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     本初仏などv. 仏身論、本初仏、密教など  仏教 Ⅱ 
本初仏など・メモ


   アルヴォン、渡辺照宏訳、『佛教』、1954
   グラーゼナップ、田中教照訳、「金剛乗の成立」、1976
   岩本裕、『密教経典 佛教聖典選 第七巻』、1975
   木村日紀、「印度 Orissa に起源する般若空觀化の Viṣṇu 信仰に就て」、1958
   スヴァヤンブー・プラーナ』について
   酒井紫朗、「本初佛(Ādi-buddha)について」、1964
   栂尾祥雲、「本初仏思想とその展開」、1944頃
   ナーマサンギーティ』について
   佐久間留理子、『カーランダ・ヴューハ』について、2006~2012
   S・B・ダスグプタ、『タントラ仏教入門』、1981
   田中公明、『超密教 時輪タントラ』、1994
◇ アンリ・アルヴォン、渡辺照宏訳、『佛教』(文庫クセジュ 147)、白水社、1954
  原著は Henri Arvon, Le Bouddhisme, 1951

 本書 pp.85-86 で「大乗の佛陀観」として紹介されている、

「アーディブッダ[本源的な佛陀]という本源的な佛陀は獨立して存在し(スヴァヤンブー)、これから世界が現出する。
この佛陀の瞑想から五の《瞑想の佛陀》(ドヤーニブッダ)が生ずる。
同じく現出の作用によってこの五の佛陀から五の《瞑想の菩薩》(ドヤーニボーディサットヴァ)が生ずる。
最後に瞑想の佛陀からの現出に應じて地上に五の《人間的佛陀》(マーヌシブッダ)が現れる。
シャークヤムニはその中の四番目である。
現在の進展週期における第五で最後の佛陀マイトレーヤ[弥勒]はこれに續くことになっている」(改行は当方による)

という記述を読んで以来、ずっと気になっているのが、アーディブッダ(本初仏)のことです。


◇ 当初見かけたのは;

H.v. グラーゼナップ、田中教照訳、「金剛乗の成立」、『エピステーメー』、vol.2 no.7、1976.7:「特集 空海と密教の思想」、pp.95-102
原著は Helmuth von Glasenapp, ‘Die Entstehung des Vajrayāna’, 1936

 本論考の p.101 では、

「多くのタントラの秘密教は全宇宙の不滅の生命原理を構成する原初仏(
ādi-buddha)の存在を説くのである。無始以来目覚めている『原初仏』を説く教説は無著の『大乗荘厳経論(Sūtrâlaṅkāra)』九の七にはじめて言及されているが、そこでは異端として論難されている」

云々と記されていました。
 異端としての論難については、少し下に挙げた

  氏家覚勝、「スヴァヤンブー生起の物語 - 〈Svayambhū-Purāṇa〉の解説ならびに第一~第三章和訳 -」、『高野山大学論叢』、no.11、1976

の注43 に、

「『大乗荘厳経論』(菩提品)において無着は、仏の不一(不異)について、正等覚は福徳資糧を積んだものすべてに可能であって、唯一人の正等覚というものは存在しない。したがって一仏ということはないのであるから、何人たりといえども、資糧をつまない本初仏というものは存在しない(レヴィ校訂本四八頁取意)、とのべている(宇井伯寿「大乗荘厳経論研究」一七五頁参照)。ここでは独存者としての本初仏が否定されており、無着のこの言葉は、多くの学者によってすでに四世紀末に本初仏を主張する者がいたことを示すものとして注目されている」(p.11)

とありました。。



◇ また

岩本裕、『密教経典 佛教聖典選 第七巻』、読売新聞社、1975

 序説 p.20 には、

「このような佛教者の心象は、歴史上のブッダをさえ『佛』たらしめる原初佛(アーディ=ブッダ
Ādibuddha)を出現させるに至った。この発生の過程を明確に示しているのがジャワの密教の綱要書である『聖大乗論』San hyang Kamahāyānikan で、原初佛から法身仏としての釈迦牟尼が現われ、この釈迦牟尼如来から大日如来が現われると説かれ」

云々とあります。
 上に引かれた「ジャワの密教の綱要書である『聖大乗論』San hyang Kamahāyānikan」について→こちら:「中央アジア、東アジア、東南アジア、オセアニアなど」の頁の「vi. ジャワ、バリなど」で挙げた、石井和子による一連の論稿の内、

 石井和子、「古ジャワ『サン・ヒアン・カマハーヤーニカン(聖大乗論)』全訳」、『伊東定典先生・渋澤元則先生古希記念論集』、東京外国語大学 インドネシア・マレーシア語学科研究室、1998

に掲載された邦訳では〈本初仏〉の語は出てきませんが、その第86項に、

「不二と不二智の合体が『光り輝くもの(diwarūpa)』を生むのです」(p.72)、

続く第87項では、

「『am-ah』は不二といわれるものであり、これは又仏陀世尊(bhatāra hyang Buddha)の父でもあるのです。…(中略)…
不二智は女尊般若波羅蜜(Prajñāpāramitā)で仏陀世尊の母であり、
又『光り輝くもの』は仏陀世尊なのです」(p.72。* m と h 、t の下に ・ あり。改行は当方による)

とありました。「2)ジャワ密教の成就法」(p.58/訳者による「はじめに」)を説くこの部分が地上からの上昇とすれば、「3)ジャワ密教の神学」になるといわば始源からの流出ないし発出が説かれます。その第106項での、

「聖なる『光り輝くもの』は仏陀となって顕現しているとのことですが…(後略)…」(p.78)

との問いに対し、続く第107~108項で、

「…(前略)…そのようなものが本尊に姿をかえた仏陀世尊で、
krih字(真言)で白い色をしたドゥワジャ印の釈迦牟尼尊(Śākyamuni)となります。…(中略)…
釈迦牟尼尊の右半身から赤い色をした禅定印の尊が hrih字(真言)で生まれます。これが世自在尊(Lokeśwara)です。
釈迦牟尼尊の左半身からは青色の触地印の尊がbrīh字(真言)により生まれます。これを金剛手尊(Bajrapāni)といいます。
この三者が三宝尊(Bhaţāra ratnatraya)と呼ばれるものであり、…(中略)…
毘盧遮那尊(Wairocana)は釈迦牟尼尊の顔から生まれます。
世自在尊は自らを二分して、そこから阿閦尊(Akşobhya)と宝生尊(Ratnasambhawa)が生まれ出ます。
金剛手尊は自らを二分して阿弥陀尊(Amitābha)と不空成就尊(Amoghasiddhi)が生まれ出ます。
これら五者は五如来尊(Bhaţāra pañca tathāgata)と呼ばれ又別の名を一切智尊ともいいます。
 毘盧遮那尊の一切智(kasarwajñān)のあらゆる活動からイーシュワラ神(Īśwara)、ブラフマー神(Brahmā)そしてウィシュヌ神(Wişnu)が生まれます」(pp.78-79。*h、n の下に ・ あり。改行は当方による)。



◇ 木村日紀、「印度 Orissa に起源する般若空觀化の Viṣṇu 信仰に就て」、『印度學佛教學研究』、vol.7 no.1、1958.12、pp.206-210 [ < J-STAGE ]

 イスラーム侵入の直前、16-17世紀の「般若空観化したViṣṇu 信仰」の指導者の一人、Caitanya DāsaViṣṇugarbha 199-283 の叙述と比較するべく、「ネパールの密教徒が尊重する Svayambhūpurāṇa の思想」として、pp.209-210 に、同工の神統譜が記されています。
 前者の「五體 Viṣṇu 神」では、「無形のAlekha」(不可説)について、

「其最初の眞相は Nirākāra(無形)であり、
其より Dharma が開展す。
次に冥想にあつて創造を開展し、其自體が開展して善世界を顯現す。
其は無形無色なるも其身體より白・黄・赤・紫・青・黒等の色を開展し、
更にこの六色より六體の Viṣṇu 神を顯現す。
其中一體の Viṣṇu 神は Alekha に依って東空(Śūnya)へ、
他の一體は西空へ、
他の一體は南空へ、
他の一體は北空へ置く。
これら四空も Nirākāra と呼ぶ。
斯く實體より四體の Viṣṇu 神を東・西・南・北に開展し、
更に上空へ一體の Viṣṇu 神を開展し、
これを"Vaikuṇţha nātha"と稱す。して、
唯一獨尊の Nirākāra は Candra Śūnya(最高空)に住す。其高貴は全く不可知にして、彼は常に甘露海に住しつつ他の五體の Viṣṇu を開展す。
…(中略)…
尚を五體の Viṣṇu は深く禪那に住し、
其處に五體各自が創造の性力として Brahmā を開展す」(p.209。改行は当方による)。

 後者の「五體禪那佛 Dhyānī Buddha」は;

「世界開闢の初め、唯一獨尊の『自然生尊』(Svayambhūnātha)のみが存す。これを『本初佛』(Ādi Buddha)と稱す。
この本初佛が世界開展に當り、世界維持の爲め『五禪那佛』(Pañca dhyānī Buddha)を顯現し、
大日如來(Vairocana)を上空に、
阿閦佛(Akşobhya)を東方に、
寶生佛(Retna sambhava)を南方に
阿彌陀佛(Amitābha)を西方に、
不空成就佛(Amoghasiddha)を北方に開展した。
…(中略)…
本初佛と不一不二常住不變の存在として『本初法』(Ādidharma)『本初智』(Ādi Prajña)を認め、これを世界開展の活動力としてゐる。この兩者の融合に於て唯一獨尊の顯現が可能となり、
本初佛は開展に於て活動佛として前記の五禪那佛を顯現し、
更に従屬として五菩薩產出の權能を與へる。五禪那佛は其性力たる『本初法』『本初智』と融合し、以下の五菩薩を產出す。
即ち大日如來より『普賢』、
阿閦佛より『金剛手』、
寶生佛より『寶手』、
阿彌陀佛より『蓮華手』、
不空成就佛より『一切手』等である」(pp.209-210。改行は当方による)。



「ネパールの密教徒が尊重する Svayambhūpurāṇa 」、すなわち『スヴァヤンブー・プラーナ』については、

氏家覚勝、「本初仏の塔管見 - ネパールの密教 -」、『佛教藝術』、no.152、1984.1、pp.75-87

でも取りあげられています。同 p.84 の注1 によると、さらに、

氏家覚勝、「ネパールの仏塔信仰について」、『日本仏教学会年報』、no.39、1973、pp.85-101

氏家覚勝、「スヴァヤンブー生起の物語 - 〈Svayambhū-Purāṇa〉の解説ならびに第一~第三章和訳 -」、『高野山大学論叢』、no.11、1976、pp.1-35

があるとのことですが、残念ながら未見。

後者 pp.8-9 では、「〈グナカーランダ・ヴューハ〉第三章中の本初仏の創造説を引用」しているとのこと(別掲の 吉崎一美「Gurumaṇḍala-pūjā とその造形」→こちら:「中央アジア、東アジア、東南アジア、オセアニアなど」の頁の「iii. ネパールなど」、p.92)。
 『スヴァヤンブー・プラーナ』を取りあげているものとして→そちらも:同上の別の箇所も参照

追補:
 氏家覚勝「スヴァヤンブー生起の物語 - 〈
Svayambhū-Purāṇa〉の解説ならびに第一~第三章和訳 -」(1976)
を見る機会がありました。和訳された『スヴァヤンブー・プラーナ』1~3章には本初仏のことが直接出てくるわけではありませんが、前に置かれた解説で、

「(二) スヴァヤンプーの意味 (1)-創造神-」および「(三) スヴァヤンプーの意味(2)-仏の異名-」
として、
〈スヴァヤンプー=自生者または自存者〉が「本初仏の別名であること」、

「もともとこの語は、インド思想史上、宇宙を創造する第一原理的な存在または創造神の形容語として、使用されてきた」こと(p.3)、

仏教側におけるこの語の使用例が

「仏または過去仏の異称」(p.7)を経て、
「インド教のつよい影響を受けたネパールの後期密教では、創造神たる梵天等の性格が、そのままスヴァヤンプーたる本初仏に反映されている」(p.8)

ことなどが説かれていました。また上で触れた「〈グナカーランダ・ヴューハ〉第三章中の本初仏の創造説を引用」した箇所は、

「そこでは毘婆尸仏(vipaśyin)が、大恵(mahāmati)の質問に答えて、本初仏(ādibuddha)を自体とする偉大な観自在(avalokiteśvara)は、世界を創造し保持する世界の王、大自在であると讃嘆したのち、諸仏の語ったところであるとして、つぎのように本初仏の出現をのべている。
 すなわち太初に五大すらなきとき、大空に光焰の形をした汚れなき本初仏が生じた。
 [かれは]三徳をそなえ世界を形態とする、大いなる像をもって生じていた。
 かの自生の(ヽヽヽ)大仏は、本初なき主・大自在であり、世界との結合と名づける三昧を自身で行じた。
 ここには明らかに創造主としての梵天等の性格が、そのまま本初仏に投影されている。『グナカーランダ・ヴューハ』には、右につづいて本初仏の自体(ātman)から生じた一切世界の主たる自在神(sarvalokādhipeśvara =観自在)が、世界を生じる三昧(lokodbhavam nāma samādhi)を行ない、その両眼より月と太陽、頭よりマヘーシュヴァラ(大自在天)、両肩よりブラフマー(梵天)、心臓よりナラーヤナ(那羅延天)、両顎よりサラスヴァティ(弁財天)、口よりヴァーユ(風)、足よりプリティヴィー(火)、胃よりヴァルナ(水)、腸よりアグニ(火)、左膝よりラクシュミー、右膝よりクベーラが世の人々のために生じたとしている」)(pp.8-9。* m の下に ・ あり)。

『グナ・カーランダ・ヴューハ・スートラ』について→下掲の佐久間留理子「諸天を生成する観自在の二類型」(2010)参照。
少し上に挙げた

 グラーゼナップ、田中教照訳、「金剛乗の成立」(1976)

のところでも氏家論文の注43 を参照しました。



◇ その他;

酒井紫朗、「本初佛(Ādi-buddha)について」、『干潟博士古稀記念論文集』、干潟博士古稀記念會、1964、pp.469-483

 〈本初仏〉の思想並びに信仰は密教において成立したものとし、その展開が辿られます。
・まず、『大日経』「具縁品」中の大日如来即ち大勤勇三摩地(Mahā-vīra-samādhi)に、「法を證して自生させるもの達」の語があり、

「チベット譯の自生せる者達とは Svayambhū なる言葉の譯である。この Svayambhū なる言葉が後になって本初佛(Ādi-buddha)の重要な意義となってくるのである」(p.473/3節)。

・また「轉字輪曼荼羅行品」に大日世尊が自らを

「我は世間の本初にして
 世間尊なりと云わる」

と説くのですが、

「ここで用いられた本初とは本初佛を意味する Ādi なる語を用い、またその呼稱を世間尊(Lokanātha)と述べられていることに注意しなければならないのである」(p.474/同)。

・次に『金剛頂経』「初会」で、

「金剛界(Vajradhātu)大菩薩が自身に一切如來の等覺を現證してその後、
金剛界如來となり、
五智…(中略)…の自性としての五●(月へんに古)金剛…(中略)…に入り、
これより一切如來を出生し、一切如來と加地せられ、これと無別となり、
一切如來の獅子座に於て四面を示して(四面大日)住し給い、
かくして、四智の自性たる四佛、阿閦(東)、寶生(南)、無量光(西)、不空成就(北)を出生し、
更に四妃(śaktī)たる四波羅蜜(金、寶、法、業)、
四如來の眷屬としての十六大菩薩…(中略)…、四内供…(中略)…、四外供…(中略)…、四門護…(中略)…の三十六尊が出生されるのである」(p.475/同。改行は当方による)。

「以上この兩者を比較してみると大日經に於ては雜部密教以來の各尊を整理統合した如くであったがこの初會の金剛頂經に至っては金剛界如來の一佛より三十六尊等の佛菩薩が出生することを説かれて、教義的にも一段と進歩が示されているのである」(同)。

・『金剛頂経』「第六会」=『理趣広経』(p.476)、「第十五会」=『秘密集會軌』(pp.476-477)、「五禪定佛」について(p.478)などを経て、「本初佛たる金剛薩埵」と同義語である「自生 Svayambhū」の名に関し、

「この Svayambhū なる言葉と Ādi-buddha がいつ頃同じように用いられるようになったかはいまの處定かではないが釋尊を尊稱する Svayambhū なる言葉が後期密教に入って本初佛を尊稱して呼稱するようになったものであろうと思われる」(p.478)。

・『名等誦 Nāma-saṃgīti 』こと『文殊智慧薩埵勝義名集=聖妙吉祥真実名経』では

「文殊智薩埵の
 智身は自生(Svayambhū)にして」(p.479)、

「佛は無始無終にして
 本初佛は無形なり」(同)

とあって、

「故に本初佛に關する本當のテキストはこの Nāma-saṃgīti であることを知らねばならぬ」(同)。

・「以上の如きこの本初佛の思想の最後の作品は時輪経(Kālacakra)である」(p.481)

と締められます。なお註2、8、15、21、24、26 で

『栂尾全集Ⅴ 理趣經の研究』

が参照されています(pp.482-483)。未見なのですが、下掲の 佐久間留理子、「『カーランダ・ヴューハ』の展開とその宗教的背景」(2012)で本初仏に関連する記述の際参照されていた次の文献を見る機会がありました(p.122、p.127 註42);


◇ 栂尾祥雲、栂尾祥瑞編、「時輪経の研究」中の「一 本初仏思想とその展開」、『遺稿・論文集(四) 後期密教の研究 下 栂尾祥雲全集 別巻第五)』、臨川書店、1989(平成1)、pp.695-722
本初仏と時輪教/本初仏思想の由来/本初仏と大楽思想/本初仏と部族思想/本初仏と変現思想/本初仏と大印思想/結言

「著者の本初仏思想に関する見解は既に大著『理趣経の研究』の余論などに窺えるが、本篇はそれらを新たに整理し直したものとも言える」(「あとがき」(堀内寛仁)、p.1078)。
著述年代は同巻所収の他の遺稿ノート同様、1944/昭和19年頃と推測されるとのこと(同、pp.1079-1080)。

  第2節では『真実名義経(nāma-samgīti)』(* 二つめの m の上に ・ あり)以前に、『初会の金剛頂経』(pp.700-701)、さらに『大日経』(pp.701-702)に本初仏思想の由来がたどられます。
 第4節では、

「この一切の部族を超越せるものが一切有情を利益せんがために、自らの内容を精神的に展開して五智とし、それを形あるものとして外に表現したものが五仏であり、五部族である。すなわち仏形あり、菩薩形あり、女形あり、忿怒形ありて種々様々なるも、毘盧遮那を主とせるものが如来部族であり、阿閦を主とせるものが金剛部族であり、宝生を主とせるものが宝部族であり、無量寿を主とせるものが蓮花部族であり、不空成就を主とせるものが羯磨部族である」(p.707)。

また「尼波羅に於けるサンブナツ(sambhu-nath)の制底」(p.708)ことネパールの仏塔のことも説明されます(~p.710)。



◇ 前掲の 酒井紫朗「本初佛(Ādi-buddha)について」で「本初佛に關する本當のテキスト」とされた『名等誦 Nāma-saṃgīti 』こと『文殊智慧薩埵勝義名集=聖妙吉祥真実名経』の解説は、

桜井宗信、「5 『ナーマサンギーティ』 読経から瞑想へ」、松長有慶編、『インド後期密教[上] 方便・父タントラ系の密教』、春秋社、2005、pp.115-130
〝お経を読む〟//
『ナーマサンギーティ』とは;経名と基本性格/伝本と構成/文殊とのかかわり//
瞑想法とマンダラ;三流派と瞑想法/マンダラ

 酒井論文でも引用されていた本初仏の名が挙げられる第100詩節は、「本経の眼目となる」「(三) 文殊の名号の説示」の例として、pp.119-120 で引かれています。
 3節目の1項、瞑想法を説明する中に、「《大毘盧遮那→本初仏→般若輪→ジュニャーナサットヴァ(智慧薩埵、智慧を本質とする存在)》という独特のプロセス」(p.124)として、

「これは行者が対象を重層的に瞑想して行くもので、まず大毘盧遮那の尊様を思い浮かべ、次にその心臓上に本初仏を、本初仏の心臓上に『ナーマサンギーティ』に含まれる真言を車輪上に並べた般若輪を、般若輪の中心部分にジュニャーナサットヴァを順に観想したのち、自身とジュニャーナサットヴァとの一体感を自覚する」(同、また p.125)。


SHAKYA Sudan、「『ナーマサンギーティ』の註釈に見られる本初仏の解釈について The Interpretation of Ādibuddha : As Described in the Nāmasaṃgīti Commentaries」、『印度學佛教學研究』、vol.58 no.3、2010.3.25、pp.1260-1266 [ < CiNii Articles

 本文は英文ですが、上記リンク先に掲載された和文抄録から引いておくと、

「『ナーマサンギーティ』…(中略)…には異なった立場(瑜伽タントラ系・無上瑜伽タントラ系・Kalacakratantra 系)から著された複数の註釈書がある…(中略)…。
瑜伽・無上瑜伽タントラ系の文献では『本初仏』を法身として解釈し、まさに最初から悟ったものであると理解している。そして…(中略)…その仏はビルシャナ仏をはじめとする五仏の五智を自性とするものであり、さらに観想の対象ともしている。
一方…(中略)…Kalacakratantra 系の註釈においては『本初仏』は自らが存在するもの(svayambhu)で、始めも終わりもない者(anadinidhana、無始無終)として明確に解釈している。
.…(中略)…これらの註釈から判断すると、『ナーマサンギーティ』における『本初仏』は『一切仏を生み出すもの』(NS-60b)、『一切仏の自性を持するもの』(NS-141d)のような名号を持つ文殊の一つの名号以上の意味は持たされていないと考えられる」(改行は当方による)。



◇ また

佐久間留理子、「『カーランダ・ヴューハ』における観自在菩薩の身体観」、『印度學佛教學研究』、vol.55 no.1、2006.12.20、pp.421-416 [ < CiNii Articles

佐久間留理子、「諸天を生成する観自在の二類型」、『印度學佛教學研究』、vol.59 no.1、2010.12.20、pp.525-520 [ < CiNii Articles

佐久間留理子、「『カーランダ・ヴューハ』の展開とその宗教的背景」、『日本佛教學會年報』、77巻、2012、pp.109-129 [ < J-STAGE
DOI : https://doi.org/10.15033/nbra.77.0__109_

 2つ目の論文については→こちら(上掲の氏家覚勝「スヴァヤンブー生起の物語 - 〈Svayambhū-Purāṇa〉の解説ならびに第一~第三章和訳 -」(1976)での『グナ・カーランダ・ヴューハ・スートラ』からの引用に関して挙げています。
 同じ著者による→そちらも参照:「仏教 Ⅱ」の頁の「v. 仏身論、密教など」/『インド密教の観自在研究』(2011)および『観音菩薩 変幻自在な姿をとる救済者』(2015)

 ところで

彌永信美、「第六天魔王と中世日本の創造神話(上)」、『弘前大学國史研究』、no.104、1998.3.30

の註29 に、

「『仏説大乗荘厳宝王経』 T. XX 1050 i 49c13-15 には、『大自在-吉祥』と形容された観世音菩薩が『両眼から日月を出だし、額からは大自在天を、肩からは梵天王を、心[臟]からは那羅延天を、牙からは大弁才天を、口からは風天を、臍からは地天を、腹からは水天を出だした』とする宇宙的イメージが語られている」(p.66)

とありました。『仏説大乗荘厳宝王経』は『カーランダ・ヴューハ・スートラ』の漢訳です(「上掲『カーランダ・ヴューハ』における観自在菩薩の身体観」、p.417 註2)。上掲の氏家覚勝「スヴァヤンブー生起の物語 - 〈Svayambhū-Purāṇa〉の解説ならびに第一~第三章和訳 -」(1976)で引用されていた部分に対応する箇所なのでしょう。
 また「仏教 Ⅱ」の頁の「vi. 仏教の神話など」で挙げた

彌永信美、『観音変容譚 仏教神話学Ⅱ』、法藏館、2002、pp.433-435/第2部XI-2A)

でも取りあげられています。そこではとりわけリグ・ヴェーダ以来の〈プルシャ=宇宙的原人〉のイメージが先行例として挙げられていました(pp.430-433)。
 さらに『不空羂索神変真言経』の

「第30章『根本蓮華頂陀羅尼真言品』で、観音菩薩が『十方一切如来』の前で章題である『根本蓮華頂陀羅尼真言』を唱えると、
…(中略)…
 そのとき、観世音菩薩摩訶薩は、右手を伸ばしておのれの臍の上の大光明を放つ千葉蓮華を(さす)った。するとたちまち、その[蓮華]台上に宝帳が出現し、その帳の中に、『蓮華頂秘密心神通自在曼拏羅観世音菩薩』が出現した。[この菩薩は、]大梵天の相で、顔は柔和に微笑し、三眼四臂を備え、衆宝の瓔珞でできた天服で身を荘厳して、頭頂には化仏をつけた宝冠を頂いていた。…(中略)…身体は種々の妙なる光明を発し日月衆星の光をも覆いつくしていた…)…。
臍の中から『千葉の蓮華』を生じさせ、その蓮華台の上に梵天を現じ出す観世音菩薩 - これは、言うまでもなく宇宙創造のときのヴィシュヌ神の姿を模したもので、ここでも観音はヒンドゥー教神話の宇宙的原人の姿を現わしているのである」(pp.434-435/同上)。

 上掲佐久間留理子「『カーランダ・ヴューハ』の展開とその宗教的背景」(2012)でもプルシャの名が出されるとともに、本初仏について述べられます(p.117/4節)。『グナ・カーランダ・ヴューハ・スートラ』の第4章では、

「三宝の一つである仏宝、即ち包括的な意義をもつマハーブッダはや、アーディブッダ(本初仏)やスヴァヤンプー(自ら生まれたもの)と同一視され(39)、またマハーブッダの本質から観自在が生じたと述べられる」(同上)。

引用中の註39では、

「最初に大いなる空が[存在していた]時、[即ち]五大が非存在であった時、純粋なアーディブッダが光輝の形相として生まれた。[それ]は三つのグナ(特質)の部分と大いなるムールティ(相)を有し、ヴィシュヴァルーパであり、それはスヴァヤンプー、マハーブッダ、アーディナータ、マヘーシュヴァラであり、世界の創造(lokasamsarjana)という名の三昧を自ら行じた」(pp.126-127。* m の下に ・ あり)。

「次に観自在が世界を生成する三昧に入ると、その両眼、額、肩、心臓等の身体各部から、月、太陽、マヘーシュヴァラ、ブラフマー、ナーラーヤナ等の12のヒンドゥー神が出現することが説かれる」(p.117)。

 また『カーランダ・ヴューハ・スートラ』に、

「観自在の複数の毛孔に山や楽園の広がる広大な宇宙があり、六字真言を念ずる生類は、そこに転生して再び輪廻世界にもどらず、涅槃を目指す限りそれらの毛孔に留まると説かれる」(p.118/同)。

 5節では『グナ・カーランダ・ヴューハ・スートラ』の成立背景として、少し上に挙げた氏家覚勝の数篇の論考で取りあげられた(→こちら)、「ネパールで最も有名な仏教聖地スヴァヤンプー仏塔」(p.119)などに関わる「地域的テキストやそこにみられる地域的信仰」(p.120)が指摘されています。



◇ S・B・ダスグプタ、『タントラ仏教入門』、1981

 ワッデルの著作『ラマ教』(Waddell, Lamaism)からの引用で、

「カーラ-チャクラ(時輪)とは、真言乗の未熟な神秘主義と結合したアーディ-ブッダ(本初仏)思想というタントラの単に粗雑な発展形態にすぎず、恐ろしい女神カーリーを五仏のみならず本初仏自身とさえ結合させて、創造と自然界の神秘力を説明しようとするものである。このように、本初仏は瞑想により生殖力を有するエネルギーを放出し、このエネルギーによって恐ろしい女神サンバラーと他の畏怖すべき悪魔のような女神ダーキニー及び女神カーリー型のすべてのものが、彼女らと同じくらい恐ろしい配偶者(これらは本初仏と五仏の影像だと考えられている)を獲得する。そして、時輪、ヘールカ、アチャラ、ヴァジュラバイラヴァなどの名のもとにあるこれらの悪魔的な〈諸仏〉は、天上の諸仏のもつ能力にも劣らない諸力を有すると同時に、凶暴で血を渇望するものであり、かれらをなだめるには供物、犠牲、マンダラ、真言呪法などによるかれら自身への不変不断の供養と、かれらの配偶者たちの活動によるしかない、と信じられている」(pp,75-76/第3章2節)。

 「第4章 タントラ仏教徒の神学的立場」の「一 金剛と金剛薩埵」には、

「われわれは既に、大乗仏教が徐々にではあるが一層ウパニシャッドの思想に接近してゆき、多くのヴェーダーンタ的な観念が暗黙のうちに、空観と唯識説の教義のなかで暗示されるようになっていたことの次第を述べてきた。さらに、法身という大乗の観念が、民間信仰における一神教的な神の観念に近づいていったことの次第についてもまた示唆してきた。大乗においてそれとなく暗示されていたことが金剛乗教徒によって、意識的にせよ無意識的にせよ、大いに発展させられたのだ」(p.90)

と記されます。〈法身〉については、「第1章 序論」の第2節「タントラ仏教の発展と関わりをもつ大乗の特徴」で述べられていました(pp.24-28、また pp.47-48/第1章3節4)。第4章1節に戻ると、

「金剛薩埵が一切の根本となる仏陀、すなわち本初仏だとされる。この至尊は、世尊の五属性のような五種の智[五智]を有する。これらの五属性より五種の瞑想(禅定)が生じ、これらの五禅定より五仏として知られる五仏格が生ずる。これらの五仏は五蘊、すなわち色(物質的要素)、受(感覚)、想(概念的理解)、行(統合的複合の精神状態)、識(意識)を統轄する五仏格である。それらは、
(1)ビルシャナ(毘盧遮那)、
(2)宝生ないし宝幢(『秘密集会タントラ』の12頁参照)、あるいは宝主(『五次第』の第1章参照)、
(3)無量光ないし無量寿(『秘密集会タントラ』の12頁参照)、
(4)不空成就ないし事業主(『五次第』参照)、
(5)阿閦、
の各々である。
 この五仏のパンテオンは、サーンキヤ哲学からの影響がみられる後期仏教において発展したものと思われる。仏教徒の五蘊が、サーンキヤ学派の五大(五つの物質構成要素)つまり地・水・火・風・空と混同された」(pp.92-93。(1)~(5)での改行は当方による。pp.94-96も参照)。

 第4章の「二 菩提心」の「(二)般若と方便としての空性と慈悲」で、「ネパール仏教の四つの哲学大系」の内

「アイシュヴァリカ派では、この般若と方便がアーディ-プラジュニャー(本初般若)とアーディ-ブッダ(本初仏)だと定義され、物質世界は両者の合一より生じたとされる。プラージュニカ派によれば、活動力の原理としての仏陀は最初、還滅つまり本初般若より生起して彼女[本初般若]と交わり、その交合より現実の物質世界が生ずる、とされる」(p.102)。



◇ 田中公明、『超密教 時輪タントラ』、1994

 「終章 『時輪タントラ』研究の意義と展望」に、

「『時輪タントラ』は、従来から多くの誤解にさらされてきたが、その中でも最たるものに、『時輪』は最高神による宇宙の創造と破壊を説くというものがある。
 これは宇宙の生成と消滅こそ『時輪』であるという思想を、宇宙を創造・破壊する者が『時輪』、あるいはこの聖典の本尊『吉祥最勝本初仏』であると誤解したものと思われる。
…(中略)…
しかし『時輪』の世界観は、宇宙の生成と消滅を説くといっても、天地創造に始まり最後の審判に終わるキリスト教的な閉じた時間論ではないし、神々が遊戯として行うヒンドゥー教的な創造と破壊でもないのである。宇宙の生成と消滅は、最高神の恣意ではなく『時間的周期』によって生起する。むしろ因果律自体が、最高原理『時輪』だといってもよいように思われる」(p.229)。

「また『時輪』系のテキスト、とくに大註釈『ヴィマラプラバー』では、ヒンドゥー教の有神論に対する批判が、執拗に繰りかえされているのを見ることができる。これらを読むにつけても、『時輪』の宇宙論は、予想以上に仏教の正統的立場に忠実だったように思われる」(p.230)

とありました。


 他に次の論考があるとのことですが、残念ながら今のところ未見;

杉本卓洲、「ブッタのブラフマー神化 - 本初仏(アーディ・ブッダ)の淵源 -」、『インド密教の形成と展開:松長有慶古稀記念論集』、法蔵館、1998
2024/12/29 以後、随時修正・追補
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