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Lady’s Slipper, no.6, 1997.1, pp.6-7
ソフトなタッチなら痛くない - 続・ガラスを割れば痛い、あるいは設楽知昭の作品をめぐる覚書


石崎勝基


あなたの鏡の背後を通って、
あなたのなかに散らばりひろがってゆく
M.ヴィティッグ(中安ちか子訳)

 
 白黒の画面に線が乱舞する一九八〇年代後半の『鏡ヨリモノタイプ(・・・・・)』以来、先だっての電気文化会館での回顧展(五.二一~二六)でたどることのできた設楽知昭の作品群、たとえば黒と白が反転し、より短く直線的な線が蝟集する一九九一年の『壁ヨリ転写』、緑、青、茶などが用いられ、線がより太く粗放な一九九二年の『記憶半島』他、身につけた服に描いていく一九九三年の『目の服』、一九九四年と九五年に手がけられたフレスコによる壁画、とらえどころのない形が描きだされるテンペラによる九五年の『絵・ヒト』、そして白土舎での今年の個展(四.一三~五.二五)における『鏡』と、これらはさまざまに相貌を変えながら、同時に、一貫して流れる癖のようなものを感じとらせずにはいまい。それは、線が様式上大きな比重を占めることや、モノタイプ、テンペラ、フレスコといった技法、また雁皮紙をはじめとする支持体の質感の選択などとからみあいつつ形づくられているわけだが、これを、一種の落ちつきの悪さと呼んでしまうことは誤解を招くだろうか。設楽の線は、そのエネルギーやスピードによって、あるいは支持体との緊張によってカタルシスをもたらすものではさらさらなく、つねにどこかでひっかかり、よそ見をしているかのようなのだ。
 たとえば八九年頃の『鏡ヨリモノタイプ(・・・・・)』 - 縦長の長方形ないし楕円の内側を線が奔放に走りまわっており、これを一見、オートマティックな身ぶりの痕跡を記した表現主義的抽象と見なしてまちがいはなさそうに見える。ただ、決してくっきりした形を描きだすのではなく、また完全にオールオーヴァでもない線の動きは、じっと見ていると、線の蝟集の粗密の流れおよび、平面にそって走るというより、見えはしないが確実に存在する何かにからみつくかのようなその屈曲からして、自足して完結した画面として片づけてしまうことからすりぬけてしまうような、何がしかの余剰をはらんでいる。
 あるいは九一年の『壁ヨリ転写』 - ここでは黒が地となり、白い線が刻まれていく。線はより短くやや直線的で、その分太い。何かにまといつくような勢いは消え、むしろ速度が落ちることで、黒地に働きかける角度と力、そして反応を読みとらせることになる。また線の集合は、重なりあうことが少なくなり、ランダムというよりは何らかの形を描きだしそうな予感を感じさせるのだが、しかし決して、形として完結することはない。逆に、線と線のあいま、線と黒地のあいまに、黒地と一致するのでもない、虚のふくらみを現前させるだろう。
 画面を画面として自足させることのないこのような性格は、画面がその中の形や線、色どうしの関係として、あるいは場と枠の関係として内在的に成立しているのではないことを意味する。とすれば、画面のありよう自体に見る者との関係が組みこまれているのだろう。しかし他方、何らかの感情なり観念が、画面と見る者を結びつけるないし切りはなすというのでもない。むしろ画面と観者が垂直に対峙するままではいられず、相互の距離がなしくずし的にずらされ、すくわれ、細かく切断されるといえようか。
 もとより、画面と観者が垂直に対峙するというありかたは、イーゼル画を軸に展開してきた西欧近代の絵においてあらわになった事態だ。中国や日本の山水画では、観者が描かれた景観の中を逍遥しうるべく三遠法が駆使され、絵巻や屏風絵、襖絵では見る者の視線が画面を斜めに滑走する。あるいはジャン・パリスの『空間と視線』によれば、中世のイコンにあっては、見る側の視線以上に描かれた神的存在が対面する者に注ぐ視線こそが問題になるという。また線遠近法にしても、画面と観者を分かつためではなく、観者の視点と消失点を連続した空間の内に統合することを目的に編みだされたのだった。近代の絵でも、たとえばニューマンや<ヴェイル>期のモーリス・ルイスにおいては、画面に向かいあった視線が一点に固定されるのではなく、横へのひろがりをはらむようなフィールドがもたらされた。これはまた、ヴァン・エイクからブリューゲルにいたるネーデルランド絵画の、神の視点から見おろしたパノラマ状の空間にもつながっている。
 いささか乱暴だが、これらの絵で、通過するにせよはねかえされるにせよ、画面と目との距離および視線の角度に何らかの安定した座標軸が設定されているとして、設楽の画面においてはしかし、この前提自体がゆさぶられているといえるかもしれない。ヒルデブラント/リーグル流の視覚性/触覚性の二分法をここでもちだすのは安直との気がしないでもないが、さしあたり援用するなら設楽の画面では、距離によって成立する視覚と接触を旨とする触覚がいつのまにかないまぜになり、交互に移行しあうのだ。だから画面と目は確たる距離を保つことができず、画面にむけられた視線は微細なレヴェルでそのヴェクトルをつねに脱臼させられる。こうした視覚と触覚の混淆・擾乱は、たとえば九五年の『絵・ヒト』での、皮膚の外と内がいつしかいれかわってしまうような、いわば多形性倒錯の感覚をひきおこすこともある。
 こうした特徴がどこから生じたのかをとらえるためには、彼の制作方法を参照するとわかりやすい。『鏡ヨリモノタイプ(・・・・・)』では、カーボンを混ぜたリンシード・オイルを鏡に薄くひき、そこに映った自分を指でなぞるようにしたものを、モノタイプとして雁皮紙に転写する。鏡自体、実物と像が同じ時間・空間の点上に位置するという制限の枠内で、同一性を保つべき存在を二つに分裂させ、かつ二つの存在が同一でもある点で、主体と客体の距離を撹乱してしまう。しかもコリント前書の一節(十三章十二)を連想させるかのような鏡の曇りが、この距離をさらに揺動させるだろう。指で描くこと、版という過程を経ることは、イーゼルにかけたキャンヴァスと安定した距離をもって筆をあやつる画家というイメージを崩してしまわずにいない。
 ここで、絵の中で用いられた鏡のモティーフの歴史を思いおこすのも一興だろうか。ヤン・ヴァン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻像』などの凸面鏡、ヴェネツィアで進められた滑らかな平面鏡の生産に応じたサヴォルドやティツィアーノの作例からベラスケスの『ラス・メニーナス』まで、さまざまな含意をともないつつ、西欧近世絵画における鏡の使用は、空間を拡張するためのもので、描かれた人物はしばしば鏡面に顔をむけていた。それがブーシェのある『ポンパドゥール夫人像』(一七五六)を経て、一九世紀のアングル、メアリー・カサット、そしてマネの『フォリー・ベルジェールのバー』になると、鏡面は画面と平行に接近しておかれ、人物は鏡と背中あわせに配される。すなわち鏡と画面が一致しようとすることで、鏡/絵のもつイリュージョンのはたらきが夾雑物ぬきの形で抽出されるのだ。ここからボナールやマティス、またモネの水鏡を介し、グリスの実際の鏡の破片のコラージュ、ピストレットの鏡を作品として呈示する試みなどへの道筋は遠くなかった。設楽における鏡の機能もまた、こうした画面と鏡の一致の一例と見なすことができる。しかも彼の場合、それは即物的な形ではなく、コクトーの『オルフェ』におけるごとく、鏡面と主体が溶けあってしまう。
 『鏡ヨリモノタイプ(・・・・・)』について設楽が、「鏡と自身の間に眼球を浮遊させたかった…(中略)…只今この時が、未来から過去へ推移するその通過点であるというより、未来と過去が行き来する短い橋のようなもので、視覚は一度軽く後ろに下がり、勢いを付け、前に飛び進むことを小刻みに繰り返しているように思える」とのべていることをかえりみるなら(ART TOWN nagoya、vol.81、1990.9)、視覚と触覚、表面と奥行き、主体と客体、現象学にいう過去把持と未来把持を截然と分かちうるものではなく、つねに細かく交換しあう過程としてとらえることを、設楽自身意識していたと見なせよう。このようなコンセプトはおそらく、一九八六年の石膏刷りによる『目のギプス』などの頃から宿されていたものと思われる。
 もとより、作者の意図や方法は表現のありかたに作用する一因子以上ではない。手製の服を着た状態でその服に描いていくという『目の服』では、当然、目と手が支持体に相対する関係は通常の紙やキャンヴァスに描く場合のように距離をおいたものではありえず、とりわけ手の角度は位置によって制約を受け、しかもそれは位置ごとに変わることになる。こうした点でこの作品は、設楽における距離や視覚/触覚の問題を説明するかっこうの例となっておかしくない。しかし実のところ、距離をおいて展示された状態では、ものとしてのありかたが強く訴えすぎて、距離の微細なゆらぎを感知させるとはいいがたい(実際に服を着てみた時どう感じるかはまた別かもしれないが)。近代的展示の形式にのっとり、平面としての紙なりキャンヴァスに封じられた画面に距離をおいて対した時にこそ、その距離自体の横滑りが感覚的に発現するようなのだ。この点、また<目>や<眼球>への固執からして、視覚と触覚の擾乱といっても自然発生的なものではなく、設楽もまた、おそらく近代的視覚の呪縛から逃れているわけではあるまい。むしろ視覚の過剰による視覚の崩壊、それを観念としてではなく感覚的に呈示することが要なのだろう。
 さて、白土舎での今年の個展で発表された作品は、十数年ぶりに『鏡ヨリモノタイプ(・・・・・)』の方法を再開したものだった。線が全面に散らばっていた八十年代末の作品に比べれば、黒いかたまりが画面中央に凝りかたまりつつある。見ようによっては手のように見えなくもないが、それとはっきり名づけることもできない。目、手、鏡、像のへだたりがいっそうの幅をもって変動したと考えることもできよう。かたまりをなすとは、かたまりと紙の地との落差という、また別の距離の因子が導入されたことを意味しており、その分、イメージの予感と同時に、そのとらえがたさも以前より強まった。今回額装せず直接壁にとめられた雁皮紙の薄さは、空気と光をはらみ、距離の微妙さを強調している。再びコリント前書をひきあいにだすなら、「顔を対せて相見る」「かの時」はいつか訪れるのだろうか?
Cf.  本稿は「小特集 設楽知昭」の一部をなすもので、本稿の前に
「設楽知昭インタビュー」(聞き手/編集部)、1996年6月23日
「制作ノート・自作コメント」
 が掲載されていました(pp.1-5)。

 文中冒頭で「先だっての電気文化会館での回顧展(五.二一~二六)」とあるのは

『設楽知昭 石田財団1995年度芸術奨励賞 受賞記念展』、電気文化会館 5Fギャラリー東、1996.5.21-26

 で、パンフレット(B5大:、4ページ)が残されました。
見開きは「1988~89年頃の『鏡よりモノタイプ』のポラロイド写真」として、7点×4行=28点のモノクロ図版、
裏表紙には《目の服》の小カラー図版、「制作ノート(鏡よりモノタイプ)」が略歴・展覧会歴とともに掲載されていました。

 文中最後の段落でふれた「白土舎での今年の個展」(1996.4.13-5.25)に関しては;

深山孝彰、「《設楽知昭1996・鏡(Ⅰ)、(Ⅱ)》 指で描くフレスコ(美術)」、『日本経済新聞』、1996.4.26夕刊

(洋)、「心地よい強さと微温 名古屋で設楽知昭展 自分の姿を素材に(アート)」、『讀賣新聞』、1996.5.15

廣江泰孝、「設楽知昭 Review : CHŪBU」、『美術手帖』、no.729、1996.8、pp.150-151

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