ショーレムが指摘した、カバラにおける、エン・ソフと第一のセフィラーの関係をめぐる議論。ヴェーダーンタ哲学におけるブラフマンとイーシュヴァラ、イスラムの神学における存在と本質、エックハルトにおける神性と神、またニコラウス・クザーヌスやデカルトにおける無限としての神と無際限としての宇宙の区別。すなわち、宇宙の始源である神の、さらにその根元への問い。問いを成立させるへだたりこそが謎なのでしょう。世界と神の間に開く、裂け目ないしずれ。パスカルがデカルトを批判してのべた、神の一撃は、説明のつかないその裂け目ないしずれから、デウス・エクス・マキナとして出現する。神々はつねに、全体としての世界という系の外からやってくるわけです。
神と神性の区別、ことばをかえれば、今・ここに現にあるものと、そうでない、あるべき、ありえたかもしれない何かとのずれに、おきかえることができるかもしれません。現実態と可能態、あるいは己発と未発。その時、現実態と可能態とは、一致も合一もしていないのであって、両者の間にはつねにずれ、へだたりがある。へだたりのうち重なる連鎖が、世界にほかならない。ずれ、へだたりを、時間といいかえることもできるでしょう。可能態は、この世界ではなく、分岐した別の世界で実現していると考えるのが、ヒュー・エヴェレットによる、量子論の多重宇宙解釈です。ただその場合でも、この世界において実現するわけではない。世界は圧殺された可能性に囲繞されているという、小松左京の認識。宇宙を創造したヤルダバオトに対する、グノーシス主義者の否。何々が何々でしかない、何々が何々でなければならないということを拒否し、なぜ世界を、歴史を壊してはいけないのか。
現にこのようにある事象を、別のありえたかもしれない可能態へと変容しようとするヴェクトルとして、芸術の表現というものを考えることができるかもしれません。へだたり=時間に対し、外へむかおうとする表現は、時間と垂直に、あるいは時間からのずれとして機能します。
垂直性という時、芸術論は、芸術というものに価値を見出し、芸術を何か特別なものと見なすかぎりにおいて、つねに、何らかの神学性を帯びています。しかし、芸術は神々そのものではありえません。芸術自体、地球にできた膿にほかならない人類という、一生物種の生物学的条件に制約されたものでしかない。そして、絵では飢えた人の救いにはならない。すなわち、芸術表現は、決して自明の価値を保証されているわけではないのです。
自明性の喪失が、今日強く意識される時、表現は、自明でないことを少なくともひとつの契機とせざるをえないはずです。これに対し表現は、世界を生成するへだたりからのずれという形をとることができるかもしれません。垂直とはかぎらず、斜め横に、世界の表面上を軽快に、戯れつつ、たえず滑走し、散乱し、移行していくこと。宮川淳風のイメージではありますが、そこでは、表現に対する過剰な期待はもはやなく、何らかの意味づけも排除される。何かが何かであるということも、たまたまそうであるということでしかないことが、確認されるでしょう。だから、可能でないことなどないはずなのです。
表現は、へだたりそのものにおいてのみあるのであって、あるいはへだたりの現前という性格すらまとうこともあるのでしょう。
追補;最初の段落について→こちらを参照:「有閑神、デーミウールゴス、プレーローマなど」の頁
第2段落の小松左京は「結晶星団」(1972)。→あちらも参照:「世界の複数性など」の頁
|