この時間がひとつの時間にすぎないとすれば、さまざまな時間がありうることになり、それはさらに、一方にのみ向かうとはかぎらず、並行、斜行、直行するもの、そしてこれらを一望にみわたす視野も考えることができる(エヴェレットの多重宇宙解釈、小松左京『果しなき流れの果に』第十章、バリントン・J・ベイリー『時間衝突』等を参照のこと)。とすれば、かつてあり、今あり、いずれあろうもの、一切は失なわれることがないはずだ。これを、オーリゲネースはアポカタスタシスと、近代神智学はアーカーシャ・クロニクルと呼んだのだろう。
しかし、一切が保たれ、一切がありうるとしても、人間が踏みつぶした蟻を気にかけないからこそ、現在と可能、今・ここにあることとありえたこととのへだたりの名において(小松左京『結晶星団』を参照のこと)、今・ここ(よしや重々無尽に鏡映するとしても)を肯定してはなるまい。神々(神々については、「神々は神々である」としか語りえない。すなわち、「神々は存在する/しない」、「神々となる/でなくなる」かどうかは問題ではない。ただ、外なるものであるとはいえようか)を、神々が神々であることのゆえをもって、憎みつづけ、時間の重畳に垂直しようと、あるいはずれようと試みなければならない。
1992.3.12 |