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Lady’s Slipper, no.4, 1995.11, pp.12-13
(特集:インスタレーション)
 
 

インスタント・インスタレーション調理法

石崎勝基
 
 いい加減に積み重ねられたものの山が
      極美の世界であるように
  ヘーラクレイトス (山本光雄訳)
 
 

 インスタレーションという形式(独立したジャンルと見なすかどうかはさておき)の萌芽は、広義の構成主義、すなわちシュヴィッタースやエル・リシッキー、デ・ステイルなどに求めることができるが、そこでの機動力の一つは、額縁に守られた作品の特権性を解消し、生活世界へと拡張することだったと考えてよいだろう。しかしそれが同時に、千年王国ないしユートピア説的な、世界を変容させようとする希望の落とし子であったとすれば、インスタレーションは当初から、表現の特殊性を排そうとする志向と、枠のない場でそれを確保しようとする志向という、二つの相反するヴェクトルにいろどられていたことになる。この二つのヴェクトルは、個々の場合で比重を変えつつ、作品が外部、すなわち社会的な関係の網の目の内に定位しようとする、その所在を争点とするだろう。

 世界の一切が何らかの形象を生みだしゆく過程であると見なすなら、そうした汎形象観において人間の表現活動など意味をもつまい。逆に意味を与えうるものとすれば、世界が無限定である以上、何らかの境界によって限定せざるをえない。その際具体的には、画廊や美術館など閉じた展示空間の場合と、屋外の場合とであり方は変わってくるだろうが、とりあえず前者を主に見ていくと、枠なり額縁はすぐれて近代的タブローの問題だった。タブローにおける枠とは、中性的とされる壁、そして画廊や美術館など、近代の展示および鑑賞の制度そのものの入れ子の一環にほかならない。タブローの場合、三次元から二次元へと次元を一つ落とすことで表現の特殊化が保証されるわけだが、インスタレーションは元来、そうした事態に対する批判的な機能を担っていたはずだ。それゆえインスタレーションは、単なる無制限な拡張などではなく、境界をめぐる営みとなる。

 他方、プライマリー・ストラクチュアやミニマル・アートともども、インスタレーションも、絵画の延長上に登場したとしばしば語られてきた。近代のタブローにおいては、先に記したような枠どりに支えられることによって、画面に垂直する線上に立つ観者が、ある距離をおくことで画面全体を瞬時に、すなわち直観的に把握できる。そこでは表現は、何らかの視覚的イリュージョンとして成立するだろう。対するに閉じた単体としての彫刻は、芯ないし軸と、重力、および外部への境界としての表面との函数として作られ、観者は芯ないし軸と仮想上で相即することによって、何らかの身体的な存在感を得る。とすればインスタレーションが、仮に「包みこむような」と形容される設定であったとしても、つねに観者との間に何がしか距離が残り、あるいはその距離こそが問題となる点で、彫刻以上にタブローないしレリーフに近いと見なすことができよう。また単体の彫別に対し、インスタレーションでは空間内に散らされたり隣接する複数の要素が関係づけられることが多いが、この点も、枠どられた平面上にイメージや形を配するタブローに接近することになる。ただ、タブローにおいて図と地の区別を保つか、場なり枠の意識を重視するかでちがいが生じるように、インスタレーションの場合でもそれに対応するあり方のちがいは区別することができるかもしれない。
 もとよりインスタレーションにあっては、作品は瞬時に把握できるものではなく時間の継起をふくむだろうし、視点や視線は移動流動し、身体の軸も屈曲を経たり、触覚性が導入されたりもする。この時問題なのは、個々の感覚ではなく、各感覚間の関係をいかに設定するか、あるいはそうした関係を成立させる方位、座標軸、地平に対する意識であろう。これは、即物的な意味での作品の要素間の関係についても同様だ。時間の継起については、継起のありようがいかになされるのか。タブローの観賞における瞬間性が単なる経過の短さというより、時間の流れ自体に対する垂直の切りこみでありうるように、ここでの継起も、瞬間瞬間のつながりを脱臼させうるはずなのだ。

 インスタレーションが三次元という、現実空間において展開されるとしても、それは現実空間そのものではありえない。とすれば、現実空間に即しつつ、そこからどのようにずれるか、そのあり方が問題となるだろう。インスタレーションがしばしば、場の励起という形でイリュージョナルな相を帯びたり、意味性を強調した傾向に傾くのも、三次元の空間や物体など所与の形式から遁走しようとするためだ。近代的タブローの少なくとも一つの展開が、支持体の平面性をあらわにすることによって、その物体たることをさらけだし、もって支持体の支持機能の不可能性をしめしたとすれば、これは絵からの展開としてのインスタレーションにおいても、二次元から三次元への拡張でなどあろうはずもなく、二次元においてその自明性を奪われた支持機能が、三次元において可能となるべくもない。支持機能の不可能性とは、表現の特殊性の成立不可能性の謂いでもある。

 それが展示なりインテリア・デザイン、建築とどうちがうのかと問うたとして、これらにおいては機能がつねにつきまとうと答えては、インスタレーションもしょせん、自律的な美術という制度の上にあぐらをかく以上ではあるまい。実際、インスタレーションはしばしば、特権的な聖域、予定調和的なイニシエーションの回路と擬似子宮を演出することも少なくなかった。タブローなり単体の彫刻がものとして半恒久的な性格をふくむのに対し、これも両刃の剣であろう、一時性仮設性なども同様の契機と見なしうる。この点については、前提となった建築なり場所なり、すなわち枠のあり方を何らかの形で相対化し、枠の内と外をつなぐ虫喰い穴を堀りえた時、表現が成立する可能性が生じるのかもしれないと、仮にしておこう。
 
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