見なすことができるだろう。    モロー《ヘロデの前で踊るサロメのためのモデルによる習作》
図74  《踊るサロメ》 MGMd.2298

モロー《サロメのための裸婦習作》
図75  《踊るサロメ》 MGMd.2276

モロー《サロメ》
図76  《サロメ》 MGMd.4831

174. Holten, ibid., 1961, p.46.

175. Mathieu, ibid., 1976, p.269
575.
 腕の高さも、はじめから決っていたものではなく、ある素描では、腰の位置に下げている。彼女はやや背中の方からみられ、左足は踵をつけ、右足を大きく引いている。キャプランはこのポーズを、ヴァティカンのラファエロの廊下にある、『アブラハムと三人の天使』の内の右端の天使から由来したものと指摘し、制作の初期に属するものとみている。同じポーズは『庭園のサロメ』(図119→こちら:件の作品の頁)にも現われる(176)。図77 は踵を上げ、両足の間隔の縮まった後のものだが、腕の角度を試すかのように、高低二度描いている。この素描ではモデルは用いられていないようだ。    176. Kaplan, ibid., 1982, p.57, 及び図35.

モロー《ヘロデの前で踊るサロメのための習作》
図77  《踊るサロメ》 MGMd.2349
 次は飾りつけである。図78 はサロメを腰まで鉛筆で描き、その上にインクで、冠、腰飾り、腕輪(これは鉛筆)などをつけ加えている。右下には彼女が持つ蓮が描かれている。書き込みには、「インドの僧冠」だの、「インドや日本のアルバム」だのと、装飾の出所が記してある。他にも「ササン朝の柱頭」云々(177)だの、「魔術の輪、ソロモンの楯、魔術の鏡」(178)だのと書き込まれた素描があり、モローが時と場所を問わず、様々な装飾的あるいは象徴的モティーフを集めたことを示している。詳しくはキャプランの研究を見られたい(179)。このようにして飾りつけのできた状態を示しているのが、図79 である。ここでは堅く強い線と、ところどころつけられた強い影が、薄浮彫りのような効果を示している。モローの手記に言う(180)、
 「このように私のサロメにおいて私は、性格ある、巫女にして信仰ある魔術師 の姿を表わしたいのだ。そこで私は、聖遺物匣のような衣裳を思いついた」。
衣裳の定まったサロメの姿は、油彩にも移される(図80)。先の素描や完成作ほど、宝石のような細かいところまで描き込まれてはいないが、それでも衣裳のかなり細かい点まで仕上げられている。しかしそうした細かさを示すにもかかわらず、筆致はかなり素早く、荒々しい。完成作ほど腕や腰の肉付けは強調されておらず、より自然である。色をつけた上から、ところどころ線で補助されている。左端の濃褐色の枠と、床の赤と黄の帯が、垂直と水平の枠組みをなしている。背景は茶色で平坦に塗り潰してあるが、地塗りではなく、人物を描いた後で塗ってあるものらしい、図版だけでははっきりしたことは言えないが。同じような処理はダヴィッドなどにも見られ、アカデミックな習作の通例だと思われるが、積極的に平面性を打ち出したものと解する向きもある(181)。

 
  モロー《サロメのための諸習作の一葉》
図78  《サロメ》 MGMd.1587

モロー《ヘロデの前で踊るサロメ》
図79  《踊るサロメ》 MGMd.2278

177. MGMd.2271.

178. MGMd.2327.

179. Kaplan, ibid., 1982, pp.59-66.

180. id.,1974, p.144.


モロー《サロメのための習作》
図80  《踊るサロメ》 MGM.611

181. J.Clay, Romanticism, New York, 1981, pp.121-122. 
 習作を残しているのは、サロメやそのアクセサリーだけではない。登場する人物たちそれぞれ、ヘロデ、ヘロデア、刑吏、それに建築のための習作なども、モローは制作した。ここではその内から、サロメとヘロデの頭部を描いた素描のみ、取り上げよう。サロメの頭部習作(図81)とルドンの『光の横顔』(図82)との類似については、既に触れた(→こちら:[2]、「Ⅰ-3-i. 以前」」)。大きな僧帽のようなものをかぶったサロメのプロフィールが、顔の部分は丁寧に、被り物はざっと、しかしよく膨らみを示して、描かれている。首を微かに仰向きかげんに、目を薄く開き、鷲鼻で、口をすぼめるように閉じている。目の下に深い影がつけられ、強い憔悴の表情を示している。耳の後ろから顔の前まで続く、鉛筆を上下に素早く動かしてつけた暗い陰が、それを強調し、プロフィールであることによって、救いようのない悲劇的なものにまで高められる。    モロー《サロメの頭部習作》
図81  《サロメの頭部》  MGMd.137


ルドン《光の横顔》1886
図82  ルドン《光の横顔》 1886

 いったいにモローの描く人物には、プロフィールで捉えられたものが多い。顔が正面を向いている場合、あるいは斜め、さらには背中を向けている場合でさえ、絵を見る者は何らかの意味で、描かれた人物の視線に乗って、その感情と自らの感情を交わらせることができる。これに対してプロフィールは閉ざされた、自分だけで完結した性格が強い。平面として自足すること、その視線と見る者の視線が直角に交わることが、その理由であると考えられる。ここからさらに、絵の中の人物に、絵を見る者には窺うことのできない世界への視線、憧憬の表情を持たせることもできよう。これは『勝利のスフィンクス』(図53→こちら:当該作品の頁)にも見られた事情であり、ルドンの作品にもしばしば現われる。このようなプロフィールの持つ閉ざされた性格が、モローの作品世界とよく合致するのは見易い道理であり、強い感情の交流を絵を見る者にも参与させることができるはずの、視線と視線がぶつかり合う場面においても、少なくとも仕上げられた完成作では、厳密なプロフィールが守られていることは、既に見た。
 このサロメの素描が示す深刻な表情は、右に述べた憧憬のまなざし-やや上向きの顔の角度によって示される-が、伏せた、しかし完全には閉じられていない目と深い隈によってせき止められていることに由来する。完全に閉ざされた目が、やはり別の世界へ向けられていることについては、後に触れよう。このサロメに見える人間的な表情については、モローが彼女について書いている文章が参考になる(182)。
 
  182. Kaplan ibid., 1974, p.142, Ⅲ, 49.
 
 「この女は永遠の女を表わしている、軽やかな鳥であり、しばしば災いをもたらしつつ人生を渡り、手に花を持って、そのぼんやりした理想を追い求めている。しばしば恐ろしく、常にあらゆるものを、天才たちや聖者たちでさえ足の下に踏みしだきながら、この踊りは行なわれる、この神秘の散歩は死の前で成される、死は絶えず、口を開けて注意深く、彼女を見つめている、そして破砕の剣を持つ刑吏の前で。それは、名無き理想、官能、危険な好奇心を追う者に取って置かれる、恐るべき未来の印なのである」。
ここには、あらゆる者に災いをもたらし、しかもそれを顧みない<宿命の女>の姿が描かれているとともに、それがどういうものであれ、理想を追い求める<詩人>のイメージが、はっきり言い表わされている。また、アポリネールが物語った、元は古い伝承に由来する、サロメの死-踊りながら足を滑らせ、氷に首を断ち切られた-についての暗示も見られる。理想を求める者を待つ運命、詩人の受難である。また先に引いた、サロメを「巫女にして女魔術師」と記したモローのノートも思い出そう。詩人とは、ロマン主義者の見解では、目に見えない世界とこの世界との仲介者であり、僧侶、預言者なのである。事実シビュラの姿も、見者のヴァリエイションの一つとして、文芸の中に登場する(183)。『ヘロデ王の前で踊るサロメ』、そして『出現』のサロメは、正に聖なるものを呼び降ろさんとする巫女であった。 
   
 ヘロデの上半身を描いた素描は(図83)、サロメの頭部の素描と対をなすもので、やはり深い憔悴の相を示している。サロメの素描は鉛筆によるものだが、こちらはペンで描かれており、より直線的で、鋭角的な陰をつけている。彼は正面から捉えられているが、顔をやや伏せ、視線も下げられている。真正面にいながら、目を閉ざすのは、ぷいと顔を横向けるのと同じような意味がある。ヘロデのための別の素描に、モローは次のように書き込んでいる(184)-「…東方のミイラ/やせ衰え、眠っているような/僧侶の外観/厳か(イエラティック)な偶像…」。彼は油彩では、ほぼ左右相称の画面中央に、正面性を示して坐っている。プッサンの『ソロモンの裁き』のようなものを、参照したのではないかと思われるこの位置は、古い宗教画のそれである。彼は、『ユピテルとセメレー』(図268→こちら:件の作品の頁)において復活する、今は流謫の神々の末裔なのである。彼は目を伏せている、彼は踊りを見てはいない、ましてやユイスマンスの言うように、サロメの踊りに、老いたる官能を震わせてなどいない(185)。彼は踊りには関心がない、少なくとも踊りそのものには関心がない。彼は待っているのだ。彼が関心があるのは、踊りの結果、踊りの末に立ち現われるものである。この拡大解釈を延長させるならば、『出現』(図101→こちら:当該作品の頁)において、彼は今、待っていたものを目にしている。彼は、ヨハネの首の出現を、サロメとともに首を上げ、見ている。
 
  183. Riffattere, ibid., p.107-120.

モロー《ヘロデの前で踊るサロメにおけるヘロデの習作》(部分)
図83  《ヘロデ》(部分)  MGMd.2350

184. MGMd.2275.

185. Huysmans, ibid., p.115.
 
  
 部分習作に続いて、あるいは平行して、画面全体の習作が進行する。図84 はサロメ、ヘロデの玉座、刑吏、黒豹の首までを建築の枠組みの内に配しているが、画面の高さは玉座の上アーチ一段までしかなく、三体の偶像も見えない。左右の幅も狭く、刑吏と豹の間隔も近い。サロメは裸体で、からだをくねらせたようにしている。右足は大きく退いているようだ。次(図85)もほぼ同じ枠組みで、より細かく描き込んでいる。サロメは装身具をつけ、建築にも装飾が施される。前の素描には見えなかった、ヘロデアと楽師が現われている。構図のこの段階では、左側にある、球の上にとまる鳥を載せた、おなじみの柱がかなり大きな位置を占めている。最終段階では、柱は左右二本配され、さらにアーチを支える巨大な柱の陰にまぎれて、目立たなくなってしまう(186)。この素描は装飾的なまとまりがよく、完成作のように、画面上半と下半の接合に支障をきたしてもいない。上から方眼がかぶせられて、拡大する予定であったことを示している。事実構図の同じ賦彩作も幾つかあって、モローは当初この構図で仕上げまでもっていく予定であった、と察せられる。このような拡張をモローはしばしば行なっており、そのために未完に終わった大画面も、モロー美術館には少なくない。拡張された部分-しばしば縦方向に足される-には、豊かな装飾が描き込まれ、画面をより威圧的な、意味あり気なものにしようとする。    モロー《ヘロデの前で踊るサロメ》
図84  《踊るサロメ》  MGMd.1702


モロー《踊るサロメ》
図85  《踊るサロメ》  MGMd.625



186. Kaplan, ibid., 1974, p.34.
 図86 は上部が拡大される以前の構図を示す、水彩とグアッシュによる小画面である。先の素描では、アーチの先が尖っていたが、ここではまだ半円形である。画面はかなり明るく、白、青、赤、黄などの色がはっきり出ている。構図も小さいが、よくまとまっている。図87 はかなり大きな油彩で、玉座の上の壁龕が高くなり、全体に空間は広くなっているが、基本的にはこれまでの延長線上にある。サロメは裸身で、図75 の素描のポーズをそのまま移した、緊張感のあるポーズである。細部はもやがかかったようにぼんやりしているが、壁龕の陰のつけ方などははっきりしており、あまり空気を感じさせず、塗りも厚くない、堅固な画面をなしている。右上の金色の光が、サロメの緊張した裸体を白熱させているかのように見える。左の柱の赤と青は、右上の白と金色とバランスをとるためのものと思われるが、やや唐突の感がある。この画布が単なる色調と光を考えるための習作なのか、完成作として仕上げられるはずだったのか、途中で放置された未完作なのか、決定することはできないが、いずれにせよ、これ以上肉付けや細部描写を加えたなら、平面としての緊密さが壊されてしまうであろうことを、モローは意識したのではないかと思われる。図88 はかなり粗放な油彩で、サロメは亡霊のような、白の絵具の塊まりである。空間はかなり広いが、半円型アーチで、右前景にいるのは、黒豹ではなく、二人の人物らしい。右の方の肩を丸めた人物は、シャセリオーの『アンドロメダ』(→こちら:当該作品の頁)の前景の女、あるいはパリのサン・フィリップ・デュ・ルール教会の『十字架降下』(→こちら:件の作品の頁)のマグダレーヌを思わせる。このような点からみて、この油彩は、今まで観察してきた構図から拡張された構図への、移行点にあるのではなく、ずっと以前の段階に属するのかもしれない。    モロー《サロメ》
図86  《サロメ》  MGM.541

モロー《ヘロデ王の前で踊るサロメ》1876頃?
図87  《踊るサロメ》  MGM.83 

モロー《サロメ》
図88  《踊るサロメ》 MGM.134
 図89 は完成作とほぼ同じ構図を示している。かなりスピードのあるペンの動きで、ざっと全体の明暗の調子を割り当てる。未だ左側の暗さと右側の明るさの対照がかなり強い。図90 も同じ明暗の調子を研究しているものだが、筆致は対照的に、非常に緻密である。建築の枠組みを示す線以外は、全く線を用いず、点描とぼかしだけで処理されている。ペンと石墨という技法のそれぞれの特質を活かした区別だが、ある意味では区別され過ぎているのではないか、と考えることもできる。即ちそれぞれの技法が、自らの領域だけで完結してしまって、相互間の構想の移行がなされていないのである。これは造形芸術の造形性、ということが強調される、19世紀及び20世紀の絵画史的状況の反映である。20世紀美術における技法の混合は、こういった事態に対する、観念的な反動である、と解することができよう。
 この素描は明暗の調子だけにその目的を集中して、細部が描き込まれていないので、完成作よりも、画面としてのまとまりが良い。この素描と平行する位置を占める油彩が、図91 である。やはり構図は完成作とほぼ同じだが、絵具をかなり厚く塗り込めた、荒々しい筆致を示している。

 
  モロー《ヘロデ王の前で踊るサロメ》
図89  《踊るサロメ》  MGMd.1733

モロー《ヘロデ王の前で踊るサロメ》
図90  《踊るサロメ》  MGMd.2407

モロー《踊るサロメ》
図91  《踊るサロメ》 MGM.751
 サロメの踊りを描いたと思われるもので、完成作とは別の構図を示すものが、先に述べたサロメを正面向きにポーズさせたもの以外に、一点見出される(図92)。この油彩は通例『出現』と呼ばれているが、フロンジアは、踊り終えた『出現』(図101→こちら:当該作品の頁)とは異なり、このサロメはまだ踊りの最中で、右に見えるのはヨハネの首ではなくヘロデであるとして、この絵はサロメの踊りを描いたものと見なすべきだと述べている(187)。確かにサロメは、『出現』では目を見開いて怯えていなければならないものが、ここでは目を伏せており、右側には頭部の下にからだらしきものが見えるので、これはヘロデであろう。ただヘロデを片側に寄せる配置は『出現』と一致し、ヘロデの身をのり出したような姿勢も同じである。この、ヘロデが首を出している点、それに対してサロメが誘惑するように身をくねらせている点などを考え合わせると、この作品は、サロメが儀式を行なうように歩み出す、という解釈に達する以前で、まだ『出現』の構想も生まれていない、文字通りサロメの踊りを描いた、かなり早い時期の作品かも知れない。
 そうした問題は別にしても、ここで重要なのは、闇の中から流れ出して、あるいはサロメに、あるいは柱に、あるいはヘロデに変じる、金と赤の、内から輝き渡るマティエールである。このマティエールと輝きは、外に溢れ出すというよりは、内側に凝集していくような、目のつまった稠密な肌合いを示し、やや冷たいものだが、レンブラント最晩年の作品、『家族の肖像』や『ユダヤの花嫁』に現われる、闇の奥から輝き出す、宝石のような色彩を思い出させる。モローにそうした作品を見る機会があったかどうかは定かではないが、もしあったとすれば、詳細はわからないのだが、モローは晩年、おそらく1885年頃ベルギー・オランダ方面への旅行を行なっているので(188)、その際そうした機会を与えられたかも知れない。先に引いた<必要な豊かさ>に関するノートについても、マテューはそこに、この旅行の反映を見ている(189)。
 
  モロー《出現》
図92  《出現》 MGM.661

187. Frongia, ibid., p.151 11.

188. Mathieu, ibid., 1976, p.171, 277
599.

189. id., p.178.
 件の『サロメ』の年代はわからない。先に述べたことが正しければ、76年よりかなり前になって、もとよりオランダ旅行の遥か以前である。しかし、晩年になって開花するマティエールの輝きは、未だモノクロームに近いものではあるが、かなり早い時期からその萌芽を見せている。『オイディプスとスフィンクス』の背景の空にもそれが認められたが、さらに遡って、初期に属する『スコットランドの騎士』(図93)に同じく輝くマティエールが見られる。この絵は画面の上四分の三近くを空が占め、地面は褐色で、あまり厚くない塗りを水平にざっと走らせ、その上に濃褐色をところどころ、場所によっては厚く、配している。地面の中央やや左寄りに、素早い筆致でざっと描かれた馬と騎士が左方に走る。そして空を、白に近い明るい灰色で、非常に自由な手の動きを見せて、厚く塗り上げている。画面右側はやや暗い灰色が支配的で、これが画面の中央、馬の尻あたりから絵の上辺にかけて、左側の明るい色と激しくぶつかり合っており、スピード感を強めている。
 モローが子供の頃から、「情熱的に馬たちを愛した」ことはモローの母親が書き残しているが(190)、初期のモローは、ロマン派の伝統にならって、走る馬と騎手をしばしば取り上げている。マテューはそこにアルフレッド・ド・ドルーの影響を見ているが(191)、ド・ドルーの作品を見ていないので、意見は避けよう。カンディンスキーの『青騎士』を思わせる『スコットランドの騎士』については、マテューはドラクロワの『タム・オシャンター』の影響を指摘している(192)。
 『スコットランドの騎士』には、全く同じ構図で、大画面にしたものがある(図94)。小画面では必然性を持っていた、素早い手の動きが描き出したものが、何の反省もなく、大きくなった画面をただ埋めるために、移されている。多くの方眼を敷いた素描が示すように、後にマティスは非難することになる、小さな画面から大画面への敷移しという習慣を、モローも疑わず行なっていた。『騎士』の例は、初期において既に、モローが、手の自律的な動きがより主導権を握る小画面において、より傑れた成果を生み出すことのできる画家であることを示している。そして小画面と大画面の落差が、習作と仕上げられた作品、手と観念の分裂の例の一つであることは、言うまでもないだろう。
 
  モロー《騎士》
図93  《騎士》 MGM.138

190. Mathieu, "Documents inédits sur la jeunesse de Gustave Moreau(1826 -1857)", Bulletin de la Société de l'Histoire de l'Art français, 1971, p.260.

191. Mathieu, ibid., 1976, p.37-38.

192. id., p.39.
 

モロー《(スコットランドの)騎士》1852-54頃
図94  《騎士》 MGM.209 
  
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