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『点 線 面 1991 幾何学的構成主義作家6人展』図録、
ギャラリーないとう、1991.3.30
 
四角はまるいか

石崎勝基
 

 いわゆる幾何学的抽象は、表現として成立しうるかいなかを、そのありかたの矛盾に負うている。ここで矛盾というのは、作品のめざすところが何らかの理念的なるものであるとして、その理念が裸形の理念でしかありえないため、作品の即物的なありようと予定調和的な間合いをとるわけにいかず、両者の間にきしみが生じずにはいないことを意味している。
 モンドリアンやマレーヴィッチなど、抽象絵画の草創者たちが念頭においていたのが、神秘論的・ユートピア的ヴィジョンであったことはよく知られている。そうしたヴィジョンが主題の位置を占めるとしても、それはかつてのように、個々のモティーフと画面外の対象が一対一的に対応し、もって画面内の世界と外の世界が、それぞれ独立した集合として照合しうる関係を保証されているわけではない。むしろ両者は、仲介ぬきで対峙しあわなければならないのだ。
 この時呼び出されるのが幾何学的性格だが、それは、プラトニスムの伝統が、幾何学を現実から抽象された理念の領域を扱うものと見なしてきたからだけではない。また幾何学性は、具象的なモティーフを抽象的な形態におきかえるだけでおわるものでもない。幾何学的なアプローチは、画面の構造を意識的に分析し、表現のありかたそのものを画面に即して、おのが主題・理念とすることができるのだ。その際重要な軸をなすのは、物体としての限界、すなわちエッジと、そこよりの演繹的な決定の問題であろう。理念化を成立させるためには、仲介の保証がないのだから、両者はぴったりと重なりあわなければならない。それゆえ理念は、当初の神秘論的な志向をも失なって、表現そのものの自己参照的な理念となりゆき、物体はますます、それ以外の何ものでもないという即物性をあらわにするだろう。それ以外の何ものでもないものは、ただそれ以外の何ものでもない時、それ以外の何ものでもなくされているのだという観念を、見るものの内に呼びおこす。
 同語反復(トートロジー)はしかしすでに、反復されるふたつの語へと分裂している。語が同じであるかぎりにおいて、それは袋小路以外ではありえないが、袋小路であることの不安自体が、ぎりぎりすくいとられた表現でありうるかもしれない。不安とは、自己のありかたを自明としない点で反芸術的な契機をはらんでいるのだが、しかしまさにそこでこそ、理念が理念で、物体が物体でとどまらず、両者の緊張が表現たりうる可能性が開けよう。モンドリアン、ニューマン、初期のステラやジャッドの成功した作品はそれぞれに、こうした緊張に問いかけているように思われる。
 ただしこの緊張は、ぎりぎりのものであるだけに、一歩踏み外せばたやすく消え失せかねない。物体としてありかたを顧みない時は単なる観念の図解に、観念としてのありかたを顧みない時は日常の網の目に埋没した物体に - 作品がつねに可視的な形をとらざるをえないことからすれば、この二点は畢竟同じことであろう。幾何学的なり、演繹的であることは、それだけではいかなる質も保証しない。幾何学的抽象には、つねに、単なる模様でおわるという装飾化・デザイン化の危険がつきまとっている。ただ、おのれのありかたに即しつつそれをつきつめようとする時、他に比して明瞭に、観念と物体の交渉としての作品の構造/分裂を呈示しうる可能性が生じるのだ。
 今回の六人展は、内藤二朗の交友に端を発したものということだが、内藤の志向ゆえかいずれの作品も、幾何学的構成がはらむ課題とのスタンスで眺められる。そこにおいて、四角は四角であることに即しつつ、四角からのずれをはらむことができるだろうか?


 
 英訳が要るとのことなので英訳してみたものが出てきました。ただしネイティヴ・スピーカーのチェックを経ていないので……
 
 
Point Line Plane 1991
Six Artists - Geometric Construction

Gallery NAITO
March 30 - April 30, 1991

 

Is the square round?

 In the so-called geometric style of the abstract art,the quality of the expression is decided by the contradiction inherent in the structure of the work. The work of art tries to realize some idea,but when the intermediate strata between the idea and the material cannot be assured,both are forced to cause friction.

 It is well-known that the aim of the founders of the abstract art as Mondrian, Malevich and so forth is mystic or utopian visions.TheseVisions which should occupy the position of the subject,however,arenot given guarantees like the former correspondence one-by-one betweenmotifs in the work and objects outside.Rather the idea and the material must confront each other as the whole without the intermediation.

 Then should be demanded the geometric character,but not only for the Tradition of Platonism has been regarding the geometry as treating the sphere beyond the actuality. Furthermore the geometric character is not limited to replace the figurative image with the abstract shape.The geometric approach can analyze the structure of the work rationally,and make the expression itself its subject and ideal in conformity with the material body. The important focus should become the limit as the object,that is the edge,and the deductive decision therefrom.For the realization of the idea,the subject and the object of the work must overlap each other tightly, because there is no guarantee of the intermediation. So the idea, losing the original intention for the mysticism, becomes the self-referent idea of the expression itself increasingly,and the object would be revealed the literalism that it is not other than itself more and more. That which is not other than itself,when it is not other than itself,will recall in the viewer’s mind the idea that it is made to be not other than itself.

 The tautology, however, is already split into two repeated words.As long as words are the same,it must mean a cul-de-sac.But the uneasiness for the cul-de-sac might be able to become the expression dipped up at the very limit. The uneasiness conceives a moment to the anti-art,for it means for the expression not to be self-evident.But just there might open the possibility in which the tension between the idea and the object could become the expression,as long as the idea is idea,the object is object. The theme of the successful works by Mondrian,Newman,Stella in his black painting and Judd seems to be such a tension respectively.

 One misstep, however, will dissolve easily this tension,because it is dipped up at the very limit.Disregard for the object into the illustration of the idea,disregard for the idea into the literal object - these two points after all mean the same thing,for the work must take the visual form. The geometric or deductive method assures no quality.The geometric abstraction is always followed by the danger to fall into the mere pattern or design. But when it tries to get to the bottom of its structure in conformity with itself, there is brought about the possibility to present the structure / disintegration of the work as the intercourse of the idea and the material.

 In this exhibition by six artists,can the square conceive the aberration from the square so far as it is square?
 
Katsumoto Ishizaki
 
 本稿の続きとなったのが;

日本の幾何学的抽象をめぐる覚書 - 四角はまるいかⅡ - (1992)


 
おまけ

◆ タイトルだけは - あくまでタイトルだけ - 通じるところがあるといえなくもなさそうなのが;

ギョルゲ・ササルマン、住谷春也訳、『方形の円 偽説・都市生成論』(海外文学セレクション)、東京創元社、2019
原著は
Gheorghe Săsărman, cuadratura cercului : fals tratat de urbogonie, 1975

 36の架空の都市を扱った掌篇からなります。ただし1975年の初版では10篇、および各都市の「純幾何学的な形式化レベルのグラフィック・シンボル」(p.6)が検閲で削除されており、全篇掲載されたのは1992年のフランス語訳とのこと。
 ルーマニア語は不勉強のためわからないのですが、p.197 にスペイン語訳のタイトル
La Quadratura del Círculo が記されていました。手もとの西和辞書には quadratura は見あたらなかったのですが、試しに検索してみると日本語ウィキペディアに「クアドラトゥーラ(quadratura)」の頁がありました→こちら。これまた不勉強にもほどがあって予想だにしていなかったのですが、美術史用語ではありませんか。そこで『新潮世界美術辞典』(1985)を引いてみればちゃんと載っている(「クァドラトゥーラ」、p.417);

「イタリアのバロック美術において、主としてクーポラ(ドーム)に天井画を描くための遠近法およびそれによる作品。語義は方眼(
quadro、伊)に由来し、…(中略)…遠近法としてはソッティンスー(仰視法)にほかならない」

とのことです。
 ちなみに手もとの西和辞書には
cuadratura の項があって、

「1. 四角[方形]にすること;求積
2. [[天]]直角離角:2つの天体が互いに90度隔たるような位置」

と記した上で熟語として、

la ~ del círculo 不可能なこと[企て](◆円と同面積の方形を求めるのが不可能なことから)」

が挙げられていました。ルーマニア語でも同様の言い回しがされるかどうかは不勉強ゆえ詳らかにしません。ただ仏和辞書に
quadrature du cercle、伊和辞書に quadratura del circolo、英和辞書に quadratureof the circle としていずれにも「円積問題」と邦訳され、

「与えられた円と等しい面積を持つ正方形を作ることを要求する作図問題で、19世紀になって不可能であることが確定した」(手もとの仏和辞書より)

とあったことからすると、欧語圏では共通して用いられているのかもしれません。
 戻って副題について、

「都市生成論
urbogonie (宇宙生成論 cosmogonie からの造語)」

とのことです(p.183)。
 なお、本作とほぼ同時期に独立して執筆され、相通じる主題を扱ったイタロ・カルヴィーノの『マルコ・ポーロの見えない都市』(初版:1972)は→そちらで挙げました:「近代など(20世紀~)Ⅴ」の頁の「カルヴィーノ」の項


◆ 『ジョセフ・アルバースの授業 色と素材の実験室』展図録、DIC川村記念美術館/水声社、2023

所載になる

 沢山遼、「共鳴(レゾナンス) - 〈正方形讃歌〉」

の中に、

「アルバースの〈正方形讃歌〉において、色の境界線はたえず振動し、ゆらぎ、膨張、収縮する。そこには、色彩が生きて活動することによるダイナミズムが存在する。アルバースのスタジオを取材に訪れた写真家のカルティエ=ブレッソンは、アルバースの絵画がもたらすその効果を、的確にも『丸い矩形』と表現した」(p.206)

というくだりがありました。本論考の英訳も掲載されており、そこでは「丸い矩形」は、"circular squares"となっています(p.214)。


◆ 〈円積問題〉といえば、円と四角ならぬ球と三角にからみ、「図像、図形、色彩、音楽、建築など」の頁の「おまけ」で(→あちら

 倉多江美、「球面三角」、『樹の実草の実 倉多江美傑作集』(花とゆめCOMICS、白泉社、1977)所収

および

 花田清輝、「球面三角 - ポー -」(1941)、『復興期の精神』(1946、講談社文庫 C43、講談社、1974/『花田清輝全集 第二巻』(講談社、1977)所収

を挙げました。そこで触れた〈球面三角法〉とは、日本語版ウィキペディアの該当頁によると(→ここ)、

 「球面三角法(英:spherical trigonometry )とは、いくつかの大円で囲まれた球面上の図形(球面多角形、とくに球面三角形)の辺や角の三角関数間の関係を扱う球面幾何学の一分野…(中略)…
 球面三角法は、主に天文学や航海術で利用されてきた」

のだそうです。ともあれ〈球面三角〉というのは、相対性理論以後の宇宙論で、宇宙の形状を説明する際よく見かける、内角の和が180度以上になる、反り返った三角形のことのようです。
 ところで花田清輝のエッセイでも倉多江美の短篇でも、球は言及されますが、少なくともはっきりした形では三角は出てきません。前者は、

 「ルネッサンスという言葉が、語源的には、フランス語の'renaître(ルネートル)'からきており、『再生』を意味するということは、周知のとおりだ」(講談社文庫版、p.86)

と始まるのですが、ただちに

 「…(中略)…しかし、再生が再生であるかぎり、必然にそれは死を通過している筈であり、ルネッサンスの正体を把握するためには、我々は、これを死との関聨においてもう一度見なおしてみる必要があるのではなかろうか」(同上)

と切り返される。その上で、「海鞘(ほや)の一種であるクラヴェリナという小さな動物」(同上)に言寄せて、

 「死が - 球状をした死が、うちに無限の秘密をたたえながら、私の眼前にあらわれる。この球状をしたものの、結末から発端への運動が問題なのだ」(pp.88-89)

として、ポーの『ユリイカ』、そしてアインシュタインの相対性理論を経由して、

 「死は - 球状をした死は、結末から発端にむかって、円を描きながら、絶えず運動している」(p.96)

と結ばれるのでした。
 後者は大学でのアインシュタインの宇宙模型についての講義の場面から始まります。その講師が高校生だった時に体験した出来事が物語られる。それは卵を介した死と再生の経緯にほかならず、

「あの出来事以来
 わたしには
 自分の生命を担うという
 恐ろしい価値とともに
 なにか球状したもの
 たまごやひさご等に
 脈脈とした組織的な
 力をかんじ

 それは円を描いて
 暗い球状の宇宙に広がり
 死から生を展開し
 小さく不透明な何かになって
 黙々とひそんでいるような
 気がしてならないのです」(p.188)

と結ばれます。「球状」、〈死と再生〉など、花田清輝のエッセイと意識的に照応させているように思われます。「小さく不透明な何か」はクラヴェリナに通じるのではありますまいか。ただ双方、三角はどこにひそんでいるのでしょうか?
 
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