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『蟋蟀蟋蟀』、no.8、2000.9.9, pp.16-19
(特集:ウラジーミル・ソローキン)
 

ロシア・アヴァンギャルドと日本の一九二〇年代
ふくふく、ふさふさ、ごごごご、あるいは一千一秒のはざまに

石崎勝基(旧套的形式主義者)
 わかりました。あなたは世界を革命するしかないでしょう
『少女革命ウテナ』
 

 『モデルとしての絵画』の序説においてイヴ=アラン・ボワは、批評の対象となる作品の形式には、二つのレヴェルが区別できると説く(1)。形態論(モルフォロジー)のレヴェルと構造のそれである。もっぱら前者に意を注いだのがグリーンバーグの形式主義(フォーマリズム)とされるかたわら、後者を説明するのにボワは、ロシア・フォルマリズムの批判者であったメドヴェジェフ/バフチンの『文芸学の形式的方法』を援用する。この本には邦訳もあるのだが未見につき(2)、とりあえずボワの引用をたどるなら、メドヴェジェフ/バフチンによると、リーグル、ヒルデブラント、フィードラーといったヨーロッパの形式主義者たちとちがって、ロシア・フォルマリストたちは形式自体にイデオロギッシュな意味があることを見失ない、その結果、形式と内容の二元論に陥ったのだという。
 ボワは、ロシア・フォルマリズムに対するこうした批判には留保をおきつつ、グリーンバーグは徐々に、そして晩年のヴェルフリンにはあてはまるものとする。ちなみに少しずれるが、リーグルにおいては、「芸術意欲が必然的に技術、素材、実用目的といった要素と敵対的な関係にあり、〈葛藤〉を繰り返す」のに対し、「ヴェルフリンに決定的に欠けているのはこの矛盾の認識である」と、田中純がのべたことを思いだしておいてもよいだろう(3)。また、やはり少しずれるが後期のグリーンバーグに関して、還元主義の論理と目利きとしての直観的な判断との間に、亀裂が走っていたことを忘れるわけにはいくまい(4)。
 もどって続く節で、批評に対する社会性政治性の要請に対してはエイゼンシテインが、形式主義を非歴史的だとする批判に対しては、芸術作品の絶対的な自律性を主張したシクロフスキイによる初期のテーゼを修正したという、後期のロシア・フォルマリズム、すなわちトゥイニャノフの「文学の進化について」(一九二七)やトゥイニャノフとヤーコブソンの「文学と言語の研究における問題」(一九二八)が、バルトとともに引きあいに出されることになる(5)。
 ところでトゥイニャノフは、「ある事実が文学的なものとして存在するのは、ひとえにその示差的性質による(すなわち、文学の系列あるいは文学外の系列との相関性による)」と記した(6)。日常言語における〈自動化〉に対し、詩的言語における〈異化〉が対置されるのも、その現われの一つということになるのだろう。トニー・ベネットによれば、文学的なるものの示差的性格という定義は、ソシュールにおいてある言語記号が、指示対象との対応によってではなく、ラングという体系の内での他の記号との関係によって位置づけられるとされたことに応じている(7)。その結果、テクストに超越的な実体性が与えられることは回避されるものの、他方、ソシュールが共時的分析と通時的分析を分裂させてしまったのと同様にして、ロシア・フォルマリズムにおいても文学の変化の過程は充分に説明しきれず、その課題に応えるには、バフチンを待たねばならなかったという。
 後期ロシア・フォルマリズムにおける歴史性の問題の評価については研究者に委ねるとして、たとえば〈異化〉をめぐる例証などでも、素朴な意味での歴史に対する相対主義が目につく(8)。この点で、ロシア・フォルマリズムがロシア未来派の文学者たちの活動と同伴していたことを思いだし、そこにある種の前衛主義的な身ぶりを見てとることができるかもしれない。

1. Yves-Alain Bois, Painting as Model, Cambridge, Massachusetts, London, 1990, pp.xvii-xx. また林道郎、「美術史を読む 第五回 イヴ=アラン・ボア」、『美術手帖』七二四号、一九九六.五、一五二〜一五五頁参照。

2. バフチン、『文芸学の形式的方法』、桑野隆・佐々木寛訳、新時代社、一九八六。刊行が開始された『ミハイル・バフチン全著作』第二巻(水声社)に所載予定とのこと。桑野隆による部分訳が『ロシア・アヴァンギャルド 6 フォルマリズム−−詩的言語論』(国書刊行会、一九八八)に掲載。

3. 田中純、「美術史の曖昧な対象」、『批評空間 1995《臨時増刊号》モダニズムのハード・コア』、二八〇頁(田中純、『残像のなかの建築』、未来社、一九九五、十八頁)。またヒルデブラントについて、岡崎乾二郎、「現実について」、『風の薔薇』三号、一九八四夏、七四〜七五頁参照。

4. 「……伸張され釘や鋲で留められたキャンヴァスは、すでに絵画として存在する−−ただし、必ずしも成功した絵画としてではないが」。クレメント・グリーンバーグ、「抽象表現主義以後」、川田都樹子・藤枝晃雄訳、前掲『批評空間 モダニズムのハード・コア』、六三頁
[John O'Brian ed., Clement Greenberg. The Collected Essays and Criticism, Vol.4, Chicago, London, 1993, pp.131-132]。また松浦寿夫、「経験と定義」、出典不詳[追記:10+1, no.3, 1995 SpringThierry de Duve,‘The Monochrome and the Black Canvas’, Serge Guilbaut ed., Reconstructing Modernism, Cambridge, Massachusetts, London, 1990 (Th.de Duve, Kant after Duchamp, Cambridge, Massachusetts, London, 1996, chapter 4)参照。

5.
Bois, op.cit., pp.xx-xxiii.

6. トゥイニャノフ、「文学の進化について」、松原明訳、前掲『ロシア・アヴァンギャルド 6 フォルマリズム』、一九二頁。

7. トニー・ベネット、『フォルマリズムとマルクシズム』、鈴木史朗訳、未来社、一九八六、三〜四章。

8. たとえば、前掲『ロシア・アヴァンギャルド 6 フォルマリズム』、二六〜三二頁(シクロフスキイ)、一九三〜一九四頁(トゥイニャノフ)など。
   「日本の前衛的な美術が未来派の受容に始まっているということ、すなわち、日本では立体派に先立って未来派が紹介され受け入れられたという点」に、「日本近代のむずかしさを見るような思いがする」、と北澤憲昭はのべた(9)。こうした事情自体はロシアでも同様だろう。もとより、ロシア未来派とイタリア未来派は、それぞれ固有の文脈の上に成立しており、美術の領域にかぎっても、ネオ・プリミティヴィズム、光線主義、立体未来派といった分岐をロシア未来派は擁している。他方、前衛主義や速度への欲望を別にしても、絵画の様式において、流動性の横溢と形態の分解、表出的であれ装飾的であれ色彩の強調といった相は、イタリア、ロシア、そして日本の各未来派のみならず、レジェ、オルフィスム、ピュトー派、マルク、ヴォーティシズム、シンクロミズム等、中央としてのパリと地方・辺境という区分をこえて席捲した(10)。これらをピカソとブラックのキュビスムの亜流なり通俗化と呼ぶのはやさしく、事実そうした面も否みがたいにせよ、ある意味で、キュビスムと未来派との時系列上の先後にかかわりなく、未来主義の優位は時代の常数だったのであり、逆にそうした土壌から、ピカソとブラックのキュビスムが浮上したと見なすこともできるかもしれない。
 さて、ロシア・アヴァンギャルドが大正期あるいは一九二〇年代前半の日本と交差するにあたっては、一九二〇年十月から二二年八月まで滞日したダヴィト・ブルリュークらによるロシア未来派の紹介、一九二二年六月に来日し、五八年七月まで日本に留まることになるワルワーラ・ブブノワによるロシア構成主義の紹介が大きな役割りをはたした。その詳細については五十殿利治の著述を見ていただくとして(11)、ここでは、ブブノワが『思想』誌によせた「現代に於けるロシア絵画の帰趨に就て」を一瞥しておこう(12)。
 まず、造形的行為が「形と材料との組織立て」と定義され、「描写」の問題と対置される。その視点から、「描写」の優位がゆらいだ「原始派」と「立体派」、「描写」を徹底的に否定した「形而上派」、その最終段階として「物質を以て空間を構成すること」、すなわち二次元から三次元への拡張がはたされ、実用性をもった「機物」を造りだす「建設主義」にいたるという展開をたどる。最後にステパーノワ、ポポーワ、ロトチェンコの立体未来派の作品、無対象絵画、レリーフ、構成物など、そして工場設備の写真が図版として、その分析とともに掲載された。
 かくして、再現性の否定と無対象絵画の成立、そして〈コンポジションからコンストラクションへ〉と、構成主義/生産主義が歴史的視野の内に位置づけられることになる。その際、物質としての素材の役割がつねに重視されている点が目をひく。ちなみにボワによれば、グリーンバーグはメディウムの重要性を説きながら、個々の作品の実際の素材についてはほとんど斟酌しなかった(13)。ここに形式をめぐって、形式と内容の二元論とならぶもう一つの錯誤、形式=形相と質料=物質の二元論が生じるのだという。これに対しボワが提唱する〈唯物論的形式主義〉においては、作品の「生産手段のささいな細部」が問題となる。
 バルトやバフチン経由であれ、ロシア・フォルマリズムにボワが目を配るのは、形式主義の系譜や、批評と同時代の状況との交渉への関心にくわえて、こうした物質性への着目がその一因なのだろう。いわゆるロシア・フォルマリズム自体は、文芸学ないし詩学の領域を持ち場にしていたとして、たとえばヤーコブソンが、自分に影響を与えた者の内にピカソやブラックの名をあげたり、マレーヴィチとの交友にふれたりした一方(14)、美術の分野でも、作家たちの議論にとどまらず、タラブーキンの「絵画理論の試み」(一九二三)のような、芸術学に形式分析を定着させようとする試みがなされていた(15)。当時のロシアにおいては、単に各ジャンルが越境されたという以上に、それぞれが厳格な自律性を請求しながら、バフチン風のポリフォニーを奏でていたといえるのかもしれない。
 ところでブブノワは、一九二二年の二科会第九回展に、単純化された人物の顔と抽象的な線の群れが同居するリノカット『グラフィカ』とともに、背景はともあれ、人物の描写に関しては写実的といってよい油彩『肖像』を出品した。後者についてブブノワは、モデルの周囲の人々にとっては意味があっても、関係のない展覧会に出品されるべきではないとのべている(16)。ブルリュークも滞日中、自他の未来派系の作品を展示する以外に、「写生派、印象派」風の作品を制作した(17)。村山知義は一九二二年二月から暮れまでのベルリン滞在中、ダダ的なコラージュ/アッサンブラージュを試みるかたわら、クラナッハ等に触発されたという写実的な肖像画を残している(18)。村山は後に、ファン・ドゥースブルフに捧げた幾何学的な傾向の抽象も制作した(19)。
 こうした相矛盾する様式の共存は、それを未来派/ダダ的な渾沌の現われと見なすかどうかはさておき、ブブノワ自身の論考をその一例とする、単線的な展開の図式にあらがわずにいない。とすれば、シュプレマティズムから具象へのマレーヴィチの<転向>も、時系列上は前後にならぶにもかかわらず、外圧に強いられたというだけではないのかもしれない。
9. 北沢憲昭、「前衛美術の動向 美術の一九二〇年代=ノート」、『美術手帖』四六七号、一九八〇.七、一六〇頁。

10. 早見尭、「統合性−全体性の解体としての動きと同時性」、『ユリイカ』十七巻十二号、一九八五.十二、八二頁。

11. 五十殿利治、『大正期新興美術運動の研究』、スカイドア、一九九五(改訂版、一九九八)、三〜五章。また五十殿、「ロシア・アヴァンギャルドと日本−−大正の新興美術を中心にして」(『ロシア・アヴァンギャルド 4 コンストルクツィア−−構成主義の展開』、国書刊行会、一九九一)参照。

12. ヴェ・ブブノーヴァ、「現代に於けるロシア絵画の帰趨に就て」、小野英輔・小野俊一責任訳、『思想』、一三号、一九二二年十月/『ブブノワ1886ー1983』展図録(町田市立国際版画美術館、宮城県美術館、一九九五)、五六〜六四頁に再録。また五十殿、前掲書、二五二〜二五七頁参照。

13.
Bois, op.cit., p.xix.

14. 「ロマーン・ヤーコブソンとの対話 詩−言語学−革命」、相島豊司ほか訳、『芸術倶楽部』、一九七四.一−二、一七九頁。

15. タラブーキン、「絵画理論の試み(抄)」、相沢直樹訳、前掲『ロシア・アヴァンギャルド 4 コンストルクツィア』。

16.
V.Boubnoff、「製作所感 作者より、題名の代りとして」、『みづゑ』二一二号、一九二二.十/前掲『ブブノワ1886ー1983』展図録、一九六頁に再録。同七二頁に図版。また五十殿、前掲書、二四五〜二四八頁参照。

17. 五十殿、前掲書、三章。

18. 水沢勉、「逆光のリアリズム−−村山知義の『ヘルタ・ハインツェ像』について」、『修復研究所報告』八号、一九九二。また北澤憲昭、『岸田劉生と大正アヴァンギャルド』、岩波書店、一九九三、V−2章参照。

19. 五十殿、前掲書、六五九〜六六二頁。
   一九二三年の『マヴォ』第一回展によせた展評の中で浅枝次朗は、村山知義のコラージュを導入した作品にふれて、「……靴や靴下や頭髪などを用いて連想心理を起させんとしたものに対しては僕は同意できない。…(中略)…村山君の絵には文学的な純要素も混入している。これらは芸術の価値を減殺しこそすれ決して積極的効果はない。美術の進化は美術の要素を棄てて他に走ることではなく、美術に混入している他のものを棄てて美術の純要素を強調することにありはすまいか」と記した(20)。
 「浅枝は一九一六年に柳瀬正夢とともに『分離派洋画協会』を結成した画家」とのことだが(21)、これに対し村山は、「私が作ろうとしているものは、美術なんていう狭いカテゴリーに入れることの出来るようなものではない」、「大体、純芸術なんていうものを私は断然認めないのだから、積極的効果も消極的効果も、美術の純要素も混入物もあったものではない」、「私に於ては形成芸術はその六つの部内に於て全然境界が突破され尽したと共に、他の芸術の部内、乃至は人生の他のゲビートとの境界も又押し破られ尽した」、「返す返すいうがカテゴリカルな『美術』と、小さき純なるものと、質的なるものと、即ち、蝶々とこびとと若者とは死んでしまって消えてしまって無くなってしまってあれ!!」云々と反論した(22)。
 村山の反論は、舞踏の試み、バラック装飾への関与、三次元の構成物への展開、『朝から夜中まで』(一九二四年十二月)をはじめとする舞台装置、そして『劇場の三科』(一九二五年五月三〇日)へという、越境につぐ越境を予告している。
 他方その前提となった浅枝の還元主義は、グリーンバーグのそれを連想させずにいない。カントはもとより、フィードラー、ヒルデブラント、リーグル、ヴェルフリンなどもこの頃から紹介されつつあったようだが(23)、近代の神秘学、SFなどを通じてのオブセッションでもあった「進化」の語は、美術史以上に批評とのつながりを想像させる。この点では、一九一一年から翌年にかけての<絵画の約束>論争や、その背景にあったというマイアー=グレーフェの著述を思いおこすことができるだろうか(24)。
 ともあれ浅枝は、冒頭の段落で本展について、「美術としては革命的であっても、民衆の革命的の精神に必ずしも一致していない。僕は尚破壊されないブルジョワ的精神が残っているのを見る」と記しており、制度顛覆の意識と無縁ではなかった。ただし彼にとって革命は、美術の純粋化によってなしとげられなければならない。「全然絵具を棄てた又在来の彫刻でもない一種の象形美術である」村山の『コンストルクシオンMV』については「同感できる」とし、また柳瀬正夢や尾形亀之助の作品を「従来の自然物象の桎梏から全然脱して絵画の純粋要素たる色彩、線、形等によって構成せられたる美術」と評価する。大浦周蔵の作品に対してはその観念性を批判し、「美術は直接感情を刺激するものであって欲しい」とのべた。
 浅枝と村山の論争を調停不可能なものと見なさず、しいてその交点を求めるなら、ある種の「革命」なり「進化」を経た時点で、さらに純粋化するか「境界」を突破するか、その分かれ目を、具体的な素材となる物の表面に求めることができはしないだろうか。その時そこに、ロシア・アヴァンギャルドにおいて議論の対象となった〈ファクトゥーラ〉の問題の反映を認めることができるかもしれない。ファクトゥーラとはブブノワによれば、「総て造形的物質が、(天然のままで、或いはまた人工を加えられた後に)有つ所の表面の状態のことでありまして其れは其の物質の物理的構成、並びに其の上に加えられたる人工的処理法による」という(25)。
 大正期新興美術を担った面々の少なからずはプロレタリア美術運動に参加していくこととなり、そのため一九三〇年代の抽象やシュルレアリスムとは連続しなかった、としばしば語られる(26)。その是非はともかく(写真に関して、三〇年代の〈新興写真〉は、二〇年代の〈構成派〉とともに、またロトチェンコなどの影響もあわせて、二〇年代新興美術の一展開という性格をしめすように思われる)、たとえば村山の意識的構成主義周辺の作品と、三〇年代の抽象やシュルレアリスムの絵画には、空間の枠どりを曖昧にとった中で、イメージや形態、事物をコラージュ的にモンタージュするという共通点を認めうるのではないだろうか(27)。
 他方、遡及して見るかぎりで、三〇年代の作品に比べて二〇年代のそれでは、コラージュされるイメージや形態、事物と、それらの前提となる空間との距離がより狭く、その分イメージや形態、事物の比重も大きかった。三〇年代の空間が、距離を保った洗練という予定調和に収斂する枠どりであったのに対し、隣あい重なりあうファクトゥーラとしての二〇年代のそれは、より密度と温度が高かったようなのだ。それゆえ、きしみあった諸々のファクトゥーラは二次元の限界から跳びだし、三次元の構成物へと伸展したりもしたのだろう。しかし以上は、いささかあやふやな予見に発した印象批評でしかない(28)。
20. 浅枝次朗、「マヴォ展覧会を評す」、『讀賣新聞』一九二三年八月五日/『アールヴィヴァン』三三号、一九八九.七、六〜七頁に再録。ただし五十殿、前掲書、四七六頁では八月二日づけとされている。

21. 五十殿、同右。

22. 村山知義、「マヴォ展覧会に際して−−浅枝君に与える」、『讀賣新聞』一九二三年八月五日/前掲『アールヴィヴァン』三三号、七〜九頁に再録。ただし五十殿、前掲書、四七七頁では『東京朝日新聞』八月五日づけとされている。

23. たとえばヒルデブラント、『造形美術に於ける形式の問題』、清水清訳、岩波書店、一九二七。外山卯三郎、『造型美術概論』、建設社、一九三〇。ヴェルフリン、『美術史の基礎概念』、守屋謙二訳、岩波書店、一九三六など。

24. 中村尚明、「伝習の調停者マネ、近世人中の近世人たるセザンヌ−−ユリウス・マイアー=グレーフェと木下杢太郎:『絵画の約束』の背後に」、『セザンヌ展』図録、横浜美術館、愛知県美術館、一九九九。中村義一、『続日本近代美術論争史』、求龍堂、一九八二、V章。北澤、前掲書、W−1章。また川田都樹子、「白樺派とブルームズベリー・グループ−−日本とイギリスの近代美術批評の関係」(『近代国家における文化的アイデンティティとしての芸術 平成八年度−平成十年度科学研究費補助金研究成果報告書』、一九九九)。太田喬夫、「マイヤー・グレーフェとドイツの近代美術批評」、『美術フォーラム21』二号、二〇〇〇.五。川田、「白樺派とブルームズベリー・グループ」、同誌同号など参照。

25. ブブノーヴァ、前掲論文、前掲『ブブノワ1886ー1983』展図録、五八頁。また北澤、前掲書、一三六〜一三八頁参照。

26. たとえば「シンポジウム・芸術と思想V−−昭和初期と現代」より斎藤義重の発言、『季刊藝術』八号、一九六九冬、二三一頁。

27. 拙稿、「日本の幾何学的抽象をめぐる覚書−−四角はまるいかU」、『芸術学芸術史論集』五号、神戸大学文学部芸術学芸術史研究会、一九九二、三〜六頁。また拙稿、「ふわふわ、きちかち、ずずずず、あるいは黒死館の影のもとに」、『二〇世紀日本美術再見V−−一九三〇年代』展図録、三重県立美術館、一九九九、二一四頁参照 [ < 三重県立美術館サイト ]。

28. ちなみに、三〇年代の日本で稀薄化した空間は、六〇年代のミニマル・アートでは空虚として現前する。そして空虚の現前すら霧散した場所でコラージュをモンタージュするのが、本特集の主役ソローキンであろうとは、しかしこれも単線的な印象批評なのだった。亀山郁夫、「カバコフとソローキン、またはコラージュの倫理」、『國文學』四五巻八号、二〇〇〇.七、八八〜八九頁参照。
   関東大震災(一九二三年九月一日)を一つの焦点として、一九二〇年代の日本では、大本教が最初の弾圧を蒙る中(一九二一)、『霊界物語』の執筆が出口王仁三郎によって開始され、江戸川乱歩のデビュー(一九二三)によって、日本の探偵小説はジャンルとして確立した。またバラック装飾の後を受けるかのようにして、赤城城吉の『二笑亭』の建造も始められる(一九二七〜三一)。しかしここでは、いささか個人的な嗜好によるものではあるが、日本の未来派の一つの成果として、稲垣足穂の「一千一秒物語」(一九二三)にふれて筆を闊くこととしよう。
 未来派好きが昂じて第二回未来派美術協会展(一九二一)や三科インデペンデント展(一九二二)に水彩やパステルを出品したこともある足穂は(29)、もっとも、すれちがいもしたブルリュークたちの行状や作品には関心を抱かなかったらしい(30)。とまれ「一千一秒物語」においてことばの連なりは、ザーウミ(超意味言語)にも音声詩にもならず、超越化することも物質化することもなく、いたって平易な語り口でありながら、いかなる人間性や社会性、倫理や形而上学にも縁のない冷酷な無意味さをもって、透明かつ軽快に結晶している。
29. 稲垣足穂、「カフェの開く途端に月が昇った」、『人間人形時代』、工作舎、一九七五、六七〜七四、七六〜七九、八二〜八四頁。

30. 同右、七九〜八〇頁。
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