ホーム 宇宙論の歴史、孫引きガイド 古城と怪奇映画など 美術の話 おまけ
『存在する絵画』展リーフレット、名古屋市民ギャラリー、1994.5.10-22  
絵の裏の散歩者

石崎勝基
 

 絵というものは、美術そのもの同様、さまざまに可能な形式の一つであって、それ自体で保証なり特権をもつわけではない。実際、かつての彫刻がそうであったように、ジャンルとしての絵が活力を減じてゆく様子も、盛衰はあれ語られるようになって久しい。しかし、歴史の沈澱とともにあるにせよ、ジャンル自体は出発点でしかないからこそ、そこから一点の魅力的な作品が生まれる可能性を否定しきることもまた、決してできない。ただその際、土台としての絵という形式がもはや自明ではなくなってしまった以上、表現はその自明性のなさ、いいかえてありかたを対象化する意識をおのが内にかかえこまずにはおかなかった。
 それでは、絵という形式の特性とはどんなものだろうか? グリンバーグなら平面性という。もとより平面といっても、洞窟壁画や屏風絵を思いおこせば、平らであるとはかぎらないし、その必要もない。ただ近代のタブローが、矩形の平面を中心に展開したことは事実であり、形式の自己言及性は、そこにおいてあらわにされた。ここでは仮に、平面を二次元の表面といいかえてみよう。二次元ということばをもちだすのは、それがおかれる三次元の環境と対比するためだ。三次元と二次元の落差、遠近法における奥行きであれミニマル・アートにおける物体性の対象化であれ、そこに絵という形式固有の表現が宿ったのではないだろうか。
 三次元と二次元の落差に対しては、とりあえず枠を設定する必要が生じる。次元の断面かつ防波堤としての枠に対する意識こそが、バックボーンとしての宗教なり社会とのつながりの自明さが散逸してしまった時点で、自己言及性を内包せざるをえなくなった近代の表現のうち、タブローが一つの軸になった理由であろう。これは他方、装飾やデザインに比較した時の近代的タブローの限界でもあり、とりわけ、モンドリアンやニューマンによって意識された。また、とりあえずのはずだった枠による保護から生じる全体性は、絵という制度を特権視する誤解を招きかねない。
 とまれ枠に対する意識は、単純化すれば、作品が単なる物ではなくならんとするありようを、二方向に整理してしめしてくれる。ひとつは二次元の表面にそった水平方向、いわゆる平面性であり、もうひとつはそれに直交し、支持体から絵具層および観者の視線と重なる垂直方向である。垂直性の発現が物語るのは、枠の意識が、枠をとりかこむ外部、三次元の空間や制度に対する意識と一如であるということだ。この水平性と垂直性との何らかの関係の内に、支持体や絵具が単なる物でなくなる、イリュージョン成立の可能性が生じる。イリュージョンを、夢・幻といいかえてもいい。今・ここに現前するのではない、可能態の虚。画布や紙、絵具の表面からのずれ。そこに表現が懐胎するだろう。

 荻野佐和子の作品では、青、緑、白などがそれぞれ、色自体のはらむ浸潤性を抑えられることなくひろがり、柔らかく干渉しあっている。各色のひろがりは、表面のみでなく、透明感ゆえ、重なりにもはたらく。このため色は、それぞれが固有のことばでつぶやくと同時に、他の色を反映しあうのだ。青や緑、無機的な分割の排除は風景や自然を連想させるが、個別の対象が描かれるのではなく、複数の色が浸透しあう場としての、浮動感にみちた光が生じるだろう。
 鎌田悦男の作品もやはり、自然を連想させるが、荻野に比べると形式上の処理の比重が大きい。これは具体的には、複数の画面の合成と、各画面内での分割できない流れという形をとっている。層をはらみつつ、ひとつのフィールドとしてわきあがる画面は、複数くみあわされることで、さまざまな方向への展開の可能性を暗示する。
 荻田と鎌田が具象的ではないかぎりで、自然を想起させる空間をしめすのに対し、井上雅夫は、線遠近法にのっとった人工的な建築空間をモティーフにしている。ただし遠近法による奥行きは、中間色を主体にした抽象的な色面によって画布の表面にひきもどされるだろう。線も表面の上に加えられたのではなく、あくまで色面の境界として残されたものだ。
 森義朗の作品は、平坦に塗られた中性的な地と、ニュアンスを帯びたいびつな円などの形態および飛沫のような身ぶりの痕跡との対立によって成立している。地の平坦さは、後者が侵入してきた外部の臨在を物語るだろう。
 今村哲の画面は、異形の顔の出現として特徴づけることができる。顔はその造作によって異形なのではなく、画面と垂直に現われることで異形と化するのだ。出現の垂直性を保証するため、顔の配置と地は、平面性に即したオールオーヴァなものとされている。
 五人の作品には、それぞれ解決すべき課題がないわけではないが、またそれぞれの方法で、とりわけ色彩のありかたを軸に、イリュージョン、ひいては絵というものにおける表現の所在を尋ねることになるだろう。

 
   HOME美術の話絵の裏の散歩者