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『蟋蟀蟋蟀』、no.9、2001.2.15、pp.14-17
剣に生き・剣に斃れ
剣鬼列伝の巻 − 秘剣十文字縁起


石崎勝基


時間の霊を交差点の近くに埋めろーーーーーーーーーーー
J.J.コーエン「怪物文化(七つの命題)」(上岡・田辺訳)

 
からっぽでいっぱいで

 栗本百合子展"the basement"(撞木館土蔵、二〇〇〇年七月)は、隣りあう二軒の蔵を舞台にしたもので、まず、向かって左手の蔵では、扉をくぐった一階から階段を上って二階にいたる。一階、階段ともども仄暗い二階には、物入れを兼ねた大きなテーブルや、その上に梁から吊るされた平台が備えつけてある。壁に二箇所、小さな窓が開いており、そこに紗をかけた点のみが、加えられた変更だった。
 第一の蔵を出て右側の蔵に入れば、こちらは地下に通じる階段を降りる。板張りだった左の蔵の内部とは対照的に、いたってそっけない漆喰壁や床で、今はからっぽの状態だ。一階には天窓があって、やはり紗がかけられている。階段の下の方では、空気は冷やりと、足音も響くようになる。地下室に入ると、小さな窓が三つ、ただしこれらはそのまま、向かいあう壁の対応する位置に、白い四角のカバーをかぶせた照明が二つ設置されていた。
 外光であれ人工光であれ、光の強さを少しやわらげる。それだけで、射しこむ光は、通り道の空気、さらに空気の状態をしめす温度や湿度ともども、その場にはんの少し淀むことだろう。淀むというのは、空間の相であると同時に、もとの状態からのずれなのだとすれば、時間もまた、そこでは淀んだといえるかもしれない。その際、空間と時間の淀みは、建物の内側だけでなく、容れものである建物自体にも及ばずにはいまい。ささやかな操作によって、建物が堆積してきた時間、あるいは時間が堆積するという事態そのものが、揺り動かされるのだ。
 ところで、一昨年の"The ground"(本誌六号の本欄参照→こちら)に続いて今回も、固有の歴史を経てきた建造物が出発点として選ばれたわけだが、建物自体がきわめて饒舌に語りかけた前回に比べると、今回は、より寡黙な相を帯びていたように思われる。これは、二階の暗さや地下室のそっけなさとともに、上昇と下降、板張りの暗さと漆喰壁の白っぽさ、二階に残された備えつけの道具類とからっぽの地下室、温度の高低、板がぎしぎしきしむ音とかんかん響く足音など、二つの空間が対比されることで、それぞれの空間の表情と同時に、対比という抽象的な構造が意識させられる点によるのだろう。
 そこからあえて、個々の建物に固有な性格には還元しきれない、より上位の階梯を求めるとすれば、それらを選択した作者の存在が浮かびあがることになる。
 素材(このことばをとりあえず用いるなら)を選択し操作する、その実施の感覚的な側面において、作者の手際しだいで、呈示されるものが大きく表情を変えるであろうことは、否定すべくもない。とはいえこれらの作業は、少なくとも理念のレヴェルでは、第一動者ないし最終審級としての作者という理念に回収されるものではあるまい。素材と作者との対話によって作品は成立する、あるいはむしろ、作者の存在は素材の開花をひきおこすためのきっかけにすぎない、というべきか。もっとも、ロマン主義的な作者およびその死にまつわる議論にかかずらうよりは、さしだされた個々の空間と作者あるいは訪問者とが会話するさまに耳をすます方が、生産的というものかもしれない。

引き算で足し算を

 染谷亜里可新作展'DECOLOR'(員弁スタジオ、二〇〇〇年六〜七月)は、床に配された低い平台にひろげた三点と、壁にかけるか立てかけたグループとで構成されていた。床の三点はいずれも、暗赤色の停めの布に黄系のぶれた斑点やかすれが浮かぶというもの、壁よりの作品では、黒っぽいか白っぽいかのちがいはあれ、主としてペニヤ板に、やはりぶれた何らかの模様が湧きだす、ないし消えいろうとしているように見える。
 水平にひろがる床の作品に向けられた視線は、斜めに進まざるをえない。それゆえ、焦点を固定することができず、たえず横滑りしようとすることになるだろう。くわえて、布はところどころ皺を残し、イメージを、物としての布から遊離させて把握することを妨げる。
 他方、展覧会のタイトルどおり、既製の絨毯を脱色することで制作されたというイメージは、脱色の過程にともなうエッジのゆらぎゆえ、夜なり闇の内での光の浸潤とでも呼べようか、壮麗といってよいイリュージョンを獲得している。それはたとえば、ホイッスラーの〈ノクターン〉、あるいはロス・プレックナーの一部の作品などを思わせなくもない。
 だが同じ制作過程によってもたらされた様相は、また、支持体の布を透明な窓とすることはなく、イメージはあくまで、物としての布の変化に内在したものに留まる。布の物質性とイメージのイリュージョンとの関係はとりあえず、矛盾と見なしうるだろう。ただしこの場合、矛盾は表現の糧をなしているといえそうだ。
 ペニヤ板にエンジンオイルで描かれたという壁よりの作品でも、文様は、パターンとして浮かびだそうとする、すなわち地に対し過剰な装飾であると同時に、装飾であればこそ、支持体の平面性に即してもいる。その上で、オイルの滲みとそこから生じるパターンの崩壊は、とりわけ黒い二点において、闇自体が発光するかのようなイリュージョンをもたらしていた。
 既製品の布を皺ものばさず水平に寝かせたり、ペニヤ板の使用、また文様というモティーフなどからは、シュポール/シュルファスやパターン・アンド・デコレイションにも通じる、ハイ・アートとしての絵画とロウ・アートとしての装飾との関係にまつわる問題設定を読みとることができる。レオ・スタインバーグやロザリンド・クラウスらがとりあげた、垂直性/水平性の主題も思い起こされるところだろう。
 そのかぎりで、平面性から逸脱することなく、支持体に変化を加えることによって、絨毯やペニヤ板という秩序ないし形相に崩壊の兆しをもたらし、もって無規定な質料が、闇に内在する光の輝きという姿で現われたのだ。さらに、秩序ないし形相が崩壊しつつあるのだとすれば、イメージや文様は、過去にあり、今は不在の何かの痕跡との相、いいかえて時間の幅を宿すことになる。
 ただ、床の作品に閲し、既製品である絨毯の縁の部分がそのまま残されていたが、その表情はきわめて強く、布/イメージのひろがりにブレーキをかけていはしなかったか。また同様のことが、布より大きくとられた展示台としての白塗りの板にもあてはまるのではないかという点を、いい添えておこう。

 
忍びよる影ケ舌

 村尾里奈展(ウエストベスギャラリーコヅカ、二〇〇〇年八〜九月)では、展示室の形状に応答することで、饒舌にならない範囲内で空間を活性化するべく、インスタレーションが設置されていた。その際活性化されるべき空間とは、あくまで部屋全体であって、ために部屋の中央はあけられ、五つのパーツは概して、部屋のすみに壁沿いか床沿いで寄せられる。またいずれも、平均的な大人の腰より高くなることはない。色も黒かグレーの地味なもの、形はおおむね一目で了解できるよう単純化されている。
 とはいえ各パーツは、部屋の形状を演繹的に反復し、構造化しようとしているだけでもなく、抑制されたかぎりで、空間に働きかけようとする。
 展示室の入口に立った時、向かって右の壁からは、床に沿って平らな黒い鉄板が、奥の方へ伸びようと、ひずんだ弧を描いている。これに対抗するかのように、突きあたり奥のすみを囲んで、斜めにせりあがったグレーの壁が据えられる。ただし、交差する部屋の壁との間には隙間が設けられており、量塊性が過度に強調されることはない。舌状の鉄板の平らさに応じて、高さも、またぎこせるほどのものだ。舌板と斜め壁は、向かいあいつつも、正面きって対峙するというより、ヴェクトルがすれちがったりそれたりするだけの幅を残している。斜め壁が仰角でとらえられて遠近を強調されたかのごとく映るのも、視線の位置を散乱させることになる。
 舌板と斜め壁の二つのパーツによる空間のこうしたゆるやかな励起が、今回の展示の核をなすものと見なしてよいだろう。さらに、空間の揺動が拡散しすぎないよう引きしめるべく、部屋のすみ、残り三箇所に、小さめのパーツが配される。
 ただ、三すみすべてにパーツを添わせたのは、律儀と見えなくはない。入口から見て右奥のすみ、壁に沿わせた低い板状のパーツは、舌板と斜め壁にはさまれる位置にあるだけに、必要だったかどうか、やや疑問なしとしなかった。向かって左奥の二箇所におかれた小さめのパーツがともに黒なのに対し、こちらはグレーで、背もより低い点、あまり突出しないよう配慮されたものと思われる。それにしても、黒やグレーに還元された幾何学的な鉄のパーツは、硬質な存在感を感じとらせずにいない。そのため右すみのパーツは、舌板と斜め壁の交渉に干渉せずにおかないのだ。
 同じ理屈で、凹が一つに凸が三つの黒い筒の組みあわせと黒い板という、左すみ二つのパーツの内、板の方は必要だったかどうかと、問うこともできよう(しかし左右の板を除いた場合、舌板/斜め壁の対と凸凹筒とが分断される可能性も想像しうる)。また黒とグレーヘの還元は、空間の地勢を析出する以外の要素を排するためだとして、部屋の明るさに対し、やや不活性に沈んだように思われる。
 もっとも、こうした印象批評が湧きだしてくるのも、この展示が、空間に対する見る側の感覚に集中的に問いかけるからだという点は、押さえておくべきだろう。

 
テーブルの下の劇場

 大野左紀子展(ウエストベスギャラリーコヅカ、二〇〇〇年十月)での主たる作品からは、作者の意図に沿うているいないはさておき、さまざまな問題を引きだすことができる(図版…20ページ)。
 台座とその上にのるものという彫刻のあり方にまつわるテーマ、額縁とその内外に配されるものという絵画のあり方にまつわるテーマ、そして二つのテーマは、同じパーツによって表わされているのだから、彫刻と絵画の関係も問題とされていることになる。この点はまた、染谷の場合同様(たまたまながら、栗本や村尾にもあてはまる)、垂直性/水平性の主題にも関わってくるし、テーブル上で床回転するOL(?)人形などから、クラウスとイヴ=アラン・ボワの議論を展開させた、尾崎信一郎による〈重力〉をめぐる主題につなぐこともできよう。
 また人形や折り紙、模型などの使用は、やはりクラウスとボワの〈アンフォルム〉論に関連しつつ、ハイ・アートとロウ・アートないしキッチュとの関係という問題を浮かびあがらせる。OL人形のイメージについては、ジェンダー論への道が開かれるはずだ。
 大小あるOL人形、赤玉、紙牛の併置からは、寸法および再現性という点での尺度の可変性、およびそこから生じる、観者との距離の可変性の問題を見てとることができよう。ここにはたとえば、平松伸之や杉山健司の近年の作品に対する応答を見出すことができるかもしれない(もっとも、今回用いられた牧場の模型というイメージは、九六年の個展に登場していた)。平松の作品とは、パーツの散在と秩序づけ、そのゲーム性という主題も共有している。
 台座や額、立体と平面、あるいはジャンルといった、これら大まかには、さまざまなレヴェルでの枠どりをめぐる問題圏に重なって、テーブルと連続した深緑の方形群や、床の崩れかけた紙牛からは、台座からの物質的生成と崩壊の相を読みとれなくもなく、これは、小清水漸の〈作業台〉シリーズに応じるものだ。また、OL人形および紙牛の白と黒は明暗法、芝生およびテーブルの緑に対し赤玉は補色対比を縮約して、西欧近世絵画と近代絵画それぞれの提喩をなす、といった次第である。
 こうした相交わる問題群の多くは、もとより以前からの継続であるとして、とりわけ、一昨年の個展に集約した形で呈示されたものの展開、と見なすことができよう。ただ一昨年の作品では、モデルとなったモンドリアンの作品との関係に見る側の意識が引きずられずにおらず、問題設定は問題設定のまま、物としての作品から遊離してしまっているように思われた。
 対するに今回は、テーブル上の配置が一目で了解できないほど錯綜していたにもかかわらず(厳密に秩序づけられるのでも完全に散乱するのでもなく、両者が混交していたためだろう)、観念的な問題設定が感覚上の見えようから乖離していなかった。これは、前回ほどモデル(あるとして)との関係が強くない点とともに、床にじかに置かれた一昨年の作品が求心性を帯びて物として閉じることで、逆に、床/地面のひろがりに喰われたのに対し、今回は、テーブルとして宙に浮かされることで、観念性と物体性とが中空で共存しえたからなのだろう。
 テーブルは、単一の基体として機能するものの、その水平性は、脚の垂直性に支えられるかぎりで成立するものでしかない。水平性と垂直性の相互依存は、いずれか片方による支配を無効にし、もって両者が位置する地平を保証なきものとする。かくして、保証のない単一性の上でのパーツと観念の複数性が、保証のない戯れであるかぎりで許容される、あるいはむしろ、要請されるのだ。
 そうした中、テーブルの下の床にまかれた紙牛の開いたものや一部潰れた模型自動車は、量という点で、いささか中途半端なつけたしと映った。数なり大きさを、もっと減らすかゼロにするか、あるいは多くするべきではなかっただろうか。しかしこれも、印象批評なのだった。

いしぎきかつもと
(印象批評愛好家)

 
Cf., p.15 に栗本百合子『the basement 2000』 、染谷亜里可『DECOLOR』展示風景
p.16 に村尾里奈『近・遠』
p.20 に大野左紀子『牛の仕事』
それぞれの挿図


エピグラフは
ジェフリー・ジェローム・コーエン、上岡伸雄・田辺章訳、「怪物文化(七つの命題)」、『ユリイカ』、no.418、1999.5:「特集 モンスターズ!」、p.79 註(1)
より

………………………

「寸評」、『展評』、no.5、2000.10、p.151 に村尾里奈展、栗本百合子展、染谷亜里可展についてのコメント

(昇)、「染谷亜里可新作展(美術)」、『中日新聞』、2000.7.13(夕)

(洋)、「大野左紀子展(アート)」、『讀賣新聞』(名古屋版)、2000.10.11

原沢暁子、「大野左紀子 展評」、『美術手帖』、no.798、2001.1、p.156


森直樹、「ランランアート 『牛の仕事』についてかんがえる 大野左紀子展」、『蟋蟀蟋蟀』、no.9、2001.2.15、pp.18-20
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