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『世界は虫喰い穴(ワームホール)だらけ』展リーフレット、Gallery NAF、1997.4.22  

世界は虫喰い穴(ワームホール)だらけ
− 東海地区の作家たち −
The world is full of worm holes

石崎勝基
 
●Gallery NAF
パートT 1997年4月22日(火)〜 5月 7日(水)
     平松伸之 ± 杉山ひろみ
パートU 1997年5月12日(月)〜 5月24日(土)
     中村由佳 ± 福島正訓
 
 しかしそれには笛のような、呼気の通路が□□
     いくつかあって、それらを通して星が現われる。
     アナクシマンドロス(山本光雄訳
 

T


 現代の物理学的宇宙論には、特異点ということばが登場する場面が二つある。一つは宇宙膨張の開始時、もう一つはブラックホールに関わるものだ。銀河の赤方偏位の観測を外挿して、宇宙が膨張していると考えた場合、時間を遡れば、膨張が始まった瞬間にたどりつく。そこでは体積ゼロ、圧力が無限大になるはずで、すると、相対性理論にのっとった現在の物理学の理論はもはや適用できなくなってしまう。これを特異点と呼ぶわけだ。
 理論が適用できないのだから、特異点の前に何があったのか知ることはできないし、そもそも前という発想そのものが意味をなさないのかもしれない。特異点が現時点での物理学の破綻を意味する以上、それを解消しようとする試みは幾度となくなされたが、現在のところ成功していないらしい。他方、ビッグバン以前に時間が存在しなかったと断言することは一つの形而上学的選択であって、物理学の範囲を超えてしまう。現時点ではビッグバン以前の時間の有無に関しては判断中止にとどまるほかなく、ゆえに、たとえば膨張と収縮がくりかえすという振動宇宙論のような、この宇宙以前の宇宙を語ろうとする試みも、逆に否定しきれないのだ。
 同じことは、宇宙の外についてもあてはまるだろう。この宇宙が閉じているにせよ開いているにせよ、その外部を語りえない根拠というのは、実のところアリストテレスの宇宙の有限性の証明とあまり大差がない。彼以前にイオニア学派や原子論者たちが考えたように、あるいは仏教の三千世界説におけるごとく、四次元時空をこえた超空間によって包摂される複数の宇宙を考えることも、決して可能性の範囲外ではない。別の視点から、何を観測するか選択する瞬間ごとに宇宙が枝分かれするという、エヴェレットによる量子論の多重宇宙解釈のような説も唱えられている。SFにおける平行世界はいうまでもない。
 特異点にもどれば、もう一つの例はブラックホールに付随している。ある重さ以上の星はその末期において、おのが重力を支えきれなくなって内側にどんどん縮退していき、それ自体で閉じた空間を形成する。光さえそこから出られなくなるこのブラックホールでは、縮退の中心において、やはり重力無限大・体積ゼロの特異点が生じるのだ。中心に特異点ができるのはあくまで星が静止している場合で、回転しているとすると、特異点は複数、外界に露出するともいう。
 さて、ブラックホールでは特異点にむかって吸いこむ一方なのだが、これを数式上で逆転させると、吐きだす一方のホワイトホールの解がえられる。クエーサー、さらにビッグバンがホワイトホールだという説もあるが、こちらはブラックホールのように具体的な候補があるわけではなく、今のところ仮説の域を出るものではない。とまれ、ブラックホールとホワイトホールが対をなす以上、両者をつなぐ通路のようなものもまた、仮説として考えうる。これが虫喰い穴こと、ワームホールである。
 特異点によってこの時空の連続性が破られるのだから、その代わりのワームホールは、この時空の連続性を破った、つまり離れた空間と空間、時間と時間、さらにこの宇宙と別の宇宙をも、超空間を介して結ぶ可能性を宿すことになる。ミニブラックホールなどという発想にしたがうなら、この宇宙は完結した時空であるどころか、微視的なレヴェルではいたるところワームホールによってうがたれた、ほころびだらけの世界なのかもしれない。
 もとより、以上はあくまで、そう考えることもできるという、可能性の範囲内でしかない。また、仮にワームホールによって別の宇宙とのいききが可能であっても、その先が楽園との保証があるはずもない。ただ、少なくとも現時点では、宇宙を完結して連続したものと考えるか、穴だらけのものと考えるか、どちらを好むかという趣味かイデオロギーの問題だとして、さて、いずれにしよう?

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 平松伸之のインスタレーションは、それが設置される空間の構造に即した形をとる。電球を用いた
“BRANCH”(1995)“COSMOS”(1996)なら、普通に照明をとりつけるのと変わらない位置にそれらは配された。この配置はしかし、空間を強化しようとするのではなく、逆に、作品が空間に解消してしまう態のものだ。それでいて、電球の束が不規則に枝分かれする様は、生きものが顔を出すかのようなユーモアを感じさせずにいない。空間の形式的な分析とアイロニーが裏腹になったそこでは、空間全体が、からっぽの穴と化してしまう。
 杉山ひろみの画面に現われるイメージは、確実に何かの形らしいのだが、真っ黒なので画面にうがたれた穴とも見える。しかし空洞というにはその密度はきわめて濃く、穴とも固体とも決めがたい。これは、以前の作品ならドライポイント、今回の出品作では和紙のコラージュが白地に対しきわめて強い緊張をもってくいこむためで、だからイメージだけでなく、白地もまた、それが地なのか図なのか、いずれともつかぬまま振動することになる。
 中村由佳のインスタレーションは、兎小屋や鳥箱をモティーフにしてきた。番号をふられ、干草を備えながらからっぽのまま規則的に並べられたそれらは、ただちに監禁だの収奪といった主題を読みとらせずにいない。しかし同時に、からっぽの箱の空虚さは、部屋全体の空間につながってしまうことで、そうした主題をも不在の空間に送りかえそうとする。この時、主題性と空間との間に強い緊張が生じるのだ。
 福島正訓はパネルに既製品の刺繍を貼り、その中央に、型を用いて切りぬいた生きものなどのイメージを浮かびあがらせる。刺繍という装飾を用いることで、その文様はパネルの限界をこえて拡張することもできようし、またイメージとも交換可能だろう。実際昨年の個展では、無数のぬいぐるみ風の小ユニットが壁面を覆いつくしていた。編み目ごと、文様ごとに空気を通す装飾は、図と地、作品と環境をたえず軽快に交換させ、無限にひろがっていきうるのである。

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 もちろん、ここで仮に〈穴〉と設定した切り口は、四人の作品におけるあり方もさまざまで、単純にひとくくりにするわけにはいくまい。ただ、強い存在感を発するというよりは、逆にそれ自体虚だか不在に沈もうとするそれらは、そのことで作品や展示空間と、外部とを結ぶ可能性を宿しうるかもしれない。
 また、表現を何らかの世界観だの思想に回収してしまうことほど退屈なものはない(と思う)。その点、冒頭に記したワームホール云々は、四人の作品がそこに還元されるべき意味などではなく、作品と横にならぶ縁飾りとして綴ったまでだ。

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 二期に分けられた展示は、それぞれインスタレーション系の作家と平面系の作家を組みあわせ、コラボレーションとしてではなく、各自独立した作品がその上で交渉しあうことになるはずだ。たとえば平松と杉山の展示では、平松は画廊の空間の軸にそってガードレール風の柵を設置し、それにあわせて杉山の作品が壁にかけられるという。平松の作品が、杉山のそれを見ることに対して干渉してしまうのだ。中村と福島のプランは未定だが、いずれ、画廊の壁を壁のままに、穴だらけにしてくれることを期待するとしよう。
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