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Lady’s Slipper, no.4, 1995.11, pp.24-27   

余談は時間の余った時に
愛と憎しみのアート・キャバレー第五回(予兆篇)

石崎勝基
 
  メロトロンのためのレクイエム 
  あっちむいてほい 
  メロトロンからピコピコ・ビートへ 
  軽く明るく気持ちよく 
 
 
listen to the blood drip
oozing from a curled lip
ever thought of dying slowly
 Cockney Rebel

メロトロンのためのレクイエム

 キング・クリムゾンの新譜『スラック』に、メロトロンを修理して用いたと記されているのを見て、思わず感慨を催した人というのはやはり多くはなく、たいがいは何これと思うのが関の山だったのでしょうか。メロトロンは一時期シンセサイザーとならび称せられた電子楽器で、とりわけ一九六〇年代末から七〇年代前半にかけて、いわゆるプログレシヴ・ロック系のグループが好んで用いたものですが、実のところ、ストリングスやコーラスを音程ごとに吹きこんだテープが対応する鍵盤によって演奏できるという、きわめてアナログ的な発想の代物で、故障が多い、早弾きができないなどの欠点にくわえ、音の厚みをいとう七〇年代後半以降の流れの中で、ほとんど見かけなくなってしまったのでした。
 もともとはオーケストラの代用として考案された楽器ですが、しかしこのメロトロン、生オーケストラとはことなる肌あいをもっていて、細かいちがいをすべて押しつぶし、空間いっぱいにひろがる音の波が動いていくさまは、冷たさとパトスをかねそなえていたものです。こうしたメロトロンの特性を最大限にいかしたものとしては、たとえば、同じくキング・クリムゾンのセカンド・アルバム『ポセイドンのめぎめ』(一九七〇)があげられるでしょうか。
 しかしここではメロトロンの話をしようとしていたわけではありません。たまたま中村一美と尾崎信一郎の対談をめくっている内に(F中村一美展』カタログ、児玉画廊、一九九四.十一)、以前尾崎がバーネット・ニューマンの作品の時間性について論じていたくだりを思いだしたのでした(「モダニズム絵画と時間」、『時間/美術』展カタログ、滋賀県立近代美術館、一九九四.五、さかのぼれば尾崎の一九八七年五月の美術史学会での発表要旨「抽象表現主義絵画における時間性の問題」、『美術史』一二五号、一九八九.三)。そこで尾崎はニューマンの作品について、「巨大な横長の画面を前に視線はその横断を余儀なくされるが、視線の連続性と方向性の根拠はあらかじめ失われている。連続性と方向性をもたない時間は瞬間として体験されるしかない」(「モダニズム絵画と時間」、四九頁)と述べていたのですが、この瞬間性という規定にひっかかってしまったのです。
 『英雄的で崇高な男』(一九五〇〜五一)のような、彩度の高い色でおおわれた横長で巨大な画面に縦の線のみが走る作品を念頭におくならば、構図の単純さは確かに一目で把握できるとして、ただ、画面と垂直に交わる視線が、横長のひろがりにそって、主に左右、しかし最終的には「方向性をもたない」ままに拡散しようとするような体験がもたらされはしないでしょうか。これは横長のひろがりだけでは得られない。それをいったん縦の線が断ちきることによって、逆に横への動きが生じるのでしょう。ロバート・C・ホッブスのいう〈周縁視〉なる概念にも関わるであろうこの感覚に(「初期抽象表現主義 − 内なる未知への関心」、『アメリカ現代美術の巨匠たち 抽象表現主義の形成期'35-'49』展カタログ、西武美術館、一九七八)、物である画布とは一致しない色の輝きが、連続した延長としての肉質を与えます。こうしたひろがりが、洪水のように一切をおおうメロトロンの響きを連想させたのでした。
 この時ニューマンの作品がもたらす時間というのは、もとより日常的な継起ではないとして、幅のない点としての瞬間でもないような気がします。たとえば現象学では、現在とはやはり瞬間ではなく、すでに過去への傾斜と未来への傾斜をはらんでいると説くそうですが、ニューマンにおいても、場自体のふくらみが、分割できるような線状の運動ではなく、むしろその可能性を宿すといえるでしょう。
 時間のひろがりが可能態のかぎりで成立することは他方、視点および視線がとりあえず静止したものであることを要請するように思われます。ひろがりをもたらすためにこそ、画面は目と垂直に相対峙する壁に即したものでなければならず、ゆえに縦の線のみが許容される。これは主題性の要求に応じたものだったわけですが、たとえばモンドリアンの作品では、縦と横の格子が交わるため、正方形のフォーマットとあいまって、画面の物体性が強められる。そのため、まさに瞬間的に把握できるようなものとしての画面自身から主題性はほとんど感じとれなくなる一方、壁の上、さらに壁から離れどこへ動かしてもいいだろう、軽快な可動性が内包されました。それに比べればニューマンの作品は、より濃密な主題を訴えるためにその場を身動きもならないとの、ある種の息苦しさにもつながっています。

 

あっちむいてほい

 にもかかわらず、たとえばニューマンの一点の作品の特徴のある部分は、一目見た時瞬間的に、いいかえれば直観的にとらえることができます。先に記したようなことはその後、味わいや表情として現われてくるといえるでしょうか。前者は質に対する判断、後者は内容、あるいは同じことですが形式の問題です。普通作品なり作家の個性と呼ばれるのは後者にあたります。前者は一点一点の作品のできという奴。どの部分を欠いても美は壊れてしまうという、オスカー・ベッカーの〈美のはかなさ〉という概念、あるいは芸術作品においては形式と内容が不可分に溶けあっているという、統合的全体としての作品といった理念とは抵触するのかもしれませんが、両者の間には何らかのちがいがあるように思われるのです(ここでの質ということばの使い方は、グリーンバーグが形式と区別し、内容と同一視したという、やはりことばにおきかえられない質とはずれているようです.川田都樹子、「クレメント・グリーンバーグの批評について」、『フィロカリア』六号、一九八九.三、二七〜二八頁)。
 形式/内容は、図像や主題ほどことばと一対一的に対応するのではないにせよ、ある程度までならことばで枠どりすることができます。それは何よりも、他の作風に対するちがいという形をとるでしょう。他方質的判断は、いい悪い、せいぜい緊張感があるだの力強い、柔軟だ繊細だセンスがある等々としかいいがたいものです。ヤーコブ・ローゼンバーグが、巨匠とされる作家の素描と工房作等を具体的に比較することで作品の質というものを説明しようとした時も、最後はそうした形容詞を用いざるをえませんでした(ローゼンバーグ(山本正男訳監修)、『美術の見かた』、講談社、一九八三、第U部)。その意味で、形式/内容のちがいとは別の、一種の中性性を帯びているようなのです(とはいえ、いい悪いがそうであるように、評価に対する語彙がしばしば倫理の領域から借りてこられたものであるとは、ゴンブリッチの述べたところでした:ゴンブリッチ(二見史郎他訳)、「芸術上の価値の視覚的隠喩」、『棒馬考』、勁草書房、一九八八)。絵の場合なら、どんな色の組みあわせを選び、絵具をどれだけ筆にすくい、紙なり画布にどれだけの圧力でおくか、それをどう連ねていくかによって、かなりの部分が決まるといっても過言ではないでしょう(もちろんこれらは、形式の問題でもあります。そして作品がどのようなプログラムによって決定され、社会的に機能するかの重要さを認めた上でも、多くの因子の内の一つとしてこうした部分が残る以上、「形式という観念がきれいに崩壊してしまっている」と簡単にいってしまっては、それも一つの抑圧となってしまうのではないでしょうか:ノーマン・プライソン、「ニュー・アート・ヒストリー」、『EYES』七号、一九九五、三頁。そして直観的であるがゆえに議論のしようもない質的判断を、説明しようとするのが形式分析だといえるかもしれません。だから形式分析はつねに、目的が達せられないことにつきまとわれているわけです)。
 ただしそうした判断に対する能力、いわゆる目ききの能力は、決して超越的なものでも神秘的なものでもありません。いかなる分野でもそうであるように、訓練の積み重ねによって、少なくともある程度までは身につけることができます。具体的には、よくいわれるように、すぐれた作品を多く、意識的に見ることとなるでしょうか。大まかには客観的といっていいのですが、あくまで経験的にえられる能力なので、細かい点で各人の判断規準がくいちがう場合があることは、過去の作品の作者帰属の歴史などを見ればよくわかります。さらに、ただちに好みやイデオロギーが侵入してくることも避けられますまい。
 また、ここで質なるものを、形式より上位の審級におこうと考えているわけでもありません。両者の関係がどのようなものかはけっこうややこしそうですが、密接に結びつきつつ、確実に区別することもまたできるということを、確認しておきたいまででした。そして鑑賞体験において、質をとらえる瞬間と、形式/内容に目が向けられる時との間のずれ・遅れが、前者と日常的な時間とを仲介するのかもしれません。このずれは、分析などの形でことばが介入してくる場でもあり、そのことで歴史的な時間にもつながっていくことでしょう。
 とまれ、かつてマックス・フリートレンダーが、些細な細部に現われる画家の癖が鑑定の手がかりになると唱えたモレ
リに対し、そうした作業を踏まえつつも、鑑定の判断は畢竟、一目見た時の直観的な印象によって決定されるとのべたことを思いだしましょう(フリートレンダー(千足伸行訳)、『芸術と芸術批評』、岩崎美術社、一九六八、一四二〜一五六頁。作者帰属の場合は、形式の比重が大きくなりますが)。もっともこうした質的判断の直観性なるもの自体、近代の美術が、枠どられた全体なる性格をもつタブローを軸に展開してきたという条件によって制約されているのではないか、と疑うこともまたできます。エドガー・ウィントは、モレリの分析法をロマン主義の断片の美学から生まれたものと見なしましたが(ウィント(高階秀爾訳)、『芸術と狂気』、岩波書店、一九七〇、第三章)、質と形式/内容を分かとうとすること自体、近代的な発想に根ざした症例の一つなのかもしれません。そして近代においては、形式/内容の方も直観的にとらえられるようなものを装うと語られてきたことは、いうまでもありますまい。

 

メロトロンからピコピコ・ビートヘ

 『批評空間』の一九九五年臨時増刊号『モダニズムのハード・コア』に翻訳が掲載されたマイケル・フリードの「芸術と客体性」の中で論じられている、モダニズムの芸術の〈瞬時性〉なる概念はその典型でしょうし、そこではさらに、形式としての瞬間性と質に対する直観の瞬間性が一致させられようとしています。もっとも、ミニマル・アートの〈演劇性〉や〈持続性〉と対置されるモダニズムの瞬間性というのも、遠心性と装飾性を一つの特徴とするアンソニー・カロの作品をモデルにしているだけにややこしく、この点は同誌に掲載された二つのシンポジウムでも議論の焦点の一つになっていました(ミニマル・アートの〈持続性〉の方は、冗長性といいかえれば多少わかりよいでしょうか)。とまれ、フリードが文中で「永遠の現在」とか「恩寵」などのことばを持ちだすのを見ると(九三頁)、芸術論というのが芸術に価値を認める時、しばしば神学性を帯びることが想起されずにはいません。この場合瞬間とは、単なる経過の短さではなく、時間の流れそのものに垂直に交わる、超時間的なものの現われととらえられているのでしょう。
 他方、こうした瞬間性によって規定される近代的な視覚というものが、画廊や美術館におけるタブローとその展示の構造などとあいまって、純粋性や中性性を装うことでそれが成立した条件を隠蔽してしまう、抑圧的な制度としても機能することは尾崎の先の一文と対をなす「啓示と持続 − 『近代的な視覚」をめぐって − 」(『アート・ナウ一九九四』展カタログ、兵庫県立近代美術館、一九九四.五)にまとめられています。そして近代的視覚の制度を抑圧的ととらえざるをえなくなった時点で、一九五〇〜六〇年代のように単に近代の外へと掲げるのではなく、内側からそうした事態に対処しようとしたものとして、尾崎の同文や先の中村・尾崎の対談、『批評空間』シンポジウムとともに、『視ることのアレゴリー』展カタログ(セゾン美術館、一九九五.六)におさめられた中村一美の「形式批
判・小論」、岡崎乾二郎の「アレゴリーについての補論」、松浦寿夫の「断章、あるいは庭園の片隅で」をあげておきましょう。中で岡崎が「抽象表現主義以降のもっとも流布した絵画展開の物語」として述べているお話は(同、Texts & Documents、三七〜三八頁)、自分でも似たようなことを考えたことがあるだけに耳に痛いものでした。質と形式/内容の区別も、岡崎のいう「ひとつの閉じた対立、アンチノミー」でしかなかったのです(三九頁)。ミニマル・アート以後の絵に関する議論がしばしば一枚岩的な平面性を前提にしていることに対しては、すでに峯村敏明が批判しており(「『私たちの絵画』と『遠巻きの彫刻』」、『美術手帖』四七五、一九八一.一)、そこで峯村が唱えた〈面の不連続性〉を先の三氏の議論と結びつけることもできるでしょう。
 中村の論考も栄養満点ですが、ただ、レトリックがやや二元論的に聞こえるのが気になりました。これを性こりもなく質と形式の区別の話に引きよせるなら、形式というのは複数の作品間の共通項でありうるがゆえに、ことばにからみあわせることができるわけですが、一点一点の作品の質の問題をぬきにしたため、オールオーヴァネスが反映論的にヘゲモニーとくっつけられることになるし、非ヘゲモニーがヘゲモニーに対しヘゲモニー的にふるまってしまうのではないでしょうか(今この文も同じことをしている)。しかし中村自身、「形式による形式批判」(一四頁)といっているのだから、無用な心配というものなのでしょう。もちろん他方、質を建前にしていると、位階制度をつくってしまう危険もまたあります。

 

軽く明るく気持ちよく

 たとえばイスラム神学やデカルトにおいては、ある現在と続く現在との間には何の関係もなく、だからそれを時間の流れとするためには、瞬間ごとに神が世界を創造しなければならないと説くそうです。するとある時点で神の創造をとめたらどうなるのかを語ろうとしたのは、ハインラインの『ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業』でした。あるいは、『批評空間』のシンポジウムの中で浅田彰が可能世界論にちらりと言及していますが(三四二頁)、エヴェレット流の多重宇宙解釈を想起して、小松左京の『結晶星団』が物語ったように、この世界が成立するために抹殺された他の可能性を呼びもどし、もう一度渾沌にもどすとしたら、ある過去が続く未来を何ら保証せず、一瞬ごとに世界の構造が変わってしまうとしたら……ユダヤの神秘学には、宇宙期(アイオーン)ごとに世界を統べる律法(トーラー)が組みかえられるという説があるそうですが、もっとも、大げさな話は千年王国説の偽装でしかないのかもしれません。
 とまれ、たえまなく裂け目をはらむようなものとして画面をつくることが可能かどうか、といってはしかし、ただちにこれもーつの紋切り型に回収されてしまいそうですが、上の中村、岡崎、松浦がそれぞれの方法で制作した作品も、そのような主題をめぐっているものと解釈することもできるでしょうか。実際、『中村一美一九九五』展カタログ(南天子画廊、一九九五.四)に掲載された南雄介のテクストはそうした方向をしめしていました。もっとも彼らの作品が充分説得力があるといっていいのかこころもとないのは、ただ、見る側の目が統合された全体としての作品というあり方にしばられているからかもしれません。つまり、形式のとらえ方が変わらざるをえなくなった時、質に対する判断はどうなるのか。一時しばしば見かけた〈強度〉なる概念が枠による限定を前提にするとすれば、その前提を相対視した時、強さや力ではない質のあり方を感受することができるものか。その時、先に見た形式/内容と質とのずれ・遅れ自体が形式として組みこまれるのでしょうか。これらの答えも見つけられぬていたらくなのでした。
 
(三重県立美術館学芸員)  
追記;
 4節目「軽く明るく気持ちよく」の続篇が;
軽く明るく気持ちよく、再び − セザンヌの一枚の絵に捧げるラスト・ソング」(1995)
 
 
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