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プチ・ポン変幻 - マルケ、メリヨン、マティス、他



 元の勤め先の三重県立美術館で『アルベール・マルケ展』が開かれました(2026年8月8日-9月13日)。ある程度まとまった形で見ることのできたマルケの仕事というのは、風景画が主軸で、展覧会の副題に『水辺を愛した画家』とあるように、しばしば川や入江など水のひろがりが画面で小さくはない面積を占めます。眺めはやや高い視点から俯瞰されることが多く、それに伴って地平線が高めに配されたひろがりを、川岸や道路などの斜線や、向こう岸の水平線が大きく区切り、かつ支える。そうしたひろがりを彩るのは、グレーなど中間色の比重が大きい。そして随所に、簡略なタッチで点景人物たちが配されます。こうした特徴は、図録のあちこちでも記されていました(たとえばソフィ・クレップスによる巻頭論文「アルベール・マルケ 比類のない画家」(『アルベール・マルケ展』図録、ひろしま美術館、久留米市美術館、三重県立美術館、SOMPO美術館、2026)から、p.15 など)。
 ティツィアーノなど16世紀ヴェネツィア派あたりで確立された、濃褐色や黒に至る色調による空間は、地面と平行に視線が進む線遠近法の枠組みに呼応しつつ、重力の向きに応じて、画面下方、大地に文字どおり落ち着きました。それに対しマルケのグレーやベージュなど明るめの色彩は、俯瞰された景観と相まって、せりあがるような浮遊感をもたらしているかのようです。局所的なアクセントを除けば、あまり厚塗りにはならず、といって平滑なおつゆ描きばかりでもない。中間的な鈍い明るさは、明暗をあまり強く対比させない。大ぶりな色面を埋める、しばしば筆致を示した塗り方は、画面を浮きたたせ、微妙なふくらみをはらんでいます。国立美術学校(エコール・デ・ボザール)のモロー教室の同期生で、ともに1905年のサロン・ドートンヌでの「フォーヴ」騒動の一端を担い、生涯の友人でもあったというマティスの作品のように、湧きだすような色の鮮やかさを活かすべく画面が組織されるわけではなく、幅が広いともいいがたいにせよ、色彩にひろがりを宿らせる感触は、まったく共通点がないというわけでもなさそうでした。
 ところでマルケは何度となく、セーヌ河越しにパリのノートル=ダム大聖堂が入りこむ眺めを描いています。後陣を離れた位置からとらえた景色や(上掲図録、p.42 / cat.no.5、pp.44-45 / cat.nos.7-8)、ファサードを斜め右から見る画面が出品されていました。その内、図1で中景に見える橋はサン=ミシェル橋でしょうか。そこでの前景であるセーヌ左岸をもっとノートル=ダムに近づいた構図が、今回3点出品されていました(図2~4)。
 図2の解説によると、

「1908年1月初め、マルケは、サン=ミシェル河岸19番地の6階にアトリエを構えた。セーヌ河に面した窓からは、右には河を挟んでノートル=ダム大聖堂が望まれ、左にはサン=ミシェル橋の全体が眼下にみえる。このふたつのセーヌ河風景が、以後、繰り返し描かれることになる。
 マルケが入居する直前までこの部屋にはマティスが1895年から住んでいた。マティスもこの双方の光景を何度も描いており、特にノートル=ダムの連作はよく知られる(マティスは1913年にこのアパルトマンの別の部屋に戻り、再び同じ景色を描いた)。マルケは、マティスが描くこのふたつの風景を以前から知っていたに違いない」(速水 豊、上掲『アルベール・マルケ』展図録、p.68)

とのことです。

 アトリエからサン=ミシェル橋を見下ろした構図(上掲図録、pp.74-77 / cat.nos.24-26)については今回はおきましょう。マティスの作品には後で戻るとして、ここで気にとまったのは、ノートル=ダム大聖堂もさることながら、遠景のノートル=ダムと組みあわされた、セーヌ河を横切る中景の橋でした。ノートルダムがシルエット化したりぼやけたりして遠景に留まる一方、この橋は奥から流れてくるセーヌ河を一端せきとめることでかえって、手前へのひろがり加減を加速させています。
 この橋が気にとまったのはなぜかといえば、この橋 ー プチ・ポンを描いた作品を元の勤め先が所蔵していたからです。シャルル・メリヨンの《プチ・ポン》(1850)です(図9)。この版画は同時期の二階の常設でも展示されていました(「美術館のコレクションⅡ、第1室:コレクション・ハイライト/パリの街角、水辺と窓辺」、2026年6月30日ー9月6日)。
 マルケ《ノートル=ダム大聖堂、陽光》 1904
図1 アルベール・マルケ(1875-1947)
《ノートル=ダム大聖堂、陽光》
1904
油彩・カンヴァス
73 x 60cm
ポー美術館
Cf., 『アルベール・マルケ』展図録、pp.46-47 / cat.no.9



マルケ《ノートル=ダム大聖堂、あるいはサン=ミシェル橋の冬》 1908-09
図2 マルケ
《ノートル=ダム大聖堂、あるいはサン=ミシェル橋の冬》
1908-09
油彩・カンヴァス
50 x 60cm
個人蔵
Cf., 『アルベール・マルケ』展図録、pp.68-71 / cat.no.21
マルケ《サン=ミシェル河岸からノートル=ダム大聖堂を望む》
図3 マルケ
《サン=ミシェル河岸からノートル=ダム大聖堂を望む》
油彩・カンヴァス
55 x 46cm
なかた美術館
Cf., 『アルベール・マルケ』展図録、p.72 / cat.no.22
マルケ《パリのノートル=ダム大聖堂、積雪》 1916
図4 マルケ
《パリのノートル=ダム大聖堂、積雪》
1916
油彩・カンヴァス
81 x 64.8cm
個人蔵
Cf., 『アルベール・マルケ』展図録、p.73 / cat.no.23
マルケ《雪のノートル=ダム》 1912頃
図5 マルケ
《雪のノートル=ダム》
1912頃
油彩・カンヴァス
81 x 65cm
カルナヴァレ美術館、パリ
Cf., 『京都の100年・パリの100年』展図録、京都市美術館、1998-99、
  第2部[パリの100年 - 都市の肖像]p.20 / cat.no.29
マルケ《雨の日、ノートル=ダム》 1910
図6 マルケ
《雨の日、ノートル=ダム》
1910
油彩・カンヴァス
81 x 66cm
エルミタージュ美術館、サンクト・ペテルブルク
Cf., Matisse. In Search of True Painting, The Metropolitan Museum of Art, New York, 2012, p.72 / fig.43

図7 マルケ
《雪のノートル=ダム》
1912頃
油彩・カンヴァス
65 x 81cm
パリ市立近代美術館
(→公式サイトのコレクションの頁
Cf., 『アルベール・マルケ』展図録、p.14 / fig.4
  (1928年作、カルナヴァレ美術館に寄託と記載)

図8 マルケ
《雪のノートル=ダム》
1914頃
油彩・カンヴァス
65.5 x 81.8cm
ローザンヌ州立美術館
(→公式サイトのコレクションの頁
Michelin 11 Paris Atlas 1983 pp.31-32
Michelin 11 Paris Atlas, 1983, pp.31-32 より

 Google Map などでも確認できるように、パリをうねるように貫くセーヌ河、その中州であるシテ島の南東寄り(地図では右下)にノートル=ダム大聖堂が位置します。セーヌ河をはさんで南(地図では下)がいわゆる左岸ですが、シテ島南東端近くでアルシュヴェシェ橋 Pont de l'Archevêché が渡され、先に触れたノートル=ダム後陣を描いた作品二点(上掲図録、pp.44-45 / cat.nos.7-8)でも少しだけのぞいていました。
 次いで北西(地図では左上)、ノートル=ダム正面のすぐ脇から左岸に渡されているのがドゥーブル橋 Pont au Double、そこからまた少し北西、大聖堂前の広場をはさんでシテ通り Rue de la Cité から伸びて左岸に渡るのがプチ・ポンです(仏語版ウィキペディアの該当頁によると(→こちら)、正式名称は 2013年6月以来、プチ=ポン=カルディナル=リュスティジェ Petit-Pont-Cardinal-Lustiger になったそうです)。
 また北西に進むと、次の橋がサン=ミシェル橋 Pont Saint-Michel でした。左岸側でプチ・ポンとサン=ミシェル橋の間を結ぶのがサン=ミシェル河岸 Quai Saint-Michel となります。サン=ミシェル河岸19番地はプチ・ポンとサン=ミシェル橋の間、ちょうど真ん中くらいでしょうか。
 さらに北西、シテ島の北西端近く、マルケが晩年に何度も描いたポン=ヌフ Pont-Neuf が、シテ島と左岸を結ぶ最後の橋です(上掲『アルベール・マルケ』展図録、pp.130-139 / cat.nos.59-62、pp.144-145 / cat.no.66、また pp.198-202:水木祥子、「アルベール・マルケの〈ポン=ヌフ〉シリーズ」)。
 たとえば目の前には、

 渡辺 淳、『パリの橋 セーヌ河とその周辺』(丸善ブックス 103)、丸善株式会社、2004

 小倉孝誠、『パリとセーヌ川 橋と水辺の物語』(中公新書 1947)、中央公論新社、2008

といった本がありますが、プチ・ポンのことはあまり出てこないようです。またウェブ上では、

 「プチ・ポン LE PETIT PONT (33橋巡りの15)」(2010/10/21) [ < パリを歩くために ]

 「マティス(3) パリ サン・ミッシェル河岸19番地のアトリエ」(2015/01/28) [ < 同上 ]

なんてページが見つかりました。美術品がけっこう挙げられています。
メリヨン《プチ・ポン》 1850
図9 シャルル・メリヨン(1821-1868)
《プチ・ポン》
1850(第5ないし第6刷)
エッチング、ドライポイント・紙
26.3 x 18.5cm
三重県立美術館
 
 他方メリヨンとプチ・ポンに関してはやはり、

 気谷 誠、『風景画の病跡学 メリヨンとパリの銅版画』(イメージ・リーディング叢書)、平凡社、1992、pp.102-134:「『プチ・ポン』 - あるいは秘められたスフィンクス」

が詳しい。当方も大いに参照させてもらって(次に挙げる内、最初のものはそれ以前でした)、
 

 「シャルル・メリヨン《プティ・ポン》(館蔵品から)」、『ひる・ういんど 三重県立美術館ニュース』、第20号、1987/8/31、p.8 [ < 三重県立美術館サイト(以下同様) ]

 「5-5, 6, 7, 8 シャルル・メリヨン《プチ・ポン》 《ノートル=ダムの給水塔》 《ノートル=ダム橋のアーチ》 《塔・医学校通り》」、『コレクション万華鏡―8つの箱の7つの話』展図録、1998/9/13~10/25、pp.131-137(図版 pp.92-93)

 「プチ・ポン拾遺 - メリヨンとマティス -」、『ひる・ういんど』、第69号、2000/3/1、pp.5-7

 「マティスのノートル=ダムの塔の上 ─ プチ・ポン拾遺の拾遺 ─(研究ノート)」、『ひる・ういんど』、第70号、2001/2/28、p.5

 「シャルル・メリヨン《プチ・ポン》 美術館のコレクション」パンフレット、2007年度第3期展示(2007年10月2日~12月24日)

と、何度か原稿を書いたことがありました。例によって細かいことは霧の中なので、念のため引っぱりだしてみると、三つ目の「プチ・ポン拾遺 - メリヨンとマティス -」で、後に触れる石井柏亭の作品(図26)ともども、マルケの作例も挙げているではありませんか(図5)。今回のマルケ展には出品されていませんが、カルナヴァレ美術館の所蔵品で、『京都の100年・パリの100年』展の第2部[パリの100年 - 都市の肖像](京都市美術館、1998-99)で見かけたのでした。まるっきり憶えていなかったのはいつに変わりません。
 なお『アルベール・マルケ展』図録、p.14 には fig.4 として(p.241 に原文)、やはりカルナヴァレ美術館(パリ市立近代美術館より寄託)の《雪のノートル=ダム大聖堂》(1928)のモノクロ図版が掲載されています(図7)。ただしパリ市立近代美術館の公式サイトでは制作年は1912年頃となっていました。
 図8は図7をウェブで検索した際に出くわしたもので、グレーの穏やかな雰囲気も近い。双方横長で、図2~5 での前景の地面がせりあがるような感じに比べ、右下の地面にあてられた面積が狭いこともあって、視線が下から上へ回転するように上がっていくというより、まっすぐ奥へのばされているかのようです。
 また図6は、Matisse. In Search of True Painting (The Metropolitan Museum of Art, New York, 2012)でやはり挿図として載っていました。点景人物が傘をさしているので、雨が降っているのでしょうが、図2~5、7~8いずれも雪景色ないし曇り模様なのに対し、やや明るい色が選ばれ、大聖堂のファサードも、多少細部がくっきりしています。
 また少なくともここに挙げた7点中の6点で、セーヌ河最前景には平底舟(ペニッシュ)の類が配されています。図6以外の5点では、屋根に積もった雪の白がアクセントになっている。図7だけが描かれていません。実際に見た眺めに基づくのでしょうが、たとえば後に見るマティスの場合、構図はほぼ同じなのに、図15~24の10点中、ペニッシュがはっきり見てとれるのは図15と23の2点だけでした。図16と19はどちらともとれそうです。ともあれここに何かを読みとれるものなのでしょうか?

 点景人物といえば、先に触れたように、マルケの俯瞰風景ではしばしば、黒っぽい筆致で小さな人物たちが前景や中景のあちこちに散らされています。
 《バルコニー、ヴェルサイユ大通り》(上掲『アルベール・マルケ』展図録、pp.48-49 / cat.no.10)や
 《壁の影、ルーヴル美術館》(pp.60-61 / cat.no.17)、
 《マルセイユのアトリエ》(pp.94-95 / cat.no.37)、
 《ラ・グレットの窓》(pp.116-117 / cat.no.50)、
 《バルコニー、または縞模様の日よけ》(pp.128-129 / cat.no.58)
の5点など、すぐ近くにある事物に焦点をあわせた構図は別として、それらしい点景が見当たらないのは、
 《ヴィレンヌのセーヌ河、朝》(p.84 / cat.no.31)、
 《トリエル、晴れた日》(pp.86-87 / cat.no.33)、
 《ナポリ港》(pp。88-89 / cat.no.34)、
 《マルセイユの港》(p.98 / cat.no.39)、
 《ヴェネツィア》(pp.106-107 / cat.no.45)、
 《アルジェ港》(pp.112-113 / cat.no.47)
の6点など、画面の下まで水面がひろがっている構図においてでした。
 《アルジェ港のクレーン》(p.122 / cat.no.53)
の右下隅の黒っぽい縦長の形は人物かどうか?
 《冬の太陽、パリ》(pp.52-53 / cat.no.12)
も手前まで川面が迫っていると見てよいでしょうか。またこの作品では左後景のフランス学士院のシルエットが、巨人のように見えはしますまいか。
 ともあれ、第5部「素描、挿絵本」を除く出品作66点の内、以上13点と人物画6点以外の風景画47点には点景人物が描きこまれていました。この比率がマルケの仕事総体に当てはまるかどうかはわかりませんが、こうした点景人物の多さは、やはり図録の随所で言及されており、マルケの特徴の一つと見なされているようです。たとえば再びソフィ・クレップスによる巻頭論文「アルベール・マルケ 比類のない画家」には、

「こうした生き生きしたデッサンは、彼の油彩画においては、こまごました微小なかたち、アリのような人物、『幼虫のような人間』として現れることになる。なかでも港の光景においては、人々全体が、常に変化するあわただしい生活ぶりで波止場を活気づけている」(上掲『アルベール・マルケ展』図録、p.12)

と述べられていました。

 マルケが挿入する人物一人一人には特定の意味はなく、集合として、画面ににぎわいをもたらす役割を果たしています。これを図像学的な意味づけと見なせるかどうかは、微妙なところでしょう。余談になりますが、前掲の拙稿「プチ・ポン拾遺 - メリヨンとマティス -」でメリヨンとマティスそれぞれのノートル=ダム+プチ・ポンの画面を強引に比較の俎上に載せたことにならうなら、これまた『コレクション万華鏡』展図録の解説で記したように(p.132)、メリヨンの《プチ・ポン》の小さな画面には、50人以上の人物が描きこまれています。だからどう、と問い返したくなるかもじれず、問い返されて何と答えたものか、思わず詰まるところですが、他方、『去年マリエンバートで』(1961)の頁や(→そちら)、「バルコニー、ヴェランダなど - 怪奇城の高い所(補遺)」の頁の「2-ii 露台や屋上の点景人物など」(→そちらの2)でも述べたように、特定の意味から逃れて、ただ画面をにぎわすばかりの点景人物たちというのは、なかなか興味深くはないでしょうか。そういえば佐伯祐三の作品でも時折、細長い人物が小さく登場したりしていました。こんな例はまだまだあることでしょう。
 たとえば《清明上河図》や《洛中洛外図》の類であれば、点景には風俗描写の役割が持たされています。対するにマルケの画面における、特定の意味づけを付与されない点景人物の群れは、にぎやかし以上の何ものでもありますまい。しかし単なるにぎやかしであるからこそ、意味づけに回収されることなく、微妙なかぎりで働きかけてくる。同時にそれらは、点や線、面、色斑として画面の形式に溶けこみきることもない。ほんの少しであれ、画面の造形的な網の目から浮きあがろうとして、見るものの視線を惹きつけたり散らしたりします。そうして画面の組み立てにおさまりきらないふくらみを宿すといっては、理屈が先走ってしまっているでしょうか。
プチ・ポン附近 1998年12月12日撮影
図10 プチ・ポン附近 1998年12月12日撮影

 さて、マルケやマティスのプチ・ポンはアパルトマンの6階から見下ろしたのだとして(図23、24は4階)、メリヨンのプチ・ポンは、サン=ミシェル河岸の川沿い、一段低い引き舟道から見上げたものでした。1998年12月12日というのは、「ギュスターヴ・モロー研究序説」[1]の頁の「2017年の前置き」でも触れましたが(→こちら)、パリのグラン・パレでギュスターヴ・モローの回顧展(1998年10月2日~1999年1月4日)が開かれたのを見に出かけ、一度は見ることができたものの、その後美術館の類でストが始まり、しょうことなく雨がちで肌寒い街中をうろうろした時のことなのでしょう、メリヨンの視点に近かろう位置ということで撮った写真が残っていました(図10)。日付けは記されていませんが、マティスのアトリエの窓から見た眺めの写真というのも、とある図録で見ることができました(図11)。
 これらの写真に見えるプチ・ポンと、マルケやマティスが描いたプチ・ポンは、一つのアーチからなる水平な橋ですが、メリヨンのそれは三つの半円アーチが連なり(右端のアーチは引き舟道にかぶさっている)、中央が浅く山型三角をなしているように見えます。1850年のメリヨンの作品とほぼ同時期の1852年に撮影された写真(図12)では、すぐ手前に木の橋が架かっていて見にくいのですが、すぐ奥にプチ・ポンがのぞいており、やはり山型の三連アーチのようです。
 現在ノートル=ダム大聖堂の前には、ノートル=ダム前広場 Parvis Notre-Dame(2006年以降この後に「=ジャン・ポール二世広場 - place Jean-Paul-II」がつくそうです→仏語版ウィキペディア該当頁)があって、メリヨンの画面や図12でシテ島側にある建物はなくなっています。この建物はオテル・デュー L'Hôtel Dieu(施療院、市民病院)で、1865年に同じシテ島の別の場所に移転しました。プチ・ポン自体、1852年に取り壊され54年に現在の姿になったとのことです(気谷 誠、前掲『風景画の病跡学』、pp.114-115)。メリヨンが描いたのは、1853-70年のいわゆるオスマンのパリ改造によって消えていったパリの姿だったわけです(同、pp.115-117)。
サン・ミシェル河岸のマティスのアトリエの窓から見たノートル=ダム
図11 サン・ミシェル河岸のマティスのアトリエの窓から見たノートル=ダム
Cf., Henri Matisse. A Retrospective
, The Museum of Modern Art, New York, 1992-93, p.86
アンリ・ル・セック《(旧)マルシェ・ヌフ河岸》 1852
図12 アンリ・ル・セック(1818-1882)
《(旧)マルシェ・ヌフ河岸》
1852
パリ市歴史図書館
Cf., Charles Meryon. Paris um 1850 Zeichningen ・ Radierungen・ Photographien, Städelsches Kunstinstitut und Städelsche Galerie, Frankfurt am Main, Hamburger Kunsthakke, Hamburg, Haags Gemeentemuseum, Den Haag, 1976, p.149 / cat.no.P3
ジャン=バティスト・ウードリ《1718年の火災後のプチ・ポン》
図13 ジャン=バティスト・ウードリ(1686-1755)
《1718年の火災後のプチ・ポン》
1718
油彩・カンヴァス
52 x 64cm
カルナヴァレ美術館
Cf., 気谷 誠、『風景画の病跡学』、平凡社、1992、p.119
 Hubert Robert 1733-1808 Un peintre visionnaire, Musée du Louvre, 2016, p.384 / fig.133
ユベール・ロベール《1772年のパリ市立病院の夜の火事》 1773頃
図14 ユベール・ロベール(1733 - 1808)
《1772年のパリ市立病院の夜の火事》
1773頃
油彩・カンヴァス
145 x 109cm
ストックホルム国立美術館
Cf., ジャン・クレイ、高階秀爾監訳、『ロマン派』、中央公論社、1990、p.220
 気谷 誠、『風景画の病跡学』、平凡社、1992、p.119
 気谷 誠、「パリの小さな橋 - メリヨン 記憶する風景①」、『版画藝術』、93号、1996、p.174
 そもそもプチ・ポンは、古代ローマ時代以来の古い橋で、何度となく架け替えられてきました。詳しくは仏語版ウィキペディアの前出プチ・ポンの頁をご覧ください。気谷 誠の前景『風景画の病跡学』にも記されていますが、メリヨンの描いたプチ・ポンは18世紀に造られたもので(同、p.113)、先例として、一代前のプチ・ポンの1718年の火事の後を描いたウードリの油彩(pp.118-119:図13)、1772年のオテル・デューの火災を描いたユベール・ロベールの油彩(pp.119-120:図14)などが挙げられていました。前者に関して、

「橋上にあった22軒の家は3日間にわたり燃え続けた」(同、p.118)、

「焼け落ちた橋は翌1719年に再建されたが、以降、橋上に建物が建つことはなかった」(同、pp.118-119)

と記されていました。ウードリの画面では橋の上の建物はすでになくなっています。その代わりでもないのでしょうが、けっこう点景人物が多い。ユベール・ロベールの画面について、メリヨンの

「『プチ・ポン』の場合は縦長にデフォルメされているので、この油彩画の方が実景に近いようだ」(同、p.120)

とのことです。ウードリの作品では橋の上面は水平でしたが、こちらは浅い三角に見えます。またアーチの奥に、また別の半円アーチが連なっていますが、ドゥーブル橋にしては近いような気がしますが、どうなのでしょうか? なおユベール・ロベールは、これ以外にも、ローマやパリのオペラ座の火災を描いています(ジャン・クレイ、上掲『ロマン派』、p.221;Hubert Robert 1733-1808 Un peintre visionnaire, op.cit., pp.288-289 / cat.no.77, pp.378-381 / cat.no.121 & fig.131)。


 先に引いた図2の作品解説で記されていたように、マルケが引き継ぐことになるアパルトマンの6階の部屋を、マティスは1895年から1908年までアトリエとして用いていました。1913年12月には同じアパルトマンの4階に戻ってくることになります(Henri Matisse. A Retrospective, The Museum of Modern Art, New York, 1992-93, p.239)。これらの期間に結局、何点、窓から見えるノートル=ダム大聖堂とプチ・ポンの眺めを描いたのでしょうか? 図版や画像では色はあてにならないかぎりで、ここではカラー図版に出くわせたものを並べておきましょう(いわんや記憶をや。もっとも実物を前にしたとしても、展示環境や見る側の調子によって感触は変わってしまうことでしょうが)。
 なお『マティス展』図録(国立西洋美術館、2004)では「同一主題のヴァリエーション」として、p.47 の figs.23-30、pp.52-54 / cat.nos.1-2 & fig.1 で本主題がまとめられています(下の図16、18を除く8点)。同様に Matisse. In Search of True Painting (The Metropolitan museum of Art, New York, 2012)は pp.72-77 / cat.nos..23-25 & figs.43-45 を、Rémi Labrusse, "Notre-Dame between heaven and earth"のテクストとともに章立てしてありました(マルケの図6、下の図15、23、24、18。Fig.45 はピカソの《化粧台》(1910)、分析的キュビスムの時期のもの)。
マティス《ノートル=ダム大聖堂》 1900頃
図15 アンリ・マティス(1869-1954)
《ノートル=ダム大聖堂》
1900頃
油彩・カンヴァス
48 x 37.5m
テイト・ギャラッリー、ロンドン
Cf., 『マチス展』図録、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、1981、p.35 / cat.no.11、p.166
 Matisse. In Search of True Painting, The Metropolitan museum of Art, New York, 2012, p.73 / cat.no..23
マティス《ノートル=ダム大聖堂の眺め》 1900
図16 マティス
《ノートル=ダム大聖堂の眺め》
1900
パステル・紙
31.5 x 28m
個人蔵
Cf., Pierre Schneider, Matisse, Flammarion, 1993, p.117
マティス《ノートル=ダム大聖堂、午後遅く》 1902
図17 マティス
《ノートル=ダム大聖堂、午後遅く》
1902
油彩・カンヴァスに貼った紙
72.5 x 54.5m
オルブライト=ノックス美術館、バッファロー
Cf., Henri Matisse. A Retrospective, The Museum of Modern Art, New York, 1992-93, p.123 / cat.no.42
 『オルブライト=ノックス美術館展』図録、愛知県美術館、1998、pp.64-65 / cat.no.25
マティス《ノートル=ダム大聖堂》 1902
図18 マティス
《ノートル=ダム大聖堂》
1902
油彩・カンヴァス
46.5 x 56m
個人蔵
Cf., Matisse. In Search of True Painting, The Metropolitan Museum of Art, New York, 2012, p.76 / fig.44
マティス《紫色のノートル=ダム》 1902
図19 マティス
《紫色のノートル=ダム》
1902
油彩・カンヴァス
50.0 x 65.0m
個人蔵
Cf., 『マチス展』図録、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、1981、p.37 / cat.no.12、pp.166-167
 『マチス展』図録、名古屋市美術館、1991、pp.58-59 / cat.no.8
マティス《ノートル=ダム》 1904
図20 マティス
《ノートル=ダムく》
1904
油彩・カンヴァス
41.0 x 32.7m
ケリー・ストークス・コレクション、パース、オ-ストラリア
Cf., 『マティス展』図録、国立西洋美術館、2004、p.47 / fig.26、p.52 / cat.no.1
マティス《ノートル=ダム大聖堂》 1904-05
図21 マティス
《ノートル=ダム大聖堂》
1904-05
油彩・カンヴァス
45 x 55m
ストックホルム近代美術館
Cf., Henri Matisse. A Retrospective, The Museum of Modern Art, New York, 1992-93, p.122 / cat.no.41
 マティス《ノートル=ダム大聖堂》 1904-05
図22 マティス
《ノートル=ダム大聖堂》
1904-05
油彩・カンヴァス
22.4 x 32.5m
個人蔵
Cf., Henri Matisse 1904-1917, Centre Georges Pompidou, Paris, 1993, pp.144-145 / cat.no.10
マティス《ノートル=ダム大聖堂の眺め》 1914
図23 マティス
《ノートル=ダム大聖堂の眺め》
1914
油彩・カンヴァス
147 x 98cm
ゾロトゥルン美術館、スイス
Cf., Henri Matisse. A Retrospective, The Museum of Modern Art, New York, 1992-93, p.252 / cat.no.176
マティス《ノートル=ダム大聖堂の眺め》 1914
図24 マティス
《ノートル=ダム大聖堂の眺め》
1914
油彩・カンヴァス
147.3 x 94.3cm
ニューヨーク近代美術館
Cf., Henri Matisse. A Retrospective, The Museum of Modern Art, New York, 1992-93, p.253 / cat.no.177
 図15や図20、図22では強い色の対比、筆致の粗々しさが目につきます。1905年のフォーヴ前夜といったところでしょうか。その中で図20では、川面など、大ぶりな点描が施されている。点描がより規則的に用いられた図21とともに、《豪奢、静謐・逸楽》(1904-05)での新印象主義の採用に通じています。
 図16はパステルで、地の紙の色に呼応する褐色系が主調ですが、薄い青が弱く対比されています。筆致は鋭利です。
 図17、18、19の3点ではアトリエの窓枠が画面右端を区切り、眺めを奥へ押しやっています。そのせいか、筆致はやや落ち着いている。図17と19で窓枠の上の方に配された水色の色斑いくつかは、ガラスの反射なのか、窓枠と壁の隙間なのでしょうか?

 図2はさておき、マルケの図3~8がそれぞれ落ち着いた仕上がりを示しているのに比べると、マティスの場合、いろいろ試しているといった感が強い。サイズも小さめのものが多いようです。そして実験のテーマは色彩にほかなりますまい。
 ただ図17は1900年から05年頃にかけて制作された図15~22の中では、サイズも少し大きく、青紫など強く前に出ない色が主をなすにもかかわらず、画面は冷たく沈まず、色の濃密な温度が感じられはしないでしょうか。マルケのグレーとは対照的です。
 とはいえマルケの図3ならグレー、図4ならベージュといった主調色が、雪の白をはさみつつ、明度差のない川面の色と併置されることで、空間にふくらみをもたらしていました。図2は図3・4に比べると白と黒の対比が目につきます。それでいて筆致の粗々しさや川面の深緑、空や地面の薄いベージュが、白と黒を諧調の連続した推移の内に定住させることなく、不連続な色斑として対比させることになる。
 図23と図24はいったん離れたサン=ミシェル河岸に戻った1913年末以降の作品ですが、双方さらに大きく、同サイズで、やや自然主義的な描法(というか下絵風とでもいうべきか)と半抽象的な構成という、マティスが幾度か試みた対をなす制作の典型となっています。図24については前掲の拙稿「プチ・ポン拾遺 - メリヨンとマティス -」でも取りあげました(p.7)。Matisse. Radical Invention 1913-1317, The Art Institute of Chicago, The Museum of Modern Art, New York, 2010, pp.192-195 / cat.no.23 なども参照。

 図25にはプチ・ポンは描かれておらず、アトリエの窓から見た眺めでもない。視点は水面に近い低さで、プチ・ポンよりドゥーブル橋に近づいたか、ことによるとその先、モンテベロ河岸 Quai Montebello の引き舟道からの眺めでしょうか。丁寧に仕上げられています。
 マティス《パリのノートル=ダム大聖堂の眺め》 1900
図25 マティス
《パリのノートル=ダム大聖堂の眺め》
1900
パステル・紙
46 x 31m
個人蔵
Cf., Pierre Schneider, Matisse, Flammarion, 1993, p.120
 
 石井柏亭の《サン・ミシェル橋》(図26)は、先に触れたように、カルナヴァレ美術館のマルケの作例(図5)ともども、上掲の拙稿「プチ・ポン拾遺 - メリヨンとマティス -」(2000)で挙げていたのでした。マルケの作品には『京都の100年・パリの100年』展(1998-99)で出くわしたのですが、柏亭作品をどこで見知ったのか、思いだせません。ウェブ上の「独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索」の当該頁(→あちら)に記載された展覧会歴を見てもピンと来ず、東京国立近代美術館の常設で見たのか、何らかの図録・画集で出くわしたのか。
 ともあれタイトルにあるとおり、手前にあるのはサン=ミシェル橋で、川沿いをさらに北西へ、グラン=ゾーギュスタン河岸 Quai des Grands-Augustins からの眺めとなります。サン=ミシェル橋の奥にのぞくのがプチ・ポンなのでしょう。位置はずれましたが、マルケやマティスの作品同様、高い視点から捉えられています。
 この点は二年早い梅原龍三郎の《ノートルダム寺院》(図27)も同様で、先に別のページを挙げたウェブサイトから、

 「サン・ミッシェル橋 LE PONT SAINT-MICHEL(33橋巡りの17)」(2010/11/9)[ < パリを歩くために ]

によると、

「梅原が宿泊したサン・ミッシェル橋近くのホテルからの眺めだ。
 1921年には小野竹喬、1923年には石井柏亭も同じ所から描いている」

とのことです。
 小野竹喬の作品というのは今のところ図28 しかわからないでいるのですが、元の勤め先で『小野竹喬』展(2023年4月22日~6月11日)が開かれた際の図録である上薗四郎監修・文、『うつりゆく自然を描く 小野竹喬の世界 笠岡市立竹喬美術館名品集』(青幻舎、2023)所載のコラム「竹喬こぼれ話」に「パリ オテル・ビッソン」という項があって、「セーヌ左岸、サン・ミッシェル橋に近いグランゾーギュスタン通り三十七番地のオテル(ホテル)・ビッソン」(p.194)に竹喬が宿泊したと記されていました。「竹喬の部屋からは、セーヌ川をはさんで前方に最高裁判所、右手にはノートルダム寺院の建物が望めた」(同上)とのことです。図28はやはりけっこう高い位置から見下ろしているようで、ホテルの部屋から向こう岸を捉えた眺めなのでしょうか。
石井柏亭《サン・ミシェル橋》 1923(大正12)
図26 石井柏亭(1882-1958)
《サン・ミシェル橋》
1923(大正12)
油彩・カンヴァス
73.0 x 60.0cm
東京国立近代美術館
Cf., 『石井泊亭 絵の旅』展図録、渋谷区立松濤美術館、2000、p.136 / 参考図版105


梅原龍三郎《ノートルダム》 1921(大正10)
図27 梅原龍三郎(1888-1986)
《ノートルダム寺院》
1921(大正10)
油彩・カンヴァス
55 x 45.5cm
清春白樺美術館
Cf., 『パリを描いた日本人画家』展図録、パリ、カルナヴァレ美術館、神奈川県立近代美術館、三重県立美術館、1985-86、cat.no.43
 『フォーヴィスムと日本近代洋画』展図録、愛知県美術館、1992、p.149 / cat.no.99
 『都市風景の発見 - 近代の一視点・描かれた都市 -』展図録、茨城県近代美術館、1992、p.48 / cat.no.63
小野竹喬 《雨の広場(セーヌ河畔)》 1921(大正10)
図28 小野竹喬(1889-1979)
《雨の広場(セーヌ河畔)》
1921(大正10)
水彩・紙
15.0 x 11.5cm
京都市美術館
Cf., 『都市風景の発見』展図録、p.51 / cat.no.65
三宅克己《雨後のノートルダム》 1902(明治35)
図29 三宅克己(1874-1954)
《雨後のノートルダム》
1902(明治35)
水彩・紙
36.5 x 26cm
お茶の水図書館
Cf., 『パリを描いた日本人画家』展図録、cat.no.16
 『都市風景の発見』展図録、p.47 / cat.no.53
 ちなみに梅原の作品が出品された 『パリを描いた日本人画家』展(1985-86)の図録を繰ってみると、三宅克己の図29も掲載されていました。元の勤め先で開かれた展観ですが、この時はまだ勤めだす前で、実物は見ていません。とまれ、右下方に見える橋はプチ・ポンのようです。

 石井柏亭と三宅克己といえば、少し前に近場の松阪はサイトウミュージアムで開かれた、『再発見!美しすぎる日本近代の絵画たち 第一部 三宅克己と日本の水彩画/第二部 知性と抒情の画家 - 石井柏亭』展(2022年9月2日~12月18日)が思いだされたりもします。その際展示された三宅克己の《セイヌの秋》(大正期頃)には、

「セーヌ河に架かるこの橋は、パリ左岸とシテ島を繋ぐポン・ヌフであろうか」(図録、p.07 / cat.no.1_9)

という眺めが描かれていました。この作品は同じサイトウミュージアムでの『画家たちのパリ、フランス - ひらくまなざし -』展(2026年3月20日~7月20日)でも、同じく三宅の《巴里サンミツシェル橋》とともに展示されました(図録、p.5 / cat.nos.1-3~4)。村上肥出夫による《サン・ミッシェル》(1963)という作品もありました(同、p.18 / cat.no.2-4)。
 それはさておき『アルベール・マルケ』展図録に掲載された宮﨑晴子「日本におけるマルケ受容 - 石井柏亭を中心に」(pp.203-206)によると、柏亭はマルケの作品を何度となく紹介してきたそうです。直接関係があるわけではないでしょうが、『再発見!美しすぎる日本近代の絵画たち』展で見られた柏亭の作品には、水辺を描いたものが少なくありませんでした。

 サン=ミシェル橋やポン・ヌフはさておき、プチ・ポンを描いた例もまだありそうですが、出くわす機会があれば補っていくとして、ここはいったん筆を擱きたく思います。
 2026/08/22 以後、随時修正・追補
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