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『眼差しのゆくえ − 現代美術のポジション1997』展図録、名古屋市美術館、1997、pp.38-39
からっぼがいっぱいU − 「ポジション1997展」によせて

石崎勝基


冬の五時半は暗いのですが、メトロポリタン美術館ほど暗いところもありますまい。
天井がとても高くて、そこに暗やみがいっぱい詰まっています。
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            E.L.カニグズバーグ『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳)

 

 栗本百合子の'over the floor'(『クリテリオム'94』展 no.13、水戸芸術館現代美術ギャラリー、1994.11.3−12.18)を訪れた人は、いささかとまどったことだろう。というのも、案内どおり展示室に入ったとして、からっぽの部屋があるばかり、しばらくたたずんでみても何かおこるわけではない。配布されたリーフレットに目をとおせば、床に用いられているのと同じ板が展示室の壁四面に貼りわたされたこと、また部屋の入口に二本の円柱がたてられたことはわかる。そしてたとえば、床が壁にまで伸びあがることで、地面にむかってしかはたらかないはずの重力の作用を攪乱しようとしたのだと、理屈をつけることもできるかもしれない。
 しかしそれにても、からっぽの部屋に迷いこんだ時の印象はあまりにさりげない。展覧会という表示をとればそれはただの空き部屋でとおるだろうし、そのまま倉庫として用いたり、別の展覧会を開くことさえできそうだ。あえていえば、床と壁が同じ板材で覆われているため、訪れた人に部屋の中で腰をおちつけさせるというよりは、迷路の袋小路よろしく、床から壁に昇りくるりと回って出ていくのが自然だとでもいえそうな、かりそめの感じがつきまとう。だから部屋の状態も、かりそめのものなのだ。
 ここで再び理屈癖を発揮して、美術は、たとえば展覧会という枠に区切られることではじめて成立するという、デュシャン風の制度論を読みとったとして、まちがいではあるまい。ただその際でも、からっぽの部屋がもたらすさりげなさは、観念の批判的な身ぶりを−つの可能な解釈として許容はしても、それに回収されきりはしない。批判的であれ何かに言及することは、その何かの存在を前提とせざるをえないが、ここではそうした前提自体が相対化されているようなのだ。つまり、作品と見なされてもよいし、見なされなくともかまわない、あるいはそうした美術の文脈とはまったく別のことが浮かぶかもしれない‥‥‥云々の可能性のうち重なりこそが、このからっぽの空間によってもたらされたのではないだろうか。

 栗本の'over the floor'におけるからっぼの空間に似た様相は、平松伸之の'FENCE'(『世界は虫喰い穴(ワームホール)だらけ』展パートT、Gallery NAF、名古屋、1997.4.22−5.7→こちらを参照)でも見出すことができる。これは、でこぼこのある画廊の空間にあわせ、その軸にあたる位置にガードレール状の柵を置いたものだった。柵は文字どおり、街中を歩いていれば見あたるガードレールを模して作られており、形自体に何ら特色や主張があるわけではない。実際、展覧会を訪れてこれが作品だと気づかなかった人も少なくなかったという。物としての作品ではなく、それが空間の中ではたす機能が問題なわけだ。'FENCE'が出品された展覧会は二人展で、壁面にはもうー人の作家の版画がかけられていたのだが、それらを見ようと画廊の中をまわるとして、中央に柵があるため、歩きまわる経路にはいやおうなく制限が課せられてしまう。あるいは一点の版画を少しひいて見ようとすれば、画廊の幅半分のところで柵にぶつかることになる。
 ここでも、空間に最小限の仕掛けをほどこすことで、空間のあり方が変容させられている。また、展示や展覧会という形式に対する問いかけの比重は、栗本の場合以上に目をひく。ただしこの柵は、展覧会に対してある定まったふるまいを観客に押しつけようとするものではあるまい。むしろ逆に、観客が美術展を訪れる際、無意識裡にあたりまえのものとしている習慣、たとえば順路にそって進む、絵は正面から見る、立って見る云々といったふるまいが、決して自明の前提ではなく、さまざまな可能性の一つにすぎないことを意識させるのだ。
 しかしこうした観念的な意義以上に重要なのは、この柵が置かれることによって、空間自体に一種の弾力のようなものが生じる点であろう。すなわち、柵があることで、それに背を向けていたとしても無意識の内にその手前で止まってしまうとすれば、観客の身体もふくめた空間がからっぼの空虚ではなく、柵の置き方次第で何らかの方向づけを生みだす、可塑的で密度をもちうるものであることを物語る。しかも柵の置き方は決定的なものではない。さまざまな置き方が想定できようし、空間はそのつど、いつのまにか表情を変えていることだろう。

 栗本の'over the floor'と平松の'FENCE'はともに、作品の物としての部分が重要なのではなく、それによってからっぽの空間にさまざまな可能性を重ねあわせることを主眼としている。その結果、作品を成立させる条件、空間の枠どりのあり方が問題として浮かびあがった。ただその枠自体、決して固定したものととらえられてはおらず、つねに他の何かと交換可能だという軽快さを帯びている。
 目と手と物質が交渉しあう過程の内で生成し結晶する表現の、充溢した存在感とは対照的な実体感のなさ、ことによれば空虚とも呼べる作品のありようは、ある意味で、一九七○年代の傾向を思わせなくもない。いささか図式化してしまうなら、そこでは、ミニマル・アートやコンセプチュアル・アート、もの派などによって表現のあり方が徹底的に還元された結果、表現がもはや自明なものとは受けとめられえず、同時にその上での、表現の再建が手さぐりで求められずにいなかったのだった。その後八○年代における新表現主義等の流行は、−見、概念的な設定に束縛されない、自由な表現を復活させたかに見えたが、現在から見れば、続くシミュレーショニズム同様、そこに何らかの足場が回復されたわけではなく、根づく場所のない記号の戯れであったことは、しばしば指摘されるところであろう。
 九○年代も三分の二をすぎた現在、少なくとも−つの傾向とて、作ること、すなわち物質との交渉の内に表現を生成させることは、やはり一種の困難、あるいはリアリティをもちがたいものと感じられているように思われる。しかも、七○年代のいわゆる〈プラクティス〉が、結果として根拠のなさをあらわにせずにおかないとしても、むしろだからこそ、無根拠な白紙の上を一点一点充填していくことで、表現を再建するための足ががかりをつかもうとしていたのに対し、現在においては、打たれた点ははじめから、点と点の間のすきまをひろがらせるためにのみ機能しているかのようだ。ここに高度情報化社会のさまざまな徴候を読みとることはたやすいが、それはおく。
 とまれ、そうした状況においていかなる表現が成立しうるかと考えた時、栗本や平松の例を参照して思いうかぶものとして、表現という活動がその中にひたされている空虚を、空虚のままに呈示することで、そこにさまざまな可能性の胚子を宿らせるという方策をあげることができるかもしれない。ただその際、それが表現である以上、何らかの枠どりなしには成立しえないことを忘れてはならず、その枠をいかなる意味においても特権化してはなるまい。美術は、さまざまに可能な活動の一つにすぎず、相対化され、しかし固定されてもいない枠とともにのみ、成立しうる。他方美術は、おのが相対性を意識することによって、その成立の条件となる諸外部を絶対化するのではなく、逆に外部をも相対化しうるはずなのだ。
 もとより、こうした方策を状況に対する唯−の解答として特権化することもつつしまなければならない。実際、本展においても、ここに記した方策自体を相対化するような表現が見出されるはずだし、またそのことに期待するとしよう。

 栗本と平松の作品は物ならぬ空間を主題とするものだが、他方、形に対する可能性が失なわれてしまったわけでもない。たとえば丹羽誠次郎の'pitche's mound rucksack'(『インスタレーションについてのインスタレーション』展、ART SPACE GALLERY、西春町、1997.3.4−3.16)は、円形のレリーフと正方形のキャンヴァスが対をなす作品で、双方同じ中間色で覆われ、正方形の方がモノクローム絵画の体をなすのに対し、円形はタイトルどおり、野球場のピッチャー・マウンドを模しつつ、ファスナーと肩掛け用のベルトのついたリュックサックでもある。正方形と円、平面とレリーフ、視線をはねかえす表面と傾斜にそって視線を滑らせる丸み等々の対比は、そこに、絵というもののあり方をめぐる問いが設定されていることをただちにうかがわせる。
 しかし、こうした観念的な主題の呈示以上に、作品を前にした時感じとられるのは、そこにただようユーモアであろう。円形レリーフは、そのゆるやかな丸みと布地の柔らかさゆえ自足した表情をたたえながら、同時に、リュックサックなればいつでも壁からはずし、背負ったままピクニックにでも出かけられそうだ。他方、ピッチャー・マウンドおよぴリュックサックを指示する記号としての機能は、形の自足によってはぐらかされてしまう。自足しつつ可動性を帯びたところから発するとぼけた表情が、主題の観念性に軽快さを授けている。

 思えば栗本や平松の作品も、展示の形式とそこでの観者のふるまいに対するある種のアイロニーをふくんでいた。ここでとりあげた三つの作品は、いずれも、表現の成立のありように対する批判的な問いかけというモダニズムの遺産を踏まえながら、その間い自体を決して特権化せず、それと戯れ、そこからすりぬけるような軽さと明るさを失なっていない。この軽快さと明るさが、作品を観念に回収させない感覚性をもたらすのだろう。もとより、軽さと明るさは根拠の喪失と裏腹だ。また、観念と感覚の二項対立はいささか古びた問題設定ではあるものの、さまざまな因子の交差の内に成立し、それゆえ決して無条件に自律するものではないかぎりで、ことばや意味に回収されきらない何かこそが表現の位相なのだと、ここでは仮に見なLておきたい。

(三重県立美術館学芸員)

Cf., 栗本百合子《over the floor》(1994)について;
『クリテリオム'94 13. 栗本百合子』展パンフレット、水戸芸術館、1994.11.3-12.18


『美術館を読み解く 表慶館と現代の美術』展図録、東京国立博物館、2001.1.23-3.11
p.31 に図版


井上昇治、「栗本百合子 記憶がしみ出る不在の空間」、『展評』、no.2、2000.1、pp.66-68
中の p.68 に挿図


「Artist talk 01 栗本百合子」、REAR、no.2、Spring 2003、p.5
の挿図1


また
『眼差しのゆくえ − 現代美術のポジション1997』展図録、名古屋市美術館、1997.8.2-9.28、pp.12-13
に同展で展示された作品の図版掲載。その内《the stairwell》(1997)が「階段で怪談を」(1998)で触れた作品です。
同図録 pp.46-47 に作家コメント、原沢暁子による解説、展覧会歴、主要文献等


上掲『美術館を読み解く 表慶館と現代の美術』展図録、2001
p.32 にも《the stairwell》の図版


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上掲『眼差しのゆくえ − 現代美術のポジション1997』展図録、1997
の内
丹羽誠次郎:pp.22-23、58-59
平松伸之:pp.26-27、62-63

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