ホーム 宇宙論の歴史、孫引きガイド 古城と怪奇映画など 美術の話 おまけ
artravel, vol.3, 2005.3.1, p.6  
いい絵ってどんな絵?B
連載 美術のいろは

石崎勝基(形式主義美術史家)
 

 一九九〇年に国立西洋美術館で開かれた『プラハ国立美術館所蔵 ブリューゲルとネーデルラント風景画』展に、ピーテル・ブリューゲル(父)の《干草の収穫》が展示されたことがある。ピーテル・ブリューゲル(子)やヤン・ブリューゲルらブリューゲル一族の作品も含めて、周囲には当時の風景画が並べられていた。同時期・同地域の作品だけあって構図や色彩、技法等共通点が多いのだが、そんな中でブリューゲル(父)の一点は、他の作品とは違うものとして映ったとの記憶が残っている。この違いは、線に張りがあるとか、塗りがぴしっとしているといった言い方でしか伝えがたいものだった。いいかえれば、「いい絵」だったということになる。
 「いい」とか「優れている」、「緊張感がある」、「生き生きしている」、「繊細だ」等々、実のところ説明になっていない形容をあてる以外にない品質の高さなるものは、主題や感情、技法や様式、時代状況から生まれるのだとして、少なくとも理屈の上なら、それらから区別することができる。品質は、絵が伝える情動や理念に関わりなく現われる。形式からも区別できることは、同じ構図、同じ色彩、同じ様式で描かれた二点の絵がしかし、必ずしも同じできをしめすとはかぎらないことからもあきらかだろう。
 否定神学的にしか語りえない品質は、とはいえ、何ら神秘的なものでもなければ超越的なものでもない。計量的な分析は、それがいずれ可能になるとしても、観者の側で感覚的に了解できなければ意味がなかろうからひとまずおくとして、先のブリューゲル(父)とその周囲の作品との例がしめすように、品質の優劣は、比較によってしかあきらかにならない。すなわち、絶対的な規準など存在しないのだ。
 また、品質を感受する目を養うに際しても、神秘的なものは必要ない。これはしばしば語られるように、できるだけ多くの優れたとされる作品を、できるだけ実物で、できるだけ意識的に見るという経験・訓練を蓄積するというのが、おそらく唯一の方途だろう。この意味で、品質の高さを実現するのも判断するのも他のあらゆる技術と変わりはなく、他の技術同様おのれ以外の技術に対し特殊ではあっても、何ら特権的なものではない(これも他の技術の場合同様、才能なるものが達成の度合いに関与することはあるにせよ、才能もまた、諸条件の積以上ではない。さらに、判定する能力が蓄積した経験の総和に基づく以上、『ギャラリー・フェイク』の主人公のような、あらゆる分野に精通した目利きなる存在は、現実には存在しない − たぶん)。
 他方、品質なるものを成立せしめる根拠は決して自明ではなく、むしろ歴史的に条件づけられたものでしかない。たとえばフェミニズム批評は、判断の地平自体が人類の半数を排除した制度の上に成立していることを指摘した。さらに人種、民族、階級(社会のそれとともに美術におけるジャンルのそれも含まれる)など、さまざまな条件がそこには働いていることだろう。また感覚的に了解される要素以外を重視する作品、たとえばデュシャンの系譜は判断の対象から除外されることになるし、未聞のものに対しては対応できまい。
 さまざまな条件によって限定されたものでしかない品質とその判断は、にもかかわらずそのかぎりで、その作用を否定することもできない。それをどう位置づけるかは、見る者一人一人に課せられた、また一つの問題というべきだろうか。

 
   HOME美術の話いい絵ってどんな絵? B