パノフスキーがいうように、ひとつのかたちは、すでにひとつの意味である(逆に、ひとつの意味は、ひとつのかたちとしてしか存在しえない)。また、かたちをとらえる視覚は、孤立したものではなく、触覚、聴覚、嗅覚など他の諸感とつねに連動すると思われる。さらに、かたちを見る/作る目も、純粋な現在ならず、以前の経験、文化、歴史によって条件づけられている。芸術作品は/もまた、他律的なのである。
それでは、文脈の網の目のうちに位置するかぎりでの、芸術作品を芸術作品たらしめるのは何だろうか(このような問い自身、すでに制度に呪縛されているのかもしれない。しかし制度なるものも、制度ならざるものとの距離によってはじめて推し量られるのならば、そこでも見出されるのは静止ならぬ揺動であるはずだ)。ヤーコブ・ローゼンバーグが、形式分析 − 視覚の対象としての美術に最も即したアプローチとする − を押し進めることで質の記述に至らんとした時、質そのものについては、「生き生きした」、「繊細な」などの形容詞を導入せざるをえなかったことを想起されたい。即ち、表現そのものは、畢竟、デウス・エクス・マキナとしてしか記述しえないのだ。芸術のありかたについて語ろうとすれば、しばしば何らかの神学性を帯びることを思い出してもよい − 反対の一致、完全現実態、顕現、仲介者など。
その時記述は、目前の作品とまったき平行のうちに独立した作品たるを望むか、さもなくば、作品そのものはついに掴みえぬと了解するしかあるまい。それでいてなお、跳躍できない/しないのなら、とりあえず手もとにある視覚から、「認識の漸近線」(ゼードルマイアー)として、ことばを積み重ねることで、ことばをすり抜けるズレを追いつめることができるのみであろう、かつてグノーシス主義者たちがアイオーンの重畳によって、超越者というよりは超越という運動そのものを物語ろうとしたように。某知人曰、絵の好きな人はもともと、皆フォーマリストだと思う。宙吊りの形相、宙吊りの形式誌、宙吊りでしかない、宙吊りでしかないからこそ…
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