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おまけ < マネ作《フォリー・ベルジェールのバー》と絵の中の鏡
レポート、1984年2月

喜多川歌麿筆《姿見七人化粧》を巡って

石崎勝基
 歌麿の筆になる《姿見七人化粧》と題された作品は現在一点のみが残っており(図1)、鏡に向かって髪を直す女性が描かれている。女性の後姿を画面上端に寄せ、左側に画面全体の半分以上を占めるであろう円鏡を大きく配している。背を見せる女性はやや前傾みで、左下がりの視線を鏡に向け、それに対し鏡には女性の正面像が大きく映っている。後姿の実物は、画面に左肩から左腕は肱の上位いまでしか表わされていないので、宙に浮いたような不安定な感じで、右上から左下へ、と云う方向性を強めている。鏡に映る像の方も、肩を抜いたような細そりした姿で、実体に平行に配される。特に左腕の輪郭は実物の同じ部分とはっきり平行線を形づくっている。このやや不安定な形の配置を安定させるのが、鏡の太い枠の描く帯であろう。画面左、画面右の女性頭部の最も高い所からほんの少し高い点からゆっくりと右へ降りて行く。始めの傾斜はごく緩やかで、画面の外では画面上辺と平行にずっと左へ伸びて行くだろうと感じさせる。これが画面下部での不安定さをまず抑える。枠は女性の実物の顔の下を通る。このため女性の実体と映像が単に並置されるのではなく、強く結び付けられる事になる。鏡の枠は最後に下の方で曲がって左方に返る。枠全体の描く輪郭は正確な楕円形ではなく、強くひずんでいる。これで女性の実物、鏡の枠、映像が示す左上から右下へと云う平行する流れを締めつけ、画面の形態の配置に緊張感を与えている。枠の太さも上と下では異なり、上の方が太く、下では細くなっている。女性がやや前傾みになっているのだから、下の方が手前にあるはずだとすれば、遠近法的には手前にある下の方を太く、上の方を細くして奥行を出す所だ。それが逆になるのは、女性と鏡の関係が暗示する奥行に対して、画面を平面のパターンに引き戻そうとすると同時に形態の不安定さを画面に定着させる。こうして画面は奥行と平面性の緊張をはらんだ均衡に達する。これが許されるのは一つに、女性の後姿を右に寄せ、画面の大部分を鏡とそこに映る像が占める事による。実際この鏡は、後に見る他の作品に現われる鏡よりかなり大きく、当時の日本の鏡の製作技術がどのようなものか調べるに至らなかったのだが、いずれ一般的なものではなく、作者の造形的要請が強く働いているのだろう。こうした造形的な構造を際立たせるべく、歌麿の他の美人大首絵と同じく、背景は無地で装飾も切り詰められ、辛うじて髪の毛とその飾りが画面にアクセントを与えている。色彩も抑えた調子で線もゆったり充実して、形の関係を顕わにする。ただこの形の関係と云う点で、この作品は他の美人大首絵と異なって来るのだ。即ち他の大首絵のように、単一の平面上に、単一の空間に位置する形態が、充実した線と色面によって描き止められるのではなく、鏡と云うモティーフを導入することによって、実体とその映像との関係から、先に見たような奥行と平面性との緊張をはらんだ空間が生み出される。観る者の視線は後姿の女性の視線と重なって鏡面へと進み、次いで映像の視線と共に折り返され、実体と像の間を往復する。こうして空間は意識の揺らぎに満たされる。鏡はそれが鏡であると意識される時、主体と客体の間に距たりを生ぜしめ、世界の諸事象を分節化、或る関係を定着させるが、同時にその輝く深みによって、そこから発せられる牽引によって、距たり、秩序に揺らぎを忍び込ませる。ここでは実体を右に寄せ鏡を大きく配した事が、画面を安定させると同時に、鏡像の方に優位を-それに対する項が存在すると云う限りでの-与えることになった。主体はそれが主体である限りにおいて決して自分自身には捉え得ないものであり、他者-その主体は不可知であり仮面(ペルソーナ)(1)を通じてのみ把握される。見えないものが見えるものとなる。女性の化粧と云う行ないの意味の一つもここにあるのだろう。
  歌麿《姿見七人化粧》1792-93
図1 喜多川歌麿《姿見七人化粧》 1792-93










1. 仮面にも鏡にも裏が無い。

 西洋美術においては鏡のモティーフは、ギリシア・ローマより、しばしば化粧の主題と結びついて描かれてきた。中世、また特に北方ルネサンスでは、この世の移ろい易さ、ヴァニタスの意味をかぶせられることが多い。しかし特に興味深い作例が見出されるのは、遠近法の成立したルネサンス以後であろう。鏡は常に室内に置かれるのだが(水鏡を除く)、ファン・アイクの《アルノルフィーニ夫妻》(→こちらを参照:当該作品の頁)やベラスケスの《ラス・メニーナス》(→そちらを参照:当該作品の頁)では、単に実体と像を並置するのではなく、それが室内空間の一番奥、観る者が映るべき位置に配され、意識の交錯に満ちた空間を生み出している。
 日本東洋においてはどうなのか? 浮世絵以外の領域を調べる余裕はなかったのだけれど、浮世絵においてはその風俗画としての性質上、少なからぬ作例を見出すことができる。歌麿以前では、鈴木春信(図2)、磯田湖竜斎(図3)、鳥居清長(図4)などに女性が鏡に向かって化粧している場面を描いた作品がある。ただこれらはいずれの場合も、鏡の背をこちらに向けており、一つの画面に同一の人体なり物なりの実体と映像を同時に示すものではない。手近にある範囲で実物と像を一つ画面に描いたのは西川祐信の一点(図5)のみだった(2)。勉強不足のため自信を持っては言えないけれど、歌麿以前には鏡像と実体を同時に描くと云うのは、比率にすれば鏡の裏をこちらに向けたものより少ないのだろうか?
 以上は女性の化粧を描いた美人画に属するものだが、浮世絵のもう一つの柱である役者絵にも鏡が登場する。勝川春章(図6、7)、春好(図8)の俳優の楽屋を描いた作品がそれである。男性の化粧図と云うのは、西洋には恐らく見当たるまい。描かれる鏡は女性の化粧図に現われるものよりやや大きく見える。先の歌麿の画面の鏡はこちらに近いだろうか。またここに掲げた図7と図8では鏡面に何も映っていない。清長にも同様の例があるが(図9)、西洋絵画においても〈映らない鏡〉の作例を幾つか挙げることができる-ティツィアーノ《化粧台に向かう若い女性》(ルーヴル及びワシントンのナショナル・ギャラリー)(→あちら:当該作品の頁らを参照)、ティントレット《スザンナと二人の長老》(ウィーン、美術史美術館)(→ここを参照:当該作品の頁)など。
 
春信《坐鋪八景・鏡台の秋月》1766
図2 鈴木春信《坐鋪八景・鏡台の秋月》 1766

湖龍斎《今様芸婦風俗・身仕廻のてい》
図3 磯田湖龍斎《今様芸婦風俗・身仕廻のてい》

清長《当世遊里美人合・多通美》1783頃
図4 鳥居清長《当世遊里美人合・多通美》 1783頃

西川祐信《化粧美人図》18世紀
図5 西川祐信《化粧美人図》 18世紀

2. 先日大阪で開かれた『肉筆浮世絵名作展』に出品された菱川師宣《吉原風俗図巻》に、化粧している女の顔が映った鏡が描かれた部分があった。(
:『肉筆浮世絵名作展-咲き薫る江戸の女性美-』、朝日新聞社主催、名古屋・松坂屋、大阪・心斎橋・そごう、東京・日本橋・東急、京都・四条・高島屋、1984、cat.no.5。ただし掲載された図版中には見当たらない)


春章《楽屋の三代大谷広次》1783頃
図6 勝川春章《楽屋の三代大谷広次》 1783頃

春章《楽屋内市川団十郎》1782-83
図7 春章《楽屋内市川団十郎》 1782-83

春好《楽屋の初代中村仲蔵》
図8 勝川春好《楽屋の初代中村仲蔵》

清長《当世遊里美人合・橘》1782
図9 清長《当世遊里美人合・橘》 1782

 さて歌麿になると、鏡の裏をこちらに向けた画面も多いが(図10)、鏡面をこちらに向け、そこに画面内の人物が映っている様を描いたものも少なくない。初期のやや雑然とした群像(図11)から、《姿見七人化粧》のように大首絵に鏡を配したもの(図12、13)-この二点は図1より鏡と女性の間隔は離れていて、その分画面は落ち着くが、図1の緊張した充実感は見られない。図14は合わせ鏡が描かれている。西洋でもジョヴァンニ・ベリーニの例があるが(《鏡を持つ若い女性》、ウィーン、美術史美術館)(→そこを参照:当該作品の頁)、あまり多くの例が現われないのは、二次元の平面で絵にしにくいからだろう。図17では母親の視線が鏡で折れて赤子に達すると云う複雑な空間が作られている。鏡の角度はやや怪し気ではないだろうか。以上の画面では、鏡はいずれも画面に対して斜めに配されていて、ファン・アイクやベラスケスの如く画面に平行に鏡が置かれてはいない。室内の、ある限定された奥行を有する空間の内に鏡を配して空間を多層化する、と云った事は線遠近法の成立と云う特殊な事情が必要だったのだろう。春信、清長のような背景と人物の調和を計った画家が鏡の特性を生かした画面を作らず、歌麿のように背景を無地にして了った画家がそれを行なったと云うのも面白い点だ。西洋との違いについては、更に日本では鏡面はどちらかと言えば明るく、映像もはっきりした線と固有色で描かれるのを(後には少し変化する)、西洋近世における線遠近法と結びついた明暗法、光と大気の描出と対比させられよう。先の〈映らない鏡〉でも、浮世絵では鏡面は白いのに対し、西洋では暗くて何も映っていないのである(3)。
  歌麿《婦人相学十躰・面白き相》1794頃
図10 歌麿《婦人相学十躰・面白き相》 1794頃

歌麿《青楼仁和嘉女芸者部・大万度 末ひろ屋しま富 とミ吉》
図11 歌麿《青楼仁和嘉女芸者部・大万度 末ひろ屋しま富 とミ吉》

歌麿《化粧美人》1795-96頃
図12 歌麿《化粧美人》 1795-96頃

歌麿《名所腰掛八景・手鏡》1795-96頃
図13 歌麿《名所腰掛八景・手鏡》 1795-96頃

歌麿《高島おひさ》1795頃
図14 歌麿《高島おひさ》 1795頃

歌麿《化粧二美人(髪結)》1794-95頃
図15 歌麿《化粧二美人(髪結)》 1794-95頃

歌麿《母と子》1797
図16 歌麿《母と子》 1797

歌麿《母と子の覗き遊び》1799頃
図17 歌麿《母と子の覗き遊び》 1799頃

3. 図22も合わせ鏡であるはずだが、前にあるべき鏡は画面に現われていない。
 歌麿以後、二代歌麿(図18)、千歌信(図19)、国直(図20)、英泉(図21)などが鏡像のモティーフを取上げたが、特に鏡の問題に関心を示したのは、歌川国貞であろう(図22、23)。内、《今風化粧鏡》の連作は、画面一杯に鏡のみを配し、そこに映る像を描いている。図23ではそれが更に合わせ鏡になっている(4)。画面全体を鏡として描くと云う着想は(他に北松の作例、参考:図24)、西洋ではパルミジャニーノの《凸面鏡の自画像》(→あそこを参照:当該作品の頁)に見られ、他に瞞し絵(トロンプ・ルイユ)の類いに同様の例があるのかも知れないが、19世紀後半になると、アングルの女性肖像画数点(→こっち:当該作品の頁そっち:当該作品の頁、またあっち:当該作品の頁を参照)を経てM.カサットの《桟敷席のリディア》(フィラデルフィア美術館)(→こなたを参照:当該作品の頁)、マネ《フォリー・ベルジェールの酒場》(→そなたを参照:当該作品の頁)で画面の背景全体を、枠を示すこと無く鏡が占めるようになる。更に20世紀、エッシャー、リキテンシュタイン、M.ピストレット、金洪疇らが画面を鏡として描いた作品を作る。これは一つに19世紀後半以来の絵画の平面化の歩みと軌を一にすると共に、また鏡と云うモティーフに限って言えば、奥行のある空間と逸話性の喪失が、却って絵画を観念化したことを示している。
 国貞の鏡に対する関心をマニエリスム的と呼べるのかどうかは分からない。ともあれこうして振り返って見ると、歌麿の《姿見七人化粧》が古典的な均衡、充実感を呈している、と語ることはできるだろう。

 
  二代歌麿《六玉川月眉墨・化粧》
図18 二代歌麿《六玉川月眉墨・化粧》

千歌信《娘に子供》
図19 千歌信《娘に子供》

国直《夏》
図20 歌川国直《夏》

英泉《浮世四十八手・身仕舞の手》
図21 渓斎英泉《浮世四十八手・身仕舞の手》

国貞《当世美人合・身じまい芸者》1827頃
図22 歌川国貞《当世美人合・身じまい芸者》 1827頃

国貞《今風化粧鏡・合せ鏡》1823頃
図23 国貞《今風化粧鏡・合せ鏡》 1823頃

4. 註1に挙げた師宣の作の他の部分に、暗い何も映っていない鏡が描かれている。

画登軒春芝《尾上多見蔵》1827頃
図24 画登軒春芝《尾上多見蔵》 1827頃

補遺

 歌麿を始めとして、浮世絵、ひいてはいわゆる古美術において鏡が描きこまれた作例はまだまだ山ほどあるのでしょうが、ここでは歌麿のものをいくつか追加しておきましょう。

 たしか元の勤め先で開かれた『上村松園展』(2014、→あなたを参照<三重県立美術館のサイト)あたりで気になった憶えがあるのですが、風俗画などに蚊帳や簾を描いたものがぼちぼち見受けられます。空間の分節が視覚的な役割だけではなく、何らかの社会的な意味合いもはらんでいそうな点はさておき、歌麿も何度かとりあげていました。その内補図1に挙げた作品は、蚊帳と鏡を組みあわせるというものです。


 「マネ鏡」の文献追補に挙げた Jonathan Miller, On Reflection, 1998 には、そこでも記したように歌麿が3点掲載されています。その内 p.150 の作品はこの頁での図12 にあたりますが、後の p.155 と p.211 の作品も面白い図柄なので、補図2と3として載せておきましょう。
  歌麿《遊君鏡八契》1798-99頃
補図1 歌麿《遊君鏡八契》 1798-99頃

歌麿《玉屋内花紫 しらべ てりは 六玉川》1793
補図2 歌麿《玉屋内花紫 しらべ てりは 六玉川》 1793

歌麿《恵恩芳子 児戯意乃三笑》1802頃
補図3 歌麿《恵恩芳子 児戯意乃三笑》 1802頃   
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